残金1,842円|第29話「藤崎」
藤崎は、工場を買うなとは言わなかった。
代わりに、買った翌月の給料日を聞いた。
「何日に、いくら要る」
征一は、倉庫の応接室で湯飲みを置いた。
「個別の雇用条件を確認している。全員を、そのまま同じ条件で引き受けると決めたわけじゃない」
「決めてないなら、給料は要らないのか」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、先にそこを見せろ」
藤崎は、机に置かれた一枚の紙を指した。
征一が持ってきたのは、工場取得の概要だけだった。売買の対象、銀行の承認額、会社から出す資金、取得後に確認する項目。契約書の案も、従業員の名簿も持ってきていない。
秘密保持の問題だけではなかった。
藤崎へ相談したいと言った時、真鍋から、何を聞きたいのか先に決めてくださいと言われた。
何でもよいから意見をくれ、では、相談する側が考えるべきことを相手へ預けることになる。
征一が聞きたかったのは、工場を買うべきかではない。
買いたいという自分の判断に、見えていないものがあるかだった。
「お前に、融資の判断をしてもらうつもりはない」
「できないよ。銀行じゃないからな」
「契約の確認も、別でやってる」
「弁護士でもない」
「分かってる」
「じゃあ、俺に何を言わせたい」
藤崎は、背もたれへ身体を預けた。
窓の向こうで、フォークリフトが荷物を運んでいる。後退を知らせる音が、一定の間隔で聞こえた。
征一は、紙の上へ目を落とした。
「俺が、欲しい理由を作ってないか見てほしい」
藤崎の目が細くなった。
「珍しいな」
「何が」
「欲しいって言ったことだよ。いつもなら、必要だから取ると言う」
「必要でもある」
「もう始まった」
藤崎は笑わなかった。
「必要だと説明し始めると、お前は強い。土地がある。機械がある。注文がある。物流と合わせられる。雇用も残る。銀行も六千万まで承認した。全部、本当なんだろう」
「ああ」
「本当のことを並べて、最後に自分が買いたいことを隠す」
征一は返事をしなかった。
昨夜、美沙にも同じことを言われた。
工場の人のためではなく、自分が買いたいことを分けて話してほしい。
その言葉を、藤崎には伝えていなかった。
「美沙さんに何か言われた顔だな」
「顔で決めるな」
「当たってるのか」
「家で話した」
「反対されたか」
「まだ、賛成も反対もされてない」
「それを待てるようになったのか」
征一は、藤崎を見た。
「今日は、そういう話をしに来たんじゃない」
「そういう話だろ」
藤崎は紙を手前へ引いた。
「会社で反対されたら、条件を直す。銀行に言われたら、数字を出す。家で心配されたら、安心する理由を並べる。お前は全部、同じ交渉だと思ってたところがある」
「今は、分けてる」
「分けようとしてる、だろ」
征一は湯飲みを持った。
中身はもう少なかった。
「それで、給料日だ」
藤崎が紙へ指を戻した。
「機械を買う日より先に来る金がある。電気代、材料代、外注費。締めと支払いの順番が変われば、売上があっても現金は足りなくなる。お前が買うのは工場の建物と機械だけじゃない」
「分かってる」
「分かってる顔で言うな。数字で言え」
征一は、鞄から手帳を出した。
資料は用意しないつもりだったが、確認した内容は書いてある。
「高瀬さんのところは、従業員が十八人いる。ただし、全員へ雇用を提示すると決めたわけではない。本人の意思もある。役割と技能、今ある仕事を続けるのに必要な人数を見てる」
「十八人のうち、何人なら回る」
「まだ確定してない」
「高瀬さんは、全員残ると思ってるか」
征一の手が止まった。
「全員を残せるなら、その方がいいと思っている」
「聞いたのは、思ってるかだ」
「こちらが全員を引き受けると、約束はしていない」
「向こうがどう受け取ってるかは」
征一は答えなかった。
高瀬とは、雇用について何度も話した。
今働いている人の技能を確認する。本人の希望を聞く。取得する資産と継続する仕事が固まってから条件を提示する。
言葉にはしてある。
だが高瀬が、そこへ何を期待しているかまでは確かめていなかった。
「約束してない、は便利だな」
藤崎が言った。
「契約には残らない期待を、相手が勝手に持ったことにできる」
「そんなつもりはない」
「つもりの話はしてない」
外で金属が当たる音がした。
フォークリフトが止まり、作業員の声が飛ぶ。
征一は窓へ目を向けた。荷物の一角が傾いている。近くにいた二人が寄り、差し込まれている爪の位置を確認していた。
すぐに持ち上げ直さない。
荷を下ろし、置き方から直している。
「お前の息子は」
藤崎が言った。
征一は窓から視線を戻した。
「何で悠斗の話になる」
「工場に入れるのか」
「入れない」
返事は、考える前に出た。
藤崎が、わずかに眉を上げる。
「本人は今の勤め先で続ける。工場の人員には数えない。空いた日に手伝うことも前提にしない」
「話したのか」
「ああ」
「断られたか」
「俺が、勝手に入れかけてた」
言葉にすると、思っていたより重かった。
担当表の空欄を見た時、悠斗がそこへ入る可能性を考えていた。
正式に頼んだわけではない。
給与も役職も決めていない。
それでも、父親が選択肢として持った時点で、悠斗の時間を会社の側へ数え始めていた。
「で、その空いたところは」
「仕事を分け直してる。必要なら採用か外部委託にする」
「金が増えるな」
「増える」
「買った後に分かったことにしないんだな」
「取得後の費用へ入れる」
藤崎は、そこで初めてうなずいた。
「それはいい」
褒められたようには聞こえなかった。
ただ、話を次へ進めてよいという合図だった。
「取得に必要な金が八千二百万」
藤崎が紙を読んだ。
「銀行が六千万。会社から二千四百万」
「ああ」
「二百万、多いな」
征一は顔を上げた。
「六千万と二千四百万なら、八千四百万だ」
「二千四百万は、会社から出せる上限だ。取得と直後の支払いへ入れるのは二千二百万。二百万は、実行後も取得会社側に残す」
「それで、必要な金は八千二百万と言ったのか」
「取得に必要な額は、そうだ」
「誰に」
「何が」
「二千四百万出すと言った相手に、二百万は残ると説明したか」
征一は、昨夜の食卓を思い出した。
美沙には、会社が借りるのが六千万、自己資金が二千四百万、必要な金は八千二百万と話した。
家計から新しく入れる金は置いていないとも伝えた。
自分の中では区別していた。
取得時に外へ出る八千二百万と、会社から取得主体へ移す二千四百万。
しかし、美沙の前へ置いた数字は、足し算が合っていなかった。
「家では、そこまで分けて言ってない」
「何て言った」
征一は、そのまま話した。
藤崎は聞き終えると、紙の余白へ数字を書いた。
六千万。
二千二百万。
二百万。
線を引き、上と下へ分ける。
「八千二百万は、売買と取得直後に外へ出る金。二百万は、取得会社に残す金。それなら、会社から移す金は二千四百万で合う」
「ああ」
「でも、必要資金は八千四百万だろ」
「二百万は支払わない」
「支払わなくても、必要だから置くんだろ」
征一は黙った。
藤崎は、もう一度紙へ書いた。
取得関連支出、八千二百万。
実行時残高、二百万。
必要調達総額、八千四百万。
「言葉を分けろ」
「真鍋の表では分かれてる」
「お前の口で混ざってる」
その言い方は、真鍋に似ていた。
真鍋なら、数字の意味を訂正した後、表の項目名を変える。
藤崎は、表を直さない。
征一がなぜ同じ言い方をしたのかを見る。
「二百万で、何日持つ」
「取得後の運転資金を、それだけで見るわけじゃない。今ある受注の回収と、材料代、給与、経費を月ごとの資金繰りへ入れてる。既存会社から無制限に補填する前提にはしてない」
「最初の入金より、最初の支払いが先なら」
「必要運転資金を追加で出す」
「どこから」
「会社から出せる範囲を確認する」
「さっき、二千四百万が上限だと言った」
征一は言葉を止めた。
「取得時に出す上限か。工場へ出す総額の上限か」
藤崎が聞いた。
応接室の外を、経理の社員が通った。
扉の前で足音が少し遅くなり、そのまま遠ざかった。
「取得時だ」
「じゃあ、総額の上限は決めてない」
「事業計画では、月ごとの不足額を見てる」
「計画どおりなら、いくらまで入れる」
「今、真鍋と確認してる」
「悪くなったら」
「発注と続ける範囲を見直す」
「いくらになったら、だ」
征一は手帳を開いた。
書かれているのは、取得前に確認する条件だった。
銀行の実行条件。
売買対象。
在庫の評価。
機械の状態。
引き継ぐ受注。
雇用。
修繕。
取得後に何を見直すかはある。
だが、いくら会社から出したところで止めるかは、書かれていなかった。
「決めてないな」
藤崎が言った。
「止める金額だけで決めるものじゃない」
「また強くなった」
「何が」
「正しいことを言い始めた」
藤崎は、机の紙を指で押さえた。
「もちろん、金額だけじゃ決められない。受注がある。回収が遅れてるだけかもしれない。機械を直せば利益が戻るかもしれない。人を残すために、一時的に持ち出すこともある」
「ああ」
「だから、お前は止めない」
征一は、藤崎を見た。
「俺が金額だけで切ると思ってるのか」
「思ってない。逆だ。事情が分かるから切れない」
藤崎は、窓の外へ目を向けた。
先ほど傾いていた荷物は、積み直されていた。作業員の一人が伝票を持ち、別の一人が数量を数えている。
「俺なら、工場は買わない」
藤崎が言った。
征一は何も言わず、続きを待った。
「製造を持つ経営は、俺にはできない。機械の止まり方も、人の残り方も分からない。分からないものを、雇用があるという理由で買うのは怖い」
「俺は、調べてる」
「分かってる。お前なら、俺よりはできる」
「それでも買うなと言うのか」
「言ってない」
藤崎は、机に置かれた紙を征一へ戻した。
「買った方がいい理由はある。運ぶ物を作る側がなくなれば、物流の仕事も減る。今ある受注と機械と人を、ばらして売る前にまとめて引き受ける。それを、お前の会社の仕事とつなげる。銀行が六千万を出すと判断したのも、担保だけじゃなく、その返済原資が見えるからだろ」
「ああ」
「俺が銀行でも、条件がそろえば見る」
征一は、紙を受け取らなかった。
「だったら、何が問題なんだ」
「買う理由が強すぎることだ」
藤崎は、初めて湯飲みへ手を伸ばした。
一口飲み、顔をしかめる。冷めていた。
「お前は、正しい理由が三つあれば、四つ目の分からないことを待たない」
「今回は待ってる」
「契約日は決まったのか」
「まだだ」
「高瀬さんは、いつまで待てる」
「長くはない」
「銀行の承認にも期限がある」
「ああ」
「従業員は、自分の次の仕事を考え始めてるかもしれない」
「それも分かってる」
「だから急ぐ。急ぐ理由も正しい」
藤崎は湯飲みを置いた。
「全部正しいまま、間違えることはあるぞ」
征一は、その言葉を聞いた。
真鍋は、数字で止める。
美沙は、家へ持ち込まれるものを聞く。
悠斗は、自分の名前を勝手に会社へ置くなと言った。
藤崎は、正しい理由が増えること自体を見ていた。
「何を確認しろと言ってる」
征一が尋ねた。
「俺が決めるのか」
「お前が見えてるものを言え」
藤崎は、少し考えた。
「その受注は、工場についてるのか。高瀬さんについてるのか」
征一の手が、机の上で止まった。
「取引先ごとに確認してる」
「所有者が変わっても、そのまま発注されると決まってるか」
「基本契約を引き継げるものと、改めて承認が必要なものがある」
「承認が必要な方を、売上に入れてるか」
「継続見込みとして入れてる」
「見込みが外れた時、十八人のうち何人へ条件を出せる」
征一は答えなかった。
高瀬から見せられた受注一覧には、継続中の仕事がある。
納品実績もある。
取引先が工場の技術を必要としていることも確認した。
だが、会社が変わっても同じ数量が発注されるかは、すべて確定していない。
相手には相手の調達基準がある。
新しい会社の財務、品質管理、納期管理を確認してから、継続を判断する取引先もある。
「一番大きいところは」
藤崎が聞いた。
「名前は言えない」
「名前は要らない。売上の中で大きい取引先だ」
「所有者変更後の継続確認は、まだ書面では取れてない」
「口では」
「高瀬さんには、仕事を続けたいと伝えている」
「高瀬さんに、か」
「ああ」
「お前の会社には」
征一は、椅子へ深く座った。
高瀬の会社と仕事を続けたい。
それは、工場を取得する会社とも仕事を続けるという意味に近い。
しかし、同じではない。
設備が残っても、管理する会社が変わる。
責任者が変わる。
支払先が変わる。
品質に問題が出た時、誰が負担するかも変わる。
書面がないから信用できないという話ではなかった。
相手が、まだ判断していない可能性がある。
「真鍋に確認する」
「今しろ」
「会議中かもしれない」
「急ぎじゃないと書いて送ればいい」
その言葉に、征一は悠斗へ送った文章を思い出した。
手が空いたら電話をくれ。急ぎではない。
相手が返す時間を、自分が決めないために書いた。
征一は携帯電話を取り出した。
真鍋へ、短い連絡を送る。
最大取引先について、取得後の発注継続を誰が、どの段階まで確認しているか。高瀬経由の意向と、当社への発注意向を分けてほしい。
送信すると、画面を伏せた。
「それと」
藤崎が続けた。
「高瀬さんに聞け」
「何を」
「全員を残すと約束していないことを、従業員へどう話しているか」
「本人への説明は、条件が固まってからだ」
「その間に、何て言ってる」
「買い手候補と話していることは伝えている」
「十八人は、自分たちの会社が売られるかもしれないと知ってる。買い手が誰かも、もう察してるやつはいるだろ」
征一は、高瀬の工場で会った人たちを思い浮かべた。
機械の前にいた男。
図面を持って歩いていた女。
倉庫の棚から材料を出した若い作業員。
征一が行けば、誰かが会釈した。
高瀬が、榊原さんですと紹介したこともある。
何のために来た人間か、誰も聞かなかった。
聞かなかったから、知らないとは限らない。
「高瀬さんは、守れると思いたい」
藤崎が言った。
「お前も、できるだけ残したい。そこで二人とも同じ言葉を使う。できるだけ、と」
「必要な技能を持つ人は残す」
「技能が足りない人へ、誰が言う」
「買った会社が言う」
「いつ」
征一は、机の木目を見た。
取得した後では遅い。
売買が決まった後に、初めて雇用条件を示す。
受け入れられない人が出る。
提示できない人もいる。
その時、高瀬は会社を売った後だ。
従業員は、買い手が来れば仕事が続くと思っていたかもしれない。
契約上、雇用を包括承継しない形にすれば、法的な処理は分けられる。
だが、人の側では、会社の持ち主が変わった翌日も同じ機械がある。
同じ注文が残っている。
自分だけがそこへ入れない理由を、契約の形だけでは受け止められない。
携帯電話が震えた。
真鍋からだった。
『最大取引先は、高瀬社長から口頭意向を確認したのみです。当社を発注先とする社内承認は未確認です。先方への直接確認は、高瀬社長が契約前の接触範囲を調整中です』
征一は、文章を読み直した。
「どうだった」
藤崎が聞いた。
「高瀬さんが、継続したいという意向を聞いている。当社への発注承認は、まだ確認してない」
「売上には」
「継続見込みで入ってる」
「外したら」
「返済計画を組み直す」
「六千万、返せないか」
「すぐにそうはならない。他の受注もある。こっちから入れられる仕事もある。固定費と人員を合わせ直せば――」
話しながら、征一は止まった。
藤崎が何も言わずに見ている。
正しい理由を並べ始めていた。
「外した数字を出す」
征一は言い直した。
「最大取引先の継続が確認できない場合と、数量が減る場合を分ける」
「それを見てから、買うか決めるか」
「それだけでは決めない」
「お前らしいな」
「でも、見ずには決めない」
藤崎は、そこで少し笑った。
「それならいい」
「よくはない。日程が延びる」
「延ばせるのか」
「高瀬さんと銀行に話す」
「嫌がるぞ」
「分かってる」
「別の買い手を探すと言われるかもしれない」
「それも条件だ」
口にした時、征一は、自分が何を選んだか分かった。
確認が取れるまで待つことではない。
確認の結果によっては、自分以外へ売られる可能性を受け入れることだった。
工場を欲しいと思うほど、待つ代償は大きくなる。
「買えなくなったら、後悔するか」
藤崎が聞いた。
「する」
「それでも確認する?」
「ああ」
「なら、今日、俺に会った意味はあったな」
征一は、ようやく紙を鞄へ戻した。
「もう一つある」
「まだあるのか」
「美沙さんに、数字を言い直せ」
征一は顔を上げた。
「家の話まで入るな」
「入ってない。お前が八千二百万と、六千万と、二千四百万を同じ机に置いたんだろ」
「家計から出す金はないと伝えた」
「だから足し算が合わなくてもいいのか」
「そうは言ってない」
「二百万は残す金です。だから会社から出すのは二千四百万です。取得関連で外へ出るのは八千二百万です。それだけだろ」
征一は、黙って携帯電話を取った。
「今、電話するのか」
「後にすると、別の説明を足す」
美沙へ電話をかける。
数回鳴って、つながった。
「今、話せる?」
『うん。どうしたの』
「工場の金のことで、言い方が混ざってた」
藤崎が、椅子から立ち上がった。
窓の方へ行き、外を見た。
征一は、美沙へ話した。
八千二百万円は、取得と直後の支払いに必要な額であること。
会社から出す二千四百万円のうち、二千二百万円をそこへ使い、二百万円は取得主体の口座へ残す計画であること。
したがって、実行時に用意する総額は八千四百万円になること。
取得後の運転資金は別に月次で見ており、工場へ会社から出す総額の上限はまだ確定していないこと。
最後のところで、美沙は少し黙った。
『昨日は、そこまで聞いてない』
「言ってなかった」
『二千四百万だけで、その後も足りるわけじゃないんだね』
「ああ」
『家の金を前提にしないのは、変わらない?』
「変わらない」
『会社から、あとで出す金は』
「上限と見直す条件を、これから決める」
『決まったら教えて』
「ああ」
『決まる前に、買わないでね』
征一は、藤崎の背中を見た。
「分かった」
電話を切る。
藤崎が振り返った。
「怒られたか」
「確認された」
「同じだろ」
「違う」
征一は携帯電話を机へ置いた。
「怒られたら、謝って終わる。確認されたら、決めないと終わらない」
藤崎は、少しの間、征一を見ていた。
「お前、変わったな」
「まだ、何も変えてない」
「そうか」
「表に空欄が増えただけだ」
「前は、空欄があると自分の名前を書いてただろ」
征一は返事をしなかった。
悠斗を入れかけた欄。
自分の時間で埋めかけた欄。
まだ決めていない会社からの追加資金。
確認されていない取引先の売上。
高瀬と従業員の間にある期待。
空欄は、見つければ増えた。
埋めるために急ぐこともできる。
誰かの名前を入れる。
継続見込みを確定として置く。
必要になれば会社から出すと書く。
それで、契約の日には間に合うかもしれない。
だが、埋めた瞬間に、誰かの予定と金を使えるものとして数えることになる。
「藤崎」
「何だ」
「お前なら、買わないと言ったな」
「ああ」
「それでも、条件がそろえば、俺が買うのはおかしくないと思うか」
藤崎は、すぐには答えなかった。
外で、フォークリフトが動き始めた。
積み直された荷物が、今度は傾かずに持ち上がる。
「思う」
藤崎が言った。
「悔しいけど、お前の会社とあの工場なら、つながる仕事はある。運ぶだけより、作る側を知ってる方が取れる仕事もある。高瀬さん一人では続けられないなら、ばらして売るより、お前が持った方が残るものは多いかもしれない」
「だったら」
「最後まで聞け」
征一は口を閉じた。
「買うのはおかしくない。買いたいと思うのもおかしくない。だから危ないんだよ」
藤崎は、椅子の背へかけていた上着を取った。
「くだらない案件なら、お前も早く捨てる。難しいのは、助ける価値があって、儲かる可能性もあって、お前がやりたい案件だ」
「全部そろってたら、やるだろ」
「失敗しても、やった理由を何年でも説明できる」
征一は、立ち上がった藤崎を見た。
「失敗すると決めるな」
「決めてない」
「なら、成功する条件を見ろ」
「見てるよ」
藤崎は、応接室の扉へ向かった。
「お前が成功した理由が、そのまま失敗する理由になる時をな」
征一は立たなかった。
藤崎が扉を開ける。
「送らなくていい」
「仕事、まだあるのか」
「ある。お前みたいに、人の会社を買う仕事じゃないけどな」
「それは仕事の大きさじゃない」
「知ってる」
藤崎は振り返った。
「だから、言えるうちに言ってる」
扉が閉まった。
征一は一人になった応接室で、藤崎が書いた数字を見た。
取得関連支出、八千二百万円。
実行時残高、二百万円。
必要調達総額、八千四百万円。
その下に、征一が自分で書き足した。
取得後の追加投入上限。
最大取引先の継続条件。
雇用提示人数と説明時期。
書いたところで、答えにはならなかった。
だが、決めていないものを、決まった数字の中へ隠さずに済んだ。
携帯電話が鳴った。
真鍋だった。
「はい」
『最大取引先の件、高瀬社長へ確認しました。先方へ直接説明する場を設けること自体は了承されました。ただし、先方の購買責任者が確認したい項目があるそうです』
「何だ」
『取得後の品質責任者と、納期遅延が出た場合の補完体制です。現在の工場だけで対応できない場合、既存会社の倉庫と物流をどう使うかも聞きたいと』
征一は手帳を開いた。
「いつ会える」
『最短で金曜です。ただ、高瀬社長から、契約日をこれ以上動かすなら理由を説明してほしいと言われています』
「当然だ」
『銀行にも、実行予定日の変更可能性を伝える必要があります』
「まだ変更すると決めたわけじゃない」
『先方確認の結果を待つなら、現行日程のままでは契約書の最終確認が間に合いません』
征一は時計を見た。
金曜に取引先へ説明する。
発注意向を確認する。
数量が維持される場合と減る場合を分け、返済計画と人員計画を直す。
高瀬へ雇用の説明時期を確認する。
銀行へ実行日の変更可能性を伝える。
どれも、一日では終わらない。
「契約日は、仮で三営業日後ろへ置いてくれ」
電話の向こうが静かになった。
『高瀬社長には、私から伝えますか』
「俺が話す」
『銀行は』
「倉田さんには、真鍋から先に事実を伝えてくれ。売上見込みを下げた場合の表を作る。隠して日程だけ守る方が悪い」
『分かりました』
「それと、会社からの取得後の追加投入に上限を置く。金額だけじゃなく、見直す条件も並べたい」
『家計からの追加を前提にしない件とは、別にですね』
「別だ。既存事業から、どこまで出せるものとして見るかを決める」
『取得前に決めますか』
「ああ」
『契約日を動かす理由に、それも入れます』
「入れてくれ」
通話を終える。
すぐに高瀬へ電話をかけた。
呼出音が二度鳴り、つながった。
『高瀬です』
「榊原です。契約日について、相談があります」
高瀬は黙った。
「最大取引先の発注意向を、当社へ切り替わる前提で直接確認したい。金曜に説明の場をいただけると聞きました」
『先方も、会うとは言っています』
「その結果を計画へ反映してから、最終判断をしたい。今の契約予定日を、三営業日後ろへ動かさせてください」
『銀行の承認は出たんでしょう』
「出ています。六千万円は承認額で、まだ実行されていません。日程を変えるなら、銀行にも確認が必要です」
『三日で済みますか』
「済ませます、とは言いません。確認結果で条件が変われば、もう一度相談します」
高瀬の息が聞こえた。
『従業員が待っています』
「そのことで、もう一つ確認したい」
『何です』
「今、十八人へ、雇用についてどう説明していますか」
高瀬は、すぐには答えなかった。
『買い手候補と話している。決まれば、できるだけ仕事を続けられる形にすると』
「全員が残れると受け取っている可能性はありますか」
『私は、全員を残してほしいと思っています』
「高瀬さんの希望ではなく、十八人がどう受け取っているかです」
沈黙が長くなった。
『期待は、していると思います』
「こちらは、全員の雇用を約束していません」
『それは分かっています』
「高瀬さんが分かっていることと、働いている人が知っていることを、分けたい」
『今、話せば、不安になって辞める人が出ます』
「その可能性はあります」
『必要な人まで抜けたら、工場の価値が下がる』
「だから黙っていて、売買が決まった後に条件を出すんですか」
言ってから、征一は自分の声が強くなったことに気づいた。
高瀬にも合理性がある。
従業員が一斉に次の仕事を探せば、取得前に工場が回らなくなる。
技能を持つ人から離れれば、残る受注も維持できない。
買い手が決まらなければ、雇用条件を示す主体もいない。
高瀬は、隠して得をしたいだけではない。
工場を売れる状態で残そうとしている。
「責めたいわけではありません」
征一は言い直した。
「いつ、誰が、何を説明するかを決めたい。契約した後に、初めて全員へ違う条件を出す形にはしたくない」
『まだ、あなたが買うと決まっていない』
「決まっていないから、買った後の約束を先に作りません。ただ、決まっていないことは伝えられる」
『それで人が辞めたら』
「辞めるかどうかも、本人が決めることです」
言いながら、悠斗の顔が浮かんだ。
父の会社へ来るかどうかを、悠斗が決める。
高瀬の工場へ残るかどうかを、働いている人が決める。
同じではない。
生活がかかっている。
選べる仕事の数も違う。
それでも、本人が知らないところで、残る前提に数えてよいわけではなかった。
『明日、工場へ来られますか』
高瀬が聞いた。
「行きます」
『従業員へ話す内容を、先に合わせたい』
「分かりました」
『榊原さん』
「はい」
『あなたが買わないとなったら、私は別の相手を探します』
「当然です」
『その相手が、雇用をどうするかは分かりません』
「分かっています」
高瀬の言葉は、脅しではなかった。
征一を待つ義務はない。
工場を守りたいなら、次の買い手を探す。
条件のよい相手ではなく、早く決める相手を選ぶこともある。
征一が確認を増やすほど、高瀬の選択肢から外れる可能性は高くなる。
『明日、十時で』
「伺います」
電話が切れた。
征一は、手帳へ時刻を書いた。
高瀬と、従業員への説明内容を決める。
その下へ、金曜、最大取引先と書く。
さらに、銀行、契約日変更、追加投入上限。
予定が埋まっていく。
埋める人の名前は、まだ書けない。
机の上の携帯電話が震えた。
悠斗からだった。
『昨日の写真、引いたのも残せって言われた。寄った写真だけだと場所が分からないらしい』
征一は、その文章を読んだ。
返事を打ちかける。
写真を撮る時は、全景、対象、接続部の順に残すと分かりやすい。
そこまで書き、消した。
『そうか。戻す前に分かってよかったな』
送信する。
少しして、既読がついた。
返事は来なかった。
征一は携帯電話を伏せた。
真鍋が応接室へ入ってきた。
「高瀬社長と話せましたか」
「ああ。明日、従業員への説明を合わせる」
「契約日は」
「三営業日、後ろへ置く」
「倉田さんには連絡しました。承認を取り直す話ではないが、実行予定日の変更と、確認項目の追加は報告してほしいとのことです」
「分かった」
真鍋は、藤崎が数字を書いた紙を見た。
「これは」
「俺の説明が混ざってた」
征一は、紙を真鍋へ向けた。
「八千二百万を取得関連支出。二百万を実行時残高。必要調達総額を八千四百万で分ける。自己資金二千四百万だけを先に出すと、足し算が合わない」
「表では分けています」
「表を見ない人にも、同じ説明になるようにしてくれ」
真鍋は紙を見たまま、うなずいた。
「取得後の運転資金は、別表のままでいいですか」
「いい。ただし、既存事業から出す上限と、見直し条件を入れる」
「売上の減少率で置きますか」
「それだけじゃない。回収の遅れ、主要取引先の継続、修繕費、人員。どれか一つで止めるんじゃなく、判断する時点を決めたい」
「誰が判断しますか」
「俺と真鍋で見る」
「高瀬さんは」
「取得後は売り手だ。残ってもらう場合の役割は、契約と分ける」
真鍋は、手帳へ書き込んだ。
「藤崎さんに、何を言われたんです」
征一は、窓の外を見た。
荷物を運び終えたフォークリフトが、元の位置へ戻っていく。
「正しい理由が多いほど危ないってさ」
「藤崎さんらしいですね」
「褒めてないぞ」
「分かっています」
真鍋は資料を閉じた。
「それでも、買いますか」
征一は、すぐには答えなかった。
買いたい。
その気持ちは変わっていない。
確認が増えたから弱くなったのではない。
むしろ、何を引き受けたいのかが前よりはっきりした。
機械だけではない。
売上だけでもない。
働く人の期待や、取引先の未決定や、取得後に会社から出す金まで含めて、買うことになる。
「条件がそろえば、買う」
「そろわなければ」
「買わない」
真鍋は、征一を見た。
「言いましたね」
「ああ」
「記録しますか」
征一は少し考えた。
「する。何がそろわなければ買わないかも書く」
「分かりました」
真鍋が立ち上がる。
扉へ向かう途中で、足を止めた。
「一つ、聞いていいですか」
「何だ」
「藤崎さんには、いつもここまで話すんですか」
「話さない」
「今日は、なぜ」
征一は、藤崎が座っていた椅子を見た。
「止めろと言わないからだ」
「止めない人へ、止まる理由を聞いたんですか」
「ああ」
真鍋は、それ以上聞かなかった。
応接室を出ていく。
征一は一人で、机の紙を見た。
買わない条件。
その言葉を書こうとして、ペンが止まる。
主要取引先の継続が確認できない。
必要人員を置いた後の資金繰りが成立しない。
会社からの追加投入が、決めた範囲を超える。
必要な修繕が、見積もった額を大きく上回る。
一つずつ書く。
最後に、雇用条件を本人へ説明できないまま契約日を迎える、と加えた。
そこまで書いて、ペンを置いた。
買うための条件ではなかった。
買わないために使える条件だった。
征一は、その紙を裏返さなかった。




