残金1,842円|第16話「二十八億円の評価」
「この評価は、売却できる金額を保証するものではありません」
銀行の担当者は、資料を渡す前に言った。
征一は差し出された紙を受け取った。
所在地。
地番。
建物の概要。
取得した時と同じビルの写真があり、その下に二十八億円と書かれていた。
三年前、十億円で買った建物だった。
征一は、数字を一度見てから、資料の表題へ戻った。
「担保として、二十八億円まで見てもらえるという話でもないですね」
「はい。評価額と、担保として扱う金額、実際にお貸しできる金額は別です」
担当者は、そこで初めて次の紙を出した。
「今日は、算定の前提をご確認いただきたいと思います」
征一は椅子を引き寄せた。
机の端に、持参した封筒を置く。
昇降機の修繕が終わった確認資料だった。
支払いは、金曜日に予定している。
二十八億円の紙を受け取っても、その支払いに使える残高は、一円も増えていなかった。
それでも、封筒を押さえる指に、少し力が入った。
買った時、ビルには空室が多かった。
場所が悪いわけではない。
駅から歩ける。
周辺には事務所も店もあった。
だが、借りたい会社が、いつから何を使えるかを決められない建物だった。
雨が入る。
設備の負担が曖昧だった。
修繕する時期が決まらない。
空いている部屋の広さと、探している会社の広さも合っていなかった。
征一は、そこを直せると判断した。
売買代金は十億円。
会社が用意した購入資金は三億円。
銀行融資は七億円。
取得に伴う税金や登記、仲介、調査の費用は別に用意し、買った後の工事と資金繰りに備える金も残した。
それで十分かどうかは、引渡しの日にはまだ分からなかった。
分かっている危険を数え、分からない部分のために金を残した。
残していたから、すべての判断を楽にできたわけではなかった。
最初に予定が外れたのは、空いていた区画の入居だった。
相手は、何度も内見に来ていた会社だった。
必要な電気の量を確かめ、机の配置を描き、引越しを考える月まで話していた。
征一は、その区画の設備工事を先に進めた。
特定の会社にしか使えない造りにはしなかった。
その会社が入らなくても、次に貸すために必要になる工事だった。
それでも、先に金を使う理由の一つには、目の前の入居相談があった。
「移転そのものを、見送ることになりました」
先方から電話が来た。
征一は、届いたばかりの見積書を見ていた。
「時期を延ばすということですか」
「今は、約束できません。受注が落ちまして」
「面積を小さくする形では?」
「増員するための移転でしたので」
征一は見積書の角を押さえた。
工事は始まっている。
止めても、発注したものが全部戻るわけではない。
相手の入居は、まだ契約ではなかった。
「分かりました。状況が変わったら、また声をかけてください」
電話を切り、経理責任者を呼んだ。
「この区画の賃料を、予定から外してください」
「いつまでですか」
「次が決まるまでは」
「空室が続く方で、作り直します」
「お願いします」
その日の夕方、征一は部屋へ行った。
新しい空調の風が、誰もいない床をなでていた。
この場所を使う人が来る。
そう思って発注したものだった。
使える部屋にはなった。
入金は、始まらなかった。
別の日には、三階の印刷会社から電話が来た。
「今度は、奥なんだ」
社長の声だった。
最初に直した窓際ではない。
行ってみると、棚の上から紙の箱が移されていた。
天井の一部が、薄く色を変えている。
床にはバケツが置かれていた。
「夜のうちに気づいたから、よかったけど」
社長は、濡れた段ボールを指した。
「中までいってたら、刷り直しだった」
征一は天井を見た。
「業者は、呼んであります」
「今日は止まる?」
すぐには答えられなかった。
社長は、征一の顔を見てうなずいた。
「分かったら、先に言って」
業者が来た。
天井の中を確かめる。
上の階の使用状況を聞く。
外から水が回ったのか、配管なのか。
その場で原因は決まらなかった。
応急の対応をし、追加の調査を手配した。
社長は離れた机で電話をしていた。
納品の相談だった。
建物側が原因を探している間も、借りている会社は、その場所で仕事を続けなければならなかった。
追加工事の見積もりが出た。
当初の計画に載っていない支払いだった。
経理責任者が、資金繰り表を更新する。
「ここまで使うと、追加のために残した金が減ります」
「放っておけば、この会社が出ます」
征一は賃料の一覧を指した。
「出ると決まったわけではありません」
「紙が濡れる場所で、残ってくれとは言えない」
「直しても、残る約束ではありません」
征一は黙った。
それも、そのとおりだった。
修繕すれば何年借りてもらえるか。
そんな条件を先に取るための話ではなかった。
「原因を調べて、必要な修繕は進めます」
「ほかの工事は?」
「急がなくていいものを、後ろへ送る」
見栄えのために先に直す予定だった場所を、見直した。
入口は、しばらく古いままになった。
外から写真を撮っても、よくなった部分は分かりにくい。
その奥で、商品を濡らさず働ける場所を先に守った。
原因を確かめるまでには、時間がかかった。
雨を待つ日もあった。
業者が来た日には、いつもの向きから風が吹かないこともあった。
征一は何度も、社長へ連絡した。
次に調べる日。
動かしてもらう物。
作業をしない時間。
一度、社長が聞いた。
「これ、榊原さんが出張の時は、誰に言えばいいの」
征一は受話器を持ち直した。
「管理会社で受けられるようにします」
「前に言ったこと、また最初から説明するのは困るよ」
「そうならないよう、記録を合わせます」
電話を切った後、管理会社と連絡の残し方を変えた。
誰が電話を受けたかだけでは足りなかった。
何が起きたか。
何を約束したか。
次は、誰が、いつ連絡するか。
征一しか知らない話を減らした。
自分が毎回電話を取ることで、安心していた部分もあった。
しかし、それでは自分が取れない日に、また止まる。
修繕が終わった後も、強い雨では確認を続けた。
社長は、濡れていない床を見て言った。
「今回は、大丈夫だった」
征一は日付を書いた。
その一回で、記録を閉じなかった。
二年目、四階へ移りたいという会社が現れた。
離れた二か所にある仕事場をまとめたいという。
区画の広さは合った。
立地も使いやすいと言った。
ただ、移転と内装の支払いが重かった。
「最初の半年、家賃を待ってもらえませんか」
先方の社長が言った。
征一の隣で、管理会社の担当者がペンを止めた。
「半年後からは、提示した金額で?」
「はい」
「ほかに、移転を決める条件はありますか」
家賃だけを決めても、電気や空調の負担で話が戻れば、また時間を使う。
先方は経理担当者を呼んだ。
内装。
引越し。
通信。
仕事を止める期間。
今の場所を出るための支払い。
戻る予定の金と、先に必要な金。
征一は、相手の表を見た。
仕事がない会社ではなかった。
場所を移す時に、金が重なって出ていく会社だった。
「半年、そのまま無料にはできません」
征一は答えた。
先方の社長が、椅子へ座り直した。
「難しいですか」
「条件を組み直せるか、こちらでも計算します」
貸さなければ、空室が続く。
貸しても、直後から満額の家賃が入るとは限らない。
どちらにも、出ていく金があった。
会社へ戻り、表を作った。
当初の賃料で募集を続け、半年空いた場合。
一定期間の賃料を免除して貸す場合。
貸主が行う工事。
借主が行う内装。
途中で解約された場合の扱い。
預かる保証金と、返す条件。
保証金が先に入るから家賃がなくても困らない、という計算にはしなかった。
返還する可能性のある金を、埋め合わせの収入にはできなかった。
協議を重ね、賃料を免除する期間は三か月になった。
その他の条件も、契約へ入れた。
空室が続く場合と比べ、会社が負う負担を確認してから決めた。
部屋に人が入り、電話が鳴り、荷物が届くようになった。
その最初の三か月、経理の表では、その区画の賃料入金はなかった。
四か月目、約束の額が入った。
次の月も入った。
征一は、入った日を確かめた。
契約を結んだ日に、三か月分の痛みがなくなったわけではない。
それを引き受けた後に、仕事場が残った。
四階の会社は、その後、隣の区画も借りたいと言ってきた。
契約の内容を確かめ、図面を出した。
壁を変えれば終わる話ではなかった。
電気。
空調。
出入口。
避難の経路。
専門家に見てもらい、関係する条件を確かめた。
相手は、翌月から使いたいと言った。
業者は、その日までには全部終わらないと答えた。
使えるようになる日を二つに分ける案が出た。
工事する場所と、働く場所を分ける。
人が通る場所を確保する。
音が出る時間を決める。
下の階には、別の会社がいた。
「日曜日なら、うちは人がいません」
四階の担当者が言った。
管理会社が首を振った。
「下の区画は、日曜日も使っています」
征一は、予定表を横へ広げた。
一社の都合だけでは決められなかった。
新しく増える賃料のために、今入っている賃料を失うわけにはいかない。
何度か集まり、工程を直した。
相手も、社員を一度に移す予定を変えた。
家賃の一覧へ行を一つ足すまでに、関係者の予定が何度も書き換わった。
三年目、経理責任者が、大きな工事の累計を出した。
一億八千六百万円。
取得代金とは別だった。
取得時の税金や登記などの費用も、その集計には入れていない。
雨漏りへの対応。
設備の更新。
空室を貸すために行った工事。
当初から見ていたものと、取得後に分かったものが、内訳に分けてあった。
日常の管理費や小さな修繕は、毎年の運営費として別に載っていた。
征一は、最後まで読んだ。
「十億円で買った、だけではありませんね」
経理責任者が言った。
「ええ」
取得時に残した資金を使った。
取得後の会社の資金繰りの中でも、工事へ回す分を確保した。
入った家賃を、すべて次の事業へ出したわけではない。
物流の給与や燃料、車両の支払いに必要な残高を割らないよう、工事の時期も見直してきた。
建物のために金を置けば、その分、ほかで使える額は減る。
工事費の一億八千六百万円だけを見ても、その間に会社がどれだけ待ったかまでは分からなかった。
経理責任者は、もう一枚を出した。
今後の設備更新だった。
今年は動く。
来年も動くかもしれない。
だからといって、将来の支払いがなくなるわけではない。
「こちらは、引き続き残します」
征一は答えた。
「評価が上がれば、使ってよい金になるわけではありません」
「そのつもりで、表を続けています」
経理責任者はうなずいた。
「直近一年に、実際に入った賃料などの収入は、一億八千七百万円です」
銀行の担当者が言った。
征一は会議室の資料へ目を戻した。
その額から、同じ期間にかかった日常の運営費用、五千四百万円を引く。
一億三千三百万円。
ただし、それは借入を返し終えた後に残る金ではない。
大きな設備更新や区画工事のために使った金を、すべて引いた額でもなかった。
「この一億三千三百万円を、そのまま評価に使ったわけではありません」
担当者は隣の表を示した。
過去一年には、途中から入った会社がある。
契約で賃料を免除した期間も含まれている。
今の契約賃料などを一年分に置き直すと、二億八百万円になった。
そこから、空室や回収できない場合などの見込みを差し引く。
想定する年間収入は、一億九千六百万円。
運営に必要な費用は、五千六百万円。
差は、一億四千万円だった。
「今回の収益還元の計算では、ここを基にしています」
征一は数字を追った。
「現在の契約が、全部そのまま続く前提ではないですね」
「はい」
「最初の三か月を免除した会社は?」
「免除期間は、すでに終了しています。現在の契約と入金状況を確認しています」
「次の借主にも、同じような条件を出すかもしれません」
「入れ替わりの際の負担や、空室の可能性も確認しています。将来の修繕についても、別の検討をしています」
担当者は、日常の維持費と、大きな設備更新を分けた資料を示した。
征一は、会社で使っている資金繰り表を隣へ置いた。
「評価で使う費用と、実際にこちらが残す金は、完全には同じになりませんね」
「同じ目的の表ではありませんので。ただ、実際に不足が起きる見込みがあれば、確認が必要です」
征一はうなずいた。
建物が生む収益を見る表。
会社が、来月何を払えるかを見る表。
関係はある。
同じ紙にはできなかった。
担当者は、計算の行へ指を置いた。
「一億四千万円を、五パーセントの率で還元すると、二十八億円になります」
征一は余白で計算した。
答えは合った。
計算そのものは短かった。
その上に積まれた資料は厚かった。
「五パーセントは、こちらで希望すれば変わる数字ではないですね」
「はい。周辺の取引や市場、この建物の条件を踏まえて判断しています」
担当者は比較した資料を出した。
場所。
規模。
用途。
築年。
設備の状態。
賃貸の状況。
似ている物件でも、全部が同じではなかった。
征一は、率だけを六パーセントへ置き換えてみた。
二十三億円余りになる。
「家賃が減らなくても、ここが変われば、これだけ違う」
「単純に計算すれば、そうなります」
「市場で求められる利回りが上がれば、こちらが何もしなくても下がり得る」
「あります。実際の再評価では、収益やほかの条件も合わせて見ます」
征一は、二十八億円の横にある日付へ丸をつけた。
雨漏りを直したから、十八億円増えた。
そういう一対一の話ではなかった。
実際に貸せた。
家賃が入った。
運営の費用が見えた。
今後の不確実さをどう見るか。
市場が、その収益をどの程度の価格で受け止めるか。
幾つもの前提が重なり、二十八億円になっていた。
「この計算だけで、決めたんですか」
征一は聞いた。
「収益からの見方を中心に、土地や建物の状態、取引事例などとも照らして検討しています」
「三年前に十億円だったことは?」
「取得時と現在では、賃貸と修繕の状況が違います」
征一は、最初の年の収入を見た。
空室の多い状態。
直るか確かめなければならない不具合。
先に払う工事費。
まだ契約していない入居相談。
三年前には、一億四千万円の収益が継続すると、今と同じ材料で判断できなかった。
「三年間の実績が、判断の材料になった」
「はい。それと、現在の状態です」
担当者は、修繕履歴を指した。
征一は自分の字を見つけた。
日付。
雨の強さ。
確認した場所。
次に見る日。
あの時は、二十八億円にするために書いていたわけではなかった。
同じ雨で、同じ会社をまた困らせないために残したものだった。
打ち合わせの終わりに、担当者が言った。
「よい実績になっています」
征一は、資料をしまう手を止めた。
「ありがとうございます」
数字より遅れて、その言葉が届いた。
最初の入居を断られた部屋。
修繕費が増えた日。
見栄えの工事を後ろへ送った判断。
三か月、賃料を受け取らずに貸した区画。
よい数字だけを持ってきた三年間ではなかった。
征一は、資料の端をそろえた。
二十八億円の紙を、一番上へ置いた。
会社へ戻ると、経理責任者が昇降機の請求書を持ってきた。
工事の完了確認を見た。
見積もりとの違いを確かめた。
金曜日の支払いを承認する。
その後で、銀行の資料を出した。
「評価が、二十八億円になりました」
経理責任者は数字を見てから、前提の頁をめくった。
「売却の提示ではないですね」
「いえ」
「担保として、そのまま使える額でもない」
「その説明もありました」
相手は最後まで読んだ。
「よかったですね」
それから、請求書を手元へ戻した。
「今月の使える現金は、昨日と同じです」
「分かっています」
返事が少し早くなった。
征一は、ゆっくり息を吐いた。
分かっている。
それでも、何かが大きく増えた感覚はあった。
「会計上の帳簿も、この評価資料だけで二十八億円へ書き換える話ではありません。処理は専門家にも確認します」
「お願いします」
「十億円との差が、全部、利益ということでもありません」
「工事だけでも、一億八千六百万円使っていますからね」
「取得費用もあります。売るなら、今の借入の返済や、売却費用、税金も確認が要ります」
征一はうなずいた。
会社が持つ建物の評価だった。
征一個人の口座へ、十八億円が入った話ではなかった。
机の上で、評価資料と請求書が並んだ。
片方は二十八億円。
片方は、金曜日に払う金。
どちらも同じ建物に関するものだった。
その三日後、五階の会社から解約の予告が来た。
営業所を隣の県へまとめるという。
家賃を下げれば残る話ではなかった。
空調や雨漏りの問題でもない。
会社全体の方針だった。
征一は、先方の責任者に会った。
部屋の隅に、畳んだ段ボールが積まれていた。
「こちらで変えられる条件は、ありませんか」
「場所の問題ではないんです」
責任者は、机の端を見た。
「私たちも、ここで続けたかったんですが」
「皆さん、移るんですか」
少し間があった。
「全員ではありません」
征一は、その先を聞かなかった。
賃料の一覧では、一行だった。
その部屋では、別々の生活を持つ人が、同じ会社の決定を受けていた。
解約予告の期間。
退去日。
最後の賃料。
原状回復。
預かっている金の精算。
管理会社と確認するものを並べた。
その区画の年間賃料は、二千四百万円だった。
今すぐ、全部が入らなくなるわけではない。
契約に沿った期間が残っている。
それでも、二十八億円の資料に載っていた一つの前提が変わった。
征一は会社へ戻り、銀行へ電話した。
「評価を頂いた後ですが、五階で解約の予告がありました」
担当者が区画を確かめた。
「次の入居者は?」
「まだです。募集条件を整理しています」
「退去後の収支を、確認させてください」
「送ります」
すぐに別の評価額を告げられたわけではなかった。
二十八億円の紙を、その場で捨てる話にもならなかった。
ただ、新しい事実を伝えなければ、銀行が見ている建物と、実際の建物がずれていく。
電話を切り、征一は経理責任者と表を作った。
すぐ次が入る場合。
半年空く場合。
一年空く場合。
次の借主へ貸すために、工事が必要な場合。
空室になっても、すべての費用が同じ割合で減るわけではない。
共用部の点検は続く。
保険も税金もある。
返済日も来る。
征一は、評価資料の一億四千万円から二千四百万円を引きかけた。
手が止まった。
評価では、すでに一定の空室などを見込んでいる。
同じ危険を重ねて引けばよいわけでもない。
一方、一つの大きな退去が、その想定に収まるとも限らなかった。
征一は自己流の計算へ線を引いた。
先に見るべきなのは、何月に何が払えなくなるかだった。
経理責任者が、月ごとの表を手前へ置いた。
五階を見に来た会社の中に、全体では広すぎるという会社が二つあった。
管理会社の担当者が、図面へ線を引いた。
「分けられれば、話ができます」
線は一本だった。
工事は、それだけでは済まなかった。
空調。
電気の計量。
出入口。
廊下。
避難の経路。
専門家と確認し、必要な工事を拾う。
分けるための通路が増えれば、貸せる面積は減る。
それでも、小さくすれば使える会社がある。
大きいまま空けておくか。
金を使い、分けて貸すか。
征一は、一社だけが入る場合の表も頼んだ。
「二社とも入る予定では?」
担当者が聞いた。
「相談しているだけです。まだ、二社の家賃で支払いはできません」
交渉を進め、借りる条件を詰めた。
工事の範囲。
使える日。
それぞれが負担するもの。
一方だけになっても貸せる形を確かめた。
契約と工事の条件が整ってから、発注した。
新しい賃料の合計は、前の一社分と完全には同じにならなかった。
分けるための金も使った。
それでも、使われない部屋が、二つの仕事場になった。
征一は実際の入金を待ち、銀行へ資料を出した。
以前の評価資料は、その作成時点のものとして残した。
新しい状態まで、勝手に二十八億円へ収めなかった。
その頃、仲介会社から売却の打診が来た。
「正式な購入申込みではありません」
担当者は最初にそう言った。
「この規模で、稼働している物件を探している方がいます」
「価格は?」
「二十八億円という価格帯も、検討の範囲には入るとのことです。ただ、資料を見る前ですから」
征一は受話器を持ち直した。
銀行が評価した数字だった。
それを払うことを考える相手がいる。
まだ申込みでも、代金でもない。
それでも、紙の重さが変わった。
相手は誰か。
資金調達を必要とするか。
いつ取得したいか。
誰が資料を見るか。
入居者の情報をどう扱うか。
守秘の取り決めをどうするか。
売ると決める前に、確認することがあった。
「まず、相手と進め方を教えてください」
征一は答えた。
「売却を前提でよろしいですか」
「まだ、決めていません」
電話を切り、経理責任者を呼んだ。
「売った場合、会社にいくら残るか、見たいです」
「価格は、確定していますか」
「していません。仮定の部分が分かる形で」
売却代金から、残っている借入を返す。
売却費用。
税金。
入居者との精算。
取得後に使った金の会計上の扱いも含め、専門家へ確認する項目がある。
二十八億円から十億円を引いた紙では、何も決められなかった。
売った場合、会社へまとまった金が残る可能性があった。
一方で、家賃は入らなくなる。
今の借入を返せば、その返済もなくなる。
将来の設備更新や、入居者との日々の調整を、同じ立場で続ける必要もなくなる。
ただし、売買契約で負う責任は、別に確認しなければならない。
征一は、売った後の月次収支を見た。
一度に入る金。
毎月入っていた金。
両方を、同じ場所には置けなかった。
「決済は、いつですか」
経理責任者が聞いた。
「買い手の調査も、融資も、まだです」
「では、この入金日は未確定ですね」
「はい」
「次の支払いには、まだ当てられません」
征一はうなずいた。
売れるかもしれない金で、先に別の契約を結ぶわけにはいかなかった。
隣の机には、物流拠点の計画があった。
既存の荷主から、保管と配送をまとめたいという相談を受けていた。
今の倉庫では収まらない。
車の出入りも、これ以上増やすのは難しい。
新しい場所があれば受けられる仕事はあった。
ただ、広い建物を用意すれば、その仕事が自動的に移ってくるわけではない。
荷主の契約期間。
数量が減った場合の扱い。
荷物の条件。
人員。
車両。
拠点を動かすまでの支払い。
また、売上が入る前に金が出る。
征一は、売却した場合の表を計画の隣へ置いた。
この金が入れば、新しい借入を抑えて進められるかもしれない。
ただし、ビルはなくなる。
積み上げた賃料も、その先は買い手へ入る。
経理責任者が聞いた。
「売却を前提に、物流の計画を進めますか」
征一は二枚の紙を見た。
一枚は、建物を手放した後の会社だった。
もう一枚は、まだ始まっていない仕事だった。
「持ち続ける場合も、作ってください」
「物流の資金は?」
「新たに借りる場合を、相談します」
経理責任者の目が、評価資料へ動いた。
「この建物を、担保に使うということですか」
「どこまで可能かも含めて、です」
「今の借入と担保が残っています」
「その銀行との条件も、先に確認します」
「評価が上がったから、返済に使う現金が増えるわけではありません」
「返す金は、次の仕事で見ます」
征一は、物流の計画を手前へ置いた。
荷主との契約が、どこまで固まっているか。
最低限の数量で、費用を払った後に何が残るか。
事業を始める日と、最初の入金日。
確認することは分かっていた。
その上で、もう一つ、使えるかもしれないものがあった。
十億円で買い、三年間持ち続けてきた建物だった。
銀行へ連絡する前に、ビルへ寄った。
三階の印刷会社では、窓際の机が使われていた。
社長が顔を上げた。
「来月の点検だけど、この日の午前は避けてもらえないかな」
征一は手帳を開いた。
納品の予定を聞き、管理会社へ確認して返す時刻を決めた。
「明日の昼までには、一度連絡します」
「じゃあ、それで」
社長は仕事へ戻った。
四階では、社員が隣の区画へ書類を運んでいた。
五階には、新しく入った会社の名前が出ている。
階段の踊り場には、バケツはなかった。
征一は、最初に見た天井を見上げた。
補修した場所は、よく見れば分かった。
建物を持っている限り、修繕も、点検も、契約も続く。
そのために金を残す。
それでも残った収益が、評価の材料になっていた。
征一は手帳を閉じた。
会社へ戻り、銀行へ電話した。
最初に、更新した賃貸の状況を伝えた。
売却の打診があることも話した。
その上で、建物を持ち続けながら、次の物流事業へ資金を出す場合を相談したいと言った。
「新しい事業の資料を、拝見できますか」
担当者が答えた。
「用意します」
「既存の借入と担保の状況も、合わせて確認します」
「はい」
「以前の評価資料だけで、融資をお約束できるものではありません」
「承知しています」
会う日が決まった。
まだ、何も借りられたわけではない。
金額も、期間も、担保の条件も決まっていない。
征一は電話を置き、経理責任者へ日時を伝えた。
机に、三枚目の紙を置く。
売る場合。
持ち続ける場合。
持ったまま、次の事業を始める場合。
新しい表題を書いた時、征一は少しだけ笑った。
売らずに済むかもしれない。
家賃を残し、次の仕事も受けられるかもしれない。
二つを同時に持つ道が、机の上に現れた。
鞄へ資料を入れる。
家賃の入金実績。
費用。
修繕の記録。
既存の借入残高。
物流事業の計画。
以前の評価資料には、その後の変化を記した紙を添えた。
最後に、売却した場合の表を見た。
征一はそれを折らずに、引き出しへしまった。




