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残金1,842円|第16話「二十八億円の評価」

「この評価は、売却できる金額を保証するものではありません」


 銀行の担当者は、資料を渡す前に言った。


 征一は差し出された紙を受け取った。


 所在地。


 地番。


 建物の概要。


 取得した時と同じビルの写真があり、その下に二十八億円と書かれていた。


 三年前、十億円で買った建物だった。


 征一は、数字を一度見てから、資料の表題へ戻った。


「担保として、二十八億円まで見てもらえるという話でもないですね」


「はい。評価額と、担保として扱う金額、実際にお貸しできる金額は別です」


 担当者は、そこで初めて次の紙を出した。


「今日は、算定の前提をご確認いただきたいと思います」


 征一は椅子を引き寄せた。


 机の端に、持参した封筒を置く。


 昇降機の修繕が終わった確認資料だった。


 支払いは、金曜日に予定している。


 二十八億円の紙を受け取っても、その支払いに使える残高は、一円も増えていなかった。


 それでも、封筒を押さえる指に、少し力が入った。



 買った時、ビルには空室が多かった。


 場所が悪いわけではない。


 駅から歩ける。


 周辺には事務所も店もあった。


 だが、借りたい会社が、いつから何を使えるかを決められない建物だった。


 雨が入る。


 設備の負担が曖昧だった。


 修繕する時期が決まらない。


 空いている部屋の広さと、探している会社の広さも合っていなかった。


 征一は、そこを直せると判断した。


 売買代金は十億円。


 会社が用意した購入資金は三億円。


 銀行融資は七億円。


 取得に伴う税金や登記、仲介、調査の費用は別に用意し、買った後の工事と資金繰りに備える金も残した。


 それで十分かどうかは、引渡しの日にはまだ分からなかった。


 分かっている危険を数え、分からない部分のために金を残した。


 残していたから、すべての判断を楽にできたわけではなかった。



 最初に予定が外れたのは、空いていた区画の入居だった。


 相手は、何度も内見に来ていた会社だった。


 必要な電気の量を確かめ、机の配置を描き、引越しを考える月まで話していた。


 征一は、その区画の設備工事を先に進めた。


 特定の会社にしか使えない造りにはしなかった。


 その会社が入らなくても、次に貸すために必要になる工事だった。


 それでも、先に金を使う理由の一つには、目の前の入居相談があった。


「移転そのものを、見送ることになりました」


 先方から電話が来た。


 征一は、届いたばかりの見積書を見ていた。


「時期を延ばすということですか」


「今は、約束できません。受注が落ちまして」


「面積を小さくする形では?」


「増員するための移転でしたので」


 征一は見積書の角を押さえた。


 工事は始まっている。


 止めても、発注したものが全部戻るわけではない。


 相手の入居は、まだ契約ではなかった。


「分かりました。状況が変わったら、また声をかけてください」


 電話を切り、経理責任者を呼んだ。


「この区画の賃料を、予定から外してください」


「いつまでですか」


「次が決まるまでは」


「空室が続く方で、作り直します」


「お願いします」


 その日の夕方、征一は部屋へ行った。


 新しい空調の風が、誰もいない床をなでていた。


 この場所を使う人が来る。


 そう思って発注したものだった。


 使える部屋にはなった。


 入金は、始まらなかった。



 別の日には、三階の印刷会社から電話が来た。


「今度は、奥なんだ」


 社長の声だった。


 最初に直した窓際ではない。


 行ってみると、棚の上から紙の箱が移されていた。


 天井の一部が、薄く色を変えている。


 床にはバケツが置かれていた。


「夜のうちに気づいたから、よかったけど」


 社長は、濡れた段ボールを指した。


「中までいってたら、刷り直しだった」


 征一は天井を見た。


「業者は、呼んであります」


「今日は止まる?」


 すぐには答えられなかった。


 社長は、征一の顔を見てうなずいた。


「分かったら、先に言って」


 業者が来た。


 天井の中を確かめる。


 上の階の使用状況を聞く。


 外から水が回ったのか、配管なのか。


 その場で原因は決まらなかった。


 応急の対応をし、追加の調査を手配した。


 社長は離れた机で電話をしていた。


 納品の相談だった。


 建物側が原因を探している間も、借りている会社は、その場所で仕事を続けなければならなかった。


 追加工事の見積もりが出た。


 当初の計画に載っていない支払いだった。


 経理責任者が、資金繰り表を更新する。


「ここまで使うと、追加のために残した金が減ります」


「放っておけば、この会社が出ます」


 征一は賃料の一覧を指した。


「出ると決まったわけではありません」


「紙が濡れる場所で、残ってくれとは言えない」


「直しても、残る約束ではありません」


 征一は黙った。


 それも、そのとおりだった。


 修繕すれば何年借りてもらえるか。


 そんな条件を先に取るための話ではなかった。


「原因を調べて、必要な修繕は進めます」


「ほかの工事は?」


「急がなくていいものを、後ろへ送る」


 見栄えのために先に直す予定だった場所を、見直した。


 入口は、しばらく古いままになった。


 外から写真を撮っても、よくなった部分は分かりにくい。


 その奥で、商品を濡らさず働ける場所を先に守った。



 原因を確かめるまでには、時間がかかった。


 雨を待つ日もあった。


 業者が来た日には、いつもの向きから風が吹かないこともあった。


 征一は何度も、社長へ連絡した。


 次に調べる日。


 動かしてもらう物。


 作業をしない時間。


 一度、社長が聞いた。


「これ、榊原さんが出張の時は、誰に言えばいいの」


 征一は受話器を持ち直した。


「管理会社で受けられるようにします」


「前に言ったこと、また最初から説明するのは困るよ」


「そうならないよう、記録を合わせます」


 電話を切った後、管理会社と連絡の残し方を変えた。


 誰が電話を受けたかだけでは足りなかった。


 何が起きたか。


 何を約束したか。


 次は、誰が、いつ連絡するか。


 征一しか知らない話を減らした。


 自分が毎回電話を取ることで、安心していた部分もあった。


 しかし、それでは自分が取れない日に、また止まる。


 修繕が終わった後も、強い雨では確認を続けた。


 社長は、濡れていない床を見て言った。


「今回は、大丈夫だった」


 征一は日付を書いた。


 その一回で、記録を閉じなかった。



 二年目、四階へ移りたいという会社が現れた。


 離れた二か所にある仕事場をまとめたいという。


 区画の広さは合った。


 立地も使いやすいと言った。


 ただ、移転と内装の支払いが重かった。


「最初の半年、家賃を待ってもらえませんか」


 先方の社長が言った。


 征一の隣で、管理会社の担当者がペンを止めた。


「半年後からは、提示した金額で?」


「はい」


「ほかに、移転を決める条件はありますか」


 家賃だけを決めても、電気や空調の負担で話が戻れば、また時間を使う。


 先方は経理担当者を呼んだ。


 内装。


 引越し。


 通信。


 仕事を止める期間。


 今の場所を出るための支払い。


 戻る予定の金と、先に必要な金。


 征一は、相手の表を見た。


 仕事がない会社ではなかった。


 場所を移す時に、金が重なって出ていく会社だった。


「半年、そのまま無料にはできません」


 征一は答えた。


 先方の社長が、椅子へ座り直した。


「難しいですか」


「条件を組み直せるか、こちらでも計算します」


 貸さなければ、空室が続く。


 貸しても、直後から満額の家賃が入るとは限らない。


 どちらにも、出ていく金があった。


 会社へ戻り、表を作った。


 当初の賃料で募集を続け、半年空いた場合。


 一定期間の賃料を免除して貸す場合。


 貸主が行う工事。


 借主が行う内装。


 途中で解約された場合の扱い。


 預かる保証金と、返す条件。


 保証金が先に入るから家賃がなくても困らない、という計算にはしなかった。


 返還する可能性のある金を、埋め合わせの収入にはできなかった。


 協議を重ね、賃料を免除する期間は三か月になった。


 その他の条件も、契約へ入れた。


 空室が続く場合と比べ、会社が負う負担を確認してから決めた。


 部屋に人が入り、電話が鳴り、荷物が届くようになった。


 その最初の三か月、経理の表では、その区画の賃料入金はなかった。


 四か月目、約束の額が入った。


 次の月も入った。


 征一は、入った日を確かめた。


 契約を結んだ日に、三か月分の痛みがなくなったわけではない。


 それを引き受けた後に、仕事場が残った。



 四階の会社は、その後、隣の区画も借りたいと言ってきた。


 契約の内容を確かめ、図面を出した。


 壁を変えれば終わる話ではなかった。


 電気。


 空調。


 出入口。


 避難の経路。


 専門家に見てもらい、関係する条件を確かめた。


 相手は、翌月から使いたいと言った。


 業者は、その日までには全部終わらないと答えた。


 使えるようになる日を二つに分ける案が出た。


 工事する場所と、働く場所を分ける。


 人が通る場所を確保する。


 音が出る時間を決める。


 下の階には、別の会社がいた。


「日曜日なら、うちは人がいません」


 四階の担当者が言った。


 管理会社が首を振った。


「下の区画は、日曜日も使っています」


 征一は、予定表を横へ広げた。


 一社の都合だけでは決められなかった。


 新しく増える賃料のために、今入っている賃料を失うわけにはいかない。


 何度か集まり、工程を直した。


 相手も、社員を一度に移す予定を変えた。


 家賃の一覧へ行を一つ足すまでに、関係者の予定が何度も書き換わった。



 三年目、経理責任者が、大きな工事の累計を出した。


 一億八千六百万円。


 取得代金とは別だった。


 取得時の税金や登記などの費用も、その集計には入れていない。


 雨漏りへの対応。


 設備の更新。


 空室を貸すために行った工事。


 当初から見ていたものと、取得後に分かったものが、内訳に分けてあった。


 日常の管理費や小さな修繕は、毎年の運営費として別に載っていた。


 征一は、最後まで読んだ。


「十億円で買った、だけではありませんね」


 経理責任者が言った。


「ええ」


 取得時に残した資金を使った。


 取得後の会社の資金繰りの中でも、工事へ回す分を確保した。


 入った家賃を、すべて次の事業へ出したわけではない。


 物流の給与や燃料、車両の支払いに必要な残高を割らないよう、工事の時期も見直してきた。


 建物のために金を置けば、その分、ほかで使える額は減る。


 工事費の一億八千六百万円だけを見ても、その間に会社がどれだけ待ったかまでは分からなかった。


 経理責任者は、もう一枚を出した。


 今後の設備更新だった。


 今年は動く。


 来年も動くかもしれない。


 だからといって、将来の支払いがなくなるわけではない。


「こちらは、引き続き残します」


 征一は答えた。


「評価が上がれば、使ってよい金になるわけではありません」


「そのつもりで、表を続けています」


 経理責任者はうなずいた。



「直近一年に、実際に入った賃料などの収入は、一億八千七百万円です」


 銀行の担当者が言った。


 征一は会議室の資料へ目を戻した。


 その額から、同じ期間にかかった日常の運営費用、五千四百万円を引く。


 一億三千三百万円。


 ただし、それは借入を返し終えた後に残る金ではない。


 大きな設備更新や区画工事のために使った金を、すべて引いた額でもなかった。


「この一億三千三百万円を、そのまま評価に使ったわけではありません」


 担当者は隣の表を示した。


 過去一年には、途中から入った会社がある。


 契約で賃料を免除した期間も含まれている。


 今の契約賃料などを一年分に置き直すと、二億八百万円になった。


 そこから、空室や回収できない場合などの見込みを差し引く。


 想定する年間収入は、一億九千六百万円。


 運営に必要な費用は、五千六百万円。


 差は、一億四千万円だった。


「今回の収益還元の計算では、ここを基にしています」


 征一は数字を追った。


「現在の契約が、全部そのまま続く前提ではないですね」


「はい」


「最初の三か月を免除した会社は?」


「免除期間は、すでに終了しています。現在の契約と入金状況を確認しています」


「次の借主にも、同じような条件を出すかもしれません」


「入れ替わりの際の負担や、空室の可能性も確認しています。将来の修繕についても、別の検討をしています」


 担当者は、日常の維持費と、大きな設備更新を分けた資料を示した。


 征一は、会社で使っている資金繰り表を隣へ置いた。


「評価で使う費用と、実際にこちらが残す金は、完全には同じになりませんね」


「同じ目的の表ではありませんので。ただ、実際に不足が起きる見込みがあれば、確認が必要です」


 征一はうなずいた。


 建物が生む収益を見る表。


 会社が、来月何を払えるかを見る表。


 関係はある。


 同じ紙にはできなかった。



 担当者は、計算の行へ指を置いた。


「一億四千万円を、五パーセントの率で還元すると、二十八億円になります」


 征一は余白で計算した。


 答えは合った。


 計算そのものは短かった。


 その上に積まれた資料は厚かった。


「五パーセントは、こちらで希望すれば変わる数字ではないですね」


「はい。周辺の取引や市場、この建物の条件を踏まえて判断しています」


 担当者は比較した資料を出した。


 場所。


 規模。


 用途。


 築年。


 設備の状態。


 賃貸の状況。


 似ている物件でも、全部が同じではなかった。


 征一は、率だけを六パーセントへ置き換えてみた。


 二十三億円余りになる。


「家賃が減らなくても、ここが変われば、これだけ違う」


「単純に計算すれば、そうなります」


「市場で求められる利回りが上がれば、こちらが何もしなくても下がり得る」


「あります。実際の再評価では、収益やほかの条件も合わせて見ます」


 征一は、二十八億円の横にある日付へ丸をつけた。


 雨漏りを直したから、十八億円増えた。


 そういう一対一の話ではなかった。


 実際に貸せた。


 家賃が入った。


 運営の費用が見えた。


 今後の不確実さをどう見るか。


 市場が、その収益をどの程度の価格で受け止めるか。


 幾つもの前提が重なり、二十八億円になっていた。



「この計算だけで、決めたんですか」


 征一は聞いた。


「収益からの見方を中心に、土地や建物の状態、取引事例などとも照らして検討しています」


「三年前に十億円だったことは?」


「取得時と現在では、賃貸と修繕の状況が違います」


 征一は、最初の年の収入を見た。


 空室の多い状態。


 直るか確かめなければならない不具合。


 先に払う工事費。


 まだ契約していない入居相談。


 三年前には、一億四千万円の収益が継続すると、今と同じ材料で判断できなかった。


「三年間の実績が、判断の材料になった」


「はい。それと、現在の状態です」


 担当者は、修繕履歴を指した。


 征一は自分の字を見つけた。


 日付。


 雨の強さ。


 確認した場所。


 次に見る日。


 あの時は、二十八億円にするために書いていたわけではなかった。


 同じ雨で、同じ会社をまた困らせないために残したものだった。



 打ち合わせの終わりに、担当者が言った。


「よい実績になっています」


 征一は、資料をしまう手を止めた。


「ありがとうございます」


 数字より遅れて、その言葉が届いた。


 最初の入居を断られた部屋。


 修繕費が増えた日。


 見栄えの工事を後ろへ送った判断。


 三か月、賃料を受け取らずに貸した区画。


 よい数字だけを持ってきた三年間ではなかった。


 征一は、資料の端をそろえた。


 二十八億円の紙を、一番上へ置いた。



 会社へ戻ると、経理責任者が昇降機の請求書を持ってきた。


 工事の完了確認を見た。


 見積もりとの違いを確かめた。


 金曜日の支払いを承認する。


 その後で、銀行の資料を出した。


「評価が、二十八億円になりました」


 経理責任者は数字を見てから、前提の頁をめくった。


「売却の提示ではないですね」


「いえ」


「担保として、そのまま使える額でもない」


「その説明もありました」


 相手は最後まで読んだ。


「よかったですね」


 それから、請求書を手元へ戻した。


「今月の使える現金は、昨日と同じです」


「分かっています」


 返事が少し早くなった。


 征一は、ゆっくり息を吐いた。


 分かっている。


 それでも、何かが大きく増えた感覚はあった。


「会計上の帳簿も、この評価資料だけで二十八億円へ書き換える話ではありません。処理は専門家にも確認します」


「お願いします」


「十億円との差が、全部、利益ということでもありません」


「工事だけでも、一億八千六百万円使っていますからね」


「取得費用もあります。売るなら、今の借入の返済や、売却費用、税金も確認が要ります」


 征一はうなずいた。


 会社が持つ建物の評価だった。


 征一個人の口座へ、十八億円が入った話ではなかった。


 机の上で、評価資料と請求書が並んだ。


 片方は二十八億円。


 片方は、金曜日に払う金。


 どちらも同じ建物に関するものだった。



 その三日後、五階の会社から解約の予告が来た。


 営業所を隣の県へまとめるという。


 家賃を下げれば残る話ではなかった。


 空調や雨漏りの問題でもない。


 会社全体の方針だった。


 征一は、先方の責任者に会った。


 部屋の隅に、畳んだ段ボールが積まれていた。


「こちらで変えられる条件は、ありませんか」


「場所の問題ではないんです」


 責任者は、机の端を見た。


「私たちも、ここで続けたかったんですが」


「皆さん、移るんですか」


 少し間があった。


「全員ではありません」


 征一は、その先を聞かなかった。


 賃料の一覧では、一行だった。


 その部屋では、別々の生活を持つ人が、同じ会社の決定を受けていた。


 解約予告の期間。


 退去日。


 最後の賃料。


 原状回復。


 預かっている金の精算。


 管理会社と確認するものを並べた。


 その区画の年間賃料は、二千四百万円だった。


 今すぐ、全部が入らなくなるわけではない。


 契約に沿った期間が残っている。


 それでも、二十八億円の資料に載っていた一つの前提が変わった。



 征一は会社へ戻り、銀行へ電話した。


「評価を頂いた後ですが、五階で解約の予告がありました」


 担当者が区画を確かめた。


「次の入居者は?」


「まだです。募集条件を整理しています」


「退去後の収支を、確認させてください」


「送ります」


 すぐに別の評価額を告げられたわけではなかった。


 二十八億円の紙を、その場で捨てる話にもならなかった。


 ただ、新しい事実を伝えなければ、銀行が見ている建物と、実際の建物がずれていく。


 電話を切り、征一は経理責任者と表を作った。


 すぐ次が入る場合。


 半年空く場合。


 一年空く場合。


 次の借主へ貸すために、工事が必要な場合。


 空室になっても、すべての費用が同じ割合で減るわけではない。


 共用部の点検は続く。


 保険も税金もある。


 返済日も来る。


 征一は、評価資料の一億四千万円から二千四百万円を引きかけた。


 手が止まった。


 評価では、すでに一定の空室などを見込んでいる。


 同じ危険を重ねて引けばよいわけでもない。


 一方、一つの大きな退去が、その想定に収まるとも限らなかった。


 征一は自己流の計算へ線を引いた。


 先に見るべきなのは、何月に何が払えなくなるかだった。


 経理責任者が、月ごとの表を手前へ置いた。



 五階を見に来た会社の中に、全体では広すぎるという会社が二つあった。


 管理会社の担当者が、図面へ線を引いた。


「分けられれば、話ができます」


 線は一本だった。


 工事は、それだけでは済まなかった。


 空調。


 電気の計量。


 出入口。


 廊下。


 避難の経路。


 専門家と確認し、必要な工事を拾う。


 分けるための通路が増えれば、貸せる面積は減る。


 それでも、小さくすれば使える会社がある。


 大きいまま空けておくか。


 金を使い、分けて貸すか。


 征一は、一社だけが入る場合の表も頼んだ。


「二社とも入る予定では?」


 担当者が聞いた。


「相談しているだけです。まだ、二社の家賃で支払いはできません」


 交渉を進め、借りる条件を詰めた。


 工事の範囲。


 使える日。


 それぞれが負担するもの。


 一方だけになっても貸せる形を確かめた。


 契約と工事の条件が整ってから、発注した。


 新しい賃料の合計は、前の一社分と完全には同じにならなかった。


 分けるための金も使った。


 それでも、使われない部屋が、二つの仕事場になった。


 征一は実際の入金を待ち、銀行へ資料を出した。


 以前の評価資料は、その作成時点のものとして残した。


 新しい状態まで、勝手に二十八億円へ収めなかった。



 その頃、仲介会社から売却の打診が来た。


「正式な購入申込みではありません」


 担当者は最初にそう言った。


「この規模で、稼働している物件を探している方がいます」


「価格は?」


「二十八億円という価格帯も、検討の範囲には入るとのことです。ただ、資料を見る前ですから」


 征一は受話器を持ち直した。


 銀行が評価した数字だった。


 それを払うことを考える相手がいる。


 まだ申込みでも、代金でもない。


 それでも、紙の重さが変わった。


 相手は誰か。


 資金調達を必要とするか。


 いつ取得したいか。


 誰が資料を見るか。


 入居者の情報をどう扱うか。


 守秘の取り決めをどうするか。


 売ると決める前に、確認することがあった。


「まず、相手と進め方を教えてください」


 征一は答えた。


「売却を前提でよろしいですか」


「まだ、決めていません」


 電話を切り、経理責任者を呼んだ。


「売った場合、会社にいくら残るか、見たいです」


「価格は、確定していますか」


「していません。仮定の部分が分かる形で」


 売却代金から、残っている借入を返す。


 売却費用。


 税金。


 入居者との精算。


 取得後に使った金の会計上の扱いも含め、専門家へ確認する項目がある。


 二十八億円から十億円を引いた紙では、何も決められなかった。



 売った場合、会社へまとまった金が残る可能性があった。


 一方で、家賃は入らなくなる。


 今の借入を返せば、その返済もなくなる。


 将来の設備更新や、入居者との日々の調整を、同じ立場で続ける必要もなくなる。


 ただし、売買契約で負う責任は、別に確認しなければならない。


 征一は、売った後の月次収支を見た。


 一度に入る金。


 毎月入っていた金。


 両方を、同じ場所には置けなかった。


「決済は、いつですか」


 経理責任者が聞いた。


「買い手の調査も、融資も、まだです」


「では、この入金日は未確定ですね」


「はい」


「次の支払いには、まだ当てられません」


 征一はうなずいた。


 売れるかもしれない金で、先に別の契約を結ぶわけにはいかなかった。



 隣の机には、物流拠点の計画があった。


 既存の荷主から、保管と配送をまとめたいという相談を受けていた。


 今の倉庫では収まらない。


 車の出入りも、これ以上増やすのは難しい。


 新しい場所があれば受けられる仕事はあった。


 ただ、広い建物を用意すれば、その仕事が自動的に移ってくるわけではない。


 荷主の契約期間。


 数量が減った場合の扱い。


 荷物の条件。


 人員。


 車両。


 拠点を動かすまでの支払い。


 また、売上が入る前に金が出る。


 征一は、売却した場合の表を計画の隣へ置いた。


 この金が入れば、新しい借入を抑えて進められるかもしれない。


 ただし、ビルはなくなる。


 積み上げた賃料も、その先は買い手へ入る。


 経理責任者が聞いた。


「売却を前提に、物流の計画を進めますか」


 征一は二枚の紙を見た。


 一枚は、建物を手放した後の会社だった。


 もう一枚は、まだ始まっていない仕事だった。


「持ち続ける場合も、作ってください」


「物流の資金は?」


「新たに借りる場合を、相談します」


 経理責任者の目が、評価資料へ動いた。


「この建物を、担保に使うということですか」


「どこまで可能かも含めて、です」


「今の借入と担保が残っています」


「その銀行との条件も、先に確認します」


「評価が上がったから、返済に使う現金が増えるわけではありません」


「返す金は、次の仕事で見ます」


 征一は、物流の計画を手前へ置いた。


 荷主との契約が、どこまで固まっているか。


 最低限の数量で、費用を払った後に何が残るか。


 事業を始める日と、最初の入金日。


 確認することは分かっていた。


 その上で、もう一つ、使えるかもしれないものがあった。


 十億円で買い、三年間持ち続けてきた建物だった。



 銀行へ連絡する前に、ビルへ寄った。


 三階の印刷会社では、窓際の机が使われていた。


 社長が顔を上げた。


「来月の点検だけど、この日の午前は避けてもらえないかな」


 征一は手帳を開いた。


 納品の予定を聞き、管理会社へ確認して返す時刻を決めた。


「明日の昼までには、一度連絡します」


「じゃあ、それで」


 社長は仕事へ戻った。


 四階では、社員が隣の区画へ書類を運んでいた。


 五階には、新しく入った会社の名前が出ている。


 階段の踊り場には、バケツはなかった。


 征一は、最初に見た天井を見上げた。


 補修した場所は、よく見れば分かった。


 建物を持っている限り、修繕も、点検も、契約も続く。


 そのために金を残す。


 それでも残った収益が、評価の材料になっていた。


 征一は手帳を閉じた。



 会社へ戻り、銀行へ電話した。


 最初に、更新した賃貸の状況を伝えた。


 売却の打診があることも話した。


 その上で、建物を持ち続けながら、次の物流事業へ資金を出す場合を相談したいと言った。


「新しい事業の資料を、拝見できますか」


 担当者が答えた。


「用意します」


「既存の借入と担保の状況も、合わせて確認します」


「はい」


「以前の評価資料だけで、融資をお約束できるものではありません」


「承知しています」


 会う日が決まった。


 まだ、何も借りられたわけではない。


 金額も、期間も、担保の条件も決まっていない。


 征一は電話を置き、経理責任者へ日時を伝えた。


 机に、三枚目の紙を置く。


 売る場合。


 持ち続ける場合。


 持ったまま、次の事業を始める場合。


 新しい表題を書いた時、征一は少しだけ笑った。


 売らずに済むかもしれない。


 家賃を残し、次の仕事も受けられるかもしれない。


 二つを同時に持つ道が、机の上に現れた。


 鞄へ資料を入れる。


 家賃の入金実績。


 費用。


 修繕の記録。


 既存の借入残高。


 物流事業の計画。


 以前の評価資料には、その後の変化を記した紙を添えた。


 最後に、売却した場合の表を見た。


 征一はそれを折らずに、引き出しへしまった。

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