残金1,842円|第26話「倉田」
倉田が書類を閉じようとした時、担当者が言った。
「先方は、金曜の実行を希望しています」
壁の時計は、午後六時を過ぎていた。
倉田は、承認条件を記した紙へ目を戻した。取得代金の支払日にも、融資実行日にも、まだ日付は入っていない。
「金曜にできるんですか。それとも、金曜に必要なんですか」
担当者は、膝の上で両手を合わせた。
「売り手の資金が、長く持ちません」
「それは、うちが貸す会社の話ですか」
「東浜精工です」
「榊原さんの会社ではないですね」
「はい」
倉田は、机の脇へ置かれていた面談記録を引き寄せた。
先払いの要請あり。買い手は応じず。売り手側の資金対応は、同社及び専門家にて検討。
その下に、担当者の字で一行あった。
事業継続のため、早期決済が望ましい。
「この一行を、直してください」
担当者が顔を上げた。
「早く払うことと、事業が続くことを、同じにしないでください。何が金曜に間に合わなければ、何ができなくなるのか。そこまで書いてください」
担当者は手帳を開いた。
倉田は、残っていた冷たい茶を飲んだ。
六千万円の融資について、稟議上の承認は出ている。
取得と準備に二千万円。運転資金に四千万円。
だが、承認されたのは、名前の書かれた会社に六千万円を渡してよいということだけではなかった。何を受け取り、いつから売上を立て、どの支払いを負い、その金を何で返すか。その組合せに対して、条件を付けて認めたものだった。
受け取るはずの物が変われば、同じ六千万円でも別の融資になる。
「担保解除の書面は」
「売り手側の銀行から、案が来ています。最終対象の一覧と照合中です」
「建物は」
「所有者との賃貸借条件を詰めています。屋根の調査結果も、追加で出ます」
「客先は」
「主要先の一社で、検査の引継ぎ日がまだ決まっていません」
倉田は、担当者を見た。
「それを先に言ってください」
担当者の手が止まった。
「注文がなくなるという話ではありません」
「出荷できるんですか」
「確認が終われば」
「終わるまでは」
返事がなかった。
倉田は、運転資金の表を開き直した。
出荷から請求へ。請求から回収へ。
表の上では、その間に引かれた線は細かった。だが、一つ後ろへずれれば、給与と材料代を一度余計に持つことになる。
希望した日付に融資が実行できても、それで売上が始まるとは限らなかった。
「榊原さんに、ここへ来ていただけますか。真鍋さんも」
「条件を増やすという受け止めになりませんか」
倉田は、承認書の一項を指した。
主要顧客の取引継続及び検査体制の確認。
「増やすなら、増やしたと説明します。これは、確認できていない条件です」
担当者はうなずいた。
「ただし、こちらも具体的にしてください。確認をお願いします、だけで返さない。誰の、どの書面があれば、何を確認したとするのか。そこは銀行が決める仕事です」
担当者が部屋を出てから、倉田は取得対象の一覧をもう一度読んだ。
機械の型式。製造番号。治具。測定器。在庫。
欄外に、客先所有品を除く、とあった。
これを一つ間違えれば、買ったつもりの物が使えない。使えても、銀行が担保に取れるとは限らない。
倉田は赤いペンを置いた。
赤を増やせば安全になるわけではなかった。
翌朝、征一は席へ着くと、鞄から二枚の紙を出した。
「先に、変わったところをお伝えします」
倉田は、挨拶のために持ち上げかけていた資料を戻した。
「主要先一社の、検査の引継ぎです。当社名義での初回出荷は、こちらが置いた日には間に合いません」
担当者が、隣で姿勢を変えた。
征一は続けた。
「東浜精工の検査結果を、そのまま当社のものとして使えるとは考えていませんでした。ただ、先方の確認を受ける日を、こちらの希望で置いていました。昨日、客先の品質担当と話して、確定していないことが分かりました」
「いつになりますか」
「まだ、言えません。確認に必要な品物と記録を、今日、先方から出していただきます。その後で日を合わせます」
「では、金曜に取得した場合は」
「その品目は、当社から出荷しません」
倉田は、紙へ日付を書いた。
「東浜精工からは出せますか」
「今ある注文については、同社が責任を持って製造と検査を終えられる範囲を、客先と確認しています。人が移った後も、同じように出せるとは置きません」
真鍋が、注文別の一覧を机に広げた。
東浜精工に残す注文。引継ぎの承諾を得る注文。まだ決められない注文。
三つ目の欄は、売上計画の外へ出されていた。
倉田は、その欄を見た。
「この分を抜くと、いくら足りませんか」
「金額を一つでは出せません」
真鍋が答えた。
「出荷までの日数と、その間に作る量で変わります。ですから、確認前に当社が材料を追加発注する案をやめました。作ってから置いておく形にはしません」
「人件費は残りますね」
「残ります。採用日と配置を、一人ずつ確認し直しています。ただし、採用を約束した方へ、仕事が来るまで無給で待ってくださいとは言いません」
征一が、もう一枚の紙を寄せた。
「こちらの都合で開始日を変えるなら、本人の了承が必要です。すぐ働く必要のある方には、うちで確実に出せる仕事があるかを確認しています。倉庫へ行ってもらえば済む、とはしていません。勤務場所も時間も違いますから」
倉田は顔を上げた。
「それでも残らない人がいたら」
「必要な検査体制が組めなければ、買いません」
征一の声は低かった。
言ってから、唇を閉じた。
その答えを出すまでに何を考えたかは、倉田には分からなかった。
ただ、計画書の人員欄から人数を一人引くだけでは済まないことは、二人とも知っていた。
担当者が、机の端に置いていたメモを見た。
「売り手側は、金曜までに進めたいと」
「聞いています」
征一は答えた。
「間に合わせたいです。ただ、買えない状態で代金だけ払うことはしません」
倉田は、金曜と書かれた箇所へ線を引かなかった。
「こちらも、金曜を実行日とはお約束できません。ですが、何をそろえれば実行できるかは、今日、明らかにします」
担当者へ目を向ける。
「午後までに、残条件を一覧にしてください。確認者と、必要書類と、こちらが判断を返す時刻を入れて」
「はい」
「銀行側で止まるものと、先方の交渉が必要なものを分けてください」
征一が、初めて椅子へ背を預けた。
「それをいただければ、こちらも、できない日にできるとは言わずに済みます」
倉田はうなずいた。
面談が終わる間際、征一が聞いた。
「今回の六千万円は、うちの倉庫とビルがあるから、認められたんですか」
倉田は、すぐには答えなかった。
「なければ、同じ判断にはならなかったと思います」
征一は黙っていた。
「ただ、それだけで認めたわけでもありません」
「何が、一番大きかったんですか」
「一番を決めると、そこだけ残してよい話になります」
倉田は、真鍋の前にある会社全体の資金表を見た。
「既存の仕事がある。返済の実績がある。取得する事業にも、仕事と人と設備がある。ただ、それぞれが、同じ日に苦しくならないかを見ています。今回が駄目でも、ほかから出せばよい、という足し方はしていません」
「うちが、全体で返すからですね」
「はい。ですから、全体で何を守るかも伺っています」
征一は、しばらく机を見ていた。
「全部を守る、と言ったら」
「どの金で、いつまで守れるのかを伺います」
征一は笑わなかった。
鞄を閉じ、立ち上がる前に言った。
「次は、その表も持ってきます」
その日の午後、売り手側の銀行から、担当者へ電話が入った。
決済の準備は進めている。資産の処分を急ぎたい事情もある。買い手側の資金承認が出ているなら、日程を先に固められないか。
担当者は、倉田の部屋へ来た。
「先方の担当者から、直接お話ししたいと」
倉田は電話を代わった。
相手は、担保解除の条件を説明した。
対象資産と代金の配分。書面を出すまでに必要な手続き。売り手に残る債務。
倉田は最後まで聞いた。
「解除できる状態を整えていただくことは、こちらも必要です。ただ、解除できることと、買い手が事業を始められることは、別に確認します」
「それは分かっています。ただ、時間がかかれば、価値が落ちます」
「何の価値ですか」
「事業としてです。従業員も、待ち続けられません」
倉田は、机に伏せていた注文一覧を返した。
「承知しています」
相手の言うことは間違っていなかった。
機械だけなら、来月もそこにあるかもしれない。だが、それを動かし、寸法を出し、客先の癖を知っている人がいなくなれば、同じ値段では買えなくなる。
待つことにも損失があった。
「こちらも、審査をやり直すために止めているわけではありません。残っている条件を、本日、書面で買い手へ示します。そちらの解除手続きで必要な日数も、確定していただけますか」
「日程が決まれば、合わせます」
「日程を決めるために必要です」
電話の向こうが静かになった。
倉田は言い足した。
「御行の回収を遅らせたいわけではありません。ただ、当行の融資で御行への返済が済んでも、その後の給与が払えなければ、今回の計画は成立しません」
相手は、少し間を置いて答えた。
「手続きの日数を確認して、戻します」
電話を切ると、担当者が立ったまま待っていた。
「厳しい受け止めになるかもしれません」
「こちらの必要事項を、まだ曖昧に伝えていたなら、それは直してください」
倉田は受話器を置いた。
「向こうも、回収をする責任があります。こちらには、返せる金を貸す責任がある。それだけでは話が合わないから、同じ対象と日付を見て話すんです」
担当者は、作りかけの条件一覧へ戻った。
木曜の昼、征一から連絡があった。
東浜精工の給与は、同社側で支払手続きが済んだ。買い手からの先払いはしていない。
どう資金をつないだかについては、売り手側の弁護士が、決済までの支払見通しと合わせて整理しているという。
倉田は、担当者に確認を頼んだ。
「うちが、その説明だけで問題なしとする必要はありません。ただ、売り手の口座を全部見せてもらえば済む話でもありません。決済前に、何が止まるおそれがあるか。買う資産や、引き継ぐ仕事に、どんな影響があるかを確認してください」
その日の夕方、真鍋から更新された資金表が届いた。
取得日は、当初の希望から動いていた。
一社の検査を急がせる代わりに、確認前の生産を外した。ほかの注文も、客先の承諾を得たものだけを置く。人員は、意思を確かめた人数へ直してあった。
八千二百万円という総額は変えていなかった。
だが、内側は同じではなかった。
支払う日が動き、売上が入る日が動いた。先に持つ材料を減らした分と、長く持つ人件費を、別々に計算し直していた。使わずに残す八百万円へ、日程変更の費用を押し込んではいなかった。
倉田は、担当者と一緒に表を追った。
「この加工分は、確定注文ですか」
「はい。客先の書面があります。ただ、納品日は条件付きです」
「条件は」
「試作確認です。こちらの分も、確認前の売上には置いていません」
「採用は」
「必要な検査担当者を含め、本人への条件提示と回答を確認しています。売り手側の退職と、買い手側の採用日は、重なりを含めて弁護士が見ています」
倉田は、確認済みの欄へ自分の印を付けなかった。
書面を読み、担当者に根拠の場所を示させた。
確認の終わった項目だけ、日付を入れる。
最後に残ったのは、工場の使用条件だった。
翌日、建物についての報告が来た。
当面の漏水対策は、予定した範囲で実施できる見通しになった。所有者の承認も得た。
ただ、将来の屋根全体の修繕については、調査を踏まえた協議が残る。賃借人が無条件に全額負担する案にはなっていない。
倉田は、担当者へ書類を返した。
「この状態で、今後何年も使えると判断した根拠を、契約書と合わせてください。漏水工事の承認だけでは足りません」
担当者の眉が動いた。
もう一つ、増えた。
そう思った顔だった。
「借入の返済中に、使えなくなる場合の扱いです。契約で決められることと、決めても防げないことを分けてください。全部をなくせとは言っていません」
担当者は、持ってきた束を見下ろした。
「榊原さんは、取得をやめる条件まで出しています。ここまで確認する案件は、珍しいと思います」
「だから、こちらも、どこまで確認したら進めるかを決めなければいけません」
倉田は答えた。
「条件を出し続けていれば、銀行だけは間違えずに済むように見えます。でも、その間に人が辞めたら、買えた事業を失うかもしれない。そこも記録してください」
担当者は、書類を抱え直した。
月曜の朝、征一と真鍋が再び来た。
工場の継続使用に関する合意案が、机に置かれた。中途で使用できなくなる場合の扱い。修繕の分担。通知と協議。所有者の都合だけで、直ちに設備を出せという形にはしない。
それでも、建物の状態が将来まで保証されるわけではなかった。
真鍋は、移設が必要になった場合の概算資料も出した。
「この金を、今、別に全部確保しているわけではありません」
隠さずに言った。
「その点は、計画に残る負担です。屋根の調査結果で、近い時期の大きな支出が避けられないと分かれば、今回の取得条件では進めません」
倉田は、合意案を読み終えた。
書類の端をそろえる。
征一は、倉田の手元を見ていた。
「まだ、足りませんか」
倉田は、少し考えた。
足りないものを挙げることはできた。
受注の先は確定していない。設備は古い。人は辞めることがある。取得後に分かる不具合もある。
その全てを、融資実行の前になくすことはできなかった。
「将来のことは、足りないままです」
倉田は言った。
「ただ、今回の承認条件を確認する資料としては、そろいました。契約書の最終確認と、実行当日の確認を残して、進めます」
担当者が、手元の一覧へ目を落とした。
征一は、すぐには動かなかった。
「六千万円を、借りる契約へ進めるということですね」
「はい。ただし、最終代金や対象が、ここから変われば確認が要ります。実行までの間に、大きな変化があった場合も同じです」
「分かりました」
征一は真鍋を見た。
真鍋が、机の上の書類を一つずつ重ねた。
取得対象。顧客。人員。建物。資金。
どれか一枚だけでは、工場は動かなかった。
帰り際、征一が足を止めた。
「倉田さんは、買う方がいいと思いますか」
担当者が顔を上げた。
倉田は、征一を見た。
「銀行の判断を、買う理由にはしないでください」
征一の目が細くなった。
「融資は認める。でも、買うかどうかは別だと」
「はい。私たちは、御社が示した条件で返せるかを判断しました。従業員に何を約束し、取得後にどこまで関わるかは、榊原さんが引き受けることです」
征一は、鞄の持ち手を握り直した。
「分かりました」
その声は、最初に来た時より小さかった。
倉田は、二人を出口まで送った。
戻ると、担当者が机に残っていた控えを整理していた。
「榊原さんなら、やれると思います」
倉田は、椅子へ座った。
「それは、記録に書いてもらってかまいません」
担当者が意外そうな顔をした。
「ただ、何を見てそう思ったかを、書いてください」
担当者は手帳を開いた。
予定の売上を外したこと。先払いを断ったこと。必要な人が残らなければ買わないと言ったこと。既存事業の支払いを、今回の金で埋めなかったこと。
口に出しながら、書き留めていく。
倉田は、その横で最終確認の紙を開いた。
懸念が消えた、とは書かなかった。
残る懸念と、それが起きた時に誰から何の報告を受けるかを記した。担当者だけでは対応できない変化は、自分へ上げる。
最後の欄に、判断者の署名が必要だった。
窓の外では、雨が降り始めていた。
担当者は先に席を立ち、契約日の調整をするために電話をかけた。
倉田は、もう一度、六千万円の数字を見た。
征一が取得を決めれば、その先には、銀行の承認書を読まない人たちの給与日が来る。
倉田はペンの蓋を外した。
貸すと決めた欄へ、自分の名を書いた。




