第一章 「上陸」
――夢を見ていた。
どこかで、波の音がしている。
穏やかなはずのその音は、なぜか胸の奥をざわつかせて、落ち着かない感覚だけを残していた。
視界の奥に、島の風景がぼんやりと浮かんでいる。
見覚えがある――そう思った瞬間、掴みかけたはずの記憶が、指の隙間からこぼれるように崩れていった。
形を保てないまま、断片だけが残る。
風に揺れる白いワンピースと、夕焼けに透ける長い髪。
そして――声。
ひどく近くで聞こえているのに、どこか遠く、届きそうで届かない距離にあった。
何かを言っている。
けれど、言葉としては聞き取れない。
それでも、その声だけは、なぜか忘れてはいけないもののように思えた。
――その瞬間、
「……茜」
名前が、こぼれた。
思い出したわけじゃない。ただ自然に、口から零れ落ちた。
それが誰の名前なのかも分からないまま、意識だけがゆっくりと浮上していく。
◆
「……おい」
肩を軽く揺らされる。
「起きろ」
低く抑えた声が、すぐ近くで響いた。
「……っ」
意識が一気に引き戻される。
目を開けると、朝焼けの光が流れ込んできて、一瞬だけ視界が白く滲んだ。
夢と現実の境界が、まだ曖昧なまま残っている。
「……大丈夫か?」
覗き込むようにして、夕真がこちらを見ていた。
朝陽はすぐに言葉を返せず、わずかに視線を彷徨わせる。
「……今の……」
何かを言おうとして、止まる。
うまく言葉にできない。
夕真はそれ以上踏み込まず、小さく息を吐いた。
「まあ、無理もねぇか」
そのまま視線を外へ向ける。
「起きたらこれだしな」
その言葉につられるように、窓の外を見る。
朝焼けだった。
燃えるような茜色の空が、静かな海の上に広がっている。
波は穏やかで、どこまでも続いていて、現実の延長のようでいて、どこか決定的に違っていた。
胸の奥が、ざわつく。
さっきまで見ていた夢と、目の前の光景が、どこかで重なっていた。
夕真が軽く顎で外を示す。
「とりあえず降りるか」
軽い言い方だったが、無理に引っ張るような響きではない。
選択を委ねるような距離だった。
朝陽は一瞬だけ迷う。
けれど、その迷いは長くは続かなかった。
「……ああ」
小さく頷く。
◆
ドアが開く。
静かな音だった。
けれど、その先に広がっている光景は、あまりにも現実離れしていた。
朝焼けの光が、線路の先まで染めている。
空は燃えるような茜色に染まり、その下に広がる海は、驚くほど穏やかで、どこまでも静かだった。
風が吹く。
潮の匂いが、ゆっくりと流れ込んでくる。
朝陽はそのまま外へと降りる。
足元に伝わるのは、確かな地面の感触だった。
夢ではない。
そう分かってしまうことが、逆に現実感を薄めていく。
夕真も続いて降りてくる。
「……線路、繋がってんな」
視線を辿る。
島へと伸びる線路は、途中で途切れることなく、確かに続いていた。
「……どうなってんだ、これ」
問いではあるが、答えを求めているわけではない。
凪沙がゆっくりと周囲を見渡す。
「……地形的には島ね」
落ち着いた声だった。
「ただし、通常の地図上には存在しない可能性が高い」
断定はしない。
だが、否定もしない。
美海が、ふと足を止める。
視線が、少しだけ遠くを向いていた。
「……ねえ」
その声は、どこか迷いを含んでいる。
「ここ……なんか……」
言葉を探すように、わずかな間が空く。
「……知ってる気がする」
ぽつりと、そう言った。
夕真が振り返る。
「来たことあんのか?」
軽く聞くが、美海は首を横に振る。
「ううん……でも……」
はっきりしない。
けれど、その違和感は消えない。
凪沙がすぐに口を開く。
「既視感の一種ね」
感情を挟まない声だった。
「非現実的な状況では、記憶の錯誤が起きやすいわ。実際には経験していないものを、“知っている気がする”と認識する現象」
淡々と説明する。
美海は少しだけ黙る。
「……そう、なのかな」
納得しきれていない声だった。
朝陽は何も言わなかった。
ただ、目の前の景色を見つめている。
朝焼けの海。
静かな波。
どこまでも続く空。
そして――
この場所に、確かに“来たことがある”という感覚。
理屈ではない。
もっと深いところにある、確信に近いものだった。
胸の奥が、強くざわつく。
夢の残り香のように、
あの声が、まだどこかに残っていた。
――茜。
その名前が、再び浮かびかけて、
朝陽はゆっくりと目を閉じた。
波の音だけが、静かに響いていた。




