第9話 変わる本文
夕飯の膳は、思ったよりも早く運ばれてきた。
下宿の食堂には、葵と同じくらいの年頃の娘が何人かいた。みな、葵を見ると一度は目を向けたが、すぐに茶碗や箸の方へ戻った。珍しいものを珍しいと言わないだけの作法が、そこにはあるようだった。
葵は女主人に教えられた席に座り、なるべく目立たないように箸を取った。
味噌汁は少し濃かった。白い飯は温かかった。膳の隅には、煮しめと香の物が小さく並んでいた。
現代なら、スマートフォンを見ながら食べていたかもしれない。学校の友人から届いたメッセージに返事をして、明日の小テストの愚痴を送って、何も考えずに箸を動かしていたかもしれない。
ここでは、誰の声も自分を呼ばない。
葵はそのことを、飯を飲み込むたびに思い知らされた。
食事のあと、女主人は廊下で葵を呼び止めた。
「小林さん」
「はい」
「明日からのことは、朝に話しましょう。今夜は休みなさい。疲れた顔をしています」
「ありがとうございます」
「それから、灯りは大事に使うこと。夜更かしをするなら、火の始末だけはよく見るように」
葵は頷いた。
火の始末。
その言葉ひとつにも、知らない生活がある。
二階の部屋へ戻ると、障子の外はもう暗くなっていた。東京の夜は、鎌倉の夜とは違った。波の音がない代わりに、どこか遠くで車輪の軋む音がし、近くの部屋では誰かが本をめくるかすかな音がした。
葵は行李の前に膝をついた。
いちばん上には、先生の書き付けがある。
その下に、薄くくたびれた文庫本が入っていた。
夏目漱石『こころ』。
現代の教室から持ってきてしまった、一冊。
葵はそれを取り出した。
表紙の手触りは変わらない。角が少し折れているところも、授業中に慌てて挟んだ付箋の跡も、そのままだった。
だからこそ怖かった。
これだけが、葵の知っている世界に確かにつながっているものだった。
葵は机の前に座り、灯りを引き寄せた。
まずは最初から読み直す。
そう決めて、本を開いた。
鎌倉の海。
掛茶屋。
見知らぬ西洋人と一緒にいる先生。
先生を目当てに、翌日も海へ行く「私」。
葵は、そこまでは知っている文章を確認するように読んだ。
文字は現代で読んだものと同じだった。授業で線を引いた箇所も、先生の説明で聞いた意味も、頭の中に蘇ってくる。
けれど、先生と一緒に泳ぐ場面へ差しかかったところで、指が止まった。
眼鏡の場面。
葵はそこを読む前から、胸がざわついていた。
本来なら、和田が拾うはずだった。
先生が台の上に置いた眼鏡。掛茶屋の空気。葵が反射的に伸ばした手。先生の驚いた目。
あれは、ただの小さな出来事だった。
そう思いたかった。
けれど、文字はそれを許さなかった。
文章の流れは、葵の知っているものと少し違っていた。
和田が先生に近づいていく記述の中に、昨日まではなかったはずの気配がある。
葵は息を止めて、その場面の終わりまで目を走らせた。
先生はしばらく沈吟したあとで、和田の顔には見覚えがないと言う。人違いではないかと言う。和田が失望する。
そこまでは同じだった。
その次に、一文があった。
ただその時、連れの女の顔だけは、先生の眼の底にしばらく残っているように私には思われた。
葵は、本を閉じた。
閉じた勢いで、机の上の灯りが小さく揺れた。
部屋の外で誰かが歩く音がした。廊下の板がきしむ。けれどその音は遠かった。
葵はもう一度、本を開いた。
同じ一文があった。
指でなぞってみても、消えない。紙に印刷された黒い文字として、そこにある。
「……変わってる」
声に出すつもりはなかった。
けれど言葉は、喉から漏れた。
変わっている。
原作が。
固定された脚本ではない。
自分が動くと、文章の細部が変わる。
葵はその事実を、理解するより先に体で受け取った。背中が冷たくなり、手のひらに汗が滲んだ。
嬉しい、とは思えなかった。
それでも、希望がないとも言えなかった。
もし文章が変わるなら、結末も変わるかもしれない。
Kは死なずにすむかもしれない。
先生も、遺書を書かずにすむかもしれない。
奥さんが、何も知らないまま残されることもないかもしれない。
けれど葵は、すぐにその考えを押しとどめた。
細部が変わることと、大筋が変わることは同じではない。
今、変わったのは一文だけだ。
それも、救いの一文ではない。
先生の眼の底に、葵が残ったという一文。
先生が葵を覚えた。
それは助けになるのだろうか。
それとも、警戒を生むのだろうか。
和田はその文章の中で、先生に見覚えがないと言われて失望していた。そのあとに、葵の顔だけが残ったと書かれている。
葵は、和田の顔を思い出した。
下宿の玄関で、「知らせてください」と言った時の顔。
汽車の中で、「遠いところから私たちを見ているように見える」と言った時の声。
原作では、和田にあたる「私」は先生を見つめていた。
今の和田は、先生だけを見ていない。
葵を見ている。
そのことが、うれしいより先に怖かった。
自分がここにいることで、和田の先生への道筋を曲げている。
自分が何かを奪っているのかもしれない。
葵は本を伏せ、鞄の底からノートを取り出した。
授業で使っていた、罫線の入ったノートだった。表紙には自分の字で「現代文」と書いてある。
葵は鉛筆を握った。
何かを書かなければ、頭の中が散らばってしまいそうだった。
最初のページに、葵はゆっくり書いた。
課題。
その下に、ひとつずつ言葉を並べた。
先生は黙る。
Kも黙る。
奥さんは知らされない。
和田さんは遅れて知る。
真実がいつも遅い。
書いてから、葵は鉛筆を止めた。
この小説の人たちは、みんな淋しい。
先生も。
Kも。
奥さんも。
和田も。
たぶん、淋しいと言わないまま、淋しい。
葵はページの端に、そう書き足した。
それから、本をもう一度開いた。
読み進める。
東京へ帰る「私」。
先生の家に通うようになる「私」。
なかなか奥さんの核心には触れられない語り。
父の病気。
明治天皇の崩御。
先生からの長い手紙。
葵は、途中で何度も本を置きたくなった。
知っているはずだった。
授業でも読んだ。解説も聞いた。先生の罪も、Kの死も、奥さんの沈黙も、全部知っているつもりだった。
けれど今は違った。
Kはまだ死んでいない。
先生はまだ遺書を書いていない。
奥さんはまだ、何も知らないまま残されていない。
文字の中の出来事が、未来の予定ではなく、これから起こるかもしれない現実として迫ってくる。
葵は下巻の途中で、胸を押さえた。
もし自分が何もしなければ、この通りになるのだろうか。
もし自分が動けば、この通りではなくなるのだろうか。
では、どう動けばいいのか。
葵はノートの次の行に書いた。
対策。
その言葉は、ひどく現代的に見えた。
人の苦しみに対して「対策」と書くことが、急に冷たいことのように思えた。
けれど、書かなければ考えられない。
葵は鉛筆を進めた。
一、先生を一人にしない。
二、Kを孤立させない。
三、奥さんを何も知らない人にしない。
四、和田さんを遅れて知る人にしない。
五、焦って原作知識を言わない。
五つ目を書いたところで、葵は深く息を吐いた。
原作を知っていることは、武器になる。
けれど、刃にもなる。
先生に先回りした言葉を向ければ、先生は心を閉ざすかもしれない。
Kに死んではいけないと言えば、Kは憐れまれたと感じるかもしれない。
奥さんに真実を知るべきだと言えば、何も始まっていないうちから、彼女の心に疑いを植えつけるかもしれない。
和田にすべてを話せば、和田は葵を信じるだろうか。
それとも、葵の目に映る自分が、ただの登場人物だったと知って傷つくだろうか。
葵は鉛筆を置いた。
机の上には、本とノートが並んでいた。
一方には、すでに書かれた悲劇がある。
もう一方には、葵の頼りない文字がある。
どちらも紙の上の文字なのに、重さがまるで違った。
葵は、本の増えた一文をもう一度見た。
ただその時、連れの女の顔だけは、先生の眼の底にしばらく残っているように私には思われた。
和田の語りの中に、自分がいる。
その事実に、葵は小さく震えた。
救いになれるのか。
それとも、異物になるだけなのか。
分からない。
変えられることは、希望だった。
けれど同じくらい、恐怖だった。
葵はノートの最後に、もう一行だけ書いた。
人を筋書きで見ない。
その字は、少し歪んだ。
書き終えると、急に目の奥が熱くなった。
葵は本を閉じなかった。
閉じてしまえば、そこにある悲劇から目を逸らすことになる気がした。
灯りの小さな火が、夜の部屋で揺れている。
隣の部屋の物音も、遠くの車輪の音も、いつの間にか静まっていた。
葵は机に向かったまま、もう一度、最初のページを開いた。
鎌倉の海から始まる物語。
そこに自分は、もう入り込んでいる。
ならば、読むだけではいられない。
ただし、誰かの人生を勝手に書き換えるためではなく。
誰かが黙ったまま沈んでいくのを、見過ごさないために。
葵は鉛筆を握り直した。
その時、廊下の板が小さく鳴った。
「小林さん」
障子の向こうから、女主人の声がした。
葵は反射的に本を伏せた。
「はい」
「まだ起きているのですか」
「すみません。もう休みます」
「灯りを消す時は、よく見てからにしなさい」
女主人の声は叱るほど強くはなかった。ただ、この家の夜にはこの家の決まりがあると告げていた。
「はい」
足音が遠ざかる。
葵は伏せた本の上に、しばらく手を置いていた。
原作の悲劇も、未来の対策も、先生の眼の底に残った自分の顔も、すべてこの薄い本の中にある。
けれど葵の前には、消さなければならない灯りがあり、明日の朝に守らなければならない時刻があった。
ここは物語の外ではない。
葵は小さく息を吐き、ノートを閉じた。
火を消すと、部屋はすぐに暗くなった。
夜の底で、東京の生活だけが静かに続いていた。




