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残金1,842円|第3話「必要なら借りればいい」

三年前、銀行の会議室には、紙の匂いがあった。


印刷された資料。


製本された契約書案。


付箋の貼られた別紙。


水の入ったグラス。


磨かれた長い机。


壁の時計。


榊原征一は、その全部を見ていた。


窓の外には、都心のビルが並んでいる。


そのいくつかは、自分の会社と関係があった。


所有しているビル。


担保に入っているビル。


入居している子会社。


投資先のオフィス。


買おうとして買えなかった物件。


街の一部が、彼の財務諸表の中にあった。


だから榊原は、そこに座っていても緊張していなかった。


五百億円の融資。


普通なら、息が詰まる金額である。


だが、その場では、五百億円は恐怖ではなく、条件だった。


「本日は、融資契約の最終確認ということで」


メインバンクの担当役員、倉田が言った。


倉田は、いつものように声を大きくしなかった。


銀行員の中には、大きな案件になるほど、声の調子を変える人間がいる。


自分たちが大きな仕事をしていることを、声で確かめるような人間だ。


倉田は違った。


大きな案件ほど、声が静かになる。


榊原は、そういうところを信用していた。


「始めてくれ」


榊原が言うと、倉田の隣にいた融資部の担当者が資料を開いた。


「本件の融資総額は五百億円。初回実行額は百五十億円。残額三百五十億円については、工事進捗および契約条件の充足を確認しながら、段階的に実行する形です」


真鍋亮は、榊原の右隣でペンを持っていた。


まだ何も書いていない。


ただ、資料の数字を見ている。


榊原は、その横顔を一度だけ見た。


真鍋は、朝からほとんど表情を変えていなかった。


「初回の百五十億円は、土地取得費、準備工事費、設計関連費、設備予約金の一部に充当する予定です」


担当者が続ける。


「ただし、資金使途は契約書別紙に記載された範囲内に限られます。目的外使用はできません」


榊原はうなずいた。


「分かっている」


「また、残り三百五十億円につきましては、自由に引き出せる枠ではありません」


倉田が、そこで言葉を足した。


榊原は倉田を見た。


「当然だろう」


「念のためです」


「念が多いな」


「五百億円ですので」


倉田は笑わなかった。


榊原も笑わなかった。


真鍋だけが、資料の端に短く線を引いた。


未実行三百五十億円。


そこに、丸をつける。


榊原は気づいたが、何も言わなかった。


────────────────


会議室には、銀行側の人間が十人以上いた。


メインバンク。


参加行。


信託銀行。


リース会社。


法務担当。


審査部。


ストラクチャードファイナンス部。


それぞれの顔に、それぞれの責任が乗っていた。


誰も、榊原ひとりに惚れて金を出しているわけではない。


事業計画がある。


担保がある。


返済原資がある。


自己資金がある。


株式価値がある。


既存事業のキャッシュフローがある。


自治体との協議記録がある。


発電設備の契約予定がある。


データセンターの需要予測がある。


物流拠点の賃料見込みがある。


数字は、ひとつではなかった。


いくつもの数字が重なって、五百億円を支えていた。


それは榊原の強さでもあり、銀行の安心でもあった。


担当者が次のページをめくる。


「担保について確認します」


画面に、資産一覧が映った。


土地。


既存不動産。


子会社株式。


事業権益。


一部の収益不動産。


榊原グループの持分。


担保順位。


評価額。


掛目。


既存借入との関係。


榊原は、それらを見慣れていた。


担保は、ただの差し出すものではない。


事業を進めるために、どの資産をどこまで使うか。


どれを残し、どれを入れ、どれを動かさないか。


そこには戦略がある。


「この物件は外せないのか」


榊原は、一つの不動産を指した。


「外すことは可能です。ただし、その場合、担保余力の再計算が必要になります」


倉田が答えた。


「再計算したら」


「融資条件の一部を見直すことになります」


「金利か」


「金利、または追加担保です」


榊原は少し考えた。


その物件は、地方都市の駅前にある商業ビルだった。


買った時は空室が多かった。


今はテナントが入り、賃料が安定している。


売るつもりはない。


だが、担保に入れることと、売ることは違う。


榊原は言った。


「入れていい」


真鍋が顔を上げた。


「社長」


「何だ」


「その物件は、来期の借換にも使う予定でした」


「分かってる」


「ここで入れると、次の選択肢が減ります」


「次は次で考える」


真鍋は、少しだけ間を置いた。


「今、考える必要があります」


会議室の空気が一瞬止まった。


銀行側の人間は、誰も口を挟まない。


榊原は真鍋を見た。


怒ってはいなかった。


むしろ、こういう時に黙らない真鍋を、榊原は必要だと思っていた。


「どれだけ減る」


「担保余力として、少なくとも二十億円から三十億円分は使いにくくなります」


「この案件には必要だ」


「はい」


「なら入れる」


真鍋は、それ以上は言わなかった。


ただ、資料に書いた。


担保余力を先食い。


榊原は、その文字を見なかったふりをした。


────────────────


次に、財務制限条項の確認に移った。


「連結ベースの純資産維持条項」


「一定以上の自己資本比率」


「借入金倍率」


「主要資産の無断売却制限」


「四半期ごとの報告義務」


「工事進捗のモニタリング」


「追加担保条項」


言葉は硬かった。


だが、意味は単純だった。


予定どおり進んでいる間は、問題にならない。


予定から外れた時に、契約書が動き始める。


榊原は、そのことを知っていた。


知っていたが、怖がってはいなかった。


契約とは、動くために縛るものだと思っていた。


何も縛らずに五百億円は出ない。


縛られる代わりに、金が動く。


それでいい。


そう考えていた。


倉田が言った。


「追加担保条項について、改めて確認します」


「聞こう」


「担保評価が一定ラインを下回った場合、または財務制限条項に抵触するおそれがある場合、当行団は追加担保の差し入れ、または条件変更協議を求めることができます」


「株価が下がった場合もか」


「対象になります」


「どれくらい下がれば」


担当者が資料を差し出した。


株価下落時の感応度。


二割下落。


三割下落。


四割下落。


それぞれの担保余力。


必要な追加対応。


榊原は、数字を追った。


二割下がっても、まだ余裕はある。


三割下がると、追加対応が見えてくる。


四割下がれば、かなりきつい。


だが、その時点の榊原には、四割下落は遠い数字だった。


起こらないとは思っていない。


しかし、起こっても対応できると思っていた。


「三割下がったら」


榊原が聞いた。


「追加担保、または一部返済、または融資実行条件の見直しです」


倉田が答える。


「一部返済は現実的ではないな」


「その時点の状況によります」


「追加担保なら」


「候補資産はあります」


「ならいい」


真鍋が、またペンを動かした。


ならいい。


その言葉の横に、小さく線を引いた。


榊原は、今度は見た。


「真鍋」


「はい」


「何か言いたそうだな」


「候補資産があることと、すぐ使えることは違います」


倉田は、黙っていた。


真鍋は続ける。


「担保に入れられる資産には、既存の借入、共有持分、評価時点、売却制限、他行との関係があります。候補があるから大丈夫、とは言えません」


榊原は椅子にもたれた。


「お前は銀行側か」


「会社側です」


「なら、金を引っ張ることも考えろ」


「引っ張った後を考えています」


会議室の空気が、また少し硬くなった。


榊原は、真鍋の言葉を嫌ってはいなかった。


ただ、その言葉が自分の速度を落とすことがある。


それが、少しだけ煩わしかった。


「分かった」


榊原は言った。


「候補資産ごとに、使える時期と制限を一覧にしろ」


「すでに作っています」


「なら後で出せ」


「はい」


倉田が、わずかに視線を下げた。


銀行側の人間の中にも、真鍋を見直した者がいた。


榊原は、それにも気づいていた。


────────────────


昼前、保証契約の話に移った。


会議室の空気が、少し変わる。


会社の借入と、榊原個人の保証。


それは同じではない。


だが、まったく切り離されてもいなかった。


「本件の個人保証については、限定的な範囲とします」


銀行側の法務担当者が言った。


「保証範囲は、本契約書および別紙保証契約に記載の条件に従います。すべての会社債務を無制限に保証するものではありません」


榊原は資料を見た。


限定的。


その言葉は、安心材料に見える。


しかし、限定されていても保証は保証である。


会社が払えなければ、個人に請求が来る可能性がある。


榊原は、それを理解していた。


理解していたが、自分がその紙に追い込まれる未来を、まだ現実としては見ていなかった。


「上限は」


榊原が聞く。


「具体的な金額については、こちらの別紙に」


法務担当者がページをめくった。


真鍋が、すぐに手を伸ばした。


「この表記では、条件発生時の算定方法が分かりにくいです」


「ご説明します」


「説明ではなく、文言を確認したい」


真鍋の声は静かだった。


「保証の上限、発生条件、履行請求までの手続き、担保処分との順序。ここを曖昧にしたまま署名はできません」


榊原は、真鍋を見た。


「そこまで疑うか」


「疑うのではありません」


「じゃあ何だ」


「後で読み返すためです」


倉田が言った。


「真鍋さんのご指摘はもっともです。文言は修正済みの最終案を差し替えます」


法務担当者が、別の書類を出した。


榊原はそのやり取りを見ていた。


銀行も、真鍋も、敵ではない。


それぞれが自分の責任を果たしている。


銀行は貸す責任を負う。


会社は借りる責任を負う。


榊原は決める責任を負う。


紙の上では、すべてが整っていく。


整っていくほど、後戻りは難しくなる。


────────────────


昼食は会議室で済ませた。


弁当が配られた。


榊原は、半分ほど食べて箸を置いた。


真鍋は、食べながら資料を読んでいる。


「食う時くらい読むな」


榊原が言うと、真鍋は資料から目を離さずに答えた。


「食べながら読める資料です」


「うまいか」


「味は分かりません」


「損な性格だな」


「財務ですので」


榊原は少し笑った。


「何を見てる」


「初回実行後の資金繰りです」


「百五十億入る」


「入ります」


「なら少しは楽になるだろ」


真鍋は、そこで顔を上げた。


「一時的には」


「一時的か」


「はい」


「百五十億だぞ」


「百五十億だからです」


榊原は黙った。


真鍋は弁当のふたを閉じた。


「社長、融資実行は収入ではありません」


「分かってる」


「借入金です」


「分かってる」


「入った瞬間に、返す予定が始まります」


「分かってると言ってる」


榊原の声が少し低くなった。


真鍋は、そこで止めなかった。


「そして、その百五十億の大半には、すでに行き先があります」


土地取得費。


設計費。


準備工事。


設備予約金。


調査費。


専門家費用。


既存支払い。


真鍋は資料を差し出した。


「自由に使える金ではありません」


「当たり前だ」


「社長は、当たり前のことを大きな数字で見えにくくする時があります」


榊原は、真鍋を見た。


会議室の隅で、銀行側の若い担当者が水を飲む手を止めた。


「お前、今日はよく言うな」


「今日言わなければ、いつ言うんですか」


榊原は、しばらく真鍋を見ていた。


そして、小さく笑った。


「いいだろう。言え」


「初回実行後、すぐに支払予定表を更新します」


「任せる」


「承認済み、契約済み、支払済みを分けます」


「細かいな」


「細かくありません」


真鍋は言った。


「そこを分けなければ、百五十億は一つの大きな財布に見えます」


榊原は箸袋を指で折った。


「大きな財布ではない」


「はい」


「行き先の決まった金だ」


「はい」


「それでも、動かせる」


「動かせます」


「なら十分だ」


真鍋は答えなかった。


その沈黙が、榊原には少し気になった。


────────────────


午後、正式契約手続きに入った。


書類が並ぶ。


融資契約書。


担保契約書。


保証関連書類。


取締役会議事録。


資金使途確認書。


モニタリング資料。


誓約書。


榊原は、一枚ずつ署名欄を確認した。


自分の名前は、何度も書いてきた。


契約書。


売買契約。


融資契約。


保証書。


役員就任承諾書。


株式譲渡契約。


事業譲渡契約。


訴訟関係書類。


何百回、何千回と書いてきた名前である。


榊原征一。


その四文字は、金を動かす力を持っていた。


銀行員が書類を差し出す。


「こちらにご署名をお願いします」


榊原はペンを持った。


紙は厚かった。


署名欄は白い。


名前を書く。


印鑑を押す。


次の書類へ進む。


また名前を書く。


また印鑑を押す。


真鍋は横で、書類番号と差し替え版を確認していた。


倉田は、少し離れて見ている。


誰も感動していない。


誰も拍手しない。


五百億円の融資契約は、静かに進む。


金額が大きくても、契約の現場は地味だった。


紙を読み、名前を書き、印を押す。


その繰り返しで、巨大な金が動き始める。


榊原は、最後の保証関連書類に署名した。


ペン先が、紙の上を走る。


その時、真鍋が言った。


「社長」


「何だ」


「この書類だけは、もう一度確認してください」


「読んだ」


「もう一度です」


榊原は真鍋を見た。


真鍋の顔は、いつもより硬かった。


榊原はため息をつき、書類を戻した。


保証の範囲。


履行請求の条件。


担保処分との関係。


期限の利益。


契約違反時の措置。


読み返す。


分かる。


分かるが、まだ遠い。


それは、嵐の日の避難経路を見るようなものだった。


必要だと分かる。


だが、今は晴れている。


榊原は書類を置いた。


「理解した」


「はい」


「署名する」


「はい」


榊原は署名した。


その瞬間、何かが壊れたわけではない。


銀行が裏切ったわけでもない。


榊原が愚かなことをしたわけでもない。


必要な契約を、必要な手順で進めただけだった。


だからこそ、怖さは見えにくかった。


────────────────


夕方、初回百五十億円の融資実行が確認された。


会社の口座に、入金記録が表示される。


百五十億円。


画面の数字は、静かだった。


桁が多いだけで、音はしない。


榊原は、財務部のモニターを見た。


社員たちは、声を上げなかった。


誰かが小さく息を吐いた。


真鍋が、すぐに別の画面を開く。


支払予定表。


資金使途表。


契約一覧。


残高推移。


榊原は言った。


「入ったな」


「はい」


「これで動く」


「動きます」


真鍋は、入金額の横に別の数字を並べた。


直近支払予定。


契約済み支払。


承認待ち支払。


未確定支払。


保留。


榊原は、その表を見た。


百五十億円が、一つの数字ではなくなっていく。


土地。


設計。


工事。


設備。


調査。


手数料。


税金。


専門家費用。


数字が行き先ごとに割れていく。


「早いな」


榊原が言った。


「入金前から作っていました」


「用意がいい」


「百五十億円を見てから作るものではありません」


「そうだな」


榊原は、画面に並ぶ数字を見ていた。


金はある。


しかし、自由ではない。


自由ではないが、力はある。


その力が、事業を動かす。


榊原は、その感覚が好きだった。


止まっていたものが動き出す瞬間。


紙の計画が、契約になり、支払いになり、現場になる。


それは、事業家にとって最も強い感覚だった。


────────────────


夜、榊原は社長室で一人になった。


窓の外のビルに、灯りが残っている。


自分の会社のフロアにも、まだ人がいる。


百五十億円が入った日。


普通なら、祝杯でも上げるのかもしれない。


だが、榊原は酒を飲まなかった。


デスクの上には、契約書の控えが置かれている。


厚い束だった。


榊原は、その表紙に手を置いた。


五百億円。


実行済み百五十億円。


未実行三百五十億円。


その三百五十億円は、まだ金ではない。


条件を満たせば出る。


進捗を示せば出る。


契約どおり進めば出る。


銀行が確認すれば出る。


榊原は、それを分かっていた。


分かっていたが、心のどこかでは、すでに道の先にある金として見ていた。


見えている道の先に金がある。


なら、進めばいい。


それが、榊原の考え方だった。


電話が鳴った。


藤崎だった。


昔からの経営者仲間である。


「聞いたぞ。五百億、決まったらしいな」


「耳が早いな」


『銀行は口が堅いふりをするだけだ』


「正式には公表前だ」


『分かってる。だから電話にした』


榊原は椅子にもたれた。


「何の用だ」


『おめでとう、と言うべきか、気をつけろと言うべきか迷ってる』


「両方言えばいい」


『おめでとう。気をつけろ』


「雑だな」


『お前には雑なくらいでちょうどいい』


榊原は少し笑った。


藤崎は、若い頃から榊原を知っている。


うまくいった時も、失敗しかけた時も、何度か近くにいた。


『征一』


「何だ」


『借りられる時ほど、借りた金が自分の力に見えるぞ』


榊原は、窓の外を見た。


「俺はそこまで馬鹿じゃない」


『馬鹿じゃないから言ってる』


藤崎の声は、冗談ではなかった。


『お前は金を使うのがうまい。人を動かすのもうまい。銀行と話すのもうまい。だから大きくなった』


「褒めてるのか」


『まだだ』


「まだか」


『でも、お前は止めるのが下手だ』


榊原は黙った。


同じようなことを、真鍋にも言われた。


決めるのは早い。


認めるのが遅い。


「今日はその話を二度聞いた」


『なら、二度目の方を覚えろ』


「一度目は真鍋だ」


『あいつが言うなら、なおさら覚えろ』


榊原は、少しだけ表情を硬くした。


「心配しすぎだ」


『心配しているんじゃない。お前の勝ち方を知っているだけだ』


藤崎は言った。


『借りて、進めて、売らずに耐えて、最後に勝つ。お前はそれで何度も勝った』


「事実だ」


『でも、それがいつも効くとは限らない』


榊原は答えなかった。


『環境が変わった時に、前の勝ち方を続けると、強い人間ほど危ない』


「経営論か」


『経験談だ』


藤崎の声が少し低くなった。


『五百億は大きい。だが本当に怖いのは、五百億そのものじゃない』


「何だ」


『五百億を前提に、周りが動き始めることだ』


榊原は、机の上の契約書を見た。


銀行。


建設会社。


設備メーカー。


地権者。


自治体。


社員。


投資家。


全部が動く。


それが事業だった。


「動かすために借りた」


『そうだな』


「なら問題ない」


『問題になる時は、動いてからだ』


通話の向こうで、藤崎が息を吐いた。


『まあ、お前に言っても止まらないだろうが』


「分かってるじゃないか」


『だから真鍋を大事にしろ』


「してる」


『本当にか』


「うるさいな」


藤崎は笑った。


『じゃあな。無事に進めろ』


「当然だ」


電話が切れた。


榊原は、しばらくスマホを持ったまま動かなかった。


────────────────


その少し後、真鍋からメールが届いた。


件名は、


初回実行後資金繰り確認。


添付ファイルが三つある。


一つ目。


資金使途別支払予定表。


二つ目。


融資実行条件一覧。


三つ目。


リスク発生時対応表。


榊原は、三つ目を開いた。


建設費上昇。


土地取得遅延。


工期遅延。


設備納期遅延。


株価下落。


担保評価低下。


追加担保要請。


次回融資実行条件未充足。


それぞれに、対応案が書かれている。


榊原は最後まで読んだ。


そして、画面を閉じた。


真鍋は、いつもこうだった。


先に不安を書類にする。


書類にすれば、扱えると思っている。


榊原は、それをありがたいと思う時もあった。


うるさいと思う時もあった。


今日は、その両方だった。


社長室のドアがノックされた。


真鍋だった。


「まだいたのか」


榊原が言うと、真鍋は軽く頭を下げた。


「社長もです」


「俺は社長だ」


「社長も帰ります」


榊原は笑った。


「何の用だ」


「今日の確認です」


「メールは見た」


「ありがとうございます」


真鍋は、社長室の入口に立ったままだった。


榊原は椅子を指した。


「座れ」


真鍋は座らなかった。


「すぐ終わります」


「なら言え」


真鍋は、短く言った。


「百五十億円は、入金されました」


「ああ」


「ただし、残り三百五十億円は、まだ現金ではありません」


「分かってる」


「次回以降の実行には、工事進捗、契約資料、資金使途、担保評価、財務制限条項の確認が必要です」


「分かってる」


「社長が分かっていることと、会社がその前提で動くことは別です」


榊原は、真鍋を見た。


「どうしたい」


「社内資料には、未実行融資を現金残高として表示しないでください」


「誰がそんなことをする」


「します」


真鍋は即答した。


「期待値を残高に混ぜる人間が出ます」


榊原は黙った。


あり得る。


そう思った。


「分かった。徹底しろ」


「はい」


「他には」


「初回実行で、社内に安心感が出ます」


「悪いことか」


「必要な安心もあります」


「余計な安心もあるか」


「はい」


榊原は、少し笑った。


「今日は本当に刺すな」


「今日刺さなければ、明日以降はもっと刺さりません」


「言い方が悪い」


「財務ですので」


榊原は立ち上がった。


「真鍋」


「はい」


「必要なら借りればいい」


真鍋は、すぐには答えなかった。


榊原は続けた。


「そうやって俺たちは来た」


「はい」


「間違っていたか」


「いいえ」


真鍋は、はっきり言った。


「間違っていません」


榊原は少し意外そうに見た。


真鍋は続ける。


「借入で進めたから、今の会社があります。銀行が貸したのも合理的です。社長が借りたのも合理的です」


「なら」


「ただし」


榊原は、黙った。


「借りれば進める局面と、借りても戻れない局面は違います」


社長室が静かになった。


窓の外の灯りが、ガラスに映っている。


榊原は言った。


「今はどっちだ」


「今は、まだ進める局面です」


「ならいい」


「はい」


真鍋は、そこで少しだけ目を伏せた。


「ただ、進める局面ほど、戻る判断は難しくなります」


榊原は机の上の契約書を見た。


今日、紙に署名した。


今日、百五十億円が入った。


今日、事業は前へ出た。


何も壊れていない。


むしろ、すべてが正しく進んでいる。


だから榊原は、危機だとは思わなかった。


「真鍋」


「はい」


「俺は止まらない」


「知っています」


「止まらないために、お前が数字を見ろ」


「見ます」


「必要なら言え」


「言います」


「俺が聞かなかったら」


真鍋は、少しだけ間を置いた。


「もう一度言います」


榊原は笑った。


「しつこいな」


「仕事です」


真鍋は、今度こそ頭を下げた。


「お疲れさまでした」


「ああ」


真鍋が出ていく。


社長室に、また榊原ひとりが残った。


机の上には、契約書の控え。


画面の中には、入金された百五十億円。


資料の中には、未実行の三百五十億円。


榊原は、その三つを順番に見た。


契約した。


入金された。


まだ出ていない金がある。


それでも、榊原には道が見えていた。


土地を取得する。


工事を進める。


設備を発注する。


自治体と調整する。


銀行へ報告する。


次の融資を実行する。


収益を立てる。


返済する。


すべて、順番に進めばよかった。


榊原は、そう考えた。


その考えは、この時まだ、間違っていなかった。


だからこそ、誰も止めきれなかった。


必要なら借りればいい。


その言葉は、まだ成功の言葉だった。


しかしその日から、

借りた金はただの余力ではなくなった。


契約に変わり、

担保に変わり、

支払い予定に変わり、

次の条件に変わっていった。

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