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残金1,842円|第24話「買える会社と買えない会社」

「その振込をすると、木曜の給料が足りません」


 材料商社へ電話をかけようとしていた高瀬の手が止まった。


 月曜の朝だった。


 東浜精工の経理担当者は、銀行の入出金明細と、今週の支払予定を並べた。


「客先から、入ったんでしょう」


「入りました」


「では、材料を」


「こちらです」


 女性は、預金残高の下に引いた線を指した。


 振り込む予定の材料代。

 今週支払う給与。

 引き落とされる電気代。

 それより後に入る売掛金。


 月末まで足せば、金は入っていた。


 木曜の朝には、間に合わなかった。


 征一は、手帳を閉じた。


 材料が入れば、機械を動かせる。


 そのために空けた月曜の朝だった。


「この支払いは、先週の表にもありましたか」


 真鍋が尋ねた。


「ありました。ただ、こちらの入金を今日に置いていました」


 経理担当者は、もう一枚の請求書を出した。


「金額の確認が戻っています。今日の支払いには乗らないと言われました」


「いつになりますか」


「まだ、返事がありません」


 高瀬が請求書を持った。


「納めた分ですよ」


「はい」


「向こうで使っているんです」


 誰も、それを否定しなかった。


 高瀬は請求書を置き、机の電話を見た。


 材料商社への支払いを決めれば、給料が足りない。

 給料を残せば、材料が入らない。


 窓の向こうで、工場長が歩いてきた。


 征一は立ち上がった。


「まず、材料の量を分けられるか聞きましょう」


「全部、要るんですが」


「今日から使う分です。残りは、入金と納期を確かめてからにする」


 高瀬が、真鍋を見た。


 真鍋は給与の欄を囲んだ。


「給料へ残す分は、先に外します。使わなかったことにできる金ではありません」


 工場長を呼び、注文ごとの材料と工程を並べた。


 同じ材料を使う品物でも、納期は違った。

 全部を一度に仕入れた方が単価は下がる。運賃も一度で済む。


 分ければ、買える量は減り、余分な運賃がかかる。


 材料商社は、現金で買う分の小口出荷を断らなかった。ただし、当初の単価のままでは出せないと言った。


 高瀬が受話器を押さえる。


「これでは、利益がなくなります」


 征一は、工場長へ聞いた。


「先に動かす注文だけなら、残りますか」


 工場長は見積書を経理担当者へ回した。


 真鍋が、材料代と外注費、今回増える運賃を拾う。


 利益は薄くなった。

 それでも、先に納められる標準品には金が残った。


 その代わり、後ろへ動かす注文ができた。


「先方へは、私から話します」


 高瀬が言った。


「材料が遅れたとは言いません。納期を守れない相談として、話します」


 工場長が顔を上げた。


 高瀬は、材料商社へ返事をした。


 給与へ残す金を除き、必要な分だけを買う。


 征一の会社から、一円も入れないまま、午前が過ぎた。


 昼過ぎ、材料を積んだ車が来た。


 予定より少ない束を、工場長が確かめる。


 一本を持ち上げ、伝票と表示を照らす。


 機械を動かす前に、最初の品物を測る時間が必要だった。車を急がせた分が、そのまま出荷を早めるわけではなかった。


 高瀬は、その横で電話をしていた。


「はい。そちらの予定を変えていただく話です。申し訳ありません」


 声を落とし、工場の外へ出る。


 征一は、追わなかった。


 真鍋が近づいてきた。


「今日を越える方法と、買った後の計画を分けたいです」


「はい」


「納期を動かした分は、入金も動きます。材料を少なく買って支払いを減らしても、その分だけ来月の不足が減るとは限りません」


 征一は、動き始めた加工機を見た。


 扉の向こうで、材料が削られていた。


 今日、届いた。


 その事実だけを、成功にはできなかった。


 翌朝、真鍋は東浜精工から受け取った請求書の一覧を、会社ごとではなく、入金予定日ごとに並べ直した。


「この二つは、別に置きます」


 一つは、客先が引取りを待っている完成品だった。


 もう一つは、納品したものの、検収の確認が終わっていない品物だった。


「どちらも、仕事は終わっています」


 高瀬が言った。


「御社の作業が終わっていることは分かります。相手がいつ、いくら払うかは、別に確認したいです」


 真鍋は、完成品の横へ保管場所を書いた。


「こちらは、引取り前です。今の会社が請求して回収するのか、譲渡する対象に含めるのかも、まだ決まっていません」


「買ってもらうなら、その分も」


「買うなら、使えるものとして値段を置けるか確かめます。帳簿に残っている原価を、そのまま代金にする約束はできません」


 高瀬は椅子の背から身体を起こした。


「材料と、人の金は払っています」


「はい。ただ、買った後に追加で削るものや、客先が使わないものまで、同じ価格では数えられません」


 征一は、一覧を手元へ引いた。


 東浜精工へ払う代金を安くすれば、自分たちには有利になる。


 高瀬の側では、債権者へ渡せる金が減る。


 その差を、帳簿の数字が埋めてくれるわけではなかった。


「現物を分けましょう」


 征一は言った。


「今の会社が納めるもの。こちらが引き継ぐ候補。客先へ返す預かり物。それぞれ、誰の物か分かるようにする」


 工場長と経理担当者が、棚を一段ずつ確かめた。


 客先の材料を使った仕掛品には、客先へ確認する印を付けた。


 途中まで加工していても、東浜精工が自由に売れるとは限らなかった。


 図面の版が違うものが、同じ棚にあった。

 注文番号の書かれていない箱もあった。


 高瀬は、箱の中を見て言った。


「これは、また出る品物です」


「注文は」


 征一が尋ねる。


「今は、ありません」


 真鍋は、その箱の金額を、最初の入金までの資金へ足さなかった。


 残せる仕事も、同じように確かめた。


 最大の顧客を訪ねると、購買担当者は、新しい取引先としての確認が必要だと言った。


「工場も、人も同じです」


 高瀬が言う。


「契約する相手は変わりますよね」


 担当者は答えた。


「品質保証の責任者と、検査体制を見せてください。それと、今の単価が続くかどうかです」


 征一は、変更のあった図面を開いた。


「同じ品物を同じ条件で作る分と、仕様が変わる分を分けて話したいです」


「こちらも、その度に価格を変えられません」


「変更を受ける前に、納期と費用を確認する時間が必要です」


「それでは、急ぐ仕事を出せません」


 高瀬の指が、机の上で動いた。


 急ぐ仕事を断らなかったから、今の取引があった。


 一方で、その仕事が入る度に、定期品を休日へ回していた。


 征一は、購買担当者へ聞いた。


「定期品だけを、最初の対象にできますか」


「注文を選ぶということですか」


「引継ぎ直後に、守れる範囲を決めるということです」


 担当者は、資料を閉じなかった。


「数量の約束はできません。こちらも先の生産予定で変わります」


「では、確定した注文と内示を分けて、準備する範囲を決めたいです」


 値段だけの交渉ではなかった。


 相手は、必要な時に部品が来ることを買っていた。

 征一は、何が来るか分からないまま、人と材料を待機させる費用を引き受けようとしていた。


 同じ注文書を見ながら、持とうとしている時間が違った。


 その日は、取引継続の承諾は出なかった。


 確認する図面と検査記録、返事の予定日だけが決まった。


 帰りの車で、高瀬は窓の外を見ていた。


「注文を減らされたら、どうしますか」


「減った条件で計画を直します」


「直して、合わなければ」


「買わないこともあります」


「こちらは、もう仕事を断っています」


 征一は、すぐには返せなかった。


 高瀬が手放した注文を、自分の取得の約束で埋めることはできない。


 それでも、先に道を細くしておいて、買わないと言える側にいることは、征一にも重かった。


「条件を変えたのは、買ってもらうためだけではありません」


 真鍋が言った。


「今の会社で続けるにも、同じ確認が必要だったはずです」


 高瀬は、前を向いたまま答えた。


「そうでしょうね」


 納得した声ではなかった。


 工場へ戻ると、若い作業員が応接室の前で待っていた。


 測定器をのぞいていた男だった。


「金曜までに、返事をすることになっています」


 転職先が見つかったという。


 高瀬が顔を上げた。


「いつから探していた」


「先月からです」


「何も、言わなかったじゃないか」


「決まっていませんでしたから」


 高瀬は、口を閉じた。


 征一は椅子を勧めた。


 作業員は座らなかった。


「ここで続ける条件は、いつ分かりますか」


「今週中に、確定した条件を出せるとは言えません」


 征一は答えた。


「給料もですか」


「仕事と配置を決め切れていません。こちらの資金も、最終承認はまだです」


 作業員は、うなずいた。


「向こうは、書面で来ています」


 鞄から出すことはしなかった。


「家で、いつまで待つんだって言われています」


 高瀬が、椅子から腰を浮かせた。


「もう少しだけ」


「一度、待ってもらったんです」


 工場長が、入口に立っていた。


 征一は作業員へ言った。


「こちらが決まるまで、確定した話を断ってほしいとは言えません」


 高瀬が征一を見た。


 作業員は頭を下げた。


「分かりました」


 出ていった後、工場長が検査の予定を置いた。


「あの人が抜ける場合は、ここを変えます」


 一人減った分だけ、人数を補えば済む表ではなかった。


 客先ごとの確認箇所がある。

 測定器を使えても、その違いを覚える時間が要る。


「工場長が、全部見られますか」


 征一が聞くと、工場長は首を振った。


「私が検査に入れば、段取りを見る時間が減ります」


 真鍋が、立ち上げの数量を下げた。


 出荷が下がる。

 入金が後へ動く。


 給与は、その前に来る。


 その夜、征一の机に、取得計画の数字が初めてまとまった。


 引き継ぐ固定資産と、対象を絞った在庫について、買い手側が置いた検討上の価格は三千六百万円。


 売り手との合意額ではない。


 土地と建物の取得は、その中に入れていなかった。継続して使える条件を整え、賃借する案だった。


 加工機のうち、リース会社の物も、取得代金には含めない。引き継げる契約と、その後に払う費用を別に置いた。


 引継ぎの準備と初回の整備に、四百万円。


 材料や給与を先に払い、売上を回収するまでの立替えが最も増える時点で、二千八百万円。


 数量と入金が下振れした場合に残す分として、八百万円。


 真鍋は、四つの欄を指で追った。


「七千六百万円です。まだ、調査中の項目があります」


 征一は、取得代金の欄を見た。


 三千六百万円で買う。


 そう言えば、小さな案件に見えた。


 会社が用意する金は、その倍を超えていた。


「二千八百万円の中に、立ち上がりの赤字は」


「入っています。毎月の不足を足した上で、必要額の山を見ています。同じ赤字を、別にもう一度足してはいません」


「売掛金が入れば、戻る部分は」


「あります。ただ、仕事が続く限り残る立替えもあります」


 征一は、自分の会社全体の資金表を開いた。


 倉庫の仕事へ残す分。

 給与と税金。

 既存の返済。

 ビルの維持。


 その金は、ここへ使わない。


「自己資金は、二千四百万円までです」


 真鍋が言った。


「見送った設備の分も含め、ほかの計画を変えずに出せる上限です」


「残りが、五千二百万円」


「はい。取得と準備の四千万円に対して、自己資金二千四百万円、借入千六百万円。運転資金の二千八百万円と、余裕の八百万円は、別に調達方法を相談します」


「八百万円も、最初に借りるんですか」


「常時借りるか、使える枠にするかは、銀行と詰めます。ただ、使えると決まっていない枠を、現金には数えません」


 真鍋は、まだ空欄のままの融資条件を示した。


「金利と返済を入れた時に残るかも、ここからです」


 征一は、電卓へ指を置いた。


「代金を、もう少し下げれば」


「売り手へ提示はできます。ただ、それで権利を移せるかは別です」


 東浜精工の工場へ値段を付けることと、その値段で受け取れることは違った。


 翌日の協議で、その違いが紙になった。


 高瀬側の弁護士が、機械ごとの一覧を開いた。


 買い手が取得候補へ入れた設備のうち、一部には銀行の担保が付いていた。


 銀行は、その設備を外す条件として、代金から一定額を返済へ充てることを求めていた。


 残る代金で、ほかの債権者にどう説明するか。

 手続きの費用と、今後の会社の処理に何を残すか。


 高瀬側の検討では、同じ対象について、四千三百万円が必要だという案になっていた。


 征一側が置いた価格との差は、七百万円だった。


「七百万円なら」


 高瀬が言った。


 真鍋は、紙から目を上げた。


「取得後に残す余裕は、八百万円です」


「同じではありませんよね。こちらの会社に払う金と、そちらが残す金は」


「はい。ただ、当社が用意する総額の中では、同時に必要です」


 征一は、四千三百万円の内訳を見た。


 高瀬の希望額だけで増えた金ではなかった。


 担保を外すための条件がある。

 ほかへ説明するための価格の根拠が要る。


 一方で、自分たちが買った後の事業は、七百万円高く払ったからといって、その分だけ稼ぐわけではなかった。


「銀行へ、解除の条件をもう一度確認させてください」


 征一は言った。


「こちらも、価格の根拠を出します。ただ、不足した七百万円を、そのまま足す約束はできません」


 高瀬は、書類を閉じなかった。


「全部、終わった後なら、あなたも買えるんでしょうね」


 征一は高瀬を見た。


「借金も、人も、客も、何も問題がなくなってからなら」


「問題がない会社を探しているわけではありません」


「でも、問題があると、買わない」


 応接室の外で、電話が鳴った。


 経理担当者が応対する声が聞こえた。


 高瀬は、その声へ目を向けた。


「今、足りないんです」


 征一は、七百万円の差を見た。


 出せない金額ではなかった。


 別の投資を動かせば、出せる。

 自分の会社の収益から補えば、持つこともできる。


 だが、それを決めるなら、東浜精工を買う代金だけの判断ではなくなる。


 自分たちの仕事から、どこまで金を移し、いつまで支えるのか。


 高瀬を助けたいという言葉では、その期限を決められなかった。


「何を変えれば、この金額で残るかを確かめます」


 征一は言った。


「同じ対象を、同じ条件のまま高く買うとは、今日は言えません」


 高瀬は、椅子へ深く座り直した。


 工場の建物も、別に見た。


 夕方、雨が降り始めると、工場長が壁際の棚を引いた。


 床へ、細い水の筋が落ちていた。


「毎回ですか」


 征一が聞くと、工場長は天井を見た。


「風の向きによります」


 翌朝、征一は、自社で付き合いのある施工会社の担当者を呼んだ。


 建物を買わないとしても、使えなければ事業は続かない。


 担当者は、屋根を見ただけで金額を言わなかった。


「漏れている場所と、水が入る場所は同じとは限りません。まず図面と、上の状態を確認します」


 工場長が、直した時の請求書を探した。


 図面には、後から付けた庇が描かれていなかった。


 屋根の一部は、建物と別の時期に施工したものだった。


「ここを直すと、何日止まりますか」


 征一が聞いた。


「工法と範囲を決めてからです。下で加工を続けられるかも、切粉や水、養生の方法を見ないと答えられません」


 担当者は、機械の位置を記した。


 安く屋根を直しても、製品へ異物が入れば使えない。

 機械を移せば、据え直しと精度の確認が要る。


 工事費だけでは、止める値段は出なかった。


 賃貸借の案を見た弁護士が、修繕の負担へ印を付けた。


「所有者が負担すると書くだけでは、支払えるかが残ります」


 真鍋が、建物の所有者を見た。


 高瀬の会社だった。


「こちらで直して、賃料と調整する案は」


 征一が言うと、弁護士はうなずいた。


「協議はできます。ただ、施工する範囲、承認、精算、途中で使用が終わった時の扱いまで決めましょう」


 金のない会社から、建物を借りる。


 買わずに済んだ費用の一部が、修繕と契約の問題として戻ってきた。


 施工会社から届いたのは、確定見積もりではなかった。


 調査を終えた範囲で、当面の漏水を抑える工事と、継続して使うための工事を分けた概算だった。


 引継ぎ前に必要な分として、百八十万円。

 その後の工事は、屋根材の確認と施工範囲の協議を残していた。


 征一は、四百万円の初回整備費の内訳と照らした。


 そこには、同じ工事は入っていなかった。


「八百万円から出すと、六百二十万円になります」


 真鍋が言った。


「そうですね」


「余裕を減らして済ませるか、用意する総額を増やすかを決める必要があります」


 征一は、取得価格の差額七百万円を見た。


 こちらも払えば、最初に残すつもりだった八百万円は、既になくなる。


 まだ、工場を一日も自分の会社で動かしていなかった。


 銀行へ持ち込んだ計画にも、同じ箇所を問われた。


 担当者は、工場の処分価格より先に、月ごとの金の動きを読んだ。


「取得に使う資金と、運転資金は分けて検討します。ただ、立ち上がりの損失を、売掛金が入れば返る資金としては扱えません」


 真鍋が、内訳を開いた。


「こちらは継続中に残る部分。こちらが一時的な立ち上がり分です」


「売上が予定を下回った時、どの時点で止めますか」


 担当者が聞いた。


 征一は、数量を下げた表を出した。


「今の案では、ここまで落ちると追加の支えが必要になります」


「その追加は、御社のどこから出しますか」


「今の計画には入れていません」


「では、その前に何を変えるかです」


 銀行は、買うなとは言わなかった。


 買った後に足りなくなったら、征一の会社が出すという説明も求めていなかった。


 どの仕事を残し、どの費用を止められるか。

 止めても払うものは何か。


 そこを出すように言われた。


 会社へ戻ると、征一は工場長へ電話した。


「初月から、全ての機械を動かさない案を考えたいです」


「人を減らすという話ですか」


「すぐ、その結論にはしません。立ち上げる品物と設備を絞る。検査を覚える時間も、先に取る」


「待つ人に、何をしてもらいますか」


 征一は、紙へ書きかけた。


 止めた機械の横へ、人の名前を移すだけでは仕事にならなかった。


「明日、一緒に組ませてください」


「本人たちにも、条件を聞いてください」


「はい」


「私が残るとしても、全員を残せるとは言えません」


 征一は、ペンを止めた。


 工場長も、買う側の計画を実現するために置かれた人間ではなかった。


 金曜、若い作業員が退職の意向を伝えた。


 高瀬から連絡が来た。


「待てないそうです」


「そうですか」


「残る条件を、出してもらえればと思っていました」


 征一は、窓の外を見た。


 出せば、残ったかもしれない。


 守れるか確定していない条件を出せば、返事を延ばしてもらえたかもしれない。


「引継ぎをお願いできる期間を、本人と確認してください」


 征一は言った。


「当社の取得が決まるまで、という頼み方にはしないでください」


 高瀬は、すぐには答えなかった。


「分かりました」


 電話が切れた。


 夕方、征一は修正した計画を持って東浜精工へ行った。


 対象の設備を絞った。

 買う在庫も、最初に納める仕事へ必要なものから確かめる。


 建物は、使用を続けられる条件を詰める。

 屋根の当面の工事と、その負担を分ける。


 最初の数量は下げた。

 その分、材料の立替えは減る。

 検査の引継ぎに使う時間と、給与は増える。


 安くすれば買える、という紙にはならなかった。


 高瀬は、最後まで読んだ。


「これでも、まだ決まらないんですね」


「はい」


「どこまで待てば、決まりますか」


 征一は、条件ごとの確認日を置いた。


 主要顧客の返答。

 設備の権利と契約。

 工場の使用。

 働く人の意向。

 自分たちの資金承認。


 売り手側で進める債権者との協議も、別に並んだ。


「この日までに、そろわなければ」


 高瀬が聞いた。


「足りない条件を見て決めます。ただ、もう少しで決まりそうだという理由だけでは、延ばしません」


「うちが、もたなくても」


 征一は高瀬を見た。


「その場合の準備も、先生と進めてください。私が買うことだけを、支払いの予定に置かないでください」


 高瀬は、目を閉じた。


 机の上には、調査のために交わした紙があった。


 自分が価格を決める権限を手放すと確認し、名前を書いた紙だった。


 そこまで譲ったのに、と高瀬が思っているのを、征一は感じた。


 征一も、ここまで来たのにと思っていた。


 調査費用がかかっている。

 訪問するために、ほかの予定を動かした。

 断る客のところへ一緒に行くと、言った。


 高瀬の署名も、自分の使った時間も、次に払う金の根拠にはならなかった。


「従業員には、どう話せばいいですか」


 高瀬が聞いた。


「決まっているところまでです」


「不安にさせます」


「決まったと伝えて、待ってもらうことはできません」


 高瀬は、応接室の扉を見た。


「あなたも、いてくれますか」


「はい」


 高瀬が、工場長を呼んだ。


 工場長は、検査のファイルを持ってきた。


「今日は、これを」


 机へ置きかけた手を、高瀬が止めた。


「先に、話したい」


 工場長が椅子へ座る。


 征一も座ったまま、計画を自分の方へ引いた。


「まだ、取得は決まっていません」


 最初に、そう言った。


 工場長は、顔を動かさなかった。


「来週の仕事は、どちらが決めますか」


「引継ぎまでは、東浜精工です」


「給料は」


「今の会社が支払います。取得後の雇用条件は、本人ごとに提示して、意思を聞きます」


「今、残ると言って、後から変えてもいいんですか」


「条件を見てから、決めてください」


 工場長は、隣の高瀬を見た。


「全員へ、同じように伝えていいですね」


 高瀬は唇を結んだ。


 長い沈黙の後、うなずいた。


「そう伝えてくれ」


 工場長は、持ってきたファイルを開いた。


 客先ごとの検査の記録が、何年分も入っていた。


「では、こちらも、誰が残っても困らないように書き足します。ただ、金曜に辞めると決めた人には、その日までにできる範囲で頼みます」


 征一は、検査記録の端を見た。


 新しい字が、古い数字の隣へ加えられていた。


 自分が買うと決める前に、彼らは自分たちの先を決め始めていた。


 高瀬が、立ち上がった。


「今から、話してくる」


 扉へ向かい、途中で振り返る。


 征一は鞄を閉じた。


 置いてきた計画を、真鍋へ預ける。


 それから高瀬と並んで、まだ東浜精工のものである工場へ入った。

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