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残金1,842円|第31話「売らずに勝った日」

 高瀬へ電話をかける前に、真鍋が紙を一枚差し出した。


「売却候補です」


 征一は、受話器へ伸ばしていた手を止めた。


 紙には、既存会社が保有する三つの資産が並んでいた。


 旧配送センター。

 市内北側の倉庫。

 高速道路の出入口に近い更地。


 それぞれに、帳簿価額、直近の評価額、担保の有無、売却までにかかる期間が書かれている。


「工場へ出す六百万円の枠は、既存事業の資金繰りを崩さずに置けると言ったな」


「今の計画なら置けます」


「なら、なぜ売却候補を出す」


「工場の計画だけなら、売る必要はありません」


 真鍋は、市内北側の倉庫を指した。


「ただ、来月に車両の更新があります。再来月には、物流システムの支払いもある。工場への追加投入と重なった場合に、使える現金を増やす方法として並べました」


「この倉庫は使ってる」


「使っています」


「なら、売却候補じゃない」


「売って借りる案があります」


「誰から」


「買い手からです。売却後も五年から七年の賃貸借を結ぶ。倉庫はそのまま使えます」


 征一は、紙を机へ置いた。


 建物を使い続けながら、所有権だけを売る。


 売却代金は入る。

 借入金も減らせる。

 賃料は増えるが、まとまった現金を確保できる。


「いくらになる」


「まだ査定前です。仲介会社の簡易試算では、八億から九億五千万円。ただし、担保を外すために返済が必要です。税金と手数料を引くと、会社へ残る額は三億円台になる可能性があります」


「それで、年間の賃料は」


「提示されている利回りで計算すると、五千万円を超えます。修繕負担をどちらが持つかで変わります」


「十年使えば、五億だ」


「単純計算では」


「買い戻せるのか」


「今の案には入っていません」


 征一は、倉庫の住所を見た。


 十五年前、まだ配送先が県内に限られていた頃に買った土地だった。


 駅からは遠い。

 周囲に住宅も少ない。

 当時は、銀行の評価も高くなかった。


 それでも、高速道路へ出るまでの時間が短かった。


 荷物を積んだ車両が、市街地の朝の渋滞を通らずに済む。冬に幹線道路が混んでも、別の道を使えた。


 建物の新しさではなく、動ける時間を買った倉庫だった。


「売らない」


「工場の取得を優先するなら、検討する意味はあります」


「工場のために、今の物流を弱くするのか」


「売っても使えます」


「契約期間は五年か七年だろ」


「更新条項は交渉できます」


「更新できると決まってない。賃料の改定もある。買い手が変わることもある」


 真鍋は、紙を引かなかった。


「所有していれば、固定資産税も修繕費もこちらです。屋根の補修は、三年以内に必要になります」


「いくらだ」


「現時点の概算で四千万円です」


「それも入れて、売った方が得だと言ってるのか」


「得かどうかを決める前に、現金を作る手段として見ています」


 征一は椅子へ背を預けた。


 真鍋は、工場を買うなとは言っていない。


 倉庫を売れとも言っていない。


 工場へ使う金を置いた後に、既存会社で何が重なるかを見せている。


「査定だけ取れ」


「売却する可能性がなくてもですか」


「値段を知らずに、売らないとは決めない」


「分かりました」


「ただし、買い手へ資料を出す前に、俺へ見せろ。従業員にも取引先にも、売却の話が先に回らないようにする」


「秘密保持契約を結んでから、限定した資料だけ出します」


 真鍋は、売却候補の紙へ書き込んだ。


 征一は、今度こそ高瀬へ電話をかけた。



 工場の取得条件をそろえる作業は、その週のうちに進んだ。


 最初の発注書が届いた。


 品質責任者には、高瀬の工場で検品を担っていた社員を置く案を作った。最終責任は取得後の会社が持ち、出荷を止める権限は現場にも残した。


 十八人には、一人ずつ条件を示した。


 提示したのは、同じ紙ではなかった。


 担当する仕事。

 勤務時間。

 給与。

 支払日。

 試用期間を置くか。

 取得後も継続してほしい技能。

 複数の作業を引き継いでもらう場合の手当。


 条件を聞いたその場で、返事を求めなかった。


 別の勤務先へ相談していた社員は、期限までに結論を出したいと言った。検品を担っていた社員は、品質上の判断を誰が支えるのかを尋ねた。若い作業員の一人は、取得後に機械を覚える機会があるかと聞いた。


 征一は、残ってほしいとは言った。


 ただし、残る前提で担当表へ名前を入れなかった。


 高瀬は、説明が終わるたびに事務室へ戻り、名簿の横へ小さな印を付けた。


「全員が返事をするまで、契約を待つんですか」


 最後の面談を終えた後、高瀬が聞いた。


「必要な仕事を担う人の意思は確認します」


「考えている間に、銀行の日程がまた動く」


「銀行のために返事を急がせれば、入社した後に辞める人が出る」


「待てば、ほかへ行くかもしれない」


「それも本人が決めることです」


「あなたは、待てる側だから言える」


 高瀬は、机に残った条件書の控えをそろえた。


「私は、毎日一人ずつ減るかもしれない側です」


 征一は、高瀬の手元を見た。


 紙の角が、きれいに重なっていなかった。


「返事の期限は置きます」


「何日です」


「五営業日。ただし、ほかの会社から先に返事を求められている人は、個別に聞く」


「それで必要な人がそろわなければ」


「買いません」


 高瀬の手が止まった。


「融資は進んでいるんでしょう」


「借りられることと、工場を動かせることは別です」


「ここまで調べて、買わないことがあるんですか」


「あります」


 答えた後、征一は自分の声を聞いた。


 言葉に迷いはなかった。


 それでも、買わない条件を書いた紙が机の端に置かれているだけの時とは違った。


 高瀬の前で言えば、その言葉は相手の予定にも入る。


「五日ですね」


「はい」


「その間、ほかの買い手と話してもいいですか」


「止められません」


「話が進んだら」


「教えてください。こちらも、条件がそろった時点で伝えます」


 高瀬は、重ね直した紙を封筒へ入れた。


「榊原さんは、買えるのに買わないことができるんですね」


「まだ、買えると決まっていません」


「六千万円を借りられる人が言うと、違って聞こえます」


 征一は返さなかった。



 翌日の午後、倉田から連絡が入った。


 変更後の計画でも、六千万円の融資を進められる。


 ただし、実行は売買契約と同日とする。


 売買対象の資産、引き継ぐ契約、初回の発注書、必要人員の確保、既存会社からの資金移動を、実行前に確認する。


 取得主体に入れる二千四百万円は、融資実行より先に着金させる。


 追加の六百万円は、融資の自己資金へ含めない。取得後の運転資金として、会社内部の承認を経て必要額だけを移す。


「倉庫の売却は、融資条件に入っていますか」


 真鍋が電話で尋ねた。


『入っていません』


 倉田は答えた。


『ただ、既存会社の資金繰りを見るうえで、選択肢として確認しています』


「売却しない場合でも、六千万円は進められる」


『現時点では、そうです。ただし、既存会社側の支払いに不足が出ないことが前提です』


 征一は、真鍋の向かいで聞いていた。


「売却を条件にするなら、先に言ってください」


 征一が言った。


『条件にしていません』


「後で、売れば出せたとは言われたくない」


『榊原さん』


 倉田の声が少し低くなった。


『売るかどうかを決めるのは、会社です。銀行は、売らない場合の返済原資と資金繰りを確認します』


「分かっています」


『本当に分かっているなら、売らない理由ではなく、売らなくても払える数字を出してください』


 征一は、机の上の試算を見た。


 倉田の言い方は、真鍋とも藤崎とも違った。


 だが、求めているものは同じだった。


「今日中に出します」


『確認します』


 電話が切れた。


 真鍋が、別の表を開いた。


「北側倉庫を売らない場合です」


 倉庫の営業利益。

 借入返済。

 固定資産税。

 修繕費。

 車両更新。

 物流システムの支払い。

 工場への二千四百万円。

 追加投入枠六百万円。


 月ごとの残高が並んでいる。


「屋根の補修は」


「見積もりを取り直しました。全面を一度に直す案で四千二百万円。傷んでいる区画を先に直し、残りを二年後に回す案で、初年度は千六百万円です」


「後回しにして雨漏りが出たら」


「保管品へ影響します。点検結果では、今すぐ必要なのは東側です。ただし、二年後の金額は上がる可能性があります」


「借入で直す案は」


「長期の設備資金として、別に返済できるならあります。今回の工場取得と一緒にはしません」


 征一は、倉庫を売る場合の表を隣へ置いた。


 売却代金が入る月だけ、残高が大きく増えていた。


 その後は、毎月の賃料が出ていく。


 五年目に契約更新。

 賃料改定。

 買い手が更新へ応じない場合の移転費用は、空欄だった。


「売れば、今は楽になる」


「はい」


「売らなければ、修繕と返済が残る」


「はい」


「それでも、物流の利益は会社に残る」


「倉庫を使う事業の利益は残ります。建物を所有しているから利益が出るわけではありません」


「分かってる」


 真鍋は黙った。


 征一は、その言葉を言い直した。


「所有と使用を分けて見る。ただ、この倉庫は、期限を切って借りる場所じゃない」


「なぜです」


「荷主との契約が五年で終わるとは限らない。工場を取れば、保管する物も増える。配送を組み替える時に、倉庫の使い方を買い手へ説明して承認を取る形にはしたくない」


「売買後の賃貸借で、使用方法の範囲は交渉できます」


「できる。だが、相手にも利回りが要る。土地の値段が上がれば、更新時に別の使い方を考える。こちらが必要な時期と、相手が持ち続けたい時期が同じとは限らない」


 真鍋は、倉庫を売らない場合の表へ目を戻した。


「初年度の修繕を千六百万円で置きます。残りは、点検時期と工事時期を決める。工場への追加投入が六百万円を超える場合は、修繕費を流用しません」


「ああ」


「車両更新も予定どおりです」


「減らせる台数はないか」


「更新対象は四台です。二台を一年延ばす案なら、整備費を入れても支出を抑えられます。ただし、故障時の代替車両が必要です」


「運行責任者に聞く。机の上だけで二台減らすな」


 真鍋はうなずいた。


「この条件で、倉庫を売らない案を銀行へ出します」


「出してくれ」


「査定は続けますか」


 征一は、売却候補の紙を見た。


「続ける。売らないと決めることと、売れないと思い込むことは違う」


 真鍋は、その言葉を書かなかった。


 代わりに、資料の表紙へ日付を入れた。



 五営業日の間に、十五人から返事が来た。


 十二人が、提示した条件で働きたいと答えた。


 一人は、別の会社から採用の連絡を受け、そちらへ行くと決めた。


 二人は、勤務時間と給与について再検討を求めた。


 残る三人は、返事を保留していた。


 検品を担っていた社員は、残ると答えた。


 ただし、品質責任者という肩書だけを渡されるなら受けないと言った。


 不良を止めた時に、納期を優先する上司から覆されないこと。

 測定器の校正費用を削らないこと。

 新しい人へ検品を教える時間を勤務として扱うこと。


 征一は、三つとも条件書へ入れた。


 高瀬は、その紙を読み、最後に署名した。


「この条件なら、あの人は残ります」


「本人が決めます」


「分かっています」


 高瀬は、今度は言い直さなかった。


 必要な作業を担う人数は、最低限そろった。


 初回発注の書面も届いた。


 機械の状態確認では、一台に修繕が必要だと分かった。見積額は二百八十万円。売買代金は変えず、高瀬側が引渡し前に修繕するのではなく、取得後にこちらが修繕し、その分を最終支払額から差し引くことで合意した。


 差し引く額と、誰が修繕業者へ発注するかを契約書へ入れた。


 売掛金は高瀬の会社に残る。

 在庫は棚卸日の数量で評価する。

 取得日前に納品した製品の代金を、取得後の会社の入金へ数えない。

 従業員との雇用契約は、売買契約とは別に結ぶ。

 取引先の承認が必要な発注は、承認された数量だけを計画へ入れる。


 一つずつ、空欄が埋まった。


 埋まらない欄は、空欄のまま残した。



 契約日の朝、真鍋が銀行口座の画面を確認した。


「二千四百万円、取得主体へ着金しました」


 既存会社の口座から、取得する会社の口座へ移した金だった。


 二千二百万円は、取得関連の支払いへ使う。


 二百万円は、実行後も口座へ残す。


「既存会社側は」


「今日の給与、税金、返済、予定支出を残しています。倉庫の修繕費も、工場へ出せる金には入れていません」


「六百万円の枠は」


「まだ移していません」


 真鍋は、画面を閉じた。


「必要になった時に、会社の承認を通します」


「分かった」


 銀行の融資実行は、売買契約の確認後だった。


 契約書へ署名しただけでは、六千万円は入らない。


 司法書士が資産の移転に必要な書類を確認し、銀行が実行条件の充足を確かめる。


 売買代金の支払いと、機械や在庫の引渡しを同じ日に合わせる。


 高瀬は、契約書の最後のページへ署名し、印を押した。


 征一も署名した。


 互いの印影を確認した後、高瀬は印鑑をケースへ戻さなかった。


「これで、売れたんですか」


「まだ、代金が動いていません」


 征一が答えた。


 高瀬は、小さく息を吐いた。


「最後まで、まだなんですね」


「入金を確認して、引渡し書類を受け取るまでです」


 銀行から、実行条件の確認が完了したと連絡が入った。


 六千万円が、取得主体の口座へ入った。


 その入金と自己資金を合わせ、売買代金と取得関連費用を支払う。


 修繕分として合意した二百八十万円は、最終支払額から控除されている。


 真鍋が着金を確認した。


「支払い、完了しました」


 高瀬の携帯電話が鳴った。


 画面を見た高瀬は、すぐに出なかった。


「銀行です」


「確認してください」


 高瀬は通話し、短く返事をした。


 切った後も、携帯電話を握ったままだった。


「入りました」


「引渡し書類をお願いします」


 高瀬は、机の横へ置いていた封筒を出した。


 機械。

 在庫。

 鍵。

 図面。

 保守記録。

 取引先ごとの品質資料。


 一つずつ確認し、受領欄へ署名する。


 最後に、高瀬が工場の鍵を机へ置いた。


 古い金属製の鍵が三本。

 新しいカードキーが二枚。


「明日も、来ていいんですよね」


 高瀬が聞いた。


「残ってもらう役割の契約どおりに」


「社長ではなく」


「社長ではありません」


 高瀬は、鍵から手を離した。


「分かりました」


 その返事は、売買代金の確認より小さかった。



 午後、征一は取得した工場へ入った。


 十二人が、これまでと同じ場所で作業していた。


 同じ機械が動き、同じ部品が金属の籠へ落ちる。


 だが、給与を支払う会社は変わった。


 材料を買う会社も変わった。


 不良が出た時に責任を負う会社も変わった。


 入口の社名板は、まだ高瀬の会社のままだった。


「今日、替えますか」


 真鍋が聞いた。


「操業が終わってからにしろ」


「分かりました」


「写真を残しておいてくれ」


「古い社名板をですか」


「ああ」


 真鍋は、理由を聞かなかった。


 征一は、工場の奥にある検品台へ向かった。


 残ると決めた社員が、測定器を使っていた。


「時間を取ってすみません」


 征一が言うと、社員は測定器から目を上げた。


「今日は、止めないんですね」


「何をですか」


「工場です。会社が変わる日に止めるのかと思っていました」


「止めずに引き継げる範囲を確認しました」


「止めた方がいい時は、止めてください」


 社員は、手元の部品を持ち上げた。


「これは、あと少し外れたら出せません」


「その判断を任せます」


「納期が迫っていても?」


「出した後で戻す方が遅くなる」


 社員は、部品を測定台へ戻した。


「高瀬社長も、同じことを言っていました」


「そうですか」


「ただ、最後は出してくれと言う時もありました」


 征一は、返事を急がなかった。


 工場を残すために、

 高瀬は納期を守ろうとした。


 品質を守るために、

 検品する社員は出荷を止めようとした。


 どちらにも、工場を続ける理由がある。


「止める時は、俺と真鍋にも連絡してください」


「連絡すれば、止めていいんですか」


「連絡は許可を取るためじゃない。止めた後の納期と費用を、こちらで引き受けるためです」


 社員は、しばらく征一を見た。


「分かりました」


 その声は、高瀬の返事より少しだけ強かった。



 夕方、倉庫へ戻ると、真鍋が北側倉庫の査定結果を持ってきた。


「九億一千万円です」


「手元に残るのは」


「担保解除の返済、税金と費用の概算を引いて、三億八千万円前後です」


「賃料は」


「初年度五千三百万円。五年後に改定協議。修繕は、構造部分を所有者、日常の維持をこちらが負担する案です」


 征一は査定書を開いた。


 九億一千万円。


 数字だけなら、工場の取得額を上回る。


 売れば、今日使った自己資金を戻せる。

 追加投入枠も増やせる。

 車両も倉庫の屋根も、一度に処理できる。


「売らない」


 真鍋は、すぐには書き込まなかった。


「今日の取得で、判断は変わりませんでしたか」


「今日、工場を買ったからだ」


「どういう意味です」


「作った部品を、あの倉庫で預かる。物流と製造をつなげるために買った。つなぐ場所を売って、期限つきで借り直すなら、何を残したのか分からない」


「三億八千万円の現金は入りません」


「入らない」


「修繕費も残ります」


「残る」


「銀行には、その条件で出します」


「ああ」


 真鍋は、査定書へ「現時点で売却しない」と書いた。


「現時点で、ですか」


「売らない判断を、信念にするな。条件が変われば、もう一度見る」


 真鍋は、その横へ日付を書いた。



 倉庫を売らなかったことが正しかったと分かるまでには、二年かかった。


 取得した工場の受注は、最初の数量からすぐには増えなかった。


 品質確認に三か月。

 追加発注まで、さらに二か月。


 その間、工場の製品は一度、北側倉庫へ入れた。


 取引先の生産計画が変わり、納品日が週ごとに動いたからだった。


 工場に置けば、材料と完成品が混ざる。

 取引先へ急いで運べば、受け入れ側の保管場所が足りない。


 北側倉庫で数量を分け、

 必要な日ごとに配送した。


 やがて、同じ仕組みを別の取引先にも提案した。


 作る。

 預かる。

 指定日に運ぶ。


 製造だけでは取れなかった仕事が、

 物流と組み合わせることで取れた。


 倉庫の屋根は、東側を先に直した。

 残りは二年目に施工した。


 車両四台のうち、二台は予定どおり更新し、二台は整備して一年延ばした。


 工場へ確保した六百万円の枠は、一度に使わなかった。


 最初の給与と材料代が重なる週に二百万円。

 入金が予定より十二日遅れた時に百五十万円。

 修繕後の試運転で交換部品が必要になり、九十万円。


 残りは使わなかった。


 二年後、北側倉庫の周辺で物流施設の需要が増えた。


 評価額は上がった。


 だが、征一が覚えていたのは、査定額ではなかった。


 売らなかった倉庫から、

 工場の製品を積んだ最初のトラックが出た朝だった。


 運転手が伝票を受け取り、

 検品した社員が荷台の封を確認する。


 高瀬は、入口の横で見ていた。


「売らなくて、よかったですね」


 真鍋が言った。


「結果が出たから言える」


「売っていたら、どうなっていましたか」


「賃料を払って、同じ仕事をしてたかもしれない」


「なら、所有していたことが勝因とは限りません」


「分かってる」


 征一は、倉庫から出ていくトラックを見た。


「売らなくても払えた。それが先だ」


 借りた金を返した。

 修繕費を払った。

 給与を遅らせなかった。

 新しい受注も取った。


 売らずに耐えたのではない。


 売らずに回る数字を作り、

 その数字どおりに仕事をつないだ。


 それで勝った。


 征一は、その経験を忘れなかった。


 資産は、必要な時に売ればよい。

 売らずに持てるなら、仕事を生む。

 金が足りなければ、返せる範囲で借りればよい。


 その三つは、この時には全部正しかった。


 正しかったからこそ、征一は長く覚えた。

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