残金1,842円|第30話「借りれば進めた」
高瀬は、紙の一行を指で押さえた。
「ここは、言わないでほしい」
午前十時。工場の事務室には、機械油の匂いが薄く入り込んでいた。
征一は、机の向こうから紙を見た。
買い手候補は、現時点で全員の雇用を約束していない。
昨夜、自分で書いた文章だった。
「どの言葉ですか」
「全員の雇用を約束していない、というところです」
「決まっていないと伝えるには、必要です」
「それを聞いて、残れないと思った人から動きます」
高瀬の隣には、従業員の名簿が伏せてあった。
十八人。
征一は、名簿へ手を伸ばさなかった。
「残れると思ったまま、ほかの仕事を断る人もいるかもしれません」
「まだ、そういう話は聞いていません」
「聞いていないから、いないとは言えない」
高瀬は指を離した。
爪の際が、黒く汚れていた。朝、現場へ入っていたのだろう。
「榊原さんは、買わないこともできる」
声は低かった。
「私は、売れなかった後も、ここへ来ます」
征一は返事をしなかった。
昨日の電話では、言葉を正すことが先に立った。
今は、その言葉を誰が工場の中で引き受けるのかが、机の向こうに座っていた。
「だから、説明する場には私も出ます」
「買うと決める前に?」
「何を確認していて、何が決まっていないかは、私から話せます。ただ、雇用の条件は、その場で答えられない」
「それで、安心しますか」
「安心させるための説明にはしません」
高瀬は窓へ目を向けた。
加工を終えた部品が、金属の籠へ落ちた。短い音が、二度続いた。
「いつ、条件を出すんです」
「金曜の取引先との面談を受けて、人員と資金の計画を直します。提示する内容が固まった段階で、一人ずつ説明したい。その前に売買を確定させるつもりはありません」
「全員へ出せるとは、言えない」
「今は言えません」
高瀬は、伏せていた名簿を表へ返した。
「なら、誰がどの仕事をしているか、もう一度見てください」
名簿の端には、手書きの印があった。
機械を使える人だけではない。
検品。
段取り。
出荷前の確認。
材料が届いた時の受け入れ。
征一が作っていた担当表では、一つの仕事としてまとめていたところに、別の名前が並んでいた。
「この人は、検品専任ですか」
「違います。普段は加工です。ただ、この取引先の部品は、この人が最後に見ています」
「図面と照らす以外に、何かあるんですか」
「あります。私より、その人に聞いた方が早い」
高瀬は立ち上がった。
「人を残す話なら、名簿だけで決めないでほしい」
征一も椅子を引いた。
事務室へ来る前より、確認する仕事が増えていた。
現場を見た後、真鍋と小さな食堂で昼食を取った。
征一は箸を置き、担当表へ二つ書き足した。
「検品の引き継ぎに、期間を置く。取得した翌日から、別の人ができる前提にはしない」
真鍋は、表の右端へ日付の欄を作った。
「取引先の承認と関係しますね」
「ああ。品質責任者の名前だけ出しても、現場で確認する人がいなければ回らない」
「雇用の人数は」
「面談前に、決めた数字を置くのはやめる。必要な作業を出してからだ」
「人数が増えれば、資金も増えます」
「分かってる」
言ってから、征一は鞄の中の紙を思い出した。
藤崎に言われたばかりだった。
分かっているなら、数字で言え。
「どこまで出た」
真鍋は、別の表を開いた。
取得関連支出、八千二百万円。
取得主体に残す金、二百万円。
必要調達総額、八千四百万円。
銀行の承認額、六千万円。
既存会社から移す資金、二千四百万円。
その下に、取得後の入出金が週ごとに並んでいた。
「二百万円では、最初の給与と材料の支払いが重なる週を越えられません」
「受注の回収は」
「取得後の会社に入る金だけを置いています。高瀬社長の会社が納品した分の売掛金は、こちらの入金に数えていません」
征一は表を引き寄せた。
機械が同じでも、代金の行き先まで自動で変わるわけではない。
取得前に作った品物と、取得後に受けた注文を分ける。その境目を曖昧にすると、一つの売上を二つの会社で当てにしてしまう。
「これが、必要になる追加額か」
「まだ幅があります。金曜に確認する取引先の数量と、支払条件で変わります。それと、人員です」
「数量を減らした方は」
真鍋は、三枚目を出した。
征一は一枚目を脇へ置いた。
売上の少ない表から読んだ。
食堂の人が、空いた皿を下げに来た。真鍋は紙の端を押さえ、通路側へ出ていた鞄を足元へ寄せた。
征一は、入金の前に並ぶ支払いを見ていた。
借りた六千万円の大部分は、取得関連の支出へ向かう。
会社から出す二千四百万円のうち、残るのは二百万円。
工場を買う金と、工場を動かす金は、同じ日には使えなかった。
金曜の朝、征一は高瀬と取引先の門をくぐった。
真鍋が持つ鞄には、資金の表が入っている。
征一の手には、取得後の担当と補完体制を記した紙があった。
会議室で待っていた購買責任者は、最初に言った。
「高瀬さんのところとの取引は、続けたいと考えています」
高瀬の肩が、わずかに下がった。
征一は礼を言い、相手の続きを待った。
「ただし、発注先が変わるなら、確認は別です」
品質担当者が、持参した部品を机へ置いた。
片手に収まる、大きさだった。
「これが止まると、うちの組み立てが止まります。倉庫とトラックがあることは助かりますが、作れない分を運ぶことはできません」
「そのとおりです」
征一は、自社の物流の説明を後ろへ回した。
品質責任者を誰が担うか。
実際の検品を、どの担当者が行うか。
不良を見つけた時、出荷を止める権限をどこへ置くか。
高瀬が補足し、品質担当者が質問した。
征一が答えられないところでは、現場で確認した記録を開いた。
「所有者が変わる時に、同時にやり方まで変えないでください」
品質担当者は言った。
「合理化されるのは構いません。ただ、何を変えたか分からないまま、同じ品物ですと納められるのは困ります」
「変更する場合は、事前に確認する手順を置きます」
「その担当を、名前だけではなく連絡先までください」
征一は書き込んだ。
購買責任者が、納品予定の表を開いた。
「初めから、今の数量を全て切り替える承認はできません」
高瀬が顔を上げた。
「現場も設備も残ります」
「だから、取引をやめるとは言っていません」
購買責任者は、表の最初の区間を指した。
「確認できた数量から始めたい。立ち上がりの納品を見て、次を判断します。それ以上は、現段階では約束できません」
征一は、その区間を見た。
最初に持ってきた計画より、少ない。
足りない売上を、継続見込みという言葉で残すこともできた。
けれど、相手は今、約束できる範囲を示していた。
「その数量で、組み直します」
高瀬が征一を見た。
征一は、表の続きを指さなかった。
「支払条件も、改めて確認させてください」
購買責任者はうなずいた。
仕事を続けたいという意向が、数量と確認項目のある話へ変わっていった。
帰りの車で、高瀬はしばらく黙っていた。
運転手が交差点で止まる。
横断歩道を、自転車を押した人が渡っていった。
「これで、買えなくなりますか」
高瀬が聞いた。
征一は、膝の上の資料を閉じた。
「まだ分かりません」
「私は、あの会社が続けると言ったから」
「続ける意向は、ありました」
「でも、数量が足りない」
「最初から全部が移る計画には、できなくなりました」
高瀬は窓の外を見た。
「銀行へ出した数字も変わるんでしょう」
「変わります。こちらから伝えます」
「六千万が出なくなったら」
「出ることにして契約はしません」
車が動き出した。
高瀬の指が、膝の上で組み直された。
「十八人に話すんですね」
「はい。買うことも、全員が残ることも、まだ決まっていないと」
「私一人では、言い切れなかった」
征一は、高瀬の方を見なかった。
「一緒に話します」
それだけ答えた。
工場での説明は、勤務時間の中に置いた。
征一は、買い手候補であることから話した。
契約はまだ結んでいない。
取得した場合も、高瀬の会社での雇用が、そのまま同じ条件で移ると決まったわけではない。
仕事内容と条件を示した後、本人の意思を確かめる。
質問は、すぐには出なかった。
高瀬が立っている方を見た人がいた。
机の下で、手を組んだ人もいた。
やがて、出荷を担当している男が聞いた。
「給料は、今までと同じ日に出るんですか」
征一は、その人を見た。
藤崎が最初に聞いたのも、給料日だった。
「取得後の会社が雇用を提示する時に、支払日も示します。今までと同じだと、今日は約束できません」
「下がるかもしれない」
「条件が同じとは限りません」
男は口を結んだ。
別の人が、今月働いた分は誰が払うのかと聞いた。
高瀬が、自分の会社の支払いとして説明した。
征一は横から安心する言葉を足さなかった。
説明が終わった後、一人の従業員が高瀬のところへ来た。
すでに別の勤務先へ相談しているという。
まだ採用が決まったわけではない。ただ、返事を待ってもらえる期間には限りがある。
高瀬は、その話を初めて聞いた顔をした。
征一は、担当表へその人が残る印を付けなかった。
工場を買う前から、人の予定は動いていた。
週明け、真鍋は征一の机へ、二つの表を置いた。
金曜に確認できた数量を使った計画と、次の発注が増えない場合の計画だった。
「初回の受注は、相手方の手続きを経た書面が必要です。金曜の面談記録だけで、確定にはしていません」
「ああ」
「その数量を前提に、必要な担当と勤務の組み方を置き直しました。個別の条件提示は、これからです」
征一は最初の支払いが来る週を指した。
「ここを越えるのに、いくら要る」
「取得時に残す二百万円に加えて、六百万円まで枠を置く案です。ただし、これは当面の計画で見えている不足と、回収が遅れた場合の余裕です。何が起きても足りる額ではありません」
征一は、六百万円という数字を見た。
取得時に出す二千四百万円とは別だった。
「既存事業の支払いは」
「給与、税金、返済、予定している車両と倉庫の支出を残した後で、出せる範囲を確認しました。その資金繰りを崩さずに置く案です」
「一度に移すのか」
「必要な時点で移します。取得主体への資金の入れ方も、返済や会計上の扱いを含めて整えます。自由に使える余り金としては置きません」
「六百を超えたら」
「自動では出しません」
真鍋は、表の脇へ紙を置いた。
主要取引先の発注が想定を下回る。
入金が予定日から遅れる。
修繕の見積もりが変わる。
人員を置いた後の支払いが、確保した金を上回る。
その場合は、支払いが来る前に、発注と生産の範囲を見直す。
「支払った後で報告では遅いです」
「俺が現場で約束してもか」
「そうならないように決めています」
征一は、表から目を上げた。
真鍋は視線をそらさなかった。
「約束してから、必要だから出す、では上限になりません」
征一は、自分が口にしそうな言葉を聞いていた。
ここまで来た。
注文がある。
直せば動く。
人が待っている。
一つずつなら、どれも理由になる。
「六百万円までを、追加投入の上限案にする。会社としての手続きを通して、決まる前には使わない」
真鍋が書き込んだ。
「取得時の二千四百万と合わせて、会社側で確保するのは三千万です。取得時に移す額と、後で使う可能性のある枠は分けて示します」
「美沙にも、俺から言う」
「家計から出さないこととは別に、ですね」
「別に」
征一は、二つの表を重ねなかった。
倉田との面談には、高瀬の工場の写真を持っていかなかった。
代わりに、確認できた発注の範囲と、変更した資金繰りを置いた。
「当初の見込みより、立ち上がりの売上が少なくなっています」
真鍋が説明した。
倉田は、前の資料を横へ並べた。
「買値は、変わらないんですね」
「はい」
征一が答えた。
「取得する資産自体の確認は続けています。ただ、今ある受注が、全て取得後の売上になるという置き方を直しました」
「雇用は」
「作業と技能を確認して、条件を提示します。全員が同じ条件で残ることを、計画の前提にはしていません」
「必要な人が残らなかった場合は」
「取得後に考えることにはしません。受注を続けるための担当が置けなければ、取得条件がそろわない」
倉田は、資金繰りへ目を戻した。
「六千万円は承認済みですが、この変更を、そのまま実行事務へ回すわけにはいきません。返済の見通しと条件への影響を確認します」
「お願いします」
「予定日は、約束できません」
征一はうなずいた。
高瀬へ伝えなければならないことが、一つ増えた。
倉田は、追加投入の欄を指した。
「これを出せるという根拠は、既存事業の資金繰りですね」
「はい。そちらの支払いを残して、確認しました」
「その後、工場がさらに資金を必要とした場合は」
「自動的に補填しません。発注と続ける範囲を見直します」
「借入を増やすことは」
征一は、すぐには答えなかった。
借りられるなら、足りる。
以前なら、それを最初に考えた。
だが、今ここで必要なのは、借入の名前を一つ増やすことではなかった。
「新たに借りるなら、その金を何で返せるかが必要です。今の不足を埋めるだけなら、この計画の外へ置きます」
倉田は、ペンを動かした。
「分かりました。確認したい資料を、今日中にまとめます」
承認額は、その日も入金にはならなかった。
それでも征一は、面談の前より進んだと感じていた。
何を見てもらうかが、そろっていた。
数日後、最初の発注についての書面が届いた。
取引先の確認を終えた数量と納期が記されていた。次の期間の数量は、空欄のままだった。
その空欄を埋めずに、真鍋は銀行へ資料を送った。
高瀬からは、雇用の個別説明に入れる日程が届いた。
残ると決めた人の名簿ではない。
条件を聞くための予定表だった。
倉田からの連絡は、その翌日の午後に来た。
六千万円の承認額については、変更後の計画を踏まえて進められる。
ただし、実行までにそろえる書類と、確認する条件がある。取得と資金の動きを合わせる日程も、改めて詰める。
真鍋が電話を切り、征一へ向き直った。
「融資を使って、先へ進めます」
征一は、机の上の受注書を見た。
六千万円が入れば、それだけで仕事が生まれるわけではなかった。
工場の人が働き、部品が納まり、取引先から金が戻る。その間に払うものを確保して、初めて借入を使える。
「高瀬さんへ連絡する。買うための最後の確認へ進むと」
征一は受話器へ手を伸ばした。
「契約したとは、まだ言わないでください」
「分かってる」
真鍋を見ると、笑っていなかった。
征一は言い直した。
「今のは、分かってるだけで済ませない。残る条件を一緒に伝える」
真鍋が、机の紙を一枚寄せた。
その夜、征一は藤崎へ電話した。
「六千万の件、変更した計画で進められることになった」
『借りたのか』
「まだだ。実行条件をそろえる。雇用の提示も、これからだ」
『じゃあ、何の報告だ』
「進める条件が見えたという報告」
電話の向こうで、藤崎が何かを置く音がした。
『買わない条件の紙は』
「机にある」
『裏返したか』
「まだ、表だ」
『なら、いい』
征一は、椅子へ座り直した。
「最初に見込んだより、売上は少ない。会社から確保する金は増えた」
『それでも買いたいか』
「ああ」
『どうして』
征一は窓の外を見た。
倉庫の照明が、一つずつ消えていた。
「作っている人と、必要としている相手がいる。間にある、引き受ける会社と金が足りなかった。そこをつなげられると思う」
『思うだけで六千万は出ないだろ』
「だから、調べた」
藤崎は、しばらく黙った。
『そうやって、お前は大きくなったんだな』
「まだ、買ってない」
『分かってるよ』
通話を終えると、真鍋から翌日の予定が届いていた。
雇用条件の確認。
取引先への提出書類。
銀行への回答。
取得後の支払い。
征一は、一番上へ高瀬の名前を書いた。
金がなければ、残せない仕事がある。
借りた金で、その時間を作れることもある。
それを疑う理由は、今もなかった。
征一は買わない条件を書いた紙を机の端へ残し、電話帳から高瀬の番号を開いた。




