残金1,842円|第34話「現金ではない資産」
午前九時三十分、真鍋は会議室の壁へ四枚の紙を貼った。
どの紙にも、同じ日付が書かれている。
月末。
一枚目は、持株会社の支払予定。
二枚目は、物流会社と工場を含む主要事業会社の現預金。
三枚目は、借入金の返済日と利払日。
四枚目は、榊原個人が保有する資産と、その資産に設定された担保や質権の一覧だった。
「最初に確認します」
真鍋が言った。
「四千億円の話ではありません」
「分かってる」
「今日は、月末までに動かせる金の話です」
榊原は椅子へ座り、壁の紙を見た。
会議室には、持株会社の経理責任者と法務担当者もいる。
机の中央には、一通の意向表明書が置かれていた。
売りに出たのは、地方に三つの低温倉庫を持つ物流会社だった。
冷凍食品と医薬品の保管を扱い、売上は安定している。主要荷主との契約も残っていた。
創業者は六十八歳。
二人の子どもは会社を継がない。
取引銀行は、借入金の返済が続く限り急いで売却させるつもりはなかった。ただ、冷凍設備の更新が近づいている。創業者が個人保証を残したまま追加投資を続けることを望まず、買い手を探していた。
榊原の会社へ話が来たのは、事業誌の記事が出てから二か月後だった。
提示された株式の売却希望額は六十二億円。
会社には十九億円の借入が残っている。
株式を六十二億円で買えば終わる話ではない。
買収後も借入契約を維持できるか。
個人保証を外せるか。
設備更新へいくら必要か。
荷主との契約に、株主が変わった時の解除条項があるか。
冷凍機に使われている冷媒を、いつまでに入れ替える必要があるか。
倉庫の土地に土壌汚染や境界の問題がないか。
確認するものは多かった。
それでも、榊原は欲しいと思った。
常温の倉庫だけでは扱えない荷物がある。
低温倉庫が加われば、工場から保管、仕分け、配送までの範囲が広がる。既存の荷主からも、冷蔵品を扱えないかと相談されていた。
「回答期限は」
榊原が尋ねた。
法務担当者が答えた。
「独占交渉権を得るための意向表明は、十日後です。ただし、売主側は手付金として五億円を求めています」
「返還条件は」
「売主が交渉を打ち切った場合と、財務・法務調査で重大な未開示事項が見つかった場合は返還です。こちらの判断だけで撤退した場合は、返還されません」
「五億円で、何日止められる」
「六十日です」
「短いな」
「設備調査まで入れると、余裕はありません」
榊原は意向表明書を開いた。
「五億円は出せるか」
真鍋は壁の一枚目を指した。
「出せます」
「なら進めろ」
「どこから出すかを決めてください」
「持株会社だ」
「持株会社の普通預金には、二十二億六千万円あります」
「あるじゃないか」
「月末までに、法人税と消費税で四億一千万円。既存投資先への払込みが三億円。持株会社の借入返済が一億八千万円あります」
「残りは十三億七千万円だ」
「支払えば、そうなります。ただし、来月前半に予定している利払いと運営費を置いていません」
真鍋は、二枚目の紙を指した。
「物流会社には現預金が三十八億円あります。そのうち、月末の給与、燃料費、外注費、車両リース料、倉庫賃料で二十一億円が出ます」
「十七億円残る」
「入金が予定どおりならです」
「予定どおり入るだろ」
「主要荷主二社の支払日は翌月末です。今月末に残る十七億円は、次の支払日まで事業を回す金です」
「工場は」
「十二億円あります。材料代と設備導入の残金で七億四千万円が出ます」
「発電事業は」
「口座にはありますが、融資契約で資金移動が制限されています。元利金の支払いに備える口座から、買収の手付金は出せません」
「不動産会社は」
「修繕工事と返済のために置いています。配当できる利益剰余金はありますが、現金を抜けば、三か月後の大規模修繕を借入で賄うことになります」
榊原は壁の数字を順に見た。
会社には金がある。
だが、使い道の決まっていない金は少なかった。
給与になる金。
税金になる金。
仕入先へ払う金。
借入を返す金。
設備を受け取るための金。
荷主からの入金が遅れた時に、運転資金として残す金。
通帳の残高には、まだ支払っていない他人の金が混じっている。
「俺の口座から出せばいい」
榊原が言った。
真鍋は四枚目の紙を見た。
「個人から持株会社へ貸す形ですか」
「それでいい」
「今日の個人預金は十一億六千万円です」
「二千万円減ってるな」
「納税と生活費です。五億円を貸せば、六億六千万円になります」
「足りる」
「何に対してですか」
「生活するには足りる」
「それは足ります」
真鍋は否定しなかった。
「ただし、来月に予定している個人の納税があります。納付見込みは二億三千万円です」
「それでも四億以上残る」
「はい」
「問題ない」
「今回の五億円だけならです」
真鍋は机の上へ、新しい紙を置いた。
買収後に必要となる資金の仮計算だった。
株式の取得価格。
既存借入の扱い。
設備更新。
冷凍機の保守。
倉庫屋根の修繕。
買収に伴う調査費用。
登記や契約にかかる費用。
運転資金。
「株式を希望額の六十二億円で取得する場合、既存借入をそのまま残せたとしても、取得後二年間で少なくとも十四億円の設備投資が必要です」
「全部で七十六億円か」
「取得関連費用を入れると、もう少しかかります」
「金融機関は」
「買収資金の融資には前向きです。ただし、まだ対象会社の資料を見ていません」
「五億円を入れないと、独占して見られない」
「そうです」
「なら先に入れるしかない」
「入れることには反対していません」
「何に反対してる」
「五億円を、どこにあるかという理由だけで出すことです」
経理責任者が、机の端で視線を下げた。
法務担当者は意向表明書を開いたまま動かなかった。
榊原は真鍋を見た。
「個人の金なら、俺が決められる」
「決められます」
「持株会社へ貸す」
「できます」
「なら、何が残る」
「社長個人の金で、会社の投資判断を先に進めたという事実が残ります」
「俺の会社だ」
「持株会社には、少数株主がいます」
「合わせても何%だ」
「三・八%です」
「取締役会で承認すればいい」
「承認はできます。ただ、社長が個人資金を出したから買う、という順番にはしないでください」
「買う価値があるから出す」
「その記録を先に作ります」
真鍋は、手付金の支払承認書を差し出した。
資金の出し手は空欄になっている。
承認条件には、五つの項目があった。
独占交渉期間。
返還条件。
調査できる資料の範囲。
売主がほかの候補者と交渉した場合の扱い。
本契約に至らない場合の終了手続き。
「これを取締役会で承認する。その後、どこから調達するかを決めます」
「十日しかない」
「明日、臨時で開きます」
「銀行へも聞け」
「短期融資ですか」
「持株会社で五億円借りる」
真鍋は、すぐには答えなかった。
「借りる必要がありますか」
「個人の金を会社へ入れるより、会社が借りた方がきれいなんだろ」
「取引としては分けやすくなります。ただ、手付金を借入で出すなら、買収が成立しなかった場合の返済原資も必要です」
「持株会社の収入で返せる」
「子会社からの配当です」
「毎年入っている」
「配当を出すために、子会社の運転資金を薄くしてはいけません」
「そこまで薄くしない」
「では、金額を出します」
榊原は椅子の背へ身体を預けた。
四千億円という数字が記事に出た後、初めて動かす五億円だった。
割合にすれば、四千億円の八百分の一。
だが、五億円は記事の数字から切り取れなかった。
銀行口座を選び、契約を作り、返済する会社を決めなければならない。
「明日までに、三案出せ」
榊原が言った。
「持株会社の現金。個人からの貸付。銀行借入。それぞれ、月末と三か月後の残高まで出せ」
「分かりました」
「一番安いものを選ぶ」
「金利だけでは決めません」
「何を見る」
「失敗した時に、どこへ損失を残すかです」
翌朝、臨時取締役会の前に三つの案が並んだ。
第一案。
持株会社の預金から五億円を支払う。
新たな金利は発生しない。
ただし、納税と既存投資の払込み後、持株会社の自由に使える現金は薄くなる。子会社から予定どおり配当が入らなければ、来月の利払いに備えて別の資金を動かす必要がある。
第二案。
榊原個人が五億円を持株会社へ貸す。
持株会社側では借入金になる。
返済条件と金利を定め、利益相反取引として取締役会の承認を受ける。榊原個人には、納税後も現金が残る。ただし、買収が成立しなければ、個人資金が会社の損失へ直接つながる。
第三案。
持株会社が取引銀行から五億円を短期で借りる。
期間は六か月。
買収が成立した場合は、買収資金融資へ組み替える。
成立しなかった場合は、持株会社の配当収入から返す。
金利と手数料がかかる。
銀行は、榊原個人が保有する持株会社株式の一部へ、追加で質権を設定することを求めていた。
「五億円のために株を入れるのか」
榊原が言った。
真鍋は答えた。
「銀行は、金額だけを見ていません。買収が成立すれば、必要資金は五億円では終わらないからです」
「本体融資まで見ている」
「はい。今回の対応を、買収全体の入口にしたいと考えています」
「金利は」
「年一・二%です。手数料を含めた六か月の負担は、約四百万円です」
「個人から貸せば、四百万はいらない」
「社長個人へ金利を払わなければ、税務上の説明が必要になります。無利息でなければ、持株会社から社長へ利息を払います」
「自分の会社から自分へ払うだけだ」
「少数株主から見れば、会社の金が社長へ出ます」
「なら、銀行か」
「それも一つです」
「お前ならどれを選ぶ」
「持株会社の現金と短期借入を分けます」
「いくらずつだ」
「現金から二億円。借入を三億円です」
「中途半端だな」
「現金を残し、担保に入れる株式も減らします。買収が成立しなかった場合でも、三億円なら予定配当だけで返せます」
「五億円全部を借りても返せる」
「返せます。ただ、借りられるから全額を借りる理由もありません」
「現金があるから全額出す理由もない」
「そうです」
榊原は承認書を見た。
手付金五億円。
返還されない可能性がある。
調査によって買収を見送れば、五億円を失うこともある。
だが、調査をせずに六十二億円の会社を買うことはできない。
五億円は、会社を買う金ではない。
買ってよい会社かを確かめるための金だった。
「二億と三億で進めろ」
榊原が言った。
「銀行には、本体融資の確約を取るな。調査結果を見てからだ」
「分かりました」
「個人保証は」
「現時点では求められていません。株式の質権だけです」
「本体融資でも付けない条件を先に出せ」
「銀行は、対象会社の内容を見て判断すると言っています」
「なら、保証を求められた時点で買収価格を下げる。俺が保証する分まで、売主の値段に付き合う必要はない」
真鍋は、その言葉を議事録へ入れた。
取締役会は、手付金の支払いと資金調達を承認した。
翌日、持株会社の口座から二億円が出た。
その三日後、銀行から三億円が入った。
入金された三億円は、その日のうちに手付金の残額として支払われた。
通帳には、一度三億円が増え、同じ日に三億円が減った。
借りた金は口座を通った。
それでも、持株会社の価値が三億円増えたわけではない。
現金が増えた時、同じ金額の借入も増えた。
支払った後には、現金が消え、借入だけが残った。
代わりに得たのは、六十日間の独占交渉権だった。
調査は、翌週から始まった。
財務担当者が借入と資金繰りを見る。
法務担当者が荷主との契約、土地の権利、訴訟の有無を確認する。
設備会社が冷凍機、電源、非常用発電機、断熱材、床の状態を調べる。
現場では、温度記録の欠損が見つかった。
一つの倉庫で、夜間に通信が切れた時間がある。
庫内温度そのものは別の記録に残っていた。保管していた商品にも問題は出ていない。
だが、主要荷主との契約では、温度記録を連続して保存することが求められていた。
「どのくらいの頻度だ」
榊原が尋ねた。
調査担当者が答えた。
「過去二年間で十一回です。最長で四十七分。設備ではなく、記録を送る通信回線の障害です」
「荷主へ報告しているのか」
「現場の責任者は、温度に異常がなかったため、報告対象ではないと判断しています」
「契約は」
「記録の欠損についても報告を求めています」
「未報告か」
「はい」
売主は、品質事故ではないと説明した。
商品は傷んでいない。
温度も基準内だった。
記録を送れなかっただけで、保管業務そのものに問題はない。
その説明には合理性があった。
それでも、契約違反の可能性は残った。
通信回線の二重化と記録装置の更新には、一億八千万円かかる。
冷凍機の更新費十四億円には含まれていなかった。
さらに、二つの倉庫で屋根の防水工事が必要だと分かった。
当初見込みより、三億二千万円増える。
買収後二年間の設備投資額は、十九億円になった。
「六十二億円では買わない」
榊原が言った。
売主との面談には、創業者本人と顧問税理士が出席していた。
「設備の古さは、最初から説明しています」
創業者が言った。
「冷凍機は聞いています。通信記録の欠損は聞いていない」
「温度事故は起きていません」
「起きていないことと、契約どおり記録できていることは別です」
「荷主との関係は良好です」
「だから価値がある。荷主を失っていたら、六十二億円の話はしていません」
創業者は黙った。
榊原は、修正した買収価格を机へ置いた。
「五十四億円です」
「八億円も下げるんですか」
「設備投資が五億円増えた。未報告の契約問題も引き継ぐ。荷主が説明を求めた場合は、こちらが対応する」
「手付金を放棄するおつもりですか」
「五億円で、八億円高い会社を買うつもりはありません」
「ほかの買い手を探します」
「独占期間が終われば探せます」
創業者の顧問税理士が口を開いた。
「価格を五十四億円へ下げる代わりに、従業員の雇用維持期間を延ばせますか」
「今は三年です」
「五年にしていただきたい」
「事業を続けるのに必要な従業員を、価格の代わりに切るつもりはありません。ただ、五年間、一人も条件を変えない約束はできない」
「では、何を約束できますか」
「買収だけを理由に解雇しない。勤務地を変える場合は本人と協議する。賃金制度を統合する場合も、直ちに不利益な変更はしない」
「期間は」
「三年です」
「変わりませんね」
「守れない五年を付けるより、守れる三年を契約に入れる」
交渉は、その日にはまとまらなかった。
独占期間の残りは十八日だった。
売主は五十九億円を提示した。
榊原側は五十四億円から動かなかった。
五日後、売主が五十六億円まで下げた。
その代わり、創業者が会社へ貸している二億円を、買収時に全額返してほしいと求めた。
株式価格を二億円下げても、会社から創業者へ二億円を返せば、必要な現金は変わらない。
「数字を移しただけだな」
榊原が言った。
真鍋はうなずいた。
「買収価格は五十六億円ですが、決済日に必要な現金は五十八億円です」
「創業者借入は、会社の債務だ」
「はい。取得後に返しても同じです。ただし、返済時期をこちらで決められなくなります」
「設備投資の前に二億円が出る」
「その分、運転資金を厚く用意する必要があります」
榊原は、買収後の月別資金繰りを見た。
株式取得。
創業者借入の返済。
通信設備の更新。
防水工事。
冷凍機の更新。
給与。
電力料金。
保守費。
既存借入の返済。
売上が安定していても、設備の支払時期が重なれば現金は減る。
「五十五億円。創業者借入は、決済日に一億円。残り一億円は一年後だ」
「売主が応じなければ」
「買わない」
「手付金は戻りません」
「戻らない」
「五億円の損失です」
「五億円を失いたくないから、条件の悪い会社を買えば、もっと失う」
真鍋は、修正案を作った。
独占期間が残り九日になった時、売主が受け入れた。
株式取得額は五十五億円。
創業者借入は、決済日に一億円を返済し、残りは一年後に返済する。
通信記録の欠損については、売主が主要荷主へ説明する。
説明によって荷主が契約を解除した場合、買収価格の一部を調整する。
従業員については、買収だけを理由に解雇しない。
設備投資は、買収後の会社が負担する。
買収資金は、持株会社の現金十五億円と金融機関からの借入四十億円で組んだ。
手付金五億円は、十五億円の一部に充当される。
短期で借りた三億円は、本体融資の実行日に返済した。
買収対象会社の既存借入十九億円は残した。
金融機関の同意を取り、返済条件も維持した。
榊原個人の保証は付けなかった。
持株会社が取得する株式と、買収対象会社が持つ三つの倉庫に担保を設定した。
買収後の返済原資は、低温倉庫の営業利益と、既存物流会社から移す予定の荷物の収益から算定した。
まだ契約していない新規荷主の売上は、返済原資へ入れなかった。
決済日の朝、持株会社の口座には本体融資の四十億円が入った。
同じ日に、株式取得代金の残額五十億円が出た。
買収関連費用も支払われた。
口座を通った金額は大きかった。
だが、通過した金が、そのまま使える金として残ったわけではない。
現金は株式へ変わった。
借入は返済義務として残った。
持株会社の貸借対照表には、新しい子会社の株式と、新しい借入金が並んだ。
榊原の個人口座は動かなかった。
買収から三か月後、通信回線の二重化が終わった。
温度記録は、倉庫内と外部の二か所へ保存されるようになった。
主要荷主は契約を継続した。
既存物流会社が扱っていた冷蔵品の一部も、新しい倉庫へ移った。
買収初年度の利益は、計画をわずかに上回った。
冷凍機の更新は、三棟を一度に行わず、一棟ずつ進めることにした。
設備を止める期間、荷物を別の二棟へ移す必要がある。
荷主ごとに温度帯が違うため、空いている棚へ置けば済む話ではない。
工事日程と荷物の移動を合わせる。
移動中の温度を記録する。
保管能力が落ちる期間は、新規の荷物を受けすぎない。
更新費を抑えるために一度に発注しても、倉庫を同時に止めれば売上が消える。
設備価格だけでは、順番を決められなかった。
「三棟全部を同じ年度に更新した方が、工事費は一億一千万円安いです」
設備担当者が言った。
「同時に止めた場合の売上減は」
榊原が尋ねた。
「荷物を外部へ移せなければ、最大で三億円です」
「外部倉庫は」
「必要な温度帯で、同じ期間に空いているところがありません」
「なら、一棟ずつだ」
「総額は上がります」
「使えない倉庫を安く作っても意味がない」
真鍋は、三年間の更新計画へ変更した。
設備更新費の総額は増えた。
だが、毎年の営業収入から一部を払い、借入の追加を抑えられる。
初年度の更新が終わった時、金融機関の担当者が倉庫を見に来た。
新しい冷凍機の音は、以前より低かった。
制御室の画面には、庫内温度と消費電力が表示されている。
「買収時の計画より、現金が残っていますね」
担当者が言った。
真鍋が答えた。
「三棟同時の更新をやめました。費用総額は上がりますが、営業を止めない方を選びました」
「追加融資も可能でした」
「借りられることは確認しています」
「使わなかった理由は」
榊原が制御室の画面を見ながら答えた。
「今ある収入で一棟ずつ替えられる。三棟を一度に替える理由がない」
「金利は低いです」
「金利が低くても、返す日は来る」
担当者は、それ以上勧めなかった。
買収の翌年、低温物流会社から持株会社へ初めての配当が上がった。
金額は一億二千万円だった。
買収のために持株会社が出した十五億円には、まだ遠い。
四十億円の借入も残っている。
それでも、買収した会社から現金が戻り始めた。
利益があるだけでは、配当は出せない。
設備更新に必要な金を残す。
返済に必要な金を残す。
運転資金を残す。
その後で、持株会社へ上げられる金額を決める。
「もっと出せるだろ」
榊原が決算書を見ながら言った。
「利益だけを見れば出せます」
真鍋が答えた。
「現金は」
「出した後も、三か月分の固定費を残しています」
「四か月分あったはずだ」
「一か月分を配当に回しました」
「二か月分でも足りる」
「冷凍機が止まらなければです」
「保険はある」
「機械の修理費は出ても、復旧までの運転資金をすべて埋めるとは限りません」
榊原は、配当案を見た。
一億二千万円。
四千億円という評価から見れば、小さな金額だった。
だが、持株会社が実際に受け取れるのは、その一億二千万円だった。
倉庫の土地の評価額ではない。
会社の売却価格でもない。
将来の利益でもない。
担保余力でもない。
銀行が貸せると言った金でもない。
配当決議を経て、子会社の口座から持株会社の口座へ移る金だった。
「一億二千万円で承認しろ」
榊原が言った。
「分かりました」
「来年は増やせるか」
「営業収入と設備更新次第です」
「新しい荷主を取れば増える」
「保管能力の範囲でです」
榊原はうなずいた。
数字を分けることは、榊原の強さだった。
会社の価値と、会社の口座残高を分ける。
利益と現金を分ける。
借入可能額と、借入金を分ける。
持株会社の金と、事業会社の金を分ける。
個人の資産と、会社の資産を分ける。
担保評価と、売却価格を分ける。
売却価格と、税金や返済を引いた後に残る金を分ける。
四千億円という数字に酔って、六十二億円の希望額をそのまま払うことはしなかった。
五億円の手付金を失う可能性があっても、条件が合わなければ撤退すると決めた。
借りられる五億円を、すべて借りることもしなかった。
会社に金があるという理由だけで、運転資金を抜くこともしなかった。
その判断は利益を生んだ。
買収した会社は、二年目に新しい医薬品荷主との契約を得た。
温度記録の二重化と、設備更新の計画が評価された。
既存物流会社との共同配送によって、空車で戻る距離も減った。
利益が増えた。
会社の評価も上がった。
持株会社が保有する株式の価値も上がった。
榊原に帰属する持分の推定価値も、また大きくなった。
年末の金融機関向け資料には、前年より高い数字が記載された。
真鍋は、その横へ別の数字を置いた。
グループ全体の現預金。
支払予定を差し引いた資金。
契約上、移動できない金。
担保に入っている資産。
売却に同意が必要な持分。
未実行の融資枠。
「評価額は増えました」
真鍋が言った。
「使える金は」
「事業ごとに違います」
「全部合わせれば」
「合わせた数字は作れます。ただ、同じ日に同じ目的へ使えるわけではありません」
「またそれか」
「変わりません」
榊原は笑った。
「四千億円あってもか」
「四千億円あるからです」
「どういう意味だ」
「一つの口座へ四千億円があるなら、残高を見れば終わります。会社、株式、不動産、設備、事業権益に分かれているから、四千億円の価値になる。それぞれに、従業員と取引先と借入と支払日があります」
「分けてあるから価値がある」
「はい。分けてあるから、自由には使えません」
榊原は資料を閉じた。
その説明を、不自由だとは思わなかった。
必要なら、利益を上げる。
必要なら、配当を受ける。
必要なら、資産を担保に入れる。
必要なら、借りる。
必要なら、売る。
使える形へ変えればいい。
榊原は、それを何度も成功させてきた。
現金ではないなら、現金に変える方法を選ぶ。
売るか。
借りるか。
利益を待つか。
配当を上げるか。
どの方法にも、時間と条件と代償がある。
榊原には、その違いが見えていた。
見えていたから、まだ選べた。
四千億円は、使える金ではなかった。
だが榊原にとっては、使える金へ変えられる資産だった。




