第8話 東京へ
翌朝、鎌倉の海は昨日までと同じように光っていた。
けれど葵には、それが少し遠いものに見えた。
同じ波の音がしている。同じ潮の匂いがする。掛茶屋の方からは、早くも人の声が聞こえていた。けれど自分はもう、そこへ行くのではなかった。
葵は宿の狭い部屋で、風呂敷の結び目を何度も確かめた。
中に入っているものは多くない。女将が貸してくれた手拭い。和田が買い足してくれた櫛。昨日、先生から受け取った書き付け。それから、女将が朝になって包んでくれた小さな握り飯。
「途中で食べなさい」
女将はそれだけ言って、すぐに台所の方へ引っ込んだ。
葵が礼を言うと、女将は背中を向けたまま、
「東京は、人が多いからね」
と付け足した。
それが心配の言葉なのか、ただの忠告なのか、葵にはすぐには分からなかった。ただ、胸の奥が少し温かくなった。
この時代に来てから、知らない人の言葉ばかりを聞いている。
そのひとつひとつが、自分をこの世界につなぎ止める細い糸のようだった。
廊下に出ると、和田がすでに待っていた。
昨日より少し改まった着物を着ている。髪もきちんと撫でつけていた。葵の風呂敷を見ると、すぐに手を伸ばした。
「持ちましょう」
「大丈夫です。軽いですから」
「軽くても、持ちます」
言い方があまりに当然だったので、葵はそれ以上断れなかった。
和田は風呂敷を受け取ると、少しだけ目を伏せた。
「本当に、行くんですね」
その声に、昨日の海辺で見せた明るさはなかった。
葵は答える前に、庭の端に見える空を見た。青い。現代の空と同じ色をしているのに、どこにも自分の帰り道は書いていない。
「はい」
そう答えるしかなかった。
「東京なら、ここより落ち着けると思います。女の人のいる下宿なら、なおさらです」
和田は自分に言い聞かせるように言った。
葵は、その横顔を見た。
この人は、自分を手放す準備をしている。
そう思った途端、胸のあたりがきゅっと狭くなった。
「和田さん」
「はい」
「私、あの……助かりました」
言ってから、葵は言葉が足りないと思った。
宿を探してくれたこと。女将に話してくれたこと。先生に頼んでくれたこと。何も分からない自分の隣に、当然のように立ってくれたこと。
けれど、それを全部言葉にしようとすると、かえって嘘のようになりそうだった。
「本当に」
葵はもう一度そう言った。
和田は風呂敷を持つ手に、少し力を入れた。
「それを言われると、困ります」
「困るんですか」
「もっと役に立ちたくなるので」
葵はすぐに返事ができなかった。
和田も、自分の言葉に気づいたように、少し耳を赤くした。それから早口に、
「行きましょう。汽車に遅れるといけません」
と言って、先に歩き出した。
鎌倉の道を駅へ向かうあいだ、葵は何度も振り返りたい衝動をこらえた。
海は見えなくなっても、音だけがしばらく残っていた。草履の下の土の感触も、道端に干された洗濯物も、すれ違う人の着物の色も、どれも見慣れないのに、いつか忘れてしまいそうで怖かった。
駅に着くと、人の流れが急に増えた。
葵は思わず足を止めた。
汽車という言葉は、教科書の中で何度も見た。写真も見た。けれど実際に黒い煙を吐く車体が目の前にあると、知識はほとんど役に立たなかった。
金属の匂い。煤の匂い。人いきれ。切符を求める声。荷物を抱えた男たちの怒鳴るような呼び声。
現代の駅なら、案内板がある。改札がある。電光掲示板がある。誰かに聞かなくても、だいたいの行き先は分かる。
ここには、葵の知っている便利なものがひとつもなかった。
それなのに、みんな迷わず動いている。
自分だけが、世界の読み方を失っているようだった。
「葵さん」
和田が戻って来た。手には切符を二枚持っている。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、です」
葵はそう言ったが、声は少し硬かった。
和田は無理に笑わせようとはしなかった。ただ人の流れから半歩ずれて、葵の立つ場所を作った。
「急がなくていいです。私が一緒にいますから」
その言葉は短かった。
けれど葵には、駅の騒がしさの中で、その一言だけがまっすぐ届いた。
汽車に乗ると、窓の外の景色がゆっくり動き出した。
鎌倉の緑が遠ざかる。海の気配が薄くなる。知らない家並みが続き、畑が流れ、やがて町の密度が増していく。
葵は膝の上で手を重ねた。
隣に和田がいる。向かいの席には、荷物を抱えた婦人と子どもが座っている。誰も、自分が百年以上先から来た人間だとは思っていない。
それが急に不思議で、急に苦しかった。
自分はここで、小林葵でいられるのだろうか。
それとも、先生の書き付けにあるように、どこかの「事情ある娘」として暮らすのだろうか。
名前だけは同じでも、身分も家も過去も、ここでは何ひとつ証明できない。
窓に映る自分の顔は、見慣れた顔のはずだった。けれど髪型も着物も違うせいで、少しだけ別人に見えた。
「気分が悪いですか」
和田が小さな声で聞いた。
葵は首を振った。
「少し、考えていただけです」
「何を」
葵は迷った。
帰りたい、と言えば和田を困らせる。
帰れる場所が分からない、と言えばもっと困らせる。
「東京で、うまくやれるかどうか」
だから、そう答えた。
和田はしばらく黙っていた。
「葵さんは、たぶん大丈夫です」
「どうしてですか」
「怖がっていても、ちゃんと見ているからです」
葵は顔を上げた。
和田は窓の外ではなく、葵の方を見ていた。
「何も分からないふりをして流される人ではないと思います。怖いなら怖いまま、目を逸らさない。だから、大丈夫です」
その言葉は励ましのようでいて、葵の内側を見透かすようでもあった。
葵は少しだけ笑った。
「和田さんは、よく見ていますね」
「葵さんほどではありません」
「私?」
「ええ。昨日も、一昨日も。あなたは人の顔を見る時、まるで、その人がこれから何をするか知っているみたいな目をします」
葵の笑みが止まった。
和田はそれを見て、すぐに言葉を続けた。
「責めているのではありません。ただ、時々、遠いところから私たちを見ているように見える」
汽車の音が、急に大きく聞こえた。
葵は手の指を握った。
言えるはずがなかった。
自分が本当に遠いところから来たのだと。
この人たちの未来を、物語として知っているのだと。
「遠くなんかありません」
葵はやっとそれだけ言った。
和田がこちらを見る。
葵は視線を逸らさなかった。
「今は、ここにいます」
和田の表情が、わずかに変わった。
それは嬉しそうでもあり、痛そうでもあった。
「そうですね」
和田は静かに答えた。
汽車は東京へ近づいていった。
東京は、葵の知っている東京ではなかった。
駅に降りた途端、鎌倉とは比べものにならない人の多さに足がすくんだ。道には人力車が走り、荷車がきしみ、店先では知らない言葉の調子で客を呼ぶ声が飛び交っている。
高い建物は少ない。空は広い。けれど人の気配だけは濃かった。
葵は和田の少し後ろを歩いた。
離れすぎると、すぐに見失いそうだった。
下宿は大通りから少し入ったところにあった。
表には派手な看板もない。格子戸の向こうに、磨かれたたたきが見える。中からは女の人の声と、かすかな煮物の匂いがした。
和田が戸を開けると、四十を過ぎたくらいの女主人が出て来た。
鋭い目をしているが、冷たいというより、余計なことを見逃さない目だった。
「こちらですか」
女主人は葵を上から下まで見た。
葵は背筋を伸ばした。
和田は先生の書き付けを差し出した。
「昨日、先生からお願いのあった方です」
女主人は書き付けを受け取ると、封の折り目を丁寧に開いた。文字を読み、もう一度葵を見た。
「お名前は」
「小林葵です」
自分の名前を言っただけなのに、胸の奥が震えた。
この名前は、ここで通るのだろうか。
女主人は少し考えてから、
「小林さんですね」
と言った。
それだけで、葵は息をついた。
「事情は詳しく聞きません。ただし、ここにいる間は、ほかの娘さんたちと同じようにしてもらいます。朝は遅く起きないこと。食事の時刻は守ること。外へ出る時は行き先を言うこと」
「はい」
「学びに来たのなら、本も読みなさい。手紙を書く先があるなら、遠慮なく言いなさい」
手紙を書く先。
その言葉に、葵は一瞬だけ動けなくなった。
現代の家族に手紙は届かない。
友人にも、学校にも、どこにも。
「……はい」
葵は遅れて返事をした。
女主人はその間を見逃したように見えなかった。けれど何も聞かず、奥へ声をかけた。
「二階の小さい部屋を空けてあります。荷物を置いたら、夕飯まで少し休むといいでしょう」
和田がほっとした顔をした。
葵はその顔を見て、また胸が狭くなった。
ここまで来れば、和田の役目は終わる。
それが分かってしまった。
女中らしい若い娘が出て来て、葵の風呂敷を受け取ろうとした。和田は一度それを渡しかけて、途中で手を止めた。
「葵さん」
「はい」
下宿の玄関先で向き合うと、鎌倉の宿で別れるより、ずっと本当の別れのように感じられた。
「何かあれば、知らせてください」
和田はそう言った。
葵は、すぐには頷けなかった。
「知らせても、いいんですか」
問い返した声が、自分でも思ったより弱かった。
和田は驚いたように葵を見た。
それから、はっきりと言った。
「知らせてください」
葵の喉の奥に、何かがつかえた。
「迷惑では」
「ありません」
「でも、和田さんにも生活が」
「あります。だから、なおさら知らせてください。何も知らないままにされる方が、よほど困ります」
その言葉に、葵は目を伏せた。
何も知らないままにされる。
誰かをそうしてはいけないと、葵は知っている。
知っているはずなのに、自分もまた、この人に何も言えない。
「……分かりました」
葵は小さく頷いた。
和田はようやく風呂敷を女中に渡した。
それから少し迷うように手を動かし、結局何もせずに下ろした。
「また来ます」
「はい」
「先生のところへ伺うこともあると思います。その時にでも、様子を見に寄れますから」
葵はその言葉に、原作の流れを思い出した。
和田は東京に戻り、先生の家へ通うようになる。
その道筋が、少しだけ違う形で目の前につながっている。
「気をつけてください」
葵が言うと、和田は微笑んだ。
「それは、こちらの台詞です」
格子戸が閉まるまで、葵は和田の背中を見ていた。
和田は一度だけ振り返った。
葵は小さく頭を下げた。
戸が閉まると、外の音が少し遠くなった。
二階の小さい部屋は、六畳ほどだった。
机と行李、薄い布団、障子越しの明るい光。窓を開けると、隣家の屋根と細い路地が見えた。遠くで人力車の鈴が鳴っている。
鎌倉の海はもう聞こえない。
その代わりに、東京の生活の音がした。
葵は机の前に座り、先生の書き付けをもう一度取り出した。
整った字が、紙の上に静かに残っている。
先生はここにいない。
和田も、もういない。
けれど二人の手を通って、自分はこの部屋まで来た。
葵は書き付けを丁寧に折り直し、行李のいちばん上に置いた。
その下に、自分の持ち物はほとんどなかった。
それでも、ここが今日からの部屋だった。
仮の名前ではない。
仮の呼吸でもない。
葵は障子の向こうの薄い光を見つめた。
この世界での東京の暮らしが、静かに始まろうとしていた。




