第4話 真夏の地獄絵図
先発隊の後を追う四人の青年たちの手には、
武器の代わりに、集落の小屋から引っ張り出してきた一枚の古びた戸板があった。
「喜助さんたちの話じゃ、叔父貴はままとめな状態じゃねえ……。
おぶって帰るなんて無理だ。これに載せて連れて帰るぞ」
大作のその言葉に、誰も異論はなかった。
銃を持つ大人たちに熊の警戒を任せ、
自分たちは回収に専念する。
そのための戸板だ。
両手でそれを抱えて急ぐ彼らに、
マサカリを持つ余裕など最初からなかった。
上空から容赦なく照りつける太陽と、生い茂る草木。
昼下がりの茹だるような暑さの中、
青年たちは川沿いを真っ直ぐに上がっていた。
じっとりと汗をかきながら、彼らは恐怖を紛らわせるように、
自然と五平の思い出話を口にしていた。
「俺はさ、本当に弟みたいに面倒見てもらったんだ」
三十一歳、集落一の力自慢である兼遠大作が、
戸板の端を握り締めながら、ぽつりと呟いた。
誰もが慕う大作にとって、五平は頼れる兄貴であり、
親代わりのような存在だった。
「ウチなんて、五平の叔父貴がいなきゃ、嫁さんなんて貰えてねえよ」
二十四歳の下海一郎が、気恥ずかしそうに笑う。
近々控えた結婚ののろけ話を、道中ずっと周囲に聞かせていた。
その馴れ初めを繋いでくれたのも、他ならぬ五平だった。
「……五平さんは、うちの命の恩人だ」
面倒見がよく、普段からみんなの良き兄貴分である、
二十六歳の八沼頼三も、静かに言葉を繋ぐ。
飢えに苦しむ頼三の家族に、五平はいつも、
「獲りすぎちまったからよ」と、下手くそな嘘をつきながら、
狩りの獲物を分けてくれたのだった。
「僕は、叔父貴とチヨ叔母さんに、本当の子供みたいに可愛がってもらって……」
四人の中で最年少の、顔立ちの美しい十七歳の月渡清一が、
はにかむように言った。
子供のいない五平夫婦にとって、清一は我が子も同然だった。
清一はここ数日、最近好きになった人のことを、
この頼れる先輩たちに相談したくて仕方がなかったのだ。
「清一、その話、叔父貴を連れ帰ったらじっくり聞いてやるからな」
頼三が優しく笑い、一郎が肩を小突く。
そんな、どこにでもある温かい若者たちの会話が、
唐突に、永遠に断ち切られた。
彼らは前方の川上ばかりを警戒していた。
しかし、五平を喰らったばかりの化け物は、すでに青年たちの存在を察知し、
密かに山側へと回り込んでいたのだ。
ガサリ、と不自然な地響きが、
彼らの「背後」の藪から響いた。
振り返る暇さえなかった。
緑の木々を割って飛び出してきたのは、山の怪異そのものだった。
立ち上がれば見上げるほどの巨躯、ぬらぬらと光る泥まみれの毛皮。
化け物は、無防備な青年たちの後ろ姿を、
音もなく追い詰めていたのだ。
「ひ……っ」
最初に動いたのは、化け物だった。
狙われたのは、不意を突かれて最後尾になってしまった下海一郎。
抵抗する間も、叫ぶ暇さえなかった。
圧倒的な速度で繰り出された熊の顎が、一郎の首筋を深々と捉える。
――ベキ、ゴキリッ!!!
生木をへし折るような鈍い音が響き、一郎の身体は一噛みで即死、
そのまま川岸に落ちた。
「一郎――ッ!!」
大作の逆上した叫びが、真夏の青空にこだまする。
だが、パニックに陥る暇などない。
山側から襲いかかった化け物は、
すぐさま次の標的、最年少の清一へと牙を剥いた。
――ビシャァッ!!
鋭い爪が風を切り、清一の顔面を容赦なく引き裂く。
凄まじい悲鳴と共に、清一の右半分――
頭皮も、右目も、右耳もろとも無惨に裂かれ、
さらに肉が深く抉られる――ジュクッ、という悍ましい音が響き、鋭い牙がその脇腹を深く抉った。
「清一を離せ!!」
八沼頼三が動いた。
頼三は手にした戸板を盾のように構え、
化け物と清一の間に決死の覚悟で割り込んだ。
しかし、熊の力は人間の盾など容易く粉砕する。
――バキキキィンッ!!!
激しい衝撃と共に、戸板が真っ二つに叩き割られ、
同時に――ズブシュッ、と頼三の腹部が引き裂かれた。
じわりと溢れ出る自身の腑を、
頼三は片手で必死に押さえ込んだ。
「大作……清一を連れて、逃げろ……! 俺はもう長くない!」
頼三は瀕死の身体を振り絞り、顔面を失い泣き叫ぶ清一の身体を、
自分の腑が飛び出すことも気にせず抱え上げた。
「清一、木に登れ! 落ちないように、帯で身体を木に結びつけるんだ! 早くしろ!」
頼三の最後の叫びに突き動かされ、
清一は血で染まった片目で幹を睨み、抉られた脇腹を押さえ、
激痛に狂いながらも必死に木の幹をよじ登った。
指示通り、震える手で着物の帯を木の枝に固く結びつける。
帯を結び終えた瞬間、清一は気を失った。
「頼三!!」
大作が助けようと飛び出したが、
その大作の顔面にも、化け物の非情な一撃が炸裂した。
――ドガッ!!!
凄まじい衝撃。
視界が真っ赤に染まり、激痛で脳が焼き切れそうになる。
大作は近くにあった自然の岩穴へと、
転がり込むようにして身を隠した。
顔面を殴られ、重傷を負った大作。
だが、彼の戦いはここからだった。
岩穴の奥から外を覗くと、化け物はまだそこにいる。
このままでは、木の上の清一も、倒れている頼三も、
すべて喰い尽くされてしまう。
(俺が引き付けなきゃ、みんな殺される……!)
大作は集落一の力を振り絞り、何度も何度も穴から這い出た。
「こっちだ、この化け物!!」
自身の血で霞む視界の中、
地面の石を掴んでは化け物に向かって力任せに投げつけた。
熊が怒って大作に向かってくると、間一髪で岩穴へと潜り込む。
噛み殺される恐怖と激痛の中、
大作は何度も、何度も穴を出入りし、石を投げ、注意を逸らし続けた。
仲間をこれ以上傷つけさせないためだけの、
命を投げ出した執念だった。
やがて、しつこく石をぶつけてくる大作に熊が苛立ち、
諦めたように足音を荒げて山奥へと去っていった。
直後、山に響き渡った青年たちの凄まじい悲鳴を聞きつけ、
先発隊の大人たちが息を切らせて斜面を駆け下りてくる声が聞こえた。
助けが、来たのだ。
しかし、あまりにも遅すぎた。
大作が息も絶え絶えに岩穴から這い出すと、
そこには爪で引き裂かれ、まだ微かに息のある頼三の姿があった。
環境に響くのは、大作の荒い呼吸と、
滴り落ちる血の音だけだった。
そして見上げれば、青空を背に、
木に結び付いたままぐったりとしている清一。
安堵と激痛のなか、大作の意識も急速に遠のいていく。
さっきまで、結婚ののろけ話をしていた一郎、
好きな人の相談をしていた清一、
みんなを気遣っていた頼三達との、あの楽しかった日々を夢にみながら……。
武器を持たずに山へ入った四人の青年を待っていたのは、
真夏の陽光の下で繰り広げられた、
あまりにも一方的で、あまりにも凄惨な、地獄の絵図だった。




