↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/54

残金1,842円|第30話「借りれば進めた」

 高瀬は、紙の一行を指で押さえた。


「ここは、言わないでほしい」


 午前十時。工場の事務室には、機械油の匂いが薄く入り込んでいた。


 征一は、机の向こうから紙を見た。


 買い手候補は、現時点で全員の雇用を約束していない。


 昨夜、自分で書いた文章だった。


「どの言葉ですか」


「全員の雇用を約束していない、というところです」


「決まっていないと伝えるには、必要です」


「それを聞いて、残れないと思った人から動きます」


 高瀬の隣には、従業員の名簿が伏せてあった。


 十八人。


 征一は、名簿へ手を伸ばさなかった。


「残れると思ったまま、ほかの仕事を断る人もいるかもしれません」


「まだ、そういう話は聞いていません」


「聞いていないから、いないとは言えない」


 高瀬は指を離した。


 爪の際が、黒く汚れていた。朝、現場へ入っていたのだろう。


「榊原さんは、買わないこともできる」


 声は低かった。


「私は、売れなかった後も、ここへ来ます」


 征一は返事をしなかった。


 昨日の電話では、言葉を正すことが先に立った。


 今は、その言葉を誰が工場の中で引き受けるのかが、机の向こうに座っていた。


「だから、説明する場には私も出ます」


「買うと決める前に?」


「何を確認していて、何が決まっていないかは、私から話せます。ただ、雇用の条件は、その場で答えられない」


「それで、安心しますか」


「安心させるための説明にはしません」


 高瀬は窓へ目を向けた。


 加工を終えた部品が、金属の籠へ落ちた。短い音が、二度続いた。


「いつ、条件を出すんです」


「金曜の取引先との面談を受けて、人員と資金の計画を直します。提示する内容が固まった段階で、一人ずつ説明したい。その前に売買を確定させるつもりはありません」


「全員へ出せるとは、言えない」


「今は言えません」


 高瀬は、伏せていた名簿を表へ返した。


「なら、誰がどの仕事をしているか、もう一度見てください」


 名簿の端には、手書きの印があった。


 機械を使える人だけではない。


 検品。

 段取り。

 出荷前の確認。

 材料が届いた時の受け入れ。


 征一が作っていた担当表では、一つの仕事としてまとめていたところに、別の名前が並んでいた。


「この人は、検品専任ですか」


「違います。普段は加工です。ただ、この取引先の部品は、この人が最後に見ています」


「図面と照らす以外に、何かあるんですか」


「あります。私より、その人に聞いた方が早い」


 高瀬は立ち上がった。


「人を残す話なら、名簿だけで決めないでほしい」


 征一も椅子を引いた。


 事務室へ来る前より、確認する仕事が増えていた。



 現場を見た後、真鍋と小さな食堂で昼食を取った。


 征一は箸を置き、担当表へ二つ書き足した。


「検品の引き継ぎに、期間を置く。取得した翌日から、別の人ができる前提にはしない」


 真鍋は、表の右端へ日付の欄を作った。


「取引先の承認と関係しますね」


「ああ。品質責任者の名前だけ出しても、現場で確認する人がいなければ回らない」


「雇用の人数は」


「面談前に、決めた数字を置くのはやめる。必要な作業を出してからだ」


「人数が増えれば、資金も増えます」


「分かってる」


 言ってから、征一は鞄の中の紙を思い出した。


 藤崎に言われたばかりだった。


 分かっているなら、数字で言え。


「どこまで出た」


 真鍋は、別の表を開いた。


 取得関連支出、八千二百万円。


 取得主体に残す金、二百万円。


 必要調達総額、八千四百万円。


 銀行の承認額、六千万円。


 既存会社から移す資金、二千四百万円。


 その下に、取得後の入出金が週ごとに並んでいた。


「二百万円では、最初の給与と材料の支払いが重なる週を越えられません」


「受注の回収は」


「取得後の会社に入る金だけを置いています。高瀬社長の会社が納品した分の売掛金は、こちらの入金に数えていません」


 征一は表を引き寄せた。


 機械が同じでも、代金の行き先まで自動で変わるわけではない。


 取得前に作った品物と、取得後に受けた注文を分ける。その境目を曖昧にすると、一つの売上を二つの会社で当てにしてしまう。


「これが、必要になる追加額か」


「まだ幅があります。金曜に確認する取引先の数量と、支払条件で変わります。それと、人員です」


「数量を減らした方は」


 真鍋は、三枚目を出した。


 征一は一枚目を脇へ置いた。


 売上の少ない表から読んだ。


 食堂の人が、空いた皿を下げに来た。真鍋は紙の端を押さえ、通路側へ出ていた鞄を足元へ寄せた。


 征一は、入金の前に並ぶ支払いを見ていた。


 借りた六千万円の大部分は、取得関連の支出へ向かう。


 会社から出す二千四百万円のうち、残るのは二百万円。


 工場を買う金と、工場を動かす金は、同じ日には使えなかった。



 金曜の朝、征一は高瀬と取引先の門をくぐった。


 真鍋が持つ鞄には、資金の表が入っている。


 征一の手には、取得後の担当と補完体制を記した紙があった。


 会議室で待っていた購買責任者は、最初に言った。


「高瀬さんのところとの取引は、続けたいと考えています」


 高瀬の肩が、わずかに下がった。


 征一は礼を言い、相手の続きを待った。


「ただし、発注先が変わるなら、確認は別です」


 品質担当者が、持参した部品を机へ置いた。


 片手に収まる、大きさだった。


「これが止まると、うちの組み立てが止まります。倉庫とトラックがあることは助かりますが、作れない分を運ぶことはできません」


「そのとおりです」


 征一は、自社の物流の説明を後ろへ回した。


 品質責任者を誰が担うか。


 実際の検品を、どの担当者が行うか。


 不良を見つけた時、出荷を止める権限をどこへ置くか。


 高瀬が補足し、品質担当者が質問した。


 征一が答えられないところでは、現場で確認した記録を開いた。


「所有者が変わる時に、同時にやり方まで変えないでください」


 品質担当者は言った。


「合理化されるのは構いません。ただ、何を変えたか分からないまま、同じ品物ですと納められるのは困ります」


「変更する場合は、事前に確認する手順を置きます」


「その担当を、名前だけではなく連絡先までください」


 征一は書き込んだ。


 購買責任者が、納品予定の表を開いた。


「初めから、今の数量を全て切り替える承認はできません」


 高瀬が顔を上げた。


「現場も設備も残ります」


「だから、取引をやめるとは言っていません」


 購買責任者は、表の最初の区間を指した。


「確認できた数量から始めたい。立ち上がりの納品を見て、次を判断します。それ以上は、現段階では約束できません」


 征一は、その区間を見た。


 最初に持ってきた計画より、少ない。


 足りない売上を、継続見込みという言葉で残すこともできた。


 けれど、相手は今、約束できる範囲を示していた。


「その数量で、組み直します」


 高瀬が征一を見た。


 征一は、表の続きを指さなかった。


「支払条件も、改めて確認させてください」


 購買責任者はうなずいた。


 仕事を続けたいという意向が、数量と確認項目のある話へ変わっていった。



 帰りの車で、高瀬はしばらく黙っていた。


 運転手が交差点で止まる。


 横断歩道を、自転車を押した人が渡っていった。


「これで、買えなくなりますか」


 高瀬が聞いた。


 征一は、膝の上の資料を閉じた。


「まだ分かりません」


「私は、あの会社が続けると言ったから」


「続ける意向は、ありました」


「でも、数量が足りない」


「最初から全部が移る計画には、できなくなりました」


 高瀬は窓の外を見た。


「銀行へ出した数字も変わるんでしょう」


「変わります。こちらから伝えます」


「六千万が出なくなったら」


「出ることにして契約はしません」


 車が動き出した。


 高瀬の指が、膝の上で組み直された。


「十八人に話すんですね」


「はい。買うことも、全員が残ることも、まだ決まっていないと」


「私一人では、言い切れなかった」


 征一は、高瀬の方を見なかった。


「一緒に話します」


 それだけ答えた。



 工場での説明は、勤務時間の中に置いた。


 征一は、買い手候補であることから話した。


 契約はまだ結んでいない。


 取得した場合も、高瀬の会社での雇用が、そのまま同じ条件で移ると決まったわけではない。


 仕事内容と条件を示した後、本人の意思を確かめる。


 質問は、すぐには出なかった。


 高瀬が立っている方を見た人がいた。


 机の下で、手を組んだ人もいた。


 やがて、出荷を担当している男が聞いた。


「給料は、今までと同じ日に出るんですか」


 征一は、その人を見た。


 藤崎が最初に聞いたのも、給料日だった。


「取得後の会社が雇用を提示する時に、支払日も示します。今までと同じだと、今日は約束できません」


「下がるかもしれない」


「条件が同じとは限りません」


 男は口を結んだ。


 別の人が、今月働いた分は誰が払うのかと聞いた。


 高瀬が、自分の会社の支払いとして説明した。


 征一は横から安心する言葉を足さなかった。


 説明が終わった後、一人の従業員が高瀬のところへ来た。


 すでに別の勤務先へ相談しているという。


 まだ採用が決まったわけではない。ただ、返事を待ってもらえる期間には限りがある。


 高瀬は、その話を初めて聞いた顔をした。


 征一は、担当表へその人が残る印を付けなかった。


 工場を買う前から、人の予定は動いていた。



 週明け、真鍋は征一の机へ、二つの表を置いた。


 金曜に確認できた数量を使った計画と、次の発注が増えない場合の計画だった。


「初回の受注は、相手方の手続きを経た書面が必要です。金曜の面談記録だけで、確定にはしていません」


「ああ」


「その数量を前提に、必要な担当と勤務の組み方を置き直しました。個別の条件提示は、これからです」


 征一は最初の支払いが来る週を指した。


「ここを越えるのに、いくら要る」


「取得時に残す二百万円に加えて、六百万円まで枠を置く案です。ただし、これは当面の計画で見えている不足と、回収が遅れた場合の余裕です。何が起きても足りる額ではありません」


 征一は、六百万円という数字を見た。


 取得時に出す二千四百万円とは別だった。


「既存事業の支払いは」


「給与、税金、返済、予定している車両と倉庫の支出を残した後で、出せる範囲を確認しました。その資金繰りを崩さずに置く案です」


「一度に移すのか」


「必要な時点で移します。取得主体への資金の入れ方も、返済や会計上の扱いを含めて整えます。自由に使える余り金としては置きません」


「六百を超えたら」


「自動では出しません」


 真鍋は、表の脇へ紙を置いた。


 主要取引先の発注が想定を下回る。


 入金が予定日から遅れる。


 修繕の見積もりが変わる。


 人員を置いた後の支払いが、確保した金を上回る。


 その場合は、支払いが来る前に、発注と生産の範囲を見直す。


「支払った後で報告では遅いです」


「俺が現場で約束してもか」


「そうならないように決めています」


 征一は、表から目を上げた。


 真鍋は視線をそらさなかった。


「約束してから、必要だから出す、では上限になりません」


 征一は、自分が口にしそうな言葉を聞いていた。


 ここまで来た。

 注文がある。

 直せば動く。

 人が待っている。


 一つずつなら、どれも理由になる。


「六百万円までを、追加投入の上限案にする。会社としての手続きを通して、決まる前には使わない」


 真鍋が書き込んだ。


「取得時の二千四百万と合わせて、会社側で確保するのは三千万です。取得時に移す額と、後で使う可能性のある枠は分けて示します」


「美沙にも、俺から言う」


「家計から出さないこととは別に、ですね」


「別に」


 征一は、二つの表を重ねなかった。



 倉田との面談には、高瀬の工場の写真を持っていかなかった。


 代わりに、確認できた発注の範囲と、変更した資金繰りを置いた。


「当初の見込みより、立ち上がりの売上が少なくなっています」


 真鍋が説明した。


 倉田は、前の資料を横へ並べた。


「買値は、変わらないんですね」


「はい」


 征一が答えた。


「取得する資産自体の確認は続けています。ただ、今ある受注が、全て取得後の売上になるという置き方を直しました」


「雇用は」


「作業と技能を確認して、条件を提示します。全員が同じ条件で残ることを、計画の前提にはしていません」


「必要な人が残らなかった場合は」


「取得後に考えることにはしません。受注を続けるための担当が置けなければ、取得条件がそろわない」


 倉田は、資金繰りへ目を戻した。


「六千万円は承認済みですが、この変更を、そのまま実行事務へ回すわけにはいきません。返済の見通しと条件への影響を確認します」


「お願いします」


「予定日は、約束できません」


 征一はうなずいた。


 高瀬へ伝えなければならないことが、一つ増えた。


 倉田は、追加投入の欄を指した。


「これを出せるという根拠は、既存事業の資金繰りですね」


「はい。そちらの支払いを残して、確認しました」


「その後、工場がさらに資金を必要とした場合は」


「自動的に補填しません。発注と続ける範囲を見直します」


「借入を増やすことは」


 征一は、すぐには答えなかった。


 借りられるなら、足りる。


 以前なら、それを最初に考えた。


 だが、今ここで必要なのは、借入の名前を一つ増やすことではなかった。


「新たに借りるなら、その金を何で返せるかが必要です。今の不足を埋めるだけなら、この計画の外へ置きます」


 倉田は、ペンを動かした。


「分かりました。確認したい資料を、今日中にまとめます」


 承認額は、その日も入金にはならなかった。


 それでも征一は、面談の前より進んだと感じていた。


 何を見てもらうかが、そろっていた。



 数日後、最初の発注についての書面が届いた。


 取引先の確認を終えた数量と納期が記されていた。次の期間の数量は、空欄のままだった。


 その空欄を埋めずに、真鍋は銀行へ資料を送った。


 高瀬からは、雇用の個別説明に入れる日程が届いた。


 残ると決めた人の名簿ではない。


 条件を聞くための予定表だった。


 倉田からの連絡は、その翌日の午後に来た。


 六千万円の承認額については、変更後の計画を踏まえて進められる。


 ただし、実行までにそろえる書類と、確認する条件がある。取得と資金の動きを合わせる日程も、改めて詰める。


 真鍋が電話を切り、征一へ向き直った。


「融資を使って、先へ進めます」


 征一は、机の上の受注書を見た。


 六千万円が入れば、それだけで仕事が生まれるわけではなかった。


 工場の人が働き、部品が納まり、取引先から金が戻る。その間に払うものを確保して、初めて借入を使える。


「高瀬さんへ連絡する。買うための最後の確認へ進むと」


 征一は受話器へ手を伸ばした。


「契約したとは、まだ言わないでください」


「分かってる」


 真鍋を見ると、笑っていなかった。


 征一は言い直した。


「今のは、分かってるだけで済ませない。残る条件を一緒に伝える」


 真鍋が、机の紙を一枚寄せた。



 その夜、征一は藤崎へ電話した。


「六千万の件、変更した計画で進められることになった」


『借りたのか』


「まだだ。実行条件をそろえる。雇用の提示も、これからだ」


『じゃあ、何の報告だ』


「進める条件が見えたという報告」


 電話の向こうで、藤崎が何かを置く音がした。


『買わない条件の紙は』


「机にある」


『裏返したか』


「まだ、表だ」


『なら、いい』


 征一は、椅子へ座り直した。


「最初に見込んだより、売上は少ない。会社から確保する金は増えた」


『それでも買いたいか』


「ああ」


『どうして』


 征一は窓の外を見た。


 倉庫の照明が、一つずつ消えていた。


「作っている人と、必要としている相手がいる。間にある、引き受ける会社と金が足りなかった。そこをつなげられると思う」


『思うだけで六千万は出ないだろ』


「だから、調べた」


 藤崎は、しばらく黙った。


『そうやって、お前は大きくなったんだな』


「まだ、買ってない」


『分かってるよ』


 通話を終えると、真鍋から翌日の予定が届いていた。


 雇用条件の確認。

 取引先への提出書類。

 銀行への回答。

 取得後の支払い。


 征一は、一番上へ高瀬の名前を書いた。


 金がなければ、残せない仕事がある。


 借りた金で、その時間を作れることもある。


 それを疑う理由は、今もなかった。


 征一は買わない条件を書いた紙を机の端へ残し、電話帳から高瀬の番号を開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。