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残金1,842円|第33話「四千億円という数字」

 四千億円という数字は、榊原が計算したものではなかった。


「このまま出れば、榊原さんの推定純資産は四千億円を超えます」


 真鍋は、会議室の机へ三枚の紙を並べた。


 一枚目には、榊原が直接保有する持株会社の株式。


 二枚目には、持株会社の下にある事業会社と投資持分。


 三枚目には、榊原個人の借入、保証、質権設定の状況がまとめられていた。


 窓の外には、北側倉庫へ出入りするトラックが見える。


 倉庫管理システムの障害から一年が過ぎていた。


 障害をきっかけに始まった三年間の在庫運用契約は、予定した数量を上回っていた。工場から運び込んだ部品を倉庫で保管し、取引先の生産計画に合わせて分けて運ぶ。製造と物流をつないだ仕事は、別の取引先にも広がった。


 取得した工場の売上も増えた。


 既存の物流会社だけを見れば、取得前より利益は厚くなっている。


 ただし、机の上の数字は、倉庫や工場の売上高を足したものではなかった。


「誰が四千億円と出した」


「事業誌です。来月の特集で、非上場企業の創業者を含めた資産額を掲載するそうです」


「うちが資料を渡したのか」


「渡していません。登記、公開されている決算公告、取引事例、過去の資金調達、上場株式の保有状況から推計したと聞いています」


「聞いた?」


「編集部から確認が来ました」


 真鍋は、問い合わせの写しを差し出した。


 推定資産額について、明らかな事実誤認があれば回答してほしい。


 回答がない場合は、公開情報に基づく推計として掲載する。


 具体的な計算方法は書かれていなかった。


「四千億円あるかと聞かれて、ありますとは答えられないな」


「ありませんとも言い切れません」


「現金はいくらある」


「榊原さん個人の口座だけなら、今日時点で十一億八千万円です」


「それで四千億円の男か」


「現金だけを数える記事ではありません」


 榊原は、一枚目の紙を手前へ寄せた。


 持株会社の株式価値には、物流会社、再生した不動産会社、情報システム会社、発電事業の持分、取得した工場の価値が反映されている。


 物流会社が持つ北側倉庫も、その利益を通じて持株会社の価値に含まれている。


 倉庫を別に足せば、同じ価値を二度数えることになる。


「編集部の推計は、そこを分けているのか」


「一部は分けています。ただ、不動産の評価額を足したうえで、事業会社の利益から算出した企業価値も加えているように見える部分があります」


「二重に数えてるかもしれない」


「はい。それとは逆に、非上場株式だから換金しにくいという理由で、大きく差し引いている部分もあります」


「雑だな」


「外から推計する以上、限界があります」


 真鍋は別の資料を出した。


「こちらは、銀行から求められて作った内部用の評価です」


 銀行団ではなかった。


 榊原の企業グループと長く取引している三つの金融機関が、今後の取引枠を見直すために求めた資料だった。


 会社ごとの借入と担保を確認する。


 持株会社が保有する株式の価値を算定する。


 榊原個人の持分へ置き換える。


 そのうえで、個人に帰属する借入と、株式に設定された質権を確認する。


 保証は、署名した金額をすべて個人債務として差し引くのではない。


 主債務者が返済を続けている保証と、履行を求められる可能性が高まっている保証を分ける。


 同じ会社の利益と、その会社が持つ不動産を二重に足さない。


 未実行の融資枠は資産に入れない。


 担保余力も資産に入れない。


 会社にある現金を、榊原個人の預金として足さない。


 真鍋は、評価の幅が書かれた箇所を指した。


「内部用の試算では、三千六百億円から四千三百億円です」


「幅が七百億もある」


「非上場株式の評価方法で変わります。直近の利益を重く見るか、将来の収益をどこまで入れるか。同業他社の取引倍率を使うか。榊原さんが支配権を持っていることを、どこまで価値に反映するかでも違います」


「売るなら、いくらになる」


「全部を同時に売る前提ですか」


「そうだ」


「その前提なら、同じ値段では売れません」


「なぜだ」


「売却を急ぐことが知られます。非上場株式ですから、市場で一株ずつ売ることもできない。買い手は、会社ごとに調べます。従業員、取引先、借入契約、担保、訴訟、設備更新、税金。時間が必要です」


「四千億円の値札が付いても、四千億円では売れない」


「今日、四千億円の現金へ替えることはできません」


「十年かければ?」


「相手と条件次第です。売ってよい会社だけを選ぶなら、全体の価値も変わります」


 榊原は、数字の幅を見た。


 三千六百億円。


 四千三百億円。


 その中央付近に、四千億円がある。


 間違いと言うには根拠があった。


 正しいと言うには幅があった。


「銀行は、これを何に使う」


「榊原さんへ四千億円を貸すためではありません」


「分かってる」


「グループへ貸している金が、どの事業から返るかを見ます。そのうえで、榊原さんがどこまで支えられるかも確認する。ただし、株式価値が四千億円あることと、四千億円を追加で出せることは別です」


「質権のついていない株を担保にすれば、借りられる」


「借りられる可能性はあります」


「可能性?」


「担保評価は、資産価値より低く置かれます。非上場株式なら、売却に時間がかかる分も見られる。融資を受ければ、株式価値が増えるわけでもありません。現金と借入が同時に増えます」


「その現金を利益が出る事業へ入れれば、価値は増える」


「利益が出ればです」


 真鍋は、言葉を強めなかった。


 榊原も反論しなかった。


 利益が出る事業へ、返せる範囲で借りた金を入れる。


 それは、榊原が続けてきたことだった。


 空いていた倉庫へ荷物を入れた。


 古いビルへ借り手を戻した。


 動かなくなりかけた工場を取得し、製造と保管と配送をつないだ。


 システム障害では、全便を止めず、確認できる荷物だけを動かした。


 借りた金は消えていない。


 設備になった。


 倉庫になった。


 雇用になった。


 取引先との契約になった。


 利益になった。


 その積み重ねを評価すれば、四千億円という数字が出る。


 榊原には、数字の根拠が見えていた。


「編集部には、どう返す」


「明らかな二重計上だけ指摘しますか」


「四千億円ではないとは言わないのか」


「いくらなら正しいと言いますか」


 榊原は答えなかった。


 三千六百億円なら正しいというものでもない。


 四千三百億円なら間違いというものでもない。


 評価日は一日ずれる。


 為替が動く。


 上場株価が変わる。


 保有会社へ新しい契約が入る。


 借入残高が減る。


 設備の修繕費が見つかる。


 同じ会社でも、見る日と前提で数字は変わる。


「推定だと明記させろ」


「計算根拠の開示も求めます」


「こちらの内部評価は出すな」


「分かりました」


「個人の現金も答えるな」


「はい」


「会社の資産を個人へ足しているところだけ、直させろ」


 真鍋は問い合わせの写しへ書き込んだ。


「それで四千億円という見出しが残っても?」


「向こうが根拠を持って出すなら止められない」


「否定しない、と受け取られます」


「実際、否定できるのか」


 真鍋のペンが止まった。


「数字そのものは、否定できません」


「なら、事実でないものだけ直せ」


「分かりました」


 事業誌が発売された朝、記事の見出しには四千億円と書かれていた。


 非上場企業を含むため、公開情報と独自取材に基づく推定。


 保有株式の価値は市場環境や評価方法によって変動する。


 現預金額ではない。


 注記も入っていた。


 それでも、読者の目に最初に入るのは四千億円だった。


 その日の午前、榊原は取得した工場にいた。


 設備の増設を検討するためだった。


 工場長が、新しい加工機の見積書を机へ置いた。


「本体が一億六千万円です。設置と基礎、電源工事を合わせると、二億円を少し超えます」


「受注はあるのか」


「今の取引先から、月間数量を増やせるか聞かれています。ただ、正式な発注ではありません」


「機械を入れれば、ほかにも売れる」


「売れます。ただ、操作できる人が二人しかいません」


「採用は」


「経験者は、すぐには来ません。今いる作業員へ教えるなら、半年は見てほしいです」


「機械の納期は」


「七か月です」


 榊原は見積書をめくった。


 支払いは契約時に三割。


 製造開始時に三割。


 据付後に三割。


 検収後に一割。


「発注の判断は、いつまでだ」


「来月末までなら、この金額と納期を維持するそうです」


「買えるか」


 同行していた真鍋が答えた。


「工場単体の借入で考えるなら、返済原資がまだ足りません。既存会社から資金を出す方法はありますが、北側倉庫の残りの修繕と重なります」


「四千億円の男が、二億円の機械を買えないのか」


 工場長が、わずかに顔を上げた。


 真鍋は表情を変えなかった。


「買えます」


「なら、何が問題だ」


「買う金があることと、この工場が返せることは別です」


「既存会社から出せば返済はいらない」


「既存会社の現金が減ります」


「利益が出る」


「正式発注が入ればです」


 真鍋は、事業誌の話を持ち出さなかった。


 榊原も、自分で言った四千億円という言葉を繰り返さなかった。


「取引先へ確認しろ」


 榊原は工場長に言った。


「数量。単価。期間。設備を入れた後で発注を減らす場合の扱い。正式な書面が出ないなら、その前提で投資回収を組む」


「競合へ相談している可能性もあります」


「それも聞け。こちらだけが設備を入れる前提で話を進めるな」


「分かりました」


「操作する人の計画も出してくれ。採用できなければ、誰を半年かけて育てるのか。その間、今の仕事を誰が担うのかまでだ」


 工場長は見積書を戻した。


「来週までにまとめます」


 榊原は、その場で機械を買わなかった。


 四千億円という数字を見た朝でも、二億円を支出する条件は変えなかった。


 正式な発注。


 返済または回収の原資。


 操作する人。


 納期。


 既存会社の資金繰り。


 必要なものがそろう前に、見積書へ印を押さなかった。


 二週間後、取引先から三年間の発注計画が届いた。


 最初の一年は最低数量を定める。


 二年目以降は、生産計画に応じて一定の範囲で増減できる。


 最低数量を下回る場合は、設備投資の未回収分をそのまま補償する契約にはならなかった。代わりに、発注の見通しが変わった時点で、三か月前までに通知する条件が入った。


 工場長は、二人の作業員を候補に挙げた。


 一人は加工補助を担っている。


 もう一人は検品を担当している。


 検品担当を訓練へ回せば、品質判断を支える人が足りなくなる。


「検品から外すのは無理です」


 工場長が言った。


「本人は機械を覚えたいと言っています。ただ、今の仕事をそのまま残せば、両方はできません」


「代わりに検品を覚える人は」


「若い作業員が希望しています」


「教える時間は」


「勤務として入れます。最初の三か月は、出荷前に二人で確認する必要があります」


「その人件費も投資へ入れろ」


「機械の代金とは別ですか」


「別にしろ。機械が二億円でも、動かすまでに二億円で済むとは限らない」


 設備導入の総額は、二億三千四百万円になった。


 機械本体。


 基礎工事。


 電源工事。


 据付。


 試運転。


 作業員の訓練費。


 検品を引き継ぐ期間の追加人員。


 導入中に既存機械の稼働を落とす分も、資金計画へ入れた。


 既存会社から全額を出す案は採らなかった。


 工場側が一億円を長期で借りる。


 既存会社が一億円を増資する。


 残りは工場が積み上げた現金から出す。


 借入の返済原資は、既存受注と新しい最低数量から算定した。


 北側倉庫の修繕費には触れなかった。


 契約書へ署名した日、工場長が言った。


「事業誌を見ました」


「何を」


「四千億円です」


「見積書より大きな字だったな」


「二億円の機械を買うのに、こんなに確認するとは思いませんでした」


「二億円だから確認する」


「四千億円あってもですか」


 榊原は、契約書の控えを封筒へ入れた。


「四千億円は、この会社の口座に入ってない」


「でも、社長の金なんでしょう」


「俺の持っている会社の価値を、誰かが計算した数字だ」


「売れば使えますか」


「売れればな」


「売らないんですか」


「この機械を買うために会社を売るのか」


 工場長は笑った。


「そう言われると、おかしいですね」


「おかしくはない。売った方がいい会社なら売る。ただ、この工場へ二億円を入れる理由と、別の会社を売る理由は同じじゃない」


「四千億円でも、別々なんですね」


「金は、置いてある場所ごとに違う」


 その言葉を、榊原は当然のこととして口にした。


 会社の金。


 個人の金。


 借りた金。


 担保になっている資産。


 売れば現金になるかもしれない株式。


 売却に同意が必要な持分。


 使途が決められた融資。


 支払日まで残しておく金。


 榊原は、それらを分けて見られた。


 だからこそ、四千億円という評価まで会社を育てられた。


 機械の導入から十一か月後、新しい加工品の出荷が始まった。


 初月の数量は計画を下回った。


 二か月目に増えた。


 四か月目には、設備の稼働率が予定した水準へ届いた。


 検品を引き継いだ作業員は、一人で判断できる範囲が増えた。ただし、不良の疑いがある部品は、以前からの担当者と二人で確認した。


 工場側の返済も始まった。


 既存会社から追加の金は出さなかった。


 真鍋は、最初の半期実績を持株会社の会議で報告した。


「投資回収は、当初計画より三か月遅れる見込みです。ただし、最低数量だけでも返済は続けられます」


「受注が増えた分は」


「追加の材料と人件費を引いた後、前倒し返済へ回すか、設備更新のために残すかを決めます」


「残せ」


「全額ですか」


「予定どおり返せるなら、急いで返す必要はない。次の故障で、また既存会社から出す形にするな」


 真鍋はうなずいた。


「工場の中に、使える現金を残します」


 四千億円という記事が出た後、榊原のもとには多くの話が来た。


 売却案件。


 共同投資。


 海外不動産。


 未上場企業への出資。


 自治体からの事業相談。


 資産運用会社からの提案。


 どの相手も、榊原がすぐに動かせる金を持っているように話した。


「榊原さんなら、この規模でも小さいでしょう」


「自己資金で入れていただければ、銀行もつきます」


「四千億円の資産から見れば、百億円は二・五%です」


 割合だけを見れば小さかった。


 だが、百億円の支払日は、割合では来なかった。


 どの会社から出すのか。


 誰が借りるのか。


 何を担保にするのか。


 いつ収入が入るのか。


 返せなければ、どの資産を失うのか。


 榊原は、条件のない提案を断った。


 条件が見える話だけを残した。


 その選別もまた、正しかった。


 事業誌の発売から半年後、金融機関との定例会議で、担当者が持株会社の評価資料を開いた。


「前回より、事業価値が上がっています」


「いくらだ」


「評価方法によりますが、グループ全体で約八%です」


「俺の持分は」


「個人債務等を差し引いた推定では、四千億円を超える水準です」


 担当者は、数字を断定しなかった。


 それでも、会議室にいた誰もが四千億円を否定しなかった。


 北側倉庫を売らなかった。


 工場を取得した。


 物流と製造をつないだ。


 システム障害でも、確認できる仕事を止めなかった。


 二億三千四百万円の設備投資も、返せる形へ分けた。


 その結果として、評価は上がっていた。


「追加の取引枠についても、検討できます」


 金融機関の担当者が言った。


「いくらまでだ」


「資金使途と事業計画によります」


「上限は」


「担保の入れ方によって変わります。ただ、これまでより大きな案件にも対応できると思います」


 真鍋は、担当者の横にある資料を見ていた。


 四千億円は現金ではない。


 四千億円をそのまま担保にできるわけでもない。


 四千億円の融資を受けられるわけでもない。


 それでも、四千億円という評価は、次に借りられる金の入口にはなった。


 榊原は資料を閉じた。


「案件が決まったら持ってくる」


「お待ちしています」


 担当者は頭を下げた。


 会議が終わった後、真鍋は資料を鞄へ入れながら言った。


「四千億円という数字が、一人歩きし始めています」


「根拠がない数字じゃない」


「はい」


「会社が利益を出して、借入を返して、資産の価値が上がった。その結果だ」


「それも、間違っていません」


「なら、何が気になる」


「数字が大きくなると、使える金まで増えたように見えることです」


「実際、借入余力は増えた」


「借入余力は、現金ではありません」


「借りれば現金になる」


「借りた時点で、返す金にもなります」


 榊原は真鍋を見た。


「今まで返してきた」


「はい」


 真鍋は否定しなかった。


 返してきたから、次を借りられた。


 借りた金で利益を作ったから、資産価値が上がった。


 資産価値が上がったから、さらに大きな金を借りられた。


 その循環は、まだ壊れていなかった。


「四千億円をどう見ればいい」


 榊原が尋ねると、真鍋は少し考えた。


「今日、売れる金額ではありません」


「ああ」


「今日、使える金額でもありません」


「ああ」


「ただ、これまで社長が作った事業の価値ではあります」


 榊原は、会議室の窓から下を見た。


 道路をトラックが走っている。


 取得した工場から運ばれた部品が、北側倉庫へ向かっている時刻だった。


 倉庫では、棚へ入れる前に品番とロットを確認する。


 取引先の生産計画に合わせ、必要な数量だけを出す。


 その仕事が、会社の利益になっている。


 利益が、会社の価値になる。


 会社の価値が、榊原の持分価値になる。


 そこから個人の借入を引けば、四千億円という数字に近づく。


 数字の下には、動いている仕事があった。


「なら、それでいい」


 榊原は言った。


「四千億円を持っているとは言わない。四千億円の価値を作った。それなら事実だ」


 真鍋は、すぐには答えなかった。


「今は、そう言えます」


 榊原は、その「今は」を警告だとは受け取らなかった。


 評価は変わる。


 事業も変わる。


 だから、今の数字として扱えばいい。


 翌月、榊原は別の会合で紹介された。


「推定純資産四千億円の榊原さんです」


 会場から拍手が起きた。


 榊原は壇上へ上がった。


 自分から四千億円と名乗ったわけではなかった。


 だが、訂正もしなかった。


 四千億円は、現金ではない。


 会社の資産でもない。


 借りられる金でもない。


 榊原に帰属する持分などの推定価値から、対応する個人債務などを差し引いた数字だった。


 その違いを、榊原は知っていた。


 知ったうえで、拍手を受けた。


 四千億円という数字は、榊原の財布へ入ったのではない。


 榊原の名前に入った。

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