第2話 森の奥の咀嚼音
守夫は「上がれ」とも言わず、
ただ顎で引き戸の奥を指した。
促されるままに足を一歩踏み入れた途端、
剛は首筋に奇妙な冷気を感じて身震いした。
外は茹だるような真夏日。
薄暗い平屋の中を、
生ぬるい空気が古い畳の匂いとともに流れていた。
奥の座敷に通されると、
天井の低い部屋の壁に、
埃を被った一枚のモノクロ写真が掛けられているのが目に入った。
大正時代のものだろう。
不器用ながらも必死に生きた跡が残る開拓着を着た男たちが、
粗末な丸太小屋の前で、
固い表情で並んでいる。
「……あそこに写ってるのが、うちの爺さまだ」
盆の上に冷たい麦茶の湯呑みを二つ乗せて戻ってきた守夫が、
写真の一人を指さした。
鋭い眼光をした、
集落一の力自慢と呼ばれた男――兼遠大作。
守夫の声は低く、
まるでお経のように剛の耳の奥へ染み込んできた。
守夫の澱んだ瞳をじっと見つめているうちに、
剛の頭の中は、
いつしか爺さんの紡ぐ言葉によって支配されていった。
目の前で首を振る扇風機の羽音が、
いつの間にか、
鬱蒼と生い茂る夏の森のざわめきに重なっていく。
剛の想像力は、
薄暗い部屋の闇の向こうに、
大正元年のむせ返るような、
懐かしい緑の情景をありありと描き出していた――。
*
大正元年、夏。
上鬼別の原生林は、
茹だるような湿気と、
濃い草木の臭いに満ちていた。
「おーい喜助! 今日も行くぞ」
手製の粗末な野良着の袖で額の汗を拭いながら、
赤鈴五平が声を張り上げた。
手には、
錆びの浮いた古い村田銃を握っている。
呼びかけられた麦畑喜助は、
土のついた鍬を置き、
歪んだ顔を上げて深く息を吐き出した。
「おいおい五平、また山に入るのか?
最近の山は静かすぎる。
鳥の鳴き声すらろくにしねえ。
どうも気味が悪いんだ……」
喜助は首を振り、
鬱蒼と茂る森の入り口を睨んだ。
長雨で畑の作物は全滅。
人間も、
山を追われた獣たちも、
すべてが極限の飢えに瀕している。
喜助の勘が、
「今の山は危ない」と警鐘を鳴らしていた。
「気味が悪かろうが何だろうが、
このままじゃ俺もチヨも飢え死にだ。
エゾライチョウやリスのいっぴきでも仕留めて、
毛馬大部の川で血を抜いて持って帰らなきゃ、
明日の飯もねえんだよ」
五平は焦るように、
銃の引き金にそっと指を滑らせた。
五平には、
15年も一緒に連れ添った妻・チヨがいる。
餓死が目の前に迫る中、
恐怖よりも生存の欲求が勝っていた。
「……それに喜助、
もし万が一、熊を仕留めでもしたら、
役場から二十円もらえる。
二十円だぞ?
あれがあれば、飢えなんて一発で吹き飛ぶ」
「馬鹿言うな、
二十円欲しさに命を捨てる気か!
俺たちは猟師じゃねえ、ただの開拓民だ」
「ははっ、まあそれは冗談だ。
それでも行かないと食うもんがないからな。
行くぞ喜助!」
渋る喜助を半ば強引に引っ張り、
二人は獲物を求めて森へと足を踏み入れた。
夏の強い日差しすら遮る、
昼なお暗い原生林。
少しでも効率よく小さな獲物を探すため、
二人は沢の近くで二手に分かれて探索することにした。
少し上流へ進んだ喜助は、
立ち止まり、
不意に耳を澄ませた。
鬱蒼と生い茂る藪の向こうから、
奇妙な音が聞こえてくる。
――グズッ、……バリ、ボリッ。
鈍く濡れた何かが潰されるような音と、
硬いものが噛み砕かれる、乾いた音。
何の音だか、
喜助にはわからなかった。
(エゾライチョウが何かを突いているのか……?
いや、それにしては音が重い。
鹿が木の皮でも齧っているのか……?)
飢えた喜助の頭に、
獲物の影がよぎる。
逃がすわけにはいかない。
喜助は息を殺し、
足元に細心の注意を払いながら、
一歩、また一歩と、
音のする方へ音を立てずに近づいていった。
静かに生い茂る葉を払う。
音の鳴る方へ近づくにつれ、
今度は、
鼻腔を突く異様な臭気が立ち込めてきた。
生臭い、
錆びた鉄のような、
強烈な血の匂い。
――グシャッ、バキッ、ジュルリ。
音が、少しずつ近くなっていく。
ただの小動物ではない。
もっと冷酷で、
おぞましい「何か」がそこにいるという確信が、
じわじわと喜助の肌を粟立たせた。
冷や汗が背中を伝う。
だが、確かめずには引き返せない。
喜助が震える手で最後の藪をそっと掻き分けた、
その瞬間――。
木々の隙間から見えた光景に、
喜助は息を吸うことすら忘れた。
黒土を固めたような巨躯のヒグマが、
それよりふた回りも小さな別のヒグマの腹に顔を埋め、
引き裂いた肉を貪り喰らっている。
咀嚼音が響くたび、
赤黒い臓物が地面に引きずり出され、
引きちぎられていく。
山全体の食料が尽き、
飢えに狂った結果、
熊が熊を喰らっている。
その「山の狂気」を目の当たりにし、
喜助の全身の血が凍りついた。
(……五平に知らせねえと!)
喜助は腰を抜かしそうになりながらも、
足音を殺して必死に引き返し、
五平の元へと駆け戻った。
「五平! 五平、大変だ! 逃げるぞ!」
青ざめた顔で駆け寄ってきた喜助に、
五平は眉をひそめた。
「どうした喜助、大きな声を出すな。
獲物が逃げるだろ」
「熊だ! 熊が共食いをしてやがる……!
あれは化け物だ、関わっちゃならねえ。
早く村へ戻って皆に知らせるんだ!」
喜助の必死の訴え。
その口から飛び出した「共食い」という言葉に、
五平は激しい恐怖で全身を戦慄かせた。
そんな飢え狂った化け物が、
もしも集落に下りていってしまったら――。
不器用ながらも懸命に暮らす村の仲間たち、
そして何より、
我が家で帰りを待つ妻・チヨの顔が五平の脳裏をよぎる。
「喜助、お前は村へ走れ。
俺はここで熊が村に行かないよう見張ってる」
「な、何言ってんだ五平!
危ないぞ!? やめろ!」
「大丈夫だ。俺にはコイツがある」
引き止める喜助の制止を振り払い、
五平は単身、
共食いの現場へと静かに這い寄っていった。
喜助は恐怖に震えながらも、
一刻も早く知らせるために全力で村へと走り出した。
一人残された五平は、
木陰から、
今なお肉を貪る怪物の姿を捉えた。
恐ろしさから心臓の鼓動が、
うるさいほどに耳の奥で跳ねる。
おぞましい貪る音。
飢えと乾きから、
化け物は一心不乱に肉を貪る。
すぐ近くの藪から、
大きな音を立ててエゾライチョウが飛び立った。
だが、化け物はピクリとも動かず、
ただ一心不乱に肉を貪り続けている。
――隙だらけだ。
その瞬間、
五平を縛り付けていた恐怖の糸が、
ふっと切れた。
あんなに食事に集中しているのなら、
今ここで狙い撃てば、
確実に仕留められるのではないか。
(二十円……あの化け物を仕留めれば、
二十円が手に入る……)
飢えに苦しむこともなくなる。
家族を、チヨを、
今度こそ幸せにできる。
そのチャンスが、今、
無防備に背中を晒して目の前に転がっているのだ。
どろりとした欲が、
五平の理性を急速に灼き狂わせていく。
五平は震える手で村田銃を構え、
じっくりと、確実に息の根を止めるための「一点」に照準を合わせた。
(焦るな……。頭だ。
あのデカい額の真ん分をぶち抜けば、即死だ……)
じわり、
と引き金にかけた指に力がこもる。
五平の目は、
目の前の大金と、
怪物の分厚い額だけに釘付けになっていた。
カチ、と静かに撃鉄が上がる音が、
夏の森に小さく響いた――。
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本作はすでに最後まで執筆済みの全8話の物語です。
明日も【21:10】と【21:40】に続きを配信しますので、
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