第一章1 「1:32発 最終電車」
第1話
潮の匂いがした。
肌に触れる風はあたたかく、耳の奥で波の音が繰り返されている。
視界いっぱいに広がるのは、燃えるような夕焼けの海だった。
砂の上に立っている。裸足の感触が、やけにリアルだった。
そして、目の前に――ひとりの少女がいる。
白いワンピースが風に揺れ、長い髪は夕焼けを透かして淡く光っている。
「ねえ」
呼びかけられる。
振り向く必要はなかった。最初から、その子しか見えていなかったからだ。
「約束、覚えてる?」
少女は、まっすぐにこちらを見ていた。その瞳には、どこか寂しさが滲んでいる。
――約束。
その言葉だけが、胸の奥に引っかかった。
「……やくそく?」
口から出た声は、驚くほど幼かった。
少女は少しだけ困ったように笑い、ゆっくりと手を差し出す。
「いつかきっと――」
触れた瞬間、温もりが伝わってきた。確かに、そこにいる。
「私を、救ってね」
その言葉と同時に、世界が揺れた。
光が歪み、波の音が遠ざかっていく。少女の輪郭が、ゆっくりとほどけるように崩れていった。
「……待って」
声を出そうとするが、うまく届かない。
伸ばした手も、空を切る。
少女は最後に、ほんの少しだけ笑って――
◆
「……っ!」
目が覚める。
天井が見える。見慣れた部屋。
カーテンの隙間から、月明かりだけが差し込んでいる。
呼吸が乱れていた。
胸の奥に、妙な感覚が残っている。
何かを掴みかけて、取りこぼしたような――そんな焦燥感。
「……今の……」
言葉にしようとして、やめた。
夢、だったのかもしれない。そう思うのに、妙に現実感が残っている。
スマホを見る。
1:07
「……深夜?」
さっきまで夕焼けの中にいたはずなのに。
違和感が、ゆっくりと広がっていく。
その時だった。
スマホが震えた。
静まり返った部屋の中で、その振動音だけがやけに大きく響く。
画面に表示されたのは、怪しげなメールだった。
「なんだこれ、メールの通知なんて入れてないのに」
差出人の名前はない。ただ、件名だけがぽつんと浮かんでいる。
「助けて」
その一言を見た瞬間、胸の奥に引っかかっていた違和感が、急に輪郭を持った気がした。
さっきまで見ていた光景――いや、“感じていた”あの感覚が、現実に滲み出してくる。
「……なんだよ、これ」
無意識に声が漏れる。
指先がわずかに震えているのに気づきながら、メールを開いた。
本文は短い。
あまりにも、簡潔すぎる。
溝ノ口駅
1:32 発
最終電車
それだけだった。
説明も、理由も、何一つ書かれていない。
スマホの時刻を見る。
1:09
深夜。
当然、電車なんて動いている時間じゃない。
「……いや、ありえないだろ」
そう呟きながらも、その言葉に自分自身が納得していないのが分かる。
頭では否定しているのに、胸の奥が妙にざわついている。
理屈じゃなく、“感覚”の方が先に動いていた。
――行かなきゃいけない。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど自然に体が動いた。
理由なんてない。
行く必要もない。
それでも、あの声が頭から離れない。
「……くそ」
短く吐き捨てて、立ち上がる。
服を掴み、靴を履き、ドアを開ける。
冷たい夜の空気が、肌に触れた。
静まり返った街に、自分の足音だけが響く。
走りながらも、どこか現実感が薄い。
まるで、夢の続きをなぞっているみたいだった。
◆
駅に着いたときには、息が荒くなっていた。
階段を駆け上がり、ホームへと出る。
時間を見ると、あと数分しかない。
1:29
改札も、ホームも、人の気配はない。
あるのは、夜の静けさだけだ。
「……やっぱり、ないよな」
苦笑混じりに呟く。
当然だ。
電車なんて来るはずがない。
そう思った、その瞬間だった。
――微かな音がした。
線路の奥から、低く重い音が伝わってくる。
金属が擦れるようなそれは、規則的に、少しずつ大きくなる。
「……おい、嘘だろ」
暗闇の向こうに、小さな光が見えた。
それはゆっくりとこちらへ近づき、やがて形を持つ。
――電車だった。
ありえない。
そんなはずがない。
それでも、目の前の現実は揺るがない。
やがてそれはホームへと滑り込んでくる。
ブレーキ音すらほとんど立てず、静かに。
まるで、最初からそこに存在していたかのように。
電車が止まる。
目の前で。
ゆっくりと、ドアが開いた。
――こちらを待っていたかのように。




