表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/17

第8話 東京へ

 翌朝、鎌倉の海は昨日までと同じように光っていた。


 けれど葵には、それが少し遠いものに見えた。


 同じ波の音がしている。同じ潮の匂いがする。掛茶屋の方からは、早くも人の声が聞こえていた。けれど自分はもう、そこへ行くのではなかった。


 葵は宿の狭い部屋で、風呂敷の結び目を何度も確かめた。


 中に入っているものは多くない。女将が貸してくれた手拭い。和田が買い足してくれた櫛。昨日、先生から受け取った書き付け。それから、女将が朝になって包んでくれた小さな握り飯。


「途中で食べなさい」


 女将はそれだけ言って、すぐに台所の方へ引っ込んだ。


 葵が礼を言うと、女将は背中を向けたまま、


「東京は、人が多いからね」


 と付け足した。


 それが心配の言葉なのか、ただの忠告なのか、葵にはすぐには分からなかった。ただ、胸の奥が少し温かくなった。


 この時代に来てから、知らない人の言葉ばかりを聞いている。


 そのひとつひとつが、自分をこの世界につなぎ止める細い糸のようだった。


 廊下に出ると、和田がすでに待っていた。


 昨日より少し改まった着物を着ている。髪もきちんと撫でつけていた。葵の風呂敷を見ると、すぐに手を伸ばした。


「持ちましょう」


「大丈夫です。軽いですから」


「軽くても、持ちます」


 言い方があまりに当然だったので、葵はそれ以上断れなかった。


 和田は風呂敷を受け取ると、少しだけ目を伏せた。


「本当に、行くんですね」


 その声に、昨日の海辺で見せた明るさはなかった。


 葵は答える前に、庭の端に見える空を見た。青い。現代の空と同じ色をしているのに、どこにも自分の帰り道は書いていない。


「はい」


 そう答えるしかなかった。


「東京なら、ここより落ち着けると思います。女の人のいる下宿なら、なおさらです」


 和田は自分に言い聞かせるように言った。


 葵は、その横顔を見た。


 この人は、自分を手放す準備をしている。


 そう思った途端、胸のあたりがきゅっと狭くなった。


「和田さん」


「はい」


「私、あの……助かりました」


 言ってから、葵は言葉が足りないと思った。


 宿を探してくれたこと。女将に話してくれたこと。先生に頼んでくれたこと。何も分からない自分の隣に、当然のように立ってくれたこと。


 けれど、それを全部言葉にしようとすると、かえって嘘のようになりそうだった。


「本当に」


 葵はもう一度そう言った。


 和田は風呂敷を持つ手に、少し力を入れた。


「それを言われると、困ります」


「困るんですか」


「もっと役に立ちたくなるので」


 葵はすぐに返事ができなかった。


 和田も、自分の言葉に気づいたように、少し耳を赤くした。それから早口に、


「行きましょう。汽車に遅れるといけません」


 と言って、先に歩き出した。


 鎌倉の道を駅へ向かうあいだ、葵は何度も振り返りたい衝動をこらえた。


 海は見えなくなっても、音だけがしばらく残っていた。草履の下の土の感触も、道端に干された洗濯物も、すれ違う人の着物の色も、どれも見慣れないのに、いつか忘れてしまいそうで怖かった。


 駅に着くと、人の流れが急に増えた。


 葵は思わず足を止めた。


 汽車という言葉は、教科書の中で何度も見た。写真も見た。けれど実際に黒い煙を吐く車体が目の前にあると、知識はほとんど役に立たなかった。


 金属の匂い。煤の匂い。人いきれ。切符を求める声。荷物を抱えた男たちの怒鳴るような呼び声。


 現代の駅なら、案内板がある。改札がある。電光掲示板がある。誰かに聞かなくても、だいたいの行き先は分かる。


 ここには、葵の知っている便利なものがひとつもなかった。


 それなのに、みんな迷わず動いている。


 自分だけが、世界の読み方を失っているようだった。


「葵さん」


 和田が戻って来た。手には切符を二枚持っている。


「大丈夫ですか」


「大丈夫、です」


 葵はそう言ったが、声は少し硬かった。


 和田は無理に笑わせようとはしなかった。ただ人の流れから半歩ずれて、葵の立つ場所を作った。


「急がなくていいです。私が一緒にいますから」


 その言葉は短かった。


 けれど葵には、駅の騒がしさの中で、その一言だけがまっすぐ届いた。


 汽車に乗ると、窓の外の景色がゆっくり動き出した。


 鎌倉の緑が遠ざかる。海の気配が薄くなる。知らない家並みが続き、畑が流れ、やがて町の密度が増していく。


 葵は膝の上で手を重ねた。


 隣に和田がいる。向かいの席には、荷物を抱えた婦人と子どもが座っている。誰も、自分が百年以上先から来た人間だとは思っていない。


 それが急に不思議で、急に苦しかった。


 自分はここで、小林葵でいられるのだろうか。


 それとも、先生の書き付けにあるように、どこかの「事情ある娘」として暮らすのだろうか。


 名前だけは同じでも、身分も家も過去も、ここでは何ひとつ証明できない。


 窓に映る自分の顔は、見慣れた顔のはずだった。けれど髪型も着物も違うせいで、少しだけ別人に見えた。


「気分が悪いですか」


 和田が小さな声で聞いた。


 葵は首を振った。


「少し、考えていただけです」


「何を」


 葵は迷った。


 帰りたい、と言えば和田を困らせる。


 帰れる場所が分からない、と言えばもっと困らせる。


「東京で、うまくやれるかどうか」


 だから、そう答えた。


 和田はしばらく黙っていた。


「葵さんは、たぶん大丈夫です」


「どうしてですか」


「怖がっていても、ちゃんと見ているからです」


 葵は顔を上げた。


 和田は窓の外ではなく、葵の方を見ていた。


「何も分からないふりをして流される人ではないと思います。怖いなら怖いまま、目を逸らさない。だから、大丈夫です」


 その言葉は励ましのようでいて、葵の内側を見透かすようでもあった。


 葵は少しだけ笑った。


「和田さんは、よく見ていますね」


「葵さんほどではありません」


「私?」


「ええ。昨日も、一昨日も。あなたは人の顔を見る時、まるで、その人がこれから何をするか知っているみたいな目をします」


 葵の笑みが止まった。


 和田はそれを見て、すぐに言葉を続けた。


「責めているのではありません。ただ、時々、遠いところから私たちを見ているように見える」


 汽車の音が、急に大きく聞こえた。


 葵は手の指を握った。


 言えるはずがなかった。


 自分が本当に遠いところから来たのだと。


 この人たちの未来を、物語として知っているのだと。


「遠くなんかありません」


 葵はやっとそれだけ言った。


 和田がこちらを見る。


 葵は視線を逸らさなかった。


「今は、ここにいます」


 和田の表情が、わずかに変わった。


 それは嬉しそうでもあり、痛そうでもあった。


「そうですね」


 和田は静かに答えた。


 汽車は東京へ近づいていった。


 東京は、葵の知っている東京ではなかった。


 駅に降りた途端、鎌倉とは比べものにならない人の多さに足がすくんだ。道には人力車が走り、荷車がきしみ、店先では知らない言葉の調子で客を呼ぶ声が飛び交っている。


 高い建物は少ない。空は広い。けれど人の気配だけは濃かった。


 葵は和田の少し後ろを歩いた。


 離れすぎると、すぐに見失いそうだった。


 下宿は大通りから少し入ったところにあった。


 表には派手な看板もない。格子戸の向こうに、磨かれたたたきが見える。中からは女の人の声と、かすかな煮物の匂いがした。


 和田が戸を開けると、四十を過ぎたくらいの女主人が出て来た。


 鋭い目をしているが、冷たいというより、余計なことを見逃さない目だった。


「こちらですか」


 女主人は葵を上から下まで見た。


 葵は背筋を伸ばした。


 和田は先生の書き付けを差し出した。


「昨日、先生からお願いのあった方です」


 女主人は書き付けを受け取ると、封の折り目を丁寧に開いた。文字を読み、もう一度葵を見た。


「お名前は」


「小林葵です」


 自分の名前を言っただけなのに、胸の奥が震えた。


 この名前は、ここで通るのだろうか。


 女主人は少し考えてから、


「小林さんですね」


 と言った。


 それだけで、葵は息をついた。


「事情は詳しく聞きません。ただし、ここにいる間は、ほかの娘さんたちと同じようにしてもらいます。朝は遅く起きないこと。食事の時刻は守ること。外へ出る時は行き先を言うこと」


「はい」


「学びに来たのなら、本も読みなさい。手紙を書く先があるなら、遠慮なく言いなさい」


 手紙を書く先。


 その言葉に、葵は一瞬だけ動けなくなった。


 現代の家族に手紙は届かない。


 友人にも、学校にも、どこにも。


「……はい」


 葵は遅れて返事をした。


 女主人はその間を見逃したように見えなかった。けれど何も聞かず、奥へ声をかけた。


「二階の小さい部屋を空けてあります。荷物を置いたら、夕飯まで少し休むといいでしょう」


 和田がほっとした顔をした。


 葵はその顔を見て、また胸が狭くなった。


 ここまで来れば、和田の役目は終わる。


 それが分かってしまった。


 女中らしい若い娘が出て来て、葵の風呂敷を受け取ろうとした。和田は一度それを渡しかけて、途中で手を止めた。


「葵さん」


「はい」


 下宿の玄関先で向き合うと、鎌倉の宿で別れるより、ずっと本当の別れのように感じられた。


「何かあれば、知らせてください」


 和田はそう言った。


 葵は、すぐには頷けなかった。


「知らせても、いいんですか」


 問い返した声が、自分でも思ったより弱かった。


 和田は驚いたように葵を見た。


 それから、はっきりと言った。


「知らせてください」


 葵の喉の奥に、何かがつかえた。


「迷惑では」


「ありません」


「でも、和田さんにも生活が」


「あります。だから、なおさら知らせてください。何も知らないままにされる方が、よほど困ります」


 その言葉に、葵は目を伏せた。


 何も知らないままにされる。


 誰かをそうしてはいけないと、葵は知っている。


 知っているはずなのに、自分もまた、この人に何も言えない。


「……分かりました」


 葵は小さく頷いた。


 和田はようやく風呂敷を女中に渡した。


 それから少し迷うように手を動かし、結局何もせずに下ろした。


「また来ます」


「はい」


「先生のところへ伺うこともあると思います。その時にでも、様子を見に寄れますから」


 葵はその言葉に、原作の流れを思い出した。


 和田は東京に戻り、先生の家へ通うようになる。


 その道筋が、少しだけ違う形で目の前につながっている。


「気をつけてください」


 葵が言うと、和田は微笑んだ。


「それは、こちらの台詞です」


 格子戸が閉まるまで、葵は和田の背中を見ていた。


 和田は一度だけ振り返った。


 葵は小さく頭を下げた。


 戸が閉まると、外の音が少し遠くなった。


 二階の小さい部屋は、六畳ほどだった。


 机と行李、薄い布団、障子越しの明るい光。窓を開けると、隣家の屋根と細い路地が見えた。遠くで人力車の鈴が鳴っている。


 鎌倉の海はもう聞こえない。


 その代わりに、東京の生活の音がした。


 葵は机の前に座り、先生の書き付けをもう一度取り出した。


 整った字が、紙の上に静かに残っている。


 先生はここにいない。


 和田も、もういない。


 けれど二人の手を通って、自分はこの部屋まで来た。


 葵は書き付けを丁寧に折り直し、行李のいちばん上に置いた。


 その下に、自分の持ち物はほとんどなかった。


 それでも、ここが今日からの部屋だった。


 仮の名前ではない。


 仮の呼吸でもない。


 葵は障子の向こうの薄い光を見つめた。


 この世界での東京の暮らしが、静かに始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ