残金1,842円|第15話「十億円のビル」
「この水は、いつからですか」
征一が天井を見上げると、仲介会社の男は、先に階段を上がりかけた足を止めた。
二階と三階の間だった。
踊り場の隅に、丸い染みがある。
その下へ置かれたバケツには、水が少したまっていた。
「先週の雨の後だと聞いています」
「その前は?」
「確認します」
征一は手すりから手を離した。
塗装が浮いている。
壁紙の端も、薄く反っていた。
「今日は、空いている部屋より先に、管理している方の話を聞けますか」
「四階の区画を、先に見ていただく予定でしたが」
「水が入った場所を知らないまま、部屋を見ても分からないので」
仲介の男は鞄から携帯電話を出した。
征一は、バケツの縁に残った白い跡を見た。
一度たまった水を、捨てた跡に見えた。
最初の車の借入を返し終えてから、長い時間がたっていた。
返済予定表の丸は増え、最後の欄まで埋まった。
その一枚で、次の金が借りられるわけではなかった。
仕事が増えるたび、車を増やす金と、入金まで待つ金を計算した。
自分一人では回れなくなり、人に運んでもらうようになった。
その人には、荷主から金が入る日まで待ってもらえなかった。
売上が増えたのに、先に出る金も増えた。
倉庫を借り直した。
法人を作った。
車両を増やし、営業に必要な体制と手続きを整えた。
荷主が増えると、一社の都合で全部が止まることは減った。
代わりに、覚えておく支払日が増えた。
征一が自分で運ぶ時間は、少しずつ減った。
銀行へ持っていく紙には、社員の給与も、車両の整備費も、税金も載るようになった。
担当者は代わった。
それでも、入る日と出る日を聞かれることは変わらなかった。
十数年が過ぎた今、征一の前にあるのは、中古の軽貨物車の見積書ではなかった。
売出価格、十億円。
駅から歩いて行ける場所にある、古い雑居ビルだった。
管理会社の担当者は、約束の時刻より少し遅れて来た。
「別の建物で、鍵の引渡しがありまして」
男は名乗り、染みを見上げた。
「ここは、前にも入ってます」
仲介の男が携帯電話をしまった。
「先週からではないんですか」
「先週も、です。強い雨で、風がこっちへ吹くと出るんですよ」
征一は階段を見た。
「どこから入っているんですか」
「外壁か、上の窓の取り合いか。業者には見てもらいました」
「報告書はありますか」
「管理室にあります」
「直してはいない?」
「応急で、何度か」
担当者の声は平らだった。
修理しなかったことを隠そうとするでもない。
征一は、バケツの白い跡をもう一度見た。
「ほかにも、繰り返している不具合はありますか」
男は、すぐには答えなかった。
代わりに、手に持っていた鍵を握り直した。
「先に、管理室へ行きますか」
「お願いします」
仲介の男が腕時計を見た。
征一は、見学の予定を後ろへずらした。
ビルは、空室が多かった。
売却資料には、満室になった場合の賃料が大きく書かれていた。
その下に、現在の賃料収入が小さく載っている。
征一は、その順番を逆にして読んだ。
今、誰が使っているか。
実際に、いくら払っているか。
いつまで借りる契約か。
空いている部屋を埋める前に、今いる人が出ていかないかを知りたかった。
管理室で渡された修繕履歴には、同じ場所の名前が何度もあった。
階段踊り場。
四階廊下。
給水設備。
空調。
応急処置という文字が続いていた。
「大きな工事は、見送られていたんですね」
「空室が増えてからは、特に」
担当者は椅子へ座った。
「賃料を下げれば入るんじゃないか、という話はありました」
「下げたんですか」
「募集は下げました。でも、入ってもらう前に、設備のことで止まることがあって」
「何が?」
「使える電気の量とか。空調を誰が直すかとか。保証金の条件も」
征一は募集図面を開いた。
広さ。
駅からの距離。
賃料。
それだけでは、商売を始められるかは分からなかった。
部屋が空いていることと、すぐ使えることは違う。
「今いる方は、何に困っていますか」
管理の男は、隣の書庫から薄いファイルを出した。
入居者からの連絡が、日付順に綴じてあった。
三階の印刷会社では、窓際の机に布が敷かれていた。
「ここも、水ですか」
征一が聞くと、社長は窓枠を指した。
「風が強い時だけね」
「機械は大丈夫ですか」
「だから、こっちへ寄せた」
壁の近くにあったはずの棚が、通路を狭くしていた。
人が横を向いて通る。
窓から離せば、水は避けられる。
だが、その分だけ仕事をする場所が減っていた。
「移転は、考えてますか」
社長は征一を見た。
「買う人?」
「検討しています」
「直してくれるなら、出なくてもいい」
「直るかどうかも含めて、調べています」
社長は少しだけ顔を緩めた。
「今度こそって、何回か聞いたからね」
征一は、直すとは言わなかった。
代わりに、どの雨で、どの場所から入り、何を動かしたかを聞いた。
帰り際、社長が言った。
「工事するなら、急に全部どけてくれは困るよ」
征一は手帳を開き直した。
修理の金だけではなかった。
誰かが仕事をしている場所を直すには、その人の時間も必要だった。
会社へ戻ると、経理責任者が取得資金の表を出した。
売買代金、十億円。
買主となる会社が用意する資金は三億円。
銀行へ相談する借入は七億円。
その下には、別の支払いが並んでいた。
取得に伴う税金。
登記。
仲介の費用。
調査。
工事。
空室を貸すための費用。
家賃が予定どおり入らない期間に備える金。
十億円あれば、十億円のビルを買って終われるわけではない。
「この三億円を出しても、物流の方は動かせますか」
征一が聞くと、経理責任者は別の表を開いた。
「ここを下回らなければ。ただ、工事費はまだ概算です」
「工事の分は、取得資金と分けて残す」
「予算を超えた場合は?」
「見積もりが出てから、買えるかを決め直す」
経理責任者は、売買契約予定日の欄を指した。
「先方は、今月中に契約したいそうです」
征一は返事をしなかった。
屋上も、配管も、まだ十分に見ていない。
水の入口すら特定できていなかった。
「調査が終わる前には、契約しない」
「ほかに買い手が出たら?」
「その時は、その時です」
言ってから、征一は資料の十億円という数字を見た。
逃したくない気持ちはあった。
駅から近い。
区画の形も悪くない。
今の賃料が低いのは、場所だけの問題ではない。
直せば使う人がいる。
その見立てには、手応えがあった。
だからこそ、調べる前に押さえたくなった。
銀行の会議室で、担当者は資料を閉じずに聞いた。
「賃料は、どこまで上がると考えていますか」
「新しく貸す部屋は、周辺の成約事例を見ています。ただ、最初から全部は入れません」
「満室想定では、かなり余裕がありますね」
「返済の計算は、そちらでは見ていません」
征一は、空室を残した表を出した。
契約済みの賃料。
入金の確認。
滞納。
契約の終了時期。
退去する可能性。
そこへ、貸せると見込む区画を、時期を分けて加えていた。
「この会社は、まだ入居契約をしていませんね」
「していません。条件の相談中です」
「では、この収入を外すと?」
征一は次の紙を出した。
その区画が半年空いた場合。
一年空いた場合。
工事が遅れ、貸し始めが後ろへずれた場合。
残る金は、それぞれ違った。
銀行の担当者は、工事費の欄を見た。
「この金額で、必要な修繕は終わりますか」
「専門家の調査を進めています。まだ確定ではありません」
「大きく増えたら?」
「価格の交渉をします。合わなければ買いません」
担当者はうなずき、今度は賃貸借契約の一覧へ戻った。
「敷金や保証金の返還義務も、確認が必要です」
「管理資料と、入居者側の確認を進めています」
売主から引き継ぐ金。
将来、入居者へ返す必要がある金。
それを取得後に自由に使える収入へ混ぜるわけにはいかなかった。
征一は、その欄を指した。
「手元に来ても、使える金とは分けます」
担当者は印をつけた。
金額が大きくなっても、机の上でされることは似ていた。
入る金がある。
その金には、出ていく先がある。
調査の途中で、追加の工事が必要だと分かった。
雨漏りだけではなかった。
使い続ける設備と、先に更新する設備を分ける。
見えている部分だけでなく、すぐには触れない場所の状態も調べる。
征一は建物を調べた技術者と、管理会社、工事業者を集めた。
「全部、一度にできますか」
技術者は首を振った。
「入居中ですから。止められる時間を調整しないと」
「何を止めますか」
「電気、水、空調。それぞれ違います」
同じ建物の中でも、仕事をしている時刻が違った。
昼間に使う会社。
夜まで人がいる店。
休みの日が重ならない入居者。
工事を安くまとめる順番と、営業を続けてもらう順番が一致しなかった。
「この区画を先に貸すなら、こっちの工事も先になります」
業者が図面へ線を引いた。
「後から触ると、また養生と足場が必要です」
経理責任者が金額を書き込む。
概算より増えた。
征一は、売主への提示額を直した。
十億円から下げる交渉だった。
返事は、断りだった。
売主側との打ち合わせは、短かった。
「その価格では、お譲りできません」
相手の代理人は、征一の工事見積もりを机へ戻した。
「現状をご確認いただいた上での、十億円です」
「確認したから、工事費が分かったんです」
「売主としても、価格には織り込んでいるという考えです」
話は、そこで動かなかった。
帰りのエレベーターで、仲介の男が征一へ言った。
「金額をもう少し上げれば、まとまるかもしれません」
「売出価格へ戻せば、ですね」
「この立地ですから」
征一は、階数の表示を見た。
場所は悪くない。
その言葉で、工事費は減らなかった。
会社へ戻り、十億円で買う表をもう一度開いた。
工事費を新しい金額へ直す。
空室が埋まる時期を延ばす。
賃料を安易に上げない。
物流側から出せる資金にも、下限を置く。
経理責任者が、最後の残高を指した。
「前の表より、余裕は減っています」
「分かっています」
「買いますか」
征一は、すぐには答えなかった。
翌日、征一はビルの周りを歩いた。
朝に人が通る道。
昼に使われる店。
夕方に閉まる事務所。
駅から近いという資料の一行を、自分の足で確かめた。
その後、入居を相談していた会社へ行った。
広さだけではなく、何を置くかを聞いた。
必要な電気の量。
荷物が届く頻度。
従業員が来る時刻。
客が来るか。
いつまでに場所が要るか。
内装のどこを借主が負担し、どこまで貸主へ求めるか。
相手は図面へ机の配置を書いた。
「ここが使えるなら、移りたいです」
「まだ、契約ではありませんね」
「ええ。条件がまとまれば、です」
征一はうなずいた。
欲しかったのは、入ると言ってもらうことではなかった。
何がそろえば入れるかを、知りたかった。
最終的に、征一は十億円での取得を進める判断をした。
工事費が消えたわけではない。
価格交渉に負けた分を、満室の賃料で埋めたわけでもない。
必要な工事を織り込み、取得後に残す資金を確保しても、計画は成り立つと判断した。
銀行も独自の評価と審査を進めた。
征一が買いたいと言えば、七億円が出るわけではなかった。
借入人となる会社。
担保に入れる不動産。
返済条件。
保証を求める範囲。
賃料収入と費用。
工事中の資金繰り。
一つずつ、条件を確かめた。
会社の借入を、征一個人が借りた金と同じにはしなかった。
物流の仕事で得た信用も、建物の不具合を消してはくれなかった。
売買契約の前に、経理責任者が聞いた。
「ここまで調べて、まだ買う理由は何ですか」
征一は、入居者からの連絡をまとめたファイルを開いた。
「使いたい人がいる」
「空室もあります」
「使えない理由が、幾つか分かった」
雨が入る。
設備の責任が曖昧だった。
直す時期が決まらない。
入居を考える会社が、自分の仕事を始められるか判断できなかった。
征一は、その一つずつに、見積もりと日付を置いた。
「全部、直るとは言っていません」
「はい」
「直した後も、空くかもしれません」
「その表も見ました」
経理責任者が答えた。
征一は契約書へ手を伸ばした。
売買契約の日と、所有権の移転、残代金の決済、引渡しの日は分けて管理した。
決済では、銀行融資と会社が用意した資金を、確認した手順で代金に充てた。
担保の設定や登記の手続きも、関係者がそろって確認した。
鍵を受け取った。
賃貸借の資料。
管理の記録。
設備の書類。
入居者へ返す必要がある金に関する資料。
建物だけが渡されるわけではなかった。
引渡しを終えた後、征一は管理室へ入った。
最初に見たファイルが、机に置かれていた。
水が入った日。
入居者から連絡が来た日。
応急処置をした日。
次の雨で、また連絡が来た日。
最後のページには、まだ完了の印がなかった。
工事は、一度に全部はできなかった。
印刷会社には、窓際の機械を動かせる日を聞いた。
業者の予定と合わせる。
天候を見て、できる作業を決める。
入居者へ知らせる時刻を、管理会社と確かめる。
征一は、閉店後の廊下で業者を待った。
作業員が養生の材料を運び込む。
人が通れる幅を残し、床へ敷いていった。
「今夜は、ここまでです」
責任者が図面を指した。
「明日の営業には、使えるように戻します」
「終わらなかった場合は?」
「分かった時点で、連絡します。朝になってからは言いません」
征一はうなずいた。
時計を見る。
工事の開始時刻を、手帳へ書いた。
最初の家賃の入金を確認した朝、経理責任者が一覧表を持ってきた。
十億円で買った建物から、金が入っていた。
征一は残高だけを見なかった。
どの入居者の分か。
契約の金額と合っているか。
まだ入っていないものはないか。
管理費。
保険。
税金に備える分。
修繕に残す分。
借入の返済。
入った家賃には、出ていく先が並んでいた。
机の電話が鳴った。
管理会社からだった。
「昨日の雨ですが」
征一は鉛筆を止めた。
「三階は、どうでしたか」
「今朝、確認してもらいました。窓際には入っていないそうです」
征一は椅子へ座り直した。
「階段は?」
「そちらも、今のところは」
「次の雨でも確認してください」
電話を切った後、経理責任者が聞いた。
「直りましたか」
「今回は、入らなかった」
征一は、完了と書きかけた欄を空けておいた。
午後、三階の印刷会社へ寄った。
窓際の棚が、少しだけ元の場所へ戻っていた。
通路が広くなっている。
社長が、机から顔を上げた。
「昨日は大丈夫だったよ」
「管理会社から聞きました」
「次も見てみないと、分からないけどね」
「はい」
社長は、窓の下に敷いてあった布を畳んだ。
征一は、それを見ていた。
十億円を払った日には、ここはまだ変わっていなかった。
鍵を受け取った日にも、棚は通路へ出ていた。
買っただけでは、使える場所は増えなかった。
階段を下りると、踊り場の隅にあったバケツがなくなっていた。
征一は立ち止まり、天井を見た。
古い染みは、まだ残っていた。




