第一章7 「最後尾車両」
電車は、暗い海の上を走り続けていた。
窓の外に広がるのは、どこまでも続く闇と、わずかに揺れる波だけで、街の灯りも、見慣れた風景も、もうどこにも残っていない。
現実は、確かに切り替わっていた。
それを理解しながらも、三人はしばらく言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「……なあ」
最初に口を開いたのは夕真だった。
軽く言ったつもりなのだろうが、その声にはわずかに力がこもっている。
「このまま突っ立ってても、何も分かんねぇよな」
美海は視線を落とし、小さく息を吐く。
怖さが消えたわけじゃない。けれど、何もせずにいる方が、不安は確実に大きくなっていく。
「……うん」
その頷きは、同意というより、自分に言い聞かせるためのものだった。
朝陽は、短く息を整えてから口を開く。
「……もう少し、車内を調べてみよう」
無理に落ち着こうとしているわけじゃない。ただ、今できることを選んだだけの声だった。
それで十分だった。
三人は、同じ方向へと歩き出す。
座席の並ぶ車両はどこも同じように整っていて、人の気配はどこにもないのに、照明だけは変わらず点き続けている。
その光はどこか現実感に欠けていて、温度すら感じさせなかった。
整いすぎていることが、かえって異様だった。
「……やっぱ、俺らだけか」
夕真が周囲を見回しながら呟く。
その言葉は軽いが、完全に楽観しているわけではない。
「……そう、なのかな」
美海はそう答えながらも、どこか言い切れずにいる。
“誰もいない”と断言できない違和感が、この電車には残っていた。
三人はそのまま車両を進み、やがて最後尾へとたどり着く。
他の車両とは少し構造が違い、奥に仕切られた空間がある。
「……車掌室か」
夕真が低く呟いた、そのときだった。
扉の奥に、人影があるのに気づく。
「……っ」
美海が息を呑む。
朝陽も、無意識に足を止めていた。
空気が、一瞬で張り詰める。
「……誰かいるな」
夕真の声は、さっきまでよりもわずかに低い。
その瞬間、扉の向こうの影が動いた。
「……誰」
先に声をかけてきたのは、向こうだった。
落ち着いた声だった。
驚きはあるが、取り乱してはいない。
扉がゆっくりと開く。
そこにいたのは、一人の女性だった。
長い髪を後ろでまとめ、こちらをまっすぐに見ている。その視線は鋭く、状況そのものを測るような冷静さを帯びていた。
「……あなたたちも、乗っていたの?」
整った口調だった。
感情よりも、事実確認を優先する響き。
夕真が軽く手を上げる。
「まあな」
それ以上は踏み込まない。
少女は三人を順に見て、わずかに息を吐いた。
「……そう」
安心というより、“状況の整理が一つ進んだ”という反応だった。
美海が一歩だけ前に出る。
「……ここ、何なの」
率直な問いだった。
彼女はすぐには答えず、一度だけ車掌室の中へと視線を向ける。
開かれたパネルと操作盤。誰かが調べた形跡が、はっきりと残っていた。
「……分からない」
そう答えてから、わずかに視線を戻す。
「ただ、少なくとも通常の運行状態ではないわね」
淡々とした口調だった。
感情ではなく、事実を並べている。
夕真が小さく笑う。
「言い方、いちいち固ぇな」
冗談のつもりだったが、少女は表情を変えない。
「事実を整理しているだけよ」
短く返す。
無駄がなかった。
朝陽が口を開く。
「……名前は」
彼女は一瞬だけ間を置いてから答える。
「……風見 凪沙」
その名乗り方だけで、他の三人とは違う印象を残す。
「夕真」
「……美海」
そして、
「朝陽」
凪沙は小さく頷いた。
それで十分だった。
「……それで」
凪沙が三人を見る。
「外は確認した?」
「ああ」
夕真が答える。
「海の上、だろ」
その言葉に、凪沙はわずかに目を細めた。
「……そう見えているだけ、という可能性もあるわ」
即座に否定はしない。ただ、結論を先送りにする。
美海が戸惑う。
「え……?」
凪沙は続ける。
「視覚情報の異常、あるいは認識のズレ。そのどちらかの方が、まだ現実的ね」
迷いがない。
「現時点で“異世界”と断定するには、情報が足りない」
その一言で、空気がわずかに引き締まる。
夕真が肩をすくめた。
「……強ぇな、お前」
冗談のようでいて、少しだけ本音も混ざっている。
凪沙は変わらない。
「可能性を排除しているだけよ」
それだけだった。
朝陽は窓の外を見る。
暗い海が、変わらず広がっている。
けれど、それを“現実じゃない”と断言することも、まだできなかった。
電車は止まらない。
どこへ向かうのかも分からないまま、
四人を乗せて、静かに走り続けている。




