第1話 毛馬大部(ケマタイベ)の意味
国道を外れ、鬼別川の支流に沿って車を走らせるにつれ、
すれ違う車もめっきり無くなった。
三郷剛が目指しているのは、
そのさらに奥にある渓谷――毛馬大部川だ。
ネットのソロキャンプ用スレッドで「火垂るの郷」と呼ばれる美しい池があり、
その上流には澄み切った川が流れる、至高の野営地があると聞いた。
夏の夜には、池の周り一面を幻想的な光を放つ、
蛍が舞うらしい。
だが、その美しさとは裏腹に、
そこは二年ほど前から「頻繁な熊の出没」が噂されている。
(幻想的な蛍を一眼見るくらいなら……)
都会の喧騒に疲れていた剛は、
その完璧な静寂を独り占めしたいという誘惑に勝てなかった。
道中に立てられた警告の看板も、
ただの脅し文句だろうとまともに読みもしなかった。
だが、一応は地元の筋を通しておこうと、事前に調べておいた山の持ち主――
麓に住む「兼遠守夫」という古い地主の家に立ち寄ることにしたのだ。
川沿いにポツンと佇む、
赤錆びたトタン屋根の古い木造家屋の前に車を止める。
エンジンを切ると、突如として圧倒的な静寂が押し寄せる。
聞こえるのは、川の音と、
草むらから湧き上がる夏の虫たちの「ジリジリ……」という耳障りな羽音だけ。
剛が古びた玄関の引き戸を「トントン」と叩く。
乾いた音が、やけに深く、
温かいけれどどこか寂しい山並みへと吸い込まれていった。
「――何の用だ」
現れたのは、深く刻まれた皺の間から、
濁った、しかし全てを見透かすような鋭い瞳を覗かせる老人だった。
彼こそが、山の持ち主である守夫だ。
剛が「火垂るの郷の奥で、一晩だけ野営をさせてほしい」と告げた瞬間、
守夫の瞳がすっと細まった。
「あそこは立ち入り禁止だ。
二年前から、何がうろついてるか看板を見てこなかったのか」
「あ、いや……でも、僕、静かにキャンプするだけですから。
ゴミも持ち帰りますし」
剛が慌てて言い訳しながら、スマートフォンを弄る。
そのわずかな手の動きを、守夫は見逃さず冷たく言い放った。
「……お前、山でその『やかましい機械』を鳴らすつもりか?」
「え? ア、音楽ですか?
小さく流すくらいですけど……」
「音の大きさの問題じゃない」
守夫はきっぱりと言い放ち、ゆっくりと煙草に火をつけた。
無骨な手つきで燻らせる紫煙の向こうで、
老人の瞳が不気味に細められる。
「毛馬大部が、どういう意味か知らんのか」
「えっ? いや、ただの川の名前じゃないんですか?」
地元の人間でもない剛にとって、
聞き慣れないその響きは、単なる記号に過ぎなかった。
怪訝そうに聞き返す若者に、守夫は吐き出した煙越しに、ぼそりと告げた。
「今の若いもんは、川の名前の意味すら知らん。
アイヌの言葉でな、ケムは『血』、タイは『引き抜く』、ベは『川』だ。
合わせて毛馬大部――『血を引き抜く川』。
あそこはな、静かにしておかなきゃならん。
お前らが楽しそうに立てるその軽薄な音が……
あいつに、自分が獲物を貪り、その血を引き抜いていたあの日の静寂を思い出させる」
あいつ。
獲物。
あまりに不穏な単語の羅列に、剛の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「あいつ、って……何のことですか?
ただの野生のヒグマじゃないんですか?」
夏の夜気の中で、剛の喉が小さく鳴る。
守夫は静かに煙を吐き出し、
漆黒に沈む火垂るの郷の山並みを見上げながら、ぽつりと呟いた。
「――うちの爺さんも親父も死ぬまで恐れていた、
百年以上も前の大正元年の話だ。
この地で四人の人間を喰い殺し、一人を異形に変えた、
巨躯の化け物がいたんだ」
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第2話は、この後すぐ【21:35】に投稿されます。
山の境界線を超えた剛たちを待ち受ける、大正元年の記憶とは――。
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