残金1,842円|第2話「資産4000億円」
三年前、榊原征一の朝は、自分の足音より先に始まっていた。
自宅の玄関を出る前から、運転手は車を回していた。
秘書はその日の予定を二つ削り、三つ増やしていた。
真鍋亮は、すでに会社の財務部にいた。
榊原は鏡の前でネクタイを締めた。
濃紺のスーツ。
白いシャツ。
腕時計。
磨かれた靴。
どれも高いものだった。
ただ、榊原自身は、それを高いものとして意識していなかった。
必要だから着る。
必要だから持つ。
必要だから使う。
その程度だった。
高いものを高いものとして喜ぶ時期は、もう過ぎていた。
若い頃は違った。
初めて高級時計を買った時は、何度も手首を見た。
初めて運転手つきの車に乗った時は、後部座席で少し落ち着かなかった。
初めてホテルの最上階で会食した時は、窓の外の景色より、自分がそこにいることのほうが気になった。
けれど、人は慣れる。
高い時計は、時間を見る道具になる。
高い車は、移動する部屋になる。
高い服は、会う相手への礼儀になる。
高い食事は、話を進めるための場所になる。
榊原は、贅沢をしているつもりはなかった。
仕事をしているつもりだった。
玄関ホールには、朝刊が数紙置かれていた。
経済紙。
地方紙。
全国紙。
海外紙の要約版。
その一面の下に、小さく自分の名前があった。
新興企業グループ、時価総額更新。
榊原HD、再エネ事業を拡大。
創業者・榊原征一氏の推定資産、四千億円規模へ。
榊原は、靴べらを戻しながら言った。
「四千億か」
台所から、美沙が顔を出した。
「朝からすごい数字ね」
「俺の財布には入ってない」
「入ってたら困るでしょ」
「重そうだ」
美沙は笑わなかった。
呆れたように、少しだけ口元を動かした。
「あなた、そういうこと本気で言うから怖いのよ」
榊原は新聞を折った。
四千億円。
その数字は、自分のもののようで、自分のものではなかった。
株価。
不動産評価。
保有会社の価値。
投資先の評価。
市場の期待。
銀行の見方。
それらを積み上げたら、誰かがそう呼んだ。
推定資産。
その二文字がついている時点で、榊原にとっては現金ではなかった。
現金四千億円を金庫に入れているわけではない。
通帳に四千億円と印字されているわけでもない。
ATMで残高照会したら四千億円が出るわけでもない。
自社株の値段が上がる。
持っている不動産の評価が上がる。
投資先に値段がつく。
未上場会社に将来価値が乗る。
市場が榊原グループを高く見る。
それらが重なって、四千億円になる。
だから、榊原の実感からは遠かった。
遠い数字は、人を安心させる。
遠すぎる数字は、人を鈍くする。
その時の榊原には、まだ分からなかった。
車に乗る。
運転手がドアを閉めた。
「本社でよろしいでしょうか」
「途中で銀行」
「承知しました」
後部座席に座ると、すぐにタブレットを開いた。
画面には、子会社の一覧が並んでいる。
不動産。
物流。
IT。
再生可能エネルギー。
データセンター。
地方再開発。
海外ファンド。
倉庫用地。
発電設備。
会社は増えた。
増やそうとして増えたものもある。
増やすつもりがなかったのに、必要に迫られて増えたものもある。
最初は、小さな不動産会社だった。
地方都市の古い雑居ビル。
空室の目立つ商業施設。
相続で持て余された土地。
廃業した工場跡地。
誰も欲しがらない場所を、榊原は買った。
きれいな案件ではなかった。
むしろ、面倒な案件ばかりだった。
権利関係が複雑。
建物が古い。
テナントが抜けている。
駅から少し遠い。
金融機関が嫌がる。
地元の業者が値段をつけられない。
榊原は、そういうものを見た時に、なぜか落ち着いた。
誰も欲しがらないものには、値段がつきにくい。
値段がつきにくいものには、余白がある。
余白があるものは、動かせる。
最初に買った雑居ビルは、十億円だった。
当時の榊原にとっては、十分に大きかった。
借入の書類に印鑑を押す前の夜、眠れなかった。
自分の人生が、その数字に乗っている気がした。
だが、彼は買った。
古いテナントを整理し、耐震工事を入れ、外壁を直し、共有部を明るくした。
一階に地元のスーパーを誘致し、二階にクリニック、三階に学習塾を入れた。
空いていた上階は、事務所ではなく小さなサテライトオフィスに変えた。
三年後、そのビルは二十八億円で評価された。
榊原は、十億円を二十八億円にした。
それだけではない。
その評価を担保に、十五億円を借りた。
十五億円で次の土地を買った。
その土地に物流倉庫を建てた。
倉庫には大手通販会社の地方拠点が入った。
賃料収入が立った。
銀行が次の融資を持ってきた。
成功は、次の信用を連れてきた。
信用は、次の借入を連れてきた。
借入は、次の投資を連れてきた。
榊原は、その流れを疑ったことがなかった。
疑う理由がなかった。
成功していたからである。
車は銀行の前で止まった。
榊原が降りると、支店長ではなく、本部の役員が入口で待っていた。
「榊原社長、お待ちしておりました」
「待たせたか」
「いえ、とんでもございません」
とんでもない。
その言葉を、榊原は一日に何度も聞いた。
とんでもございません。
ぜひ。
もちろんです。
前向きに。
ご提案させてください。
弊行としても。
ご一緒できれば。
銀行の応接室は、いつも少し寒かった。
空調のせいなのか、家具のせいなのか、話す金額のせいなのかは分からない。
磨かれたテーブルの上に、分厚い資料が置かれていた。
担当役員の倉田が、榊原の正面に座る。
倉田は、昔から余計なことを言わない男だった。
貸せる時は貸す。
貸せない時は貸せない。
ただし、貸せる時には、誰より早く椅子を取りに来る。
榊原は、そういう人間が嫌いではなかった。
「今回の再エネ案件についてですが」
「まだ正式には決めていない」
「承知しております。ただ、弊行としては、早めに支援姿勢を示したいと考えております」
榊原は資料をめくった。
総事業費。
出資比率。
融資枠。
金利。
担保設定.
返済期間。
予想収益。
出口戦略。
どれも見慣れた言葉だった。
倉田が言った。
「榊原社長には、ぜひ当行をメインで使っていただきたい」
「他も来てる」
「存じております」
「条件は」
倉田は、そこで少しだけ笑った。
「競争させていただきます」
榊原は資料を閉じた。
「銀行が金を借りてくれと言う時代か」
「榊原社長の場合は、貸すというより、組ませていただくという感覚です」
「きれいな言い方だな」
「銀行員ですので」
榊原は笑った。
倉田も笑った。
その笑いには、まだ余裕があった。
金を借りることは、榊原にとって負けではなかった。
むしろ、金を借りられることが勝ちだった。
借りられる人間には、信用がある。
借りられる会社には、未来がある。
借りられる案件には、期待がある。
そう思っていた。
そして、その考えは間違いではなかった。
少なくとも、その時点では。
借金そのものは悪ではない。
借金で潰れる会社もあれば、借金で伸びる会社もある。
借りた金を何に変えるか。
どの時間で回収するか。
どれだけ余裕を持つか。
それが違うだけだった。
榊原は、借りた金を何度も資産に変えてきた。
だから、銀行は貸した。
銀行も馬鹿ではない。
支店の気分だけで五百億円を出すわけではない。
審査がある。
担保がある。
返済計画がある。
事業性評価がある。
社内稟議がある。
リスク管理がある。
役員会がある。
それらを通って、金は出る。
つまり、榊原の成功は、榊原だけの妄想ではなかった。
銀行も認めた。
市場も認めた。
投資家も認めた。
社員も認めた。
自治体も認めた。
多くの人間が、彼の未来に値段をつけた。
本社へ着くと、エントランスで社員たちが軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう」
榊原は、すれ違う社員の名前を覚えていた。
全員ではない。
だが、役職者だけでもない。
受付の女性が髪を切っていれば気づいた。
物流子会社の若い責任者が数字を伸ばせば、会議で名前を出した。
地方支店の社員が大口契約を取れば、短いメールを送った。
そういうところが、人をつけた。
榊原は冷たい経営者ではなかった。
荒いところはある。
決断も速い。
待てない。
説明を途中で切ることもある。
会議で資料を突き返すこともある。
だが、見ていた。
成果も、失敗も、人も。
だから社員は、怖がりながらもついてきた。
社長室に入ると、真鍋亮がすでに待っていた。
細い眼鏡。
紺のスーツ。
手元には資料。
真鍋は、榊原の周りにいる人間の中で、もっとも榊原を特別扱いしない男だった。
榊原が新聞に出ても、反応しない。
資産額が増えても、褒めない。
銀行が好条件を出しても、浮かれない。
役員会で全員がうなずいても、最後に一人だけ別の数字を出す。
榊原にとって、真鍋は便利だった。
同時に、少し邪魔だった。
「社長、今月の個人的支出が八百万円です」
榊原は上着を脱ぎながら言った。
「誤差だろ」
「一般家庭では誤差とは呼びません」
「うちは一般家庭じゃない」
「会社でもありません」
榊原は椅子に座った。
「何に使った」
真鍋は資料を見た。
「会食、移動、会員制施設、贈答、車両関係、別荘維持費、海外出張時の立替分です」
「仕事だな」
「一部は」
「一部じゃないのか」
「全部仕事にするには、税理士が泣きます」
「泣かせるな」
「そのために私が言っています」
榊原は笑った。
真鍋は笑わなかった。
この男は、昔からそうだった。
榊原の近くにいながら、榊原の空気に染まりきらない。
それが必要だった。
榊原も、それを分かっていた。
分かっていたが、いつも聞き入れるわけではなかった。
「それより」
真鍋が別の資料を出した。
「現金残高です」
「会社のか」
「グループ全体です」
榊原は紙を見る。
数字は大きい。
大きいが、榊原の顔は動かなかった。
「十分あるだろ」
「短期の支払い予定を入れると、そこまで厚くありません」
「必要なら借りればいい」
真鍋は、そこで顔を上げた。
「社長」
「なんだ」
「その言葉、便利すぎます」
榊原は笑った。
「便利だから使ってる」
「便利な言葉は、危ない時ほどよく効きます」
「今が危ないのか」
「今は危なくありません」
「ならいい」
「今は、です」
榊原は資料を置いた。
「真鍋」
「はい」
「俺たちは借金で大きくなった」
「はい」
「借りて、買って、伸ばして、返してきた」
「はい」
「それで何度も勝った」
「はい」
「なら、次も同じだ」
真鍋はすぐには答えなかった。
窓の外には、都心のビルが並んでいる。
そのいくつかは、榊原の会社と関係があった。
所有しているもの。
借りているもの。
融資の担保に入っているもの。
投資先が入居しているもの。
買収を検討しているもの。
一度買えなかったもの。
街の一部が、彼の財務諸表の中にあった。
真鍋は静かに言った。
「同じ環境なら、そうです」
「違うのか」
「いつかは違います」
「いつだ」
「それが分かれば、財務責任者は全員大金持ちです」
榊原は声を出して笑った。
「お前、たまに面白いな」
「私は常に深刻です」
「それが面白い」
会議室には、すぐに人が集まった。
役員。
事業部長。
銀行関係者。
外部コンサル。
法律事務所の担当者。
発電設備メーカー。
建設会社。
自治体との調整役。
証券会社の担当者。
大型再生可能エネルギー事業。
地方の広大な土地を使い、発電設備を整備し、周辺にデータセンターと物流拠点を組み合わせる。
自治体も乗り気だった。
雇用が生まれる。
インフラが整う。
環境投資としての見栄えもいい。
総事業費は、八百億円。
自己資金三百億円。
借入五百億円。
誰かが聞けば、気が遠くなる数字だった。
だが、その会議室では、現実的な数字として扱われていた。
五百億円は、無謀な数字ではなかった。
担保がある。
収益計画がある。
既存事業のキャッシュフローがある。
売却可能資産がある。
榊原グループの株価も高い。
銀行団を組めば、分散もできる。
だから、会議室の誰も笑わなかった。
数字が大きすぎると、人は笑えなくなる。
専門家ほど、笑わない。
笑う前に、表に入れる。
比率に直す。
利回りに直す。
担保余力に直す。
返済可能性に直す。
五百億円は、巨大な金額である前に、項目になった。
「建設費は上がっていますが、まだ許容範囲です」
「FIT単価の前提は保守的に見ています」
「電力需要はデータセンター側で吸収できます」
「出口としてインフラファンドへの売却もあり得ます」
「自治体側の調整も進んでいます」
「土地取得は七割まで完了しています」
資料がめくられる。
画面が切り替わる。
数字が積まれる。
リスクも示された。
建設費の上昇。
工期遅延。
制度変更。
電力価格。
金利。
地元調整。
調達先の問題。
それでも、失敗する案件には見えなかった。
少なくとも、その場にいた多くの人間には。
榊原は、会議の終盤までほとんど黙っていた。
資料を見ている。
発言者を見る。
数字を見る。
人の声の震えを見る。
彼は勢いだけで決める男ではなかった。
早く決める。
しかし、見ていないわけではない。
むしろ、見る場所が速かった。
長い説明の中から、相手が隠したい数字を探す。
自信のない人間の語尾を見る。
反対意見を出す人間の理由を見る。
賛成しているだけの人間の薄さを見る。
だから、榊原の決断には迫力があった。
最後に言った。
「やる」
空気が少し動いた。
真鍋だけが、ペンを止めなかった。
「条件を詰めろ。銀行は二行以上入れる。金利だけで決めるな。地元の顔も立てる。建設会社には遅延条項を入れろ。土地は残り三割を急ぐ。自治体とは今週中にもう一度会う」
指示は速かった。
誰も、榊原を止めなかった。
止める理由が弱かった。
成功する可能性があった。
数字も成立していた。
市場も追い風だった。
銀行も支援する。
自治体も期待する。
社員も動ける。
榊原征一は、そういう案件を何度もものにしてきた。
だから、今回もできる。
そう思うことには、十分な理由があった。
会議が終わったあと、真鍋だけが残った。
「社長」
「反対か」
「反対ではありません」
「じゃあ何だ」
「余裕を多めに見てください」
「見てる」
「もっとです」
榊原は窓の外を見た。
「真鍋、三百億入れて五百億借りる。八百億の事業だ。成功すれば、評価は倍になる」
「成功すれば、です」
「成功させる」
「いつもそれで来ました」
「悪いか」
「悪くありません」
真鍋は資料を閉じた。
「ただ、今回は大きい」
榊原は振り返った。
「大きいからやるんだ」
真鍋は何も言わなかった。
榊原は、その沈黙を警告として受け取らなかった。
いつもの真鍋の慎重さだと思った。
慎重な男がいるから、速く走れる。
そう考えていた。
昼過ぎ、榊原は地方自治体の担当者と面談した。
市長は、榊原の手を両手で握った。
「地域にとって、大きな転機になります」
榊原はうなずいた。
「雇用は作ります。ただ、時間はかかります」
「もちろんです。市としても、できる限り協力します」
その言葉を、榊原はそのまま信じなかった。
自治体には自治体の都合がある。
議会がある。
住民説明がある。
選挙がある。
担当者の異動がある。
それでも、追い風であることは確かだった。
地方には、使われていない土地があった。
若い人間が出ていく街があった。
税収を増やしたい自治体があった。
雇用を作りたい人たちがいた。
榊原の事業は、金儲けだけではなかった。
もちろん、利益は出す。
利益が出なければ続かない。
だが、利益が出ることと、地域に意味があることは両立する。
榊原は、そういう場所を選んできた。
だから、話が大きくなった。
だから、人が集まった。
だから、銀行も動いた。
彼は悪人ではなかった。
強欲なだけの男でもなかった。
見栄で会社を広げていたわけでもなかった。
事業を作ることが好きだった。
何もない場所に、人が来る。
人が来ると、店ができる。
店ができると、道が整う。
道が整うと、次の会社が来る。
土地の値段が上がる。
雇用が生まれる。
税金が落ちる。
銀行が評価する。
次の投資ができる。
その連鎖を見るのが好きだった。
自分が街を動かしているように見えた。
実際、動かしていた。
その実感が、榊原をさらに前へ出した。
夕方、榊原は経済誌の取材を受けた。
記者は若かった。
緊張していた。
テーブルの上には録音機が置かれている。
「榊原さんにとって、資産とは何でしょうか」
ありきたりな質問だった。
榊原は少し考えた。
「使える信用です」
記者が顔を上げた。
「お金ではなく、信用ですか」
「金は置いておくだけならただの数字だ。信用があれば、金は動く。人も動く。会社も動く」
「では、榊原さんはご自身をお金持ちだと思いますか」
榊原は笑った。
「金持ちというより、金を借りられる人間だと思っています」
記者は、その言葉を面白がった。
「それは、どういう意味でしょう」
「一億円持っていても、誰からも信用されなければ、それ以上には動かせない。逆に、手元に一億しかなくても、百億を借りられる人間は百億の仕事ができる」
「借金は怖くありませんか」
「返せない借金は怖い。返す道筋のある借金は、時間を買う道具です」
「時間を買う」
「今できないことを、先にやる。未来の収益を、現在の投資に変える。それが借入でしょう」
榊原は、そこで少しだけ笑った。
「もちろん、真鍋は嫌な顔をしますが」
記者も笑った。
後日、その発言は記事の見出し近くに使われた。
金持ちとは、金を持っている人ではない。
金を借りられる人である。
榊原は、その見出しを見ても、特に何も思わなかった。
本当にそう思っていたからだ。
夜、社長室に戻ると、机の上に別の資料が置かれていた。
真鍋の字で付箋が貼られている。
短期資金繰り。
担保余力。
株価感応度。
金利上昇時試算。
建設費上振れ時の追加必要資金。
株価二割下落時の担保余力。
株価三割下落時の対応策。
榊原は付箋を見て、苦笑した。
「しつこいな」
だが、捨てなかった。
真鍋の資料は、いつも当たるわけではない。
だが、外れても損は少ない。
当たった時には、読んでいないと痛い。
榊原は椅子に座り、資料を開いた。
数分読んだ。
株価二割下落。
担保余力はまだある。
株価三割下落。
追加担保の可能性。
建設費五%上昇。
追加資金四十億円。
建設費一〇%上昇。
追加資金八十億円。
榊原は、数字を見た。
四十億円。
八十億円。
大きい。
だが、致命的には見えなかった。
四千億円という数字が、頭のどこかにあった。
グループ全体の資産価値。
銀行の支援姿勢。
売却できる資産。
新規融資。
投資家。
何かで埋められる。
そう思った。
そこへ電話が鳴った。
別の銀行だった。
「榊原社長、今回の大型案件について、ぜひ弊行もご支援させていただきたく」
榊原は、窓の外を見ながら答えた。
「条件を出してください」
「もちろんです。かなり前向きに検討しております」
前向き。
その言葉もまた、何度も聞いた。
銀行は貸したがっている。
投資家は期待している。
自治体は歓迎している。
社員は動いている。
市場は評価している。
榊原は、その中心にいた。
自分が巨大な歯車を回していると思っていた。
実際、回していた。
ただ、その歯車には、自分の手だけでは止められない重さがあった。
そのことを、まだ知らなかった。
夜遅く、社長室の明かりを消す前に、榊原はもう一度新聞を見た。
推定資産、四千億円。
その数字は、紙の上で大きく見えた。
だが、榊原の中では、まだ遠かった。
遠い数字は、人を安心させる。
遠すぎる数字は、人を鈍くする。
榊原はジャケットを手に取り、秘書に明日の予定を確認した。
銀行。
自治体。
建設会社。
投資家。
役員会。
会食。
予定は詰まっていた。
忙しい。
それは、まだ価値の証明に見えていた。
エレベーターに乗ると、ガラスに自分の顔が映った。
疲れてはいる。
だが、目には力があった。
金を借りることに、不安はなかった。
借りられることが、彼の強さだった。
地下駐車場で、運転手がドアを開けた。
「ご自宅でよろしいでしょうか」
「いや、真鍋はまだいるか」
「財務部の階には、まだ明かりがございます」
「寄る」
榊原は、もう一度エレベーターに乗った。
財務部のフロアには、人が少なかった。
蛍光灯の下で、真鍋が一人だけ残っている。
机の上には、資料が広がっていた。
「まだやってるのか」
真鍋は顔を上げた。
「社長こそ」
「帰る前に一つ聞きたい」
「はい」
「今回、危ないか」
真鍋は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、いつもより長かった。
「危ない案件ではありません」
「ならいい」
「ただし」
「ただし?」
「危なくない案件でも、重ね方を間違えると危なくなります」
榊原は、真鍋の机に手を置いた。
「俺は間違えると思うか」
「思いません」
真鍋はそう言った。
そして、続けた。
「ただ、社長は遅れることがあります」
「何が」
「止まるのが」
榊原は、少しだけ眉を動かした。
「止まる?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
榊原は笑った。
「俺ほど早く決める経営者はいないぞ」
「決めるのは早いです」
真鍋は資料を一枚めくった。
「認めるのが遅い」
その言葉だけ、少し残った。
榊原は真鍋を見た。
怒るほどではない。
無視するほど軽くもない。
笑い飛ばすには、妙に正確だった。
「それは忠告か」
「仕事です」
「お前は本当に面白くないな」
「財務責任者ですので」
榊原は、今度こそ笑った。
「帰れ。明日も早い」
「社長もです」
「俺は経営者だ」
「経営者も寝ます」
「寝る時間も借りられるといいんだがな」
「その商品は、まだ銀行にありません」
榊原は声を出して笑った。
真鍋は、少しだけ口元を動かした。
その夜、榊原は車の後部座席で目を閉じた。
頭の中には、いくつもの数字が並んでいる。
四千億円。
八百億円。
五百億円。
三百億円。
八十億円。
四十億円。
どれも大きい。
だが、どれも扱える数字に見えた。
扱えると思える数字は、人を前へ進ませる。
扱えないと気づいた時には、もう進みすぎていることがある。
車は夜の道路を滑るように走った。
榊原は、その静かな揺れの中で考えた。
必要なら借りればいい。
その言葉は、この時まだ、正しかった。
成功している人間にとって、借金は借金ではなかった。
未来を先に使うための道具だった。これタイトルと本文わけろってだけだよな?2は投稿済みだからな?今後勝手に変えないでくれよ?




