残金1,842円|第11話「荷台の向こう」
箱の重さが、右手の指へ集まった。
抜きたい。
そう思った時には、抜けなかった。
木枠の角が指の付け根へ食い込んでいる。握り直そうとすれば、箱がこちらへ傾く。足を引けば、向こうで持っている工場長の腕へ重さが移る。
白い乗用車の荷室まで、あと十センチほどだった。
「少し横にすれば入る」
工場長が言った。
征一は、箱の側面を見た。
黒い矢印が二本、上を向いている。
その下に、天地無用とあった。
「これ、倒していいんですか」
工場長の肘が止まった。
返事がない。
腕が震えた。
征一は奥歯を噛んだ。痛いと言えば、今度こそ落とす気がした。
「戻すぞ」
山崎が台車を寄せた。
「一回、戻せ」
木枠が台車へ触れる。
まだ手を離せない。
重さが全部移るまで待ち、指を一本ずつ引き抜いた。
右の人差し指だけ、皮膚の内側に熱が残った。
山崎が箱を倉庫へ戻していく。
車の荷室は開いたままだった。
壁の時計は、午後六時を二分過ぎていた。
征一は、自分のノートを見た。
大箱、配達不可。
工場側で別途手配。
できないとは、先に伝えていた。
それなのに、昨日はなかった箱が目の前にあり、山崎は帰れず、工場長は車の後ろで黙っていた。
────────────────
その朝、征一は軽トラの荷台を見ていた。
山崎がボンネットを開けていたので、原付を止めたのだった。
「壊れたんですか」
「動かしてないからな」
荷台には、まだ雨の跡が残っていた。
後ろのあおりが、中央だけ少しへこんでいる。縁へ手を置くと、塗装の下の鉄が朝の冷たさを残していた。
横八十センチ。
重さ三十二キロ。
工場長から聞いた大きさを、頭の中で当てはめる。
載る。
電話で断った時には、原付の荷台しか考えていなかった。
この車なら、余るくらいだった。
「借りたいのか」
山崎が言った。
征一は、手を離した。
「まだ何も言ってません」
「荷台、測ってた」
「見てただけです」
山崎は車体の中へ顔を戻した。
「それだけなら、載るぞ」
その言い方が、征一には少し悔しかった。
自分でも、それくらいは分かる。
「動けば、ですよね」
「動けばな」
「直すの、いくらくらい」
山崎の手が止まった。
「誰が払う」
征一は答えなかった。
先月、六個運んだ。
六回、学校から倉庫へ行き、箱を受け取り、工場へ届けた。
売上は四千八百円だった。
倉庫の最低使用料が三千円。そこから燃料や現像代や細かい費用が出る。
残ったのは、千円にも届かなかった。
軽トラを一度直すために、何個運べばいいのだろう。
そもそも、いくらするのかも知らない。
「いや、買うとかじゃなくて」
「売るとも言ってない」
山崎はそう答えた。
征一は原付の方へ戻った。
自分の荷台は、小さかった。
昨日までは、それで動かせる箱があることを嬉しく思っていた。
今日は、その小ささが目に付いた。
────────────────
午後三時二十三分。
倉庫の入口には、板が二枚並べられていた。
山崎が、靴先で間隔を直している。
「何ですか」
「下へじかに置かんように」
征一は鞄を下ろした。
普段の小さい箱は棚へ置く。板の方が、大きい荷物のための場所だとすぐに分かった。
「大きいのも、ここへ来るんでしたっけ」
山崎が顔を上げた。
「お前が受け取るんだろ」
「運ぶ方は、工場で別にするって」
「受け取るのは」
征一はノートを開いた。
大箱、配達不可。
工場側で別途手配。
その下は空いていた。
工場長の言葉を、もう一度思い返す。
大きい箱だけ、別に手配する。
倉庫へは来ない、とまでは言われていない。
自分も、聞いていなかった。
「電話します」
征一が言うと、山崎は板を持ち直した。
「今日は六時に閉めるぞ」
「用事ですか」
「医者」
征一は鉛筆を止めた。
「どこか」
「いつもの薬だ。帰りに寄る」
軽い言い方だった。
征一は六時と書き、数字を四角で囲んだ。
工場へかけると、事務員が出た。
大きい箱も倉庫へ届く予定だという。
「誰が取りに来ますか」
「工場長が行くそうです」
「何時に」
「着いたら連絡をもらえますか」
向こうで機械の音がしていた。
人を呼ぶ声も聞こえる。
「今、工場長、手を離せなくて」
「車は何ですか」
「車?」
「箱が大きいので」
「それも伝えます」
受話器を置くと、山崎がこちらを見た。
「何時に出る」
「着いたら、連絡します」
「何時に、出る」
征一は答えられなかった。
山崎は板を一枚、少し奥へ押した。
「入口、塞がんようにしとくか」
────────────────
トラックは、午後四時六分に来た。
運転手は、いつもの人ではなかった。
伝票を三枚、指でずらして確かめている。
「小さいの二つと、大きいの一つ」
征一はうなずいた。
小さい箱は、両手で持てた。
棚へ置き、外側を確かめる。
最後の箱には、木枠が付いていた。
段ボールより下の木が少し外へ張り出している。
荷台の上では、それほど重そうに見えなかった。
運転手が片側へ手を差し入れた。
「そっち、持てる?」
征一は反対側へ回った。
段ボールを掴むと、運転手が首を振った。
「下。木の方」
膝を曲げ、手を入れる。
木の角は、思っていたより細かった。
「せえの」
持ち上げた。
腕が伸びかけた。
征一は慌てて肘を曲げた。
箱が近づき、木枠が腿へ当たる。下がろうとした足が、自分のかかとへ触れた。
「一回置こう」
運転手が言った。
征一は、すぐには置けなかった。
どちらへ下ろすのか分からない。
「戻す。荷台に戻す」
箱を戻した瞬間、指が下敷きになりかけた。
手を引き、右手を握った。
運転手は時計を見た。
その視線に気づき、征一は言った。
「もう一回なら」
「台車使おう」
運転手は、征一を見ずに答えた。
山崎が台車を持ってきた。
トラックの荷台へ寄せる。箱を端へずらす。運転手が重さを支え、山崎が車輪を押さえる。
征一は、箱の横へ手を添えた。
「持たなくていい。倒れんように」
言われた通りにした。
箱が下りた。
自分が持ち上げなくても、動いた。
助かったはずなのに、征一は手を離す時、運転手の顔を見られなかった。
────────────────
台車は、倉庫の入口で止まった。
低い段差だった。
毎日、何も考えずに跨いでいる。
山崎が押すと、前の車輪だけが当たり、箱が少し揺れた。
征一は両手を広げた。
「待って」
運転手はトラックへ戻りかけていた。
振り返り、また歩いてきた。
山崎が短い板を持ってくる。
段差へ渡す。
それだけで台車は上がった。
征一は箱について歩いた。
板二枚の上へ下ろす時にも、三人で声を掛け合った。
受領印を押したのは、午後四時十九分だった。
到着から十三分。
運転手は伝票の控えを渡すと、今度こそトラックへ戻った。
征一は頭を下げた。
「ありがとうございました」
返事は、エンジンの音に重なって聞こえなかった。
トラックが県道へ出るまで見送った。
さっき時計を見た人にも、次の荷物がある。
その人の十三分を、自分は使った。
ノートへ書こうとして、伝票の番号を先に写した。
時刻。
個数。
外装。
決めていた順番を埋めると、十三分の行き先だけが残った。
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工場長は、電話へ出るとすぐ言った。
「五時半くらいに行く」
「何で来ますか」
「俺の車」
「軽トラですか」
「いや、後ろを倒せば入ると思う」
征一は箱を見た。
「木枠が付いてます」
「大きさ、違う?」
「測ります」
受話器を置き、山崎から巻尺を借りた。
木の端から端まで測る。
八十六センチ。
もう一度、測り直した。
同じだった。
高さも、電話で聞いたものより大きい。
数字を伝えると、工場長は復唱した。
「入ると思うけどな。とりあえず行く」
「六時には閉まります」
「分かってる」
通話が終わった。
征一は、四角で囲んだ六時を見た。
まだ、一時間半以上ある。
小さい箱を届けて戻れば、間に合う。
そう考えて、原付へ向かった。
二つ並べると、ふたが閉まらなかった。
片方を縦にしてみる。
閉まらない。
斜めにすると、今度は箱同士が擦れた。
征一は手を止めた。
三箱の寸法を、それぞれ聞いていた。
一つずつなら、載ると確かめた。
二つを一緒に載せることは、確かめていなかった。
工場へ電話した。
二回に分けると伝えると、事務員は小さく息を吸った。
「一緒に欲しいんですけど」
「ふたが閉まらないんです」
「そうですか」
責められてはいない。
それでも、耳が熱くなった。
「一個目を先に届けます。すぐ戻って、もう一個」
「お願いします」
受話器を置いても、手が離れなかった。
運べます、と言った小さい箱も、思った通りには動かなかった。
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一往復目、工場長は事務所にいなかった。
奥で何人かが集まっている。
機械が止まった、と事務員が言った。
征一は箱を渡し、受領書を待った。
紙を書く間、事務員が工場の方を振り返る。
「大きい方、まだ倉庫ですよね」
「はい。五時半に」
「伝えておきます」
さっきも、その言葉を聞いた。
征一は何か言い足そうとして、やめた。
自分だけが急いでいるように見えるのが嫌だった。
二往復目を終えて戻ると、午後五時四十七分だった。
大きい箱は、同じ場所にある。
山崎は箒を片づけていた。
「来てませんか」
「来てない」
征一は工場へかけた。
事務員は、工場長がまだ機械のところだと言った。
「六時で閉まるんです」
「今、伝えます」
「もし車に入らなかったら」
言いかけて、止まった。
その先を決めていなかった。
一晩置く。
父へ相談する。
別の車を探す。
どれも、今ここにいない誰かが動く話だった。
「折り返します」
事務員に言われ、電話を切った。
山崎は壁の時計を見た。
征一は、箱の前へしゃがんだ。
配達しない箱だった。
だから、自分の仕事は少ないと思っていた。
実際には、箱を運ばないまま、何度も電話をしていた。
荷物の向こうで誰かの返事が止まるたび、自分も次へ進めなかった。
────────────────
工場長の白い車が来たのは、午後五時五十二分だった。
窓を開けたまま、急いで切り返す。
「悪い。機械がな」
征一はうなずいた。
工場長の作業着には、黒い染みが付いていた。
こちらへ来るまで、別のものを直していた手だった。
後部座席は倒してある。
荷室は広く見えた。
これなら。
征一は、また思った。
台車で箱を運び、工場長と持ち上げた。
右手の指へ、木枠が食い込んだ。
箱が入口へ当たる。
少し持ち上げる。
今度は上が当たった。
横へ。
そう言われて、矢印を見た。
その後は、最初の場面へ戻る。
台車へ置き、手を抜き、時計を見た。
六時二分。
入ると思った。
工場長も、自分も、そう思っていた。
それ以外に、確かなものはなかった。
────────────────
「明日、工場のトラックで来る」
工場長は言った。
山崎が台車を倉庫へ戻す。
「何時」
「朝一番で」
「何時だ」
工場長は、ようやく山崎を見た。
「八時半には」
「ここは普段、九時だ」
征一はノートを開いた。
一晩置く場合は、事前に確認する。
書いてある。
ただ、一晩置くために、今誰へ何を聞けばいいのかは書かれていない。
「父さんへ電話します」
店の電話は、父が出た。
話し始めると、言葉が前後した。
車へ入らなかった。
明日ならトラックで来る。
山崎は医者へ行く。
八時半に開けられるか。
自分は学校で。
「一つずつ言え」
父に言われ、征一は息を吸った。
右手の爪の横が、ずきずきした。
説明を終えると、父は聞いた。
「山崎さんは、一晩置いていいと言ったのか」
征一は受話器を押さえた。
「一晩、置いても大丈夫ですか」
「場所はある」
山崎は答えた。
「明日の八時半は」
「開けるだけならな」
父へ伝える。
「引き渡しは誰がする」
征一は黙った。
そこへ、自分の名前は入れられない。
「俺が行く」
父は言った。
ほっとした。
そのすぐ後で、朝の配達を思い出した。
「でも、店は」
「こっちは話す。工場長へ代われ」
征一は受話器を渡した。
工場長が何度か、はい、と言った。
山崎にも代わった。
征一は箱のそばで、爪の横を押していた。
木片の先が、皮膚の内側に見えた。
自分では、うまくつまめなかった。
────────────────
追加は五百円になった。
一晩の保管と、翌朝の引き渡し。
山崎へ三百円を追加で払う。
征一はノートへ書いた。
工場長が覗き込んだ。
「こっちで運ぶって言ったんだから、車まで決めとくべきだったな」
「僕も、大きさを聞いた時に」
「数字は言ったろ」
「木枠の分が」
工場長は箱を見た。
その木枠を、初めて見る目だった。
「仕入れ先から聞いたまま、伝えた」
征一も同じだった。
工場長から聞いたまま、ノートへ書いた。
書いてあるから、確かな情報だと思っていた。
山崎が上着を取った。
征一はその背中へ言った。
「医者、間に合いますか」
「電話した」
「すみません」
「明日は同じことするな」
征一はうなずいた。
謝ったことで戻せる時間は、なかった。
工場長は、翌朝来る二人の名前を言った。
征一は書いた。
工場のトラック。
二名。
八時半から九時まで。
「来なかったら」
山崎に聞かれ、工場長が名刺を出した。
裏へ番号を書く。
「俺の携帯。出なかったら事務所。そっちにも言っておく」
征一は二つの連絡先を並べた。
一つ目がつながらない時、その次へ進める。
昨日までのノートには、そういう行がなかった。
────────────────
店へ帰ると、父が征一の手を見た。
「どうした」
「木が刺さっただけ」
「見せろ」
流しの前へ座らされた。
父が針と毛抜きを出す。
消毒液が染みた。
征一は肩を引いた。
「動くな」
父の指が、自分の指を押さえた。
箱を持っていた時より、逃げたくなった。
細い木片が抜ける。
白い紙の上に置かれた。
こんなものだった。
こんなものが、帰り道の間も、ハンドルを握るたびに痛んでいた。
「持てなかったのか」
「持てた」
父は毛抜きを拭いていた。
「でも、歩けなかった。どこへ足を出したらいいか、分からなくなった」
父は絆創膏を取った。
「次は、そこで言え」
「止めたら、向こうの人が」
「落としてからじゃ遅い」
指へ絆創膏が巻かれた。
征一は、手のひらを開いた。
母が翌朝の配達表を持ってきた。
「牛乳、私が先に回る。十時には戻るから」
父がうなずいた。
「父さんが戻ってからじゃ駄目なの」
征一が聞くと、母は配達表へ丸を付けた。
「待ってる人がいるでしょ」
明日の引き渡しは、父が行く。
それで決まったと思っていた。
父が抜ける場所には、母が入る。
征一はノートを開いた。
追加売上、五百円。
山崎へ、三百円。
残り、二百円。
そこへ父の時間が入る。
母の配達も入る。
何分になるか、まだ分からない。
鉛筆を持ったまま、征一は言った。
「五百円じゃ足りない」
父は椅子へ座った。
「今日はな」
「千円にすればよかった」
「千円なら、母さんの朝が空くか」
征一は黙った。
「もっと取っても、誰かが行かなきゃ駄目なんでしょ」
「そうだ」
「じゃあ、受け取らなければよかった?」
声が大きくなった。
母が顔を上げた。
征一はノートへ目を落とした。
一日、動いた。
二往復した。
電話もした。
箱だって、怖かったけれど持った。
できないと言うことも、前よりできるようになったつもりだった。
それなのに、最後には父が必要になる。
「何を決めてたら、受け取ってよかったの」
父は、すぐには答えなかった。
母も伝票を持ったまま、立っていた。
店の表で、冷蔵庫の機械が鳴った。
父は征一のノートを回した。
大箱、配達不可。
その行へ指を置く。
「お前は、ここまで決めた」
次の、工場側で別途手配、という行へ移した。
「こっちは、決まったと思った」
征一は字を見た。
父は続けた。
「工場長は、自分の車で行けば済むと思った。山崎さんは、六時までに箱が出ると思った」
誰も、わざと困らせたわけではない。
だから、文句を言う先がなかった。
「箱が来る前なら、一つずつ聞けた」
父はノートを征一へ戻した。
「来てからだと、今動ける人間を探すしかなくなる」
征一は、空いている行へ鉛筆を下ろした。
何も書けなかった。
母が配達表を畳んだ。
「ご飯にしよう。明日の朝は、もう決めたから」
その声で、ようやく椅子を引いた。
────────────────
翌朝、父は八時十分に出た。
母はその十分後に出た。
征一が弁当を鞄へ入れていると、祖母がカウンターへ椅子を寄せた。
「学校、遅れるよ」
「うん」
祖母はレジの前へ座った。
父がいない場所だった。
征一は、その椅子を見た。
昨日の箱は、まだ倉庫にある。
ここまで何も運ばれてきていないのに、店の中の人の位置が変わっていた。
学校へ向かう途中、手袋の中で絆創膏が擦れた。
原付の振動が、右手へ響く。
信号で止まるたび、指を少し浮かせた。
────────────────
夕方、倉庫から箱が消えていた。
板二枚の上に、木くずが落ちている。
山崎が掃いていた。
「八時四十分に来た」
征一はノートを出した。
「二人ですか」
「二人」
「トラックで」
山崎が箒を止めた。
「それ、昨日聞きたかったな」
征一はうなずいた。
父が控えを渡し、工場の二人が積んだ。
荷締めをして、八時五十分過ぎに出た。
山崎は、箱を持たなかったという。
征一は、その話を順に書いた。
誰が。
何時に。
何をしたか。
書き終わると、昨日の自分が何を知らなかったのか、少し見えた。
「追加の三百円、父さんが」
「もらった」
山崎は掃除を続けた。
征一は、新しいページを開いた。
大きい荷物を受け取る前。
そう書いて、項目を並べる。
木枠を含む寸法。
重さ。
傾けていいか。
下ろす方法。
引き取りの車。
人数。
時刻。
連絡先。
山崎が隣へ来た。
「誰に聞く」
「工場に」
「工場も知らなかったぞ」
鉛筆が止まった。
仕入れ先。
工場長の言葉を思い出した。
そこへ聞かなければ、分からないことがある。
征一は最後に書いた。
分からない項目がある時は、受け取りを決めない。
書くと、急に仕事を遠ざける紙に見えた。
面倒だと思われるかもしれない。
別のところへ頼むと言われるかもしれない。
せっかくできた取引だった。
山崎が言った。
「それで、来なくなるのが怖いか」
征一は顔を上げた。
返事をしないままでいると、山崎は箒を壁へ立てた。
「俺は、分からん箱が先に来る方が困る」
征一はノートへ目を戻した。
自分が欲しい仕事を、山崎も同じように欲しがっているとは限らなかった。
────────────────
その夜、工場長から電話が来た。
箱は無事に工場へ入ったという。
「助かった」
征一は受話器を持ち直した。
昨日は何度も、その言葉を聞きたかった。
今聞くと、少し苦しかった。
「次から、先に確認したいことがあるんです」
「何を?」
ノートを読み上げた。
木枠を含む寸法。
車。
人数。
時刻。
途中で工場長が言った。
「紙にしてくれるか」
征一の声が止まった。
「多すぎますか」
「いや。こっちで分からないのは、仕入れ先へ聞く。送ってから困るよりいい」
征一は鉛筆を握った。
「全部分かってから、受け取るか決めたいんです」
「分かった」
工場長は少し黙った。
「昨日、横にしようとしたろ」
「はい」
「中の物を聞いた。やらなくてよかった」
征一の右手が、受話器から離れた。
絆創膏の角を押さえる。
「うちの荷物だから、俺が決めていいと思ってた。でも、俺も知らなかった」
工場長の声が、昨日より近く聞こえた。
「また頼む。大きいのは、その紙を使おう」
通話が終わった。
征一はしばらく、受話器を置いた手を動かさなかった。
断るために増やしたつもりの項目が、次の話をする紙になった。
それでも、全部の荷物を受け取れるようになったわけではない。
そこだけは、ノートを見直しても変わらなかった。
────────────────
翌日、山崎の軽トラはエンジンがかかっていた。
倉庫の壁が、低く響いていた。
「直ったんですか」
「線を掃除した。今日はかかった」
征一は荷台を見た。
昨日の箱は載る。
雨が降れば、覆うものが要る。
倉庫で積む時にも、人が要る。
工場で下ろす時にも、誰かが待っていなければならない。
運転席を見た。
山崎が鍵を戻した。
音が止まると、倉庫が急に静かになった。
「これで、人の荷物を運ぶのって」
征一は言いかけた。
山崎が待っている。
「借りればいいだけじゃ、ないですよね」
「俺に聞いて、俺がいいと言って、それで全部済むと思うか」
「分からないです」
山崎は車から降りた。
「運送屋に聞け」
征一は、昨日の運転手を思い出した。
時計を見た人。
指を挟みかけた自分へ、もう一回持たせなかった人。
台車を寄せ、板を渡し、箱を倉庫へ入れた人。
征一は、その仕事を目の前で見ていた。
だが、箱が下りた後は、自分の伝票ばかり見ていた。
「次に来た時、聞きます」
「次の配達があるぞ」
征一は少し考えた。
「話を聞ける相手と、時間を聞きます」
山崎は何も言わず、助手席から汚れた布を取った。
征一はノートを開いた。
次の荷物は月曜日。
その下へ、小さく書いた。
運転手に、相談できる先を聞く。
荷台に空きがあれば、仕事を増やせると思っていた。
今は、その向こうを見ている。
運転席は、空いていた。
そこへ座ってもらう人の一日を、征一はまだ知らなかった。




