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残金1,842円|第25話「銀行が見ていたもの」

「木曜の給料は、誰が払うんですか」


 工場の入口で、作業着の女性が聞いた。


 高瀬が、隣の征一を見た。


 征一は、その視線を受け取らなかった。


「東浜精工が支払います」


 高瀬は答えた。


「榊原さんに、買ってもらう金で?」


「まだ、買ってもらうとは決まっていない」


 女性はうなずき、胸のポケットから小さな手帳を出した。


「では、来週も同じですか」


 工場長が、作業を続けている二人の方へ顔を向けた。


 機械を全部止めることはできなかった。終わらせなければ、月曜に納める物がなくなる。


 高瀬は返事を探していた。


 征一は、集まった人たちを見た。


「私の会社へ移る条件は、確定してから一人ずつお示しします。その前に、残ると約束していただくことはしません」


「確定しなかったら」


 奥から声がした。


「その場合のことも、今の会社と専門家の方で準備を進めています」


 高瀬の喉が動いた。


 女性が手帳へ何かを書いた。


 買い手が来たことより、木曜に自分の口座へ金が入るかを聞いていた。


 征一には、その問いに代わって答える権限がなかった。


 翌週の月曜、銀行の担当者は、東浜精工の計画書を机の脇へ置いた。


「今日は、御社の方からお願いします」


 先に開かれたのは、征一の会社の資金表だった。


 真鍋が資料を寄せる。


「取得する会社と、借り入れる会社は、御社で同じですね」


「はい。別会社を作って受ける案ではありません」


「取得後の材料代、給与、賃料、リース料も、御社の支払いになりますね」


「その案です」


 担当者は、会社名を確かめた。


 高瀬の会社が苦しいから貸す、という面談ではなかった。


 貸す相手は征一の会社だった。


「自己資金二千四百万円の根拠を、もう一度見せてください」


 征一は通帳の残高を出さなかった。


 真鍋が、今後の入金と支払いを重ねた表を開いた。


 倉庫の仕事へ残す金。

 給与。

 税金。

 既存の借入返済。

 ビルの維持に払う金。


 取得に出せる額は、口座の残高から、それらを引いた後の額だった。


 担当者は、物流の売上が入る日へ指を置いた。


「これが一週間遅れた場合は」


 真鍋が、別の表を出した。


「こちらです。ただし、今回の取得日より前に入る前提にはしません。実行直前に、実際の残高と支払予定を確かめ直します」


「取引先からの入金が遅れても、御社の給与は同じ日に出ますね」


「はい」


「東浜精工の入金も、同じ理由で遅れることはありませんか」


 征一は、顔を上げた。


「売上先は違います」


「直接の取引先が違っても、その先の生産が同じ動きなら、同時に影響することがあります」


 担当者は、二つの事業の顧客一覧を並べた。


「御社の倉庫を使う工場から、今回の紹介があった。そこから先に、どの程度同じ商流があるかを見たいです」


 征一は、自分が利点として説明した関係を見直した。


 運ぶ仕事がある。

 加工する場所が加わる。

 地域の中で仕事をつなげられる。


 同じ関係が、売上の増える方向だけに働くとは限らなかった。


 一つの生産計画が変われば、運ぶ量と加工する量が、一緒に減る場合もある。


「分かる範囲で、先の取引も確認します」


 征一が答えると、担当者は次の紙へ進んだ。


「今回の返済原資は、取得する事業だけですか」


「基本は、そこから残る金です」


「足りなければ、既存事業から出しますか」


 征一は、答えかけて止めた。


 出せる。


 そう答えれば、話は進むように思えた。


 ただ、出すと言うなら、東浜精工の表ではなく、今開いている自分たちの表を変える必要があった。


「上限を決めていません」


「では、無制限に出せる前提にはしないでください」


 担当者は、東浜精工の計画を戻した。


 三千六百万円の取得価格。

 四百万円の準備と初回整備。

 二千八百万円の運転資金。

 八百万円の余裕。


 合計七千六百万円。


 その後に、売り手側との七百万円の差と、当面の漏水対策百八十万円が出ていた。


「この計画のままでは、申込額を決められません」


 担当者は言った。


「七百万円を価格に足し、工事も加えれば、必要額が変わります。余裕を使うなら、その後の下振れを持てるかが変わります」


 真鍋は、借入五千二百万円と書いた欄へ線を引いた。


 消さず、旧案と記した。


 征一は、その手元を見ていた。


「価格を確定して、持ち込み直します」


「価格だけではありません。返済を始めた後の方もです」


 担当者が、年間の計画を開いた。


「この利益から、何が出ますか」


 材料と給与は、既に引いてある。

 賃料も、電気代も、リース料も入っている。


 真鍋が、税金と設備更新の欄を示した。


「初年度の整備とは分けて、修繕履歴から置き直しています」


「取得のための借入元金は、その後ですね」


「はい」


 利益があることと、返済に出せる現金があることは同じではなかった。


 売上が増えれば、先に買う材料も増える。

 客先が引き取るまで、仕掛品に金が止まる。

 返済を終えた後にも、次の給与が来る。


 担当者は、取得する機械の年式を見た。


「この設備を、何年使う計画ですか」


「修理して、できるだけ」


 征一が答えると、担当者は目を上げた。


「使える間は使う、という方針は分かります。ただ、修理できなくなった時を、返済の後へ出してよいかは別です」


 征一は、工場で見た加工機を思い出した。


 扉が閉じ、動いていた。


 それを、自分は使える設備として見ていた。


 担当者は、借りた金を返す間に何が起きるかを見ていた。


「部品と修理の見通しを、確認します」


「工場を使える期間も、合わせてください」


 建物を買わないから、金は少なくて済む。


 その説明だけでは足りなかった。


 設備を据え、人を移し、客先の確認を取り直す。

 使った金を取り戻す前に建物を使えなくなれば、移設にまた金が要る。


 担保を持つ銀行の承諾も、家主の約束も、必要な期間の中で意味を持つものだった。


 帰りの車で、征一は高瀬へ電話した。


「取得日を含めて、条件を確定する協議をしたいです」


「金額は、決まりますか」


「決めるために行きます。銀行の方と、先生にも入っていただけますか」


「どちらの銀行ですか」


「まず、御社の担保を外す側です。当社の借入承認とは、分けます」


 高瀬は、少し黙った。


「何度も同じものを出している気がします」


 征一は、窓の外を見た。


「私も、そう思っていました」


「違うんですか」


「前は、買いたい物の値段を見ていました。今は、その日に受け取れる物と、その後に払える金を決めています」


 電話の向こうで、椅子が鳴った。


「来てください」


 高瀬は言った。


「来週の支払いまでには、話を進めたい」


 協議の机には、二つの価格が並んだ。


 買い手側の三千六百万円。

 売り手側が必要とした四千三百万円。


 高瀬側の弁護士が、取得対象を揃えた一覧を出した。


 機械。

 測定器。

 治具。

 在庫。


 客先の所有物は除く。

 リース会社の設備は売買の外へ置く。

 現預金と、原則として既に発生した売掛金は、東浜精工に残す。


 仕掛品の扱いは、注文ごとに分ける。

 誰が納め、誰が請求し、加工の途中までにかかった費用をどう精算するか。


 一覧の下に、同じ品物を二つの会社の入金へ置かないと記された。


 真鍋が、対象の番号を一つずつ照らした。


 銀行の担当者は、担保の付いた設備へ印を付けた。


「解除の条件は、この金額を当行への返済に充てていただくことです」


 征一は、価格の根拠を出した。


 撤去して売る場合の査定と、そのまま使う場合の取得候補を分けた資料だった。


「継続して使うから、処分より高く置いている部分があります。ただし、リース品と、客先の物は入れていません」


「こちらも、必要だから高くしているだけではありません」


 高瀬側の弁護士が答えた。


「ほかの債権者へ説明できる価格でなければ、進められません。配分だけでなく、価格自体の根拠が必要です」


 銀行だけが同意しても終わらない。


 その点は、征一も変えなかった。


 夕方までかかった協議で、取得対象を一部変えた。


 当初は買う候補だった予備設備を外した。

 生産に直結する治具と測定器は残した。

 在庫は、引継ぎが認められる注文へ使う分から数量を確かめる。


 双方が専門家と持ち帰り、二日後、三千八百万円を価格案とするところまで寄った。


 最終契約額ではなかった。


 在庫は引渡し時の現物確認で精算する。その増減だけで総額が膨らまないよう、取得対象と上限を置く。範囲を超える変更は、双方で再協議する。


 担保解除の条件と代金の配分は、高瀬側が債権者との協議を続ける。


 その確認が済まなければ、払わない。


 高瀬は、三千八百万円の紙を見た。


「これで、借金が終わるわけではありません」


「はい」


 征一は答えた。


「でも、こちらは、それ以上を買値に入れられません」


 高瀬はうなずかなかった。


 父の代からの会社を、支払いの足りない部分まで含めて引き取る人は、今、目の前にいなかった。


 建物の協議は、別に続いた。


 当面の漏水対策百八十万円は、征一側が引継ぎ準備として負担する案にした。


 その代わり、工事の範囲と、所有者の承認、実施できる時期を確定する。


 将来の全ての修繕まで買い手へ移すことはしなかった。


 屋根の全体をどう扱うかは、調査と見積もりを残す。

 その結果で費用と使用条件が大きく変わるなら、取得も見直す。


 施工会社は、一日で終える案と、二日を取る案を出した。


 一日なら、工場側が前後へ仕事を詰める。

 残業と検査の移動が要る。


 二日なら、止める時間は長い。

 ただし、無理に工程を重ねずに済む。


 工場長は、二つの勤務表を置いた。


「こちらの残業を入れると、辞める人に最後まで残ってもらう形になります」


 征一は、二日を取る案へ指を置いた。


「こっちで計画を直します」


「納品が一日、動きます」


「先方の承諾を取ってからです。取れなければ、工事日を変える」


 金を払えば早くなるという決め方は、できなかった。


 自分が早く引き受けたいからと、まだ雇っていない人の時間を使うこともできなかった。


 修正後、必要な資金は八千二百万円になった。


 取得価格案が三千八百万円。

 準備と初回整備は、漏水対策百八十万円を加えて五百八十万円。

 運転資金は三千二百二十万円。

 余裕は、八百万円を残す。


 数量を下げたのに、運転資金は増えた。


 検査の引継ぎで出荷が後へ動く。

 その間も給与と賃料は出る。

 客先への請求は、出荷の後だった。


 百八十万円を余裕から使い、残りを六百二十万円とする案は捨てた。


 価格の増加分を払ってから、足りなくなった時に考えることもしなかった。


 自己資金二千四百万円。

 必要な借入は、六千万円。


 真鍋は、旧案の五千二百万円と並べた。


「八百万円、増えました」


 征一はうなずいた。


 四千三百万円を断ったのに、借りる金は増えていた。


 値段の交渉で守れた金と、動かすために必要になった金が、別にあった。


「この条件で、買いますか」


 真鍋が聞いた。


 征一は、三千二百二十万円の内訳を読んだ。


 そこに、新しい顧客の売上は入れていなかった。


 自社の荷主から加工の仕事を回せるかもしれない。

 まだ、注文はない。


 その可能性を足さなくても、最初の仕事を終え、入金へ届く計画にした。


「条件がそろえば、買いたいです」


「不足したら、既存事業から追加で持ちますか」


 征一は答えなかった。


 真鍋も、次の紙を出さなかった。


「自動では、出しません」


 征一は言った。


「どの時点で、私たちが判断するかを決めます。買う前に」


 真鍋が、資金表の底へ線を引いた。


 残る金が少なくなってからでは、打てる手が限られる。


 線に近づく前に、受注、材料の発注、設備への支出を見直す。守るべき給与や既に約束した支払いを、その場で遅らせて合わせる計画にはしない。


 止めるとしても、取引先と従業員への対応に金が要る。


 八百万円を、自由に使える投資枠とは呼ばなかった。


 銀行の二度目の面談では、担当者が二つの金額を口にした。


「取得と準備に、二千万円。運転資金に、四千万円。合計六千万円の申込みですね」


「はい」


 真鍋が答えた。


 取得と準備の四千三百八十万円に、自己資金二千四百万円と借入二千万円を充てる。


 残る二十万円を、運転資金側へ回す。


 運転資金三千二百二十万円と余裕八百万円、合わせて四千二十万円に、借入四千万円と、その二十万円を置く。


 同じ自己資金を、二つの欄へ足すことはしなかった。


「四千万円は、売上が一度入れば返せる資金ではありませんね」


「はい。継続中に持つ部分と、立ち上がりに使う部分が含まれます。短い期日で全額返し、更新していただく前提にはしていません」


 担当者は、返済計画を読んだ。


 取得と準備の二千万円は、五年返済。

 運転資金四千万円は、六年返済を希望する。


 担当者は、そのまま丸を付けなかった。


「運転資金の方で、当初六か月の元金据置きを希望されていますね」


「検査の引継ぎと、最初の回収までを見ています。利息は、その間も支払います」


「据置きの後は、残る期間で返すことになります」


「はい。その条件で計算し直しています」


 貸付期間全体を長く見せながら、毎月の返済を少なく置くことはしなかった。


 元金据置きが終わった後、二つの借入を合わせて月に約九十四万円の元金が出る案だった。そこへ利息が加わる。


 既存の借入返済は、その下ではなく、会社全体の別の表にも残っていた。


 東浜精工の仕事から、平常時に年間千五百六十万円の現金を残す見通しを置いた。


 税金の支払いと、通常の維持に必要な金を見込み、取得のための借入元利金を払う前の額だった。


 融資の利息はまだ提示されていない。仮の条件を置いて、返済後にどこまで残るかを見る。


 売上が下がり、入金が遅れた場合の表では、単独で払えない月が出た。


 担当者が、そこへ指を置いた。


「この場合、余裕の八百万円を使いますね」


「使う前に、発注と配置を見直します。ただ、すぐ減らない支払いもあります」


 征一は答えた。


「それでも回復しなければ」


「追加資金を当社で出すか、事業を続ける範囲を変えるか、判断します。追加融資は、その時の前提にはしません」


「判断するまでに必要な金が、こちらに入っていますか」


 真鍋が、終了や縮小の際にも残る費用を示した。


 全てを一度で確定できたわけではない。


 それでも、悪くなったら止めるという一文から、誰へ何を払うかまで下りていた。


 担当者は資料を閉じた。


「本部へ上げます」


 征一は、ようやく息を吐いた。


 だが担当者は、次の紙を開いた。


「既存事業の方も、確認させてください。今回の事業だけを、御社から切り離して審査するわけではありません」


 数日後、担当者が倉庫へ来た。


 現場責任者が、受領記録を見せた。


 数量の訂正。

 締切後の変更。

 別便の費用。

 荷主の承認。


 担当者は、売上の表だけでなく、その裏の記録を読んだ。


「最初の変更は、御社で持つ方法もありましたね」


 征一がうなずく。


「そうした方が、話は早く終わったと思います」


「そうしなかったのは」


「次も通常分で引き受ける条件にしたくありませんでした。必要な時刻と、費用を先に確かめました」


 担当者は、荷物の少ない区画を見た。


「予定より、少ない量で始めたんですね」


「はい。受けられる範囲へ絞りました」


 征一は、空いた床を見た。


 早く埋めたかった場所だった。


 そこで断った仕事と、請求した費用の記録が、今、東浜精工の計画を支えていた。


 高瀬へ条件を変えろと言うだけではない。


 自分たちも、相手の仕事を選び、費用を伝え、少ない量で始めた。


 銀行は、その判断が、紙の中だけのものではないかを見に来ていた。


 担当者が帰る前、征一は聞いた。


「ここを見ていただくと、何が変わりますか」


 担当者は少し考えた。


「計画どおりの売上になるとは、分かりません」


「はい」


「ただ、条件が違った時に、御社が何をする会社かは、数字だけより分かります」


 その答えは、承認の約束ではなかった。


 征一は礼を言った。


 本部からの回答は、さらに後だった。


 担当者は電話で、稟議上の承認を得たと伝えた。


 六千万円。


 ただし、契約と実行には、まだ条件があった。


 譲渡する対象と最終代金。

 担保解除の書面と代金の支払手順。

 工場の継続使用。

 リース契約。

 主要顧客の確認。

 必要な人員と検査体制。

 自己資金の確認。


 計画から大きく変われば、銀行へ戻す。


「口座へ入った金ではありませんので」


 担当者が言った。


「分かっています」


 征一は答えた。


「ただ、こちらからも、条件がそろう日を決めて進められます」


 電話を切ると、真鍋が、六千万円を現預金の欄へ入れようとはしなかった。


 承認済み、未契約、未実行。


 その欄へ、日付を書いた。


 征一は、高瀬へ電話した。


「資金の審査は、条件付きで承認されました」


 向こうで息を吸う音がした。


「買ってもらえるんですね」


「決済条件がそろえばです。まだ、代金を払う約束を無条件では出せません」


「社員には」


「資金の承認が出たと、伝えてください。取得が終わったとは言わないでください」


 高瀬は、今度はすぐに返事をした。


「分かりました」


 征一は、最終契約の協議日を決めた。


 電話を切った後、机の端にあった封筒を取った。


 高瀬側から頼まれていた、取得代金の一部を先に入れる案だった。


 調べている間も、東浜精工には支払いが来る。


 先に払えば、一日は延びるかもしれない。


 事業を受け取れなかった時、その金が戻るかは別だった。融資の資金使途も、条件も、勝手には変えられなかった。


「こちらは、出しません」


 征一は真鍋へ渡した。


「先方のつなぎと、当社の取得を混ぜない。必要なら、先生方と別の案を協議してもらいます」


 真鍋は、封筒へ実行しないと記した。


 それから、銀行の承認条件を開いた。


「では、決済日までの支払いを、もう一度合わせます」


 征一は、自分の会社の振込一覧へ署名した。


 給与。

 運送会社への代金。

 既存の返済。


 六千万円を借りられる見通しがついても、そこへ使える金ではなかった。


 倉庫から、荷下ろしの終わった車が出ていく。


 征一は窓を見た後、二つの会社の表を並べた。


 東浜精工の支払予定。

 自分たちの取得後の資金。


 その間には、まだ決済日という空欄があった。


 征一はペンを取り、高瀬と話した協議の日を、その手前へ書いた。


 買うための金が見えた日、征一は初めて、払わない金を一つ決めた。

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