残金1,842円|第27話「美沙」
問診票の、付き添う人の欄が空いていた。
美沙は、そこだけ書かずに、紙を裏返した。
食卓には二人分の皿を出してある。煮物は鍋へ戻した。焼いた魚は、美沙の分だけ先に食べた。
玄関が開いたのは、九時を少し過ぎた頃だった。
「ごめん」
征一は靴を脱ぎながら言った。
「電話してた」
美沙は立ち上がり、魚を温めた。
夫は鞄を床へ置いた。椅子を引きかけたところで電話が鳴り、画面を見て、出た。
「はい、榊原です」
美沙は皿を電子レンジへ入れた。
「そこは、まだ決めていません。明日、真鍋と確認します」
征一は、椅子へ座らなかった。
「はい。分かっています。ただ、入金する日だけ先に置くことはできませんので」
窓際へ移る。
美沙は、温めの時間を短くした。
終わっても話していれば、もう一度かけ直せばよい。
そういう小さな調整を、一日に何度かしていた。夫の帰宅時刻だけではない。洗面所を使う順番や、車を空けておく時間や、休日に出すつもりだった荷物。征一が仕事を一つ増やすたびに、家の中で誰かが少し動けば済むことがあった。
誰かは、たいてい美沙だった。
「では、明日、こちらから」
征一は電話を切り、椅子へ座った。
「工場の人?」
「ああ。高瀬さん」
美沙は皿を置いた。
「進んだ?」
「銀行が、契約へ進めると言ってくれた」
征一の口元が、少し緩んだ。
その顔を見て、美沙もうれしくなりかけた。
夫が何日も同じ資料を持ち歩き、帰ってからも机へ広げていたことは知っている。真鍋からの電話で、食べかけのまま別の部屋へ行った夜もある。
何かが一つ片づいたのだ。
「よかったね」
「ああ」
征一は魚へ箸を入れた。
「まだ、買ったわけじゃない。最終の対象と代金、実行当日の確認は残ってる」
「お金も、まだ?」
「まだ。六千万は承認された額で、口座へ入ったわけじゃない」
美沙は向かいへ座った。
「借りるのは、あなたの会社」
「そう」
「工場を買う会社と、同じ」
「ああ」
夫が、少し意外そうにこちらを見た。
美沙は裏返した紙へ手を置いた。
「何回か聞いたから、そこは覚えた」
「ごめん。説明が悪かったか」
「悪かったというより、私が分かったかを、あまり聞かなくなった」
征一の箸が止まった。
美沙は、皿の上へ目を落とした。
食べ始めたばかりだった。
今日でなければいけない話と、別の日でもよい話を、美沙もいつも選んでいる。疲れている時に言わなくてもよい。大事な返事を待っている時に、わざわざ重ねなくてもよい。
そう考えて後へ送ったことが、いくつかあった。
「土曜、何時に出る?」
征一は魚を飲み込んだ。
「工場の確認が入るかもしれない」
「何時から」
「まだ分からない」
美沙は、紙を表へ返した。
「病院、九時半」
征一が顔を上げた。
視線が紙へ下りる。
「ああ」
美沙は、その後を待った。
「今週か」
「うん」
「ごめん。来週だと思ってた」
夫が携帯電話へ手を伸ばした。
「調整する」
「今、誰に?」
「真鍋に。土曜の午前を――」
「先に、こっちを見て」
征一の手が止まった。
美沙は紙を夫の方へ向けた。
先週受け取った案内だった。日帰りの処置を受ける。帰宅時には付き添いを頼むように言われている。その後の過ごし方も、説明されていた。
医師から、急いで悪いものだと考える必要はないと聞いた。
それと、何も気にならないことは違った。
「時間が分からないって、言ったよね」
「ああ」
「終わる時刻。だから、午前だけ空ければいいとは、まだ言えない」
「そうだった」
征一は、紙を手前へ寄せた。
美沙は夫の指を見た。
紙を読む時の動きが、仕事の時と同じだった。上から順に追い、条件のところで止まる。
それでよいと思った。
ただ、家でも紙がなければ思い出してもらえないことが、少し寂しかった。
「迎えの時間が分かったら、連絡してくれれば」
「私が、いつ分かるの」
征一は黙った。
「何時に来てもらえばいいか、その時に私が考えるの?」
「いや」
「病院へ行けば、ほかにも分かると思う。帰ってから何をしない方がいいとか、どんな時に連絡するとか。私だけが覚えて、あなたへ伝えることにしたくない」
夫は紙を持ったまま、目を上げなかった。
美沙は、付き添う人の欄を指した。
「名前を書いていい?」
「もちろん」
「もちろんだったら、来週だと思わないでほしかった」
言ってから、美沙は口を閉じた。
征一は言い返さなかった。
代わりに、携帯電話を持ち上げた。
美沙の胸が、また少し固くなる。
「一通だけ、送らせて」
「何て」
「土曜は終日、会社の予定を入れない。工場の確認は、俺が出る必要のある項目を分けて、明日、調整する」
美沙は、うなずいた。
夫は短い文を打ち、送信した。
それから、画面を下にして机へ置いた。
「忘れてた。ごめん」
「うん」
「代わりを頼めるか、先に考えたのも、違った」
美沙は、付き添いの欄へ目を落とした。
姉に頼むことは考えていた。
頼めば、来てくれたかもしれない。けれど、姉にも予定がある。夫が難しければ家族の誰かで、という順番が、自分の中でもできかけていた。
最初から夫へ頼んだのに、その返事を確かめる前に、自分で次を用意していた。
「何もかも、あなたにしてほしいわけじゃない」
「分かってる」
「でも、頼んだことまで、私が代わりを探し始めるのは嫌だった」
征一は、紙を机へ置いた。
「土曜は一緒に行く」
美沙は、ようやくペンを取った。
夫の名を書き、その下へ連絡先を記す。
征一は、また箸を持った。
魚は冷めていた。
「温めようか」
「いい。このまま食べる」
美沙は立たなかった。
翌朝、征一は食卓で手帳を開いていた。
美沙が台所へ入ると、顔を上げる。
「病院の場所、ここで合ってる?」
手帳には、案内の地図を見て書いた道順があった。
「うん。駐車場は裏側」
「土曜、八時四十分に出ればいいか」
「もう少し早く。初めてだから」
「八時半」
征一は書き直した。
その下へ、帰宅後も在宅、と書く。
「そこまで、書くんだ」
「午前だけ空けて、午後に仕事を入れそうだから」
美沙は笑った。
征一も、少し笑った。
湯が沸き、パンが焼けた。
夫の携帯電話が震えた。
征一は画面を見たが、持ち上げなかった。
「返事、しなくていいの?」
「食べてからでいい」
美沙は、皿を夫の前へ置いた。
こういう朝が、以前にもあった。
仕事が少なかった頃の話ではない。仕事があっても、何の電話かを話し、今出る必要があるかを考えていた時があった。
いつから、鳴れば出るようになったのだろう。
何度か、重要な電話を取り逃さずに済んだ。
その結果を見て、美沙も何も言わなくなった。
夫が一度、応対を後にしただけで、朝の長さが変わった。
「工場、買ったら忙しくなる?」
美沙が聞くと、征一はパンを置いた。
「なる。最初は特に」
「どのくらい」
「まだ、日程を組み直してる」
「じゃあ、今は分からないんだね」
「ああ」
征一は、少し考えた。
「ただ、毎日俺が行かないと回らない形では、始めない」
「それは、決めたの?」
「そうする。今の倉庫の仕事もあるし、俺がいないと決められないことを増やしたら、両方で待たせる」
美沙はコップを持った。
「それを、会社の人にも言ってある?」
「今日、具体的に決める」
「分かったら、家でどのくらい変わるかも教えて」
「分かった」
夫はうなずいた。
その日の夕方、征一から連絡が来た。
土曜の工場確認は、現場担当と真鍋で進める。判断が必要な項目は金曜までに出す。終わった後の報告は月曜に受ける。
美沙は文章を二度読んだ。
土曜は空いた、という返事だけではなかった。
返そうとして、電話が鳴った。
征一だった。
「今、話せる?」
「うん」
「土曜のことで、先に伝えたかった」
「読んだよ」
「あと、今夜、工場の契約について話したい」
美沙は、流し台の前から離れた。
「私に?」
「ああ。家に関わるところと、まだ確認してるところを分けて」
「何か、私が書くの?」
「今、あなたに署名してもらう書類は出ていない」
「今は、なんだ」
「これからもない、と書面を見ずに約束するのはやめたい。必要になる話が出たら、俺だけで進めない」
美沙は、受話口を耳へ押し当てた。
大丈夫、と言われるより落ち着いた。
大丈夫という言葉が、何を指すのか分からないまま聞いている時の方が、不安になることがあった。
「何時に帰る?」
「八時半」
「ご飯は」
「帰って食べる。間に合わなくなったら、七時半までに連絡する」
「うん」
電話を切ると、美沙は冷蔵庫を開けた。
昨日と同じように二人分を作る。
ただ、今日は、八時半に夫が帰るつもりで作った。
征一は、八時二十分に帰宅した。
鞄を置き、手を洗い、食卓へ来た。
「先に、食べていい?」
「うん」
工場の話は、食べ終わってからになった。
美沙が食器を流しへ運ぶと、征一も立って自分の分を持った。
「置いといて。後で洗う」
「俺が洗う」
夫は袖をまくった。
美沙は、台を拭いて席へ戻った。
征一が洗い終えるまでの数分、何を聞こうか考えた。
聞けば、家の金の話ばかりする妻だと思われるだろうか。
工場で働く人の給与がかかっている時に、自分たちの暮らしを先に確かめることは、狭いことなのだろうか。
そう考えてから、昨日の問診票を見た。
会社の誰かへ遠慮して、自分の付き添いを頼まなくなる必要はない。
金のことも、同じはずだった。
征一は食卓へ戻り、手帳を置いた。
「会社が借りるのが、六千万。自己資金が二千四百万。必要な金は、今の計画で八千二百万」
美沙はうなずいた。
「二千四百万は、どこのお金?」
「会社の資金」
「口座にある分から?」
「今後の給与、税金、既存の返済、倉庫とビルで必要な金を残して、出せる範囲を確認してる。実行前にも確かめる」
「家から出す分は」
「今回の八千二百万には、家計から新しく入れる金を置いてない」
美沙は、そこで初めて背を椅子へ預けた。
「それを、先に聞きたかった」
征一の顔が変わった。
「会社の話だから、分かってると思った」
「会社のお金って言われても、その会社へ足りなくなった時、何をするつもりかは分からない」
夫は手帳へ目を落とした。
「銀行にも、そこは聞かれた」
「答えた?」
「追加融資を受けられる前提にはしない。既存の仕事から無制限に足すこともしない。悪くなる前に、発注や続ける範囲を見直す」
「家のお金は?」
「自動で入れることにはしない」
美沙は夫を見た。
「自動じゃなかったら、頼むことはある?」
征一は、少し黙った。
「必要になって、相談することはあるかもしれない」
「私が、嫌だと言ったら」
夫はすぐには答えなかった。
美沙は、それを待った。
「嫌だと言われた金は、使えるものとして考えない」
「その時、工場が止まるとしても?」
征一の喉が動いた。
美沙は、自分の声が冷たくなったように感じた。
けれど、今聞かずに済ませたら、もっと難しい時に聞くことになる。
「今、誰かの給料日が来ているわけじゃないでしょう」
「ああ」
「だから、今聞きたい。私が断ったら、誰かが困るという話になってからじゃ、断りにくい」
征一は、両手を机へ置いた。
「そうだな」
「私が出さないせいで、と思わせるところまで進めないでほしい」
夫は、長く息を吐いた。
美沙は、その息に腹を立てかけた。
面倒なことを聞いているのだろうか。
しかし征一は、顔を上げて言った。
「俺は、そこまで考えてなかった」
「お金を出してもらうつもりがなかったから?」
「今は、そのつもりがないから。それで済んでた」
「今ないなら、それは聞けてよかった」
美沙は答えた。
「でも、足りなくなってから、考えが変わることもあるでしょう」
征一はうなずいた。
手帳の余白へ、家計からの追加資金は前提にしない、と書いた。
「これは、私が言ったから書くの?」
「俺が、前提にしないと決めるために書く」
「じゃあ、会社の表にも残して」
夫のペンが止まった。
「ここにだけ書いて、向こうでは必要になったら考える、にしないで」
「分かった」
征一は、その下に確認する、と日付を書いた。
美沙は、もう一つ尋ねた。
「保証は」
夫がこちらを見た。
「借りるのは会社でも、あなたの名前を書くことがあるでしょう」
「ああ」
「今回、何へ名前を書くの」
征一は、手帳を一枚めくった。
「契約案で、借入人としての会社の署名と、個人に関する条項を分けて確認してる。担保の書類も含めて、今の案で何を負うかを真鍋と専門家へ聞いている」
「銀行に聞いたら、分かるんじゃないの」
「聞く。ただ、提示された条件の説明を受けることと、こっちが何を引き受けるかを確認することは、分けたい」
美沙はうなずいた。
「私、保証がいくらなら平気かなんて、すぐには言えないよ」
「今、答えを出してほしいわけじゃない」
「家は大丈夫かだけ聞いて、安心したことにもしたくない」
征一が手帳から顔を上げた。
「私の名前の書類がなくても、あなたが払うことになったら、暮らしは変わるでしょう」
「ああ」
「家の名義だけ守られていても、毎日の支払いがどうなるかは別だから」
夫は、今度はペンを動かさなかった。
美沙は、自分の言ったことを考えた。
工場の借金の仕組みを、分かったとは言えない。
会社の利益も、返済の計算も、自分一人では判断できない。
けれど、分からないから聞いてはいけないことにはならない。
「私にも関わる条件があるなら、説明を一緒に聞きたい」
「誰に」
「今、確認してもらってる人。あなたの会社の仕事として、私に説明できる範囲があるか、聞いてほしい。私自身が相談した方がいいところがあるなら、それも知りたい」
征一はうなずいた。
「その場で署名したり、返事をしたりする予定にはしないでね」
「しない」
「あなたが、もう話はついている顔で連れていくのも、やめて」
夫は、わずかに口元を動かした。
「そんな顔、するか」
「する」
「そうか」
「取引先には、役に立つ顔なのかもしれないけど」
征一は苦笑した。
美沙も、少し笑った。
笑えたからといって、話が終わったわけではなかった。
「あなたが買いたい理由も、聞きたい」
「機械と仕事が残っている。人も――」
「それは聞いた」
征一が口を閉じた。
「そこを買って、あなたはどうしたいの」
窓の外を、一台の車が通った。
光が天井を滑り、消えた。
征一は、机の木目を見ていた。
「荷物を運んでいると、向こうの工場がどこで止まるかが見える」
「うん」
「完成した物を引き取るだけなら、待てばいい。けど、作るところがなくなったら、運ぶ物もなくなる」
「だから、作る方も持ちたい」
「それもある」
夫は、少し言葉を探した。
「高瀬さんの工場で、機械が動いていた。傷んでいるところはある。でも、使い方を知っている人がいて、注文の図面を見て、どこを先にやるか決めてる。あれを、鉄の重さだけで売る前に、できることがあると思った」
美沙は、夫の手を見た。
指先が、机の上にない物を並べるように動いていた。
「あなたがやりたいんだね」
「ああ」
その返事は早かった。
美沙は、ようやく夫の話を聞いた気がした。
人を守るため。
地域の仕事を残すため。
それだけではなく、征一自身がやりたい。
そこを隠さず話してもらった方が、美沙には分かった。
「だったら、それを言って」
「身勝手に聞こえると思った」
「十八人のためだから反対できない、よりは話せる」
征一が顔を上げた。
「そういう意味で言ったつもりは」
「うん。分かる。でも、そう聞こえる時もある」
美沙は、手帳の端へ目を落とした。
「私が心配だと言ったら、工場の人のことを考えてないみたいになる。だから、あなたがやりたいことと、誰かのためになることを、分けて話してほしい」
夫は、長く黙った。
その間に、美沙はお茶をいれ直した。
征一の湯飲みだけでなく、自分のも替える。
戻ると、夫は手帳を閉じていた。
「買いたい」
征一は言った。
「今の条件をそろえて、会社で引き受けられる範囲だと確認できたら、買いたい。俺が、あの仕事を続けられる形にしたい」
美沙は向かいへ座った。
「うん」
「ただ、それを理由に、家で使える金と、あなたの時間を、空いているものにしない」
「それは、してほしくない」
「分かった」
美沙はお茶を飲んだ。
賛成という言葉は、まだ出さなかった。
征一も、求めなかった。
土曜日、二人は八時半に家を出た。
征一が運転し、美沙は助手席で案内を見た。
「次、左」
「ああ」
「もう少し先」
「こっちじゃないのか」
「それは職員の入口」
征一は速度を落とした。
駐車場へ入れるまでに、少し時間がかかった。
受付では、美沙が自分の名を伝えた。
夫は後ろに立って待っていた。
呼ばれて一緒に説明を聞くと、征一は手帳を出した。
仕事の話で使っているものと、同じだった。
美沙がうまく聞き取れなかったところを、夫がもう一度尋ねた。
帰宅してから、どの程度休むか。
連絡が必要になる場合は、どこへ電話するか。
征一は、勝手に答えを補わなかった。
美沙の方を見てから、確認した。
待合室へ戻ると、夫の電話が震えた。
征一は画面を見た。
「出る?」
「返事は月曜でいいと決めたものなら、出ない」
「違ったら?」
「内容を確かめる」
夫は短い連絡を読み、画面を閉じた。
「現物を確認した記録が来た。判断を求めるものじゃない」
美沙はうなずいた。
完全に仕事を忘れてほしいわけではなかった。
今ここから離れなければいけない用事かどうかを、夫が自分で考えてくれればよかった。
名前を呼ばれ、美沙は立った。
征一も立ちかける。
「ここで待ってて」
「ああ」
美沙は夫の膝へ、自分の鞄を置いた。
「これ、持ってて」
征一は、両手で受け取った。
終わった後、帰る支度をする美沙の横で、夫は説明の紙を開いていた。
「これは、俺が持つ」
「なくさないでね」
「鞄に入れる」
「私の鞄じゃなくて」
征一は顔を上げた。
それから、自分の上着の内側へ入れた。
「分かった」
美沙は、少し笑った。
家へ帰ると、夫は玄関の段差で待った。
「手、いる?」
「うん」
差し出された手を、美沙は握った。
寝室へ入って横になると、征一が毛布を持ってきた。
「何か食べる?」
「少ししてから」
「分かった」
夫は椅子を持ってこようとした。
「ずっと見てなくていい」
「そうか」
「台所にいて。呼ぶから」
「ああ」
征一は扉を少し開けて出ていった。
しばらくすると、湯を沸かす音がした。
食器棚が開く。
一度閉まり、また開いた。
どこに何があるか、まだ探している。
美沙は目を閉じた。
昼過ぎに起きると、夫は食卓へ小さな鍋を置いていた。
「食べられそうか」
「うん」
椀へよそわれたものを一口食べる。
少し薄かった。
「味、足りない?」
征一が聞いた。
「これでいい」
「本当に?」
「うん」
夫が向かいへ座る。
机には、仕事の書類がなかった。
美沙は二口目を食べた。
「今日、工場へ行かなくて、何か困った?」
征一は考えた。
「確認を任せた人から、月曜に判断する項目が来た」
「今日じゃないと駄目だったことは」
「今のところ、ない」
「そっか」
「俺が見た方が早いと思ってたところは、あった」
「うん」
「でも、何を見るかを先に合わせたら、向こうで確認できた。俺が今日行ったら、その場で決めていたこともあったと思う。資料をそろえて、月曜に見た方がいいものもある」
美沙は椀を置いた。
夫が休めば会社がよくなる、とまで思ったわけではない。
今日は、たまたま任せられたこともあるだろう。
それでも、夫が全てを見に行くことだけを、責任と呼ばずに済んだ。
「病院へ来てよかった?」
聞いてから、美沙は少し恥ずかしくなった。
答えの決まった質問をしたようだった。
征一は、すぐによかったとは言わなかった。
「何もできない時間が長かった」
「うん」
「待ってるだけで、何をしたらいいか分からなかった」
「私も、分からない時間があった」
夫がこちらを見た。
「工場の返事を待ってた時も、こんなだった?」
「いや」
征一は首を振った。
「向こうは、電話すれば、誰が何を確認してるか聞けた。資料を直すこともできた」
美沙は笑った。
「今日は、直せなかったね」
「ああ」
征一も笑った。
それから、椀の横へ置いた美沙の手へ、自分の手を重ねた。
「次に説明を聞く時も、予定に入れる」
「まだ日が決まってない」
「決まったら、先に入れる」
美沙は手を引かなかった。
夕方、夫は約束していた契約の確認について話した。
専門家へ、本人だけでなく美沙にも、家計へ影響し得る点を説明できるか問い合わせたこと。
会社の秘密に関わる資料の扱いもあるため、見せる物と説明する内容を整理していること。
契約前に時間を取り、その場で美沙へ署名を求める予定にはしていないこと。
まだ結論を聞いた話ではなかった。
美沙は日付だけを確かめた。
「その前に、私も質問を書いておく」
「ああ」
「あなたが、私の質問を先に直さないでね」
征一は口を開きかけ、閉じた。
「直しそうだった」
「でしょう」
二人で笑った。
夜になり、美沙が横になっていると、廊下から夫の声がした。
真鍋へ連絡していた。
「月曜、取得後の担当をもう一度合わせたい。俺が現場にいる時間を、足りない時に増やせる予備の人員にしないで組んでほしい」
短い沈黙があった。
「いや、行かないということじゃない。行く必要がある仕事を決める。既存の倉庫と、同じ朝に二つ入れない」
美沙は、開いた扉を見た。
夫の声は続いた。
「資金の方も、家計からの追加を前提にしていないことを、表に残しておいてほしい。今夜、新しく金を入れる話を決めたわけじゃない」
また少し、聞く側へ回る。
「分かってる。会社の既存事業から出す範囲も別だ。そこは月曜に」
電話が終わった。
征一が部屋の入口へ来た。
「聞こえた?」
「うん」
「寝てたら、ごめん」
「起きてた」
夫は、枕元の水を見た。
「替える?」
「お願い」
コップを渡すと、征一は受け取った。
美沙は、夫の後ろ姿を見た。
工場を買うことへ、まだ答えは出していない。
夫の会社の資金表を読み、保証や担保の説明を聞いたとしても、全てが分かる日が来るとは思わなかった。
それでも、分からないまま賛成したことにされずに済む場所は、残しておける。
征一が水を持って戻ってきた。
「月曜の説明の時間、あなたにも分かったら送る」
「月曜は、まず会社の人と話すんでしょう」
「ああ。家の方の説明は、その後で日を合わせる。混ぜない」
「うん」
美沙はコップを受け取った。
夫は椅子へ座った。
携帯電話を持っていたが、手帳も書類も出さなかった。
「何?」
「いや」
「眠い?」
「少し」
「じゃあ、向こうで寝れば」
「もう少し、ここにいる」
美沙は枕へ頭を戻した。
何を話せばよいかと考え、何も話さなかった。
しばらくして、夫の手から電話が滑りかけた。
「落ちるよ」
「ああ」
征一が持ち直す。
美沙は手を出した。
「貸して」
夫は、一瞬ためらってから渡した。
「何か来たら」
「音は聞こえる」
美沙は画面を伏せ、少し離れた棚へ置いた。
征一は取り戻さなかった。
その手が空いた。
美沙は毛布の上から手を伸ばし、夫の指を握った。




