第一章2 「もう一人の乗客」
ドアが開いたまま、しばらく動かなかった。
一度、息を整える。ここまで来て引き返すこともできたはずなのに、なぜか足は止まらなかった。
迷いを振り切るように、一歩を踏み出す。
車内に足を入れた、その瞬間だった。
――ドアが閉まる。
振り返るより早く、電車は静かに動き出していた。
「……っ」
思わず息を呑む。
ありえない。この時間に電車が動いているはずがないし、それも何のアナウンスもなく発車するなんて、常識では考えられなかった。
その場に立ち尽くしたまま、窓の外を見る。
見慣れた街並みが、ゆっくりと流れていく。まだ現実の延長にあるはずの光景なのに、それがかえって不気味に感じられた。
夢なら、もっと分かりやすく壊れてくれた方がいい。
けれどこれは、現実と地続きのまま、ほんの少しだけずれている。
――この電車は、どこへ向かっているんだ。
答えはどこにもないまま、景色だけが流れ続ける。
時間の感覚が、曖昧になる。
そのとき――
「おかしいよな、この状況」
不意に、声がした。
「……っ!?」
体が跳ねる。
振り返ると、座席に男がひとり、いつの間にか腰掛けていた。
さっきまで誰もいなかったはずなのに、そこにいるのが当たり前のような顔でこちらを見ている。
「ははは、驚きすぎだろう」
男は軽く笑った。どこか余裕のある声音だったが、完全に油断しているわけでもなさそうだった。
「まあ、無理もねぇか」
すぐには言葉を返せなかった。
心臓の鼓動だけがやけに大きく響いて、ようやく遅れて声が出る。
「……いつから、そこにいる」
男は肩をすくめる。
「一駅くらい前からだな」
あっさりとした口調だった。
「お前が乗ってくるのも、見えてた」
その一言で、わずかに現実感が戻る。
少なくとも、目の前の存在は“会話ができる相手”だった。
小さく息を吐く。
「……ここ、何なんだ」
男は少しだけ考えてから、短く答えた。
「さあな」
それだけ言って、続ける。
「メールに来いって書いてあって、そのまま来ただけだ」
眉がわずかに動く。
「……メール?」
男は頷く。
「ああ。久しぶりの連絡だったからさ、何かあると思ったんだけど」
軽く肩をすくめる。
「……さすがに、これは想定外だ」
一瞬だけ言葉を選ぶようにしてから、問いを重ねる。
「差出人、分かるのか」
男はわずかに間を置く。
「まあ……昔のツレだよ」
それ以上は語らない。
踏み込ませない距離だった。
こちらも、それ以上は聞かなかった。
「……そうか」
言いかけて、止める。
「いや、なんでもない」
男は少しだけ首を傾げる。
「……?」
視線を落とし、ゆっくりと続けた。
「オレも、メールを見て来た」
一拍置く。
「差出人はなかったけど……」
言葉を探すように、少しだけ間を置く。
「もっと前から、呼ばれてた気がして」
男はわずかに目を細めた。
「……なんだそれ」
少しだけ笑う。
「なおさら不気味じゃねぇか」
軽口のようでいて、完全には否定していない。
それに答えず、再び窓の外を見る。
同じ景色のはずなのに、もうさっきと同じには見えなかった。
「……どこ行くと思う」
独り言のように呟く。
男は少しだけ考えてから、息を吐く。
「さあな」
それから、こちらを見る。
「でも、降りる気はないんだろ?」
言葉に詰まる。
否定できない。
理由は分からないのに、ここで降りるという選択肢が最初から頭に浮かばなかった。
男はそれ以上追及しない。
ただ、小さく頷く。
「……俺もだ」
その一言で、奇妙な共通点が生まれる。
視線を戻す。
「名前は」
男は短く答える。
「夕真」
少しだけ間を置いてから、口を開く。
「……朝陽」
その名前を口にした瞬間、わずかに引っかかる感覚があった。
けれど、それを確かめる余裕はなかった。
夕真は軽く笑う。
「……まあ、ここまで来ちまったしな」
窓の外に目を向ける。
流れていく景色を見ながら、
「最後まで付き合うしかなさそうだ」
軽い口調だったが、その言葉にはどこか覚悟が滲んでいた。
小さく息を吐く。
「……ああ」
電車は、静かに走り続けている。
どこへ向かうのかも分からないまま。
それでも――
もう、戻ることはできない。




