残金1,842円|第1話「残高1,842円」
ATMの画面に表示された数字を、榊原征一はしばらく見ていた。
1,842円。
最初、桁を読み間違えたのだと思った。
一千八百四十二万円ではない。
一億八千四百二十万円でもない。
もちろん、十八億四千二百万円でもない。
ただの一千八百四十二円だった。
コンビニのATMは、何も説明しない。
残高を表示したまま、次の操作を待っている。
榊原は画面の横にあるボタンを見た。
引き出し。
預け入れ。
残高照会。
振込。
どれも、以前はただの機能だった。
今は違う。
引き出せる金がない。
預け入れる金もない。
振り込む先だけは、いくつもあった。
背後で、自動ドアが開いた。
夜のコンビニに、若い男が入ってくる。
濡れた傘を軽く振り、雑誌の棚の前で立ち止まった。
榊原は、ATMの前から少し体をずらした。
誰に見られているわけでもない。
誰も、五十二歳の男が画面の数字に固まっていることなど気にしていない。
それでも、背中が冷えた。
1,842円。
その数字は、小さすぎて、かえって消えなかった。
三年前、榊原征一の推定純資産は四千億円だった。
現金で四千億円を持っていたわけではない。
自社株、不動産、事業権益、投資先持分、将来の収益への期待。
そういうものに値段がつき、周囲がそう評価した。
雑誌は「四千億円の男」と書いた。
経済番組は「地方発の再生王」と呼んだ。
銀行は会議室を用意し、証券会社は次の案件を持ち込み、自治体の担当者は榊原の名前を聞いただけで姿勢を正した。
その男の口座に、今ある金は一千八百四十二円だった。
ATMが、操作を続けるかどうかを尋ねている。
榊原は、終了のボタンを押した。
カードが戻ってくる。
明細票は出さなかった。
紙で残す必要はなかった。
見た数字は、もう頭から消えない。
財布を開く。
五百円玉が一枚。
百円玉が三枚。
十円玉が数枚。
レシート。
折れた名刺。
督促に関する書類の封筒。
紙幣はなかった。
榊原は財布を閉じた。
その動作が、自分のものではないように遅かった。
コンビニの店内は明るい。
明るすぎるほどだった。
弁当の棚には、まだいくつか商品が残っていた。
398円。
498円。
598円。
以前なら、値札など見なかった。
秘書が用意した食事を食べる。
会食で出された料理を食べる。
出張先のホテルで朝食を取る。
社長室に運ばれたコーヒーを飲む。
金額を知らないまま口にするものが、いくらでもあった。
今は、398円と498円の差が分かる。
百円。
たった百円ではない。
百円あれば、缶コーヒーとの差が変わる。
水にするか、コーヒーにするかが変わる。
明日の朝に残る小銭が変わる。
棚の下段に、半額シールの貼られた弁当があった。
398円が、199円になっている。
榊原は、その前で足を止めた。
買える。
そう思った。
その事実が、喉の奥に引っかかった。
四千億円と呼ばれた男が、199円を見て、買えると思っている。
それは滑稽ではなかった。
笑える話でもなかった。
ただ、現実だった。
榊原は弁当を手に取らなかった。
腹は減っていた。
昼からほとんど食べていない。
だが、弁当を買えば、今夜の残りが減る。
今夜だけではない。
明日の朝。
電車に乗るかもしれない。
弁護士事務所へ行かなければならないかもしれない。
誰かに電話をかけるかもしれない。
どこかで水を買うかもしれない。
かもしれない、が増えるほど、199円は軽くなくなる。
榊原は弁当の棚を離れた。
飲料の棚へ行く。
缶コーヒー、138円。
いつもなら選ばない安い缶だった。
それでも、温かいものを持ちたかった。
財布から小銭を出す。
五百円玉を出しかけて、百円玉と十円玉を探す。
百円玉一枚。
十円玉三枚。
一円玉はない。
結局、五百円玉を出した。
レジの若い店員は、何も言わなかった。
バーコードを読み取る。
会計を告げる。
釣り銭を渡す。
その一連の動作は、ひどく滑らかだった。
榊原は、釣り銭を受け取る時、自分の指先を見た。
かつて契約書に何度も署名した手だった。
数百億円の稟議書に承認印を押した手だった。
銀行の役員と握手した手だった。
今、その手は、三百六十二円の釣り銭を落とさないように受け取っている。
コンビニを出ると、十月の夜気が顔に当たった。
駐車場の端に立ち、缶コーヒーを開ける。
小さな音がした。
昔なら、気にも留めなかった音だ。
ひと口飲む。
甘い。
ぬるい。
それでも、体の中に何かが入ってくる感覚があった。
スマートフォンが震えた。
画面には、弁護士事務所の名前が表示されている。
榊原は、出なかった。
呼び出し音が止まる。
すぐに留守番電話の通知が出た。
内容は聞かなくても分かる。
明日の件。
債権者との協議。
保証債務。
今後の支払い。
必要書類。
そういう言葉が、また並ぶ。
個人債務、三百二十七億円。
それは一度に生まれた数字ではない。
会社の債務。
保証。
担保処分。
残った債務。
協議。
請求。
調整。
いくつもの契約と処理を通って、最後に榊原個人の前に残った数字だった。
三百二十七億円。
大きすぎて、もう実感がなかった。
それよりも今は、
1,842円の方が重かった。
大きな数字は、人を遠ざける。
小さな数字は、人を逃がさない。
榊原は、スマートフォンの通話履歴を開いた。
真鍋亮。
名前を見た瞬間、少しだけ指が止まった。
三年前まで、真鍋は財務責任者だった。
いや、今も、榊原の中ではそうだった。
誰よりも早く危険に気づき、
誰よりも遅くまで数字を見ていた男。
都合のいい言葉を言わなかった。
榊原を励ます時でさえ、嘘は言わなかった。
その真鍋に、今さら何を言うのか。
榊原は数秒迷い、
発信ボタンを押した。
三回目の呼び出し音で、真鍋が出た。
「社長」
その呼び方だけで、榊原は一瞬、目を閉じた。
もう社長ではない。
それでも真鍋は、そう呼んだ。
「起きてたか」
「はい」
「遅いな」
「社長ほどではありません」
昔と同じ言い方だった。
榊原は、缶コーヒーを持つ手に少し力を入れた。
「残高を見た」
電話の向こうで、真鍋は黙った。
「一千八百四十二円だった」
自分で言うと、その数字はさらに小さくなった。
夜の駐車場に、榊原の声だけが残る。
真鍋は、すぐには慰めなかった。
「分かりました」
「分かった、か」
「明日、佐伯先生と話します」
「弁護士から電話が来てた」
「折り返してください」
「今か」
「明日でもいいです。ただ、逃げないでください」
榊原は、少し笑った。
笑ったというより、息が漏れた。
「逃げる金がない」
真鍋は黙った。
電話の向こうに、書類を動かすような小さな音がした。
「社長」
「なんだ」
「明日、口座と手元現金を全部確認してください」
「全部?」
「全部です。使える金と、使えない金を分けます」
「分けるほどない」
「ないなら、ないと確認します」
榊原は、コンビニの明かりを見た。
店内では、さっきの若い男が弁当を選んでいる。
「真鍋」
「はい」
「お前は、まだ俺を社長と呼ぶんだな」
電話の向こうで、少し間があった。
「癖です」
「嘘をつくな」
「では、保留します」
「何を」
「答えを」
榊原は、少しだけ笑った。
真鍋らしい返事だった。
「明日、連絡する」
「はい」
「逃げない」
「お願いします」
通話が切れた。
榊原は、スマートフォンをポケットに戻した。
缶コーヒーは、もう半分ほどになっていた。
駐車場の白線の上に、薄い光が落ちている。
コンビニの中では、何事もなくレジが動いている。
弁当が売れ、雑誌が立ち読みされ、宅配便が出され、誰かがATMで金を下ろしている。
生活は止まらない。
自分の会社がなくなっても。
肩書が消えても。
個人債務が三百二十七億円残っても。
口座残高が一千八百四十二円になっても。
生活は、こちらの事情を待たない。
榊原は、もう一度財布を開いた。
釣り銭を確認する。
三百六十二円。
さっきより増えたわけではない。
ただ、いくら残ったのかを見た。
それだけのことに、時間がかかった。
昔の自分なら、見なかった。
金を動かす前に、金を見なかった。
使えるか。
借りられるか。
増やせるか。
回せるか。
そういう見方はしていた。
しかし、
今ある金が、今日の自分をどこまで運ぶのか。
それを見てはいなかった。
榊原は、缶コーヒーを飲み干した。
空き缶を捨てる。
手をポケットに入れる。
夜の道へ歩き出す。
ポケットの中で、小銭が小さく鳴った。
三年前の榊原征一は、
借金を断られるという発想を持っていなかった。




