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第10話 三浦春

 朝は、葵が思っていたより早く来た。


 障子の向こうが白み始めた頃、廊下で誰かの足音がした。桶の水が揺れる音、戸を開ける音、低い声で交わされる挨拶。下宿の一日は、葵が目を覚ます前からもう動き始めていた。


 葵は布団の中で一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 天井が違う。


 枕元にスマートフォンがない。


 カーテンではなく障子がある。


 その三つを順番に確かめて、ようやく昨日の夜を思い出した。


 東京の女学生下宿。


 『こころ』の本文に増えた一文。


 火を消す時はよく見なさい、と言った女主人の声。


 葵は慌てて起き上がった。


 布団を畳もうとして、手が止まる。


 どちらを内側にするのか。どこまできちんと畳むのか。現代の自分の部屋なら、掛け布団を適当に直して終わりだった。けれどここでは、適当という言葉が許されない気がした。


 しばらく布団の前で固まっていると、障子の外から声がした。


「小林さん、起きていますか」


「はい」


 返事をすると、障子が少しだけ開いた。


 顔を出したのは、昨日の食堂で葵の斜め向かいに座っていた娘だった。葵と同じくらいの年頃に見える。髪をきれいに結い、白い襟元が朝の光の中で清潔に見えた。


「入ってもよろしい?」


「どうぞ」


 娘は部屋に入ると、葵の前の布団を見て、少しだけ目を丸くした。


「そこでお困りでしたの」


「はい。畳み方が、分からなくて」


 正直に言うと、娘は驚いたように葵を見た。それから、笑ってはいけないと思ったのか、口元を押さえた。


「失礼。笑ったのではありません。ただ、ずいぶん素直におっしゃるから」


「分からないので」


「そういうところが、珍しいのです」


 娘は膝をつき、布団の端を取った。


「私は三浦春と申します。こちらでは、みな春と呼びます」


「小林葵です」


「存じています。昨日、女将さんがそう呼んでいました」


 春は手際よく布団を畳んでいく。葵はその動きを見つめた。


 簡単そうに見える。


 けれど、自分が同じようにできる気はしなかった。


「こうして、端を揃えます。少し曲がっても、最後に手で押さえれば形になります」


「はい」


「何もかも、最初からきれいにできる人はいません」


 春はそう言って、葵を見上げた。


 その声は、女主人ほど硬くない。けれど甘やかす声でもなかった。


 葵は少しだけ肩の力が抜けた。


「ありがとうございます」


「お礼は、朝のうちに支度が済んでからにしてください。食堂に遅れると、女将さんの目が怖いですから」


 春は立ち上がり、葵の髪を見た。


「それから、髪」


 葵は思わず頭に手をやった。


「変ですか」


「変というより、寝たままです」


 春は今度こそ少し笑った。


 その笑い方が、葵には嫌ではなかった。


 春は葵を鏡の前に座らせると、櫛を取った。


「よろしい?」


「お願いします」


 櫛が髪に入る。


 他人に髪を梳かれる感覚に、葵は少し身を固くした。


 春はそれに気づいたのか、手を止めた。


「痛いですか」


「いえ。あまり、こういうことをしてもらったことがなくて」


「そう」


 春の返事は短かった。


 けれどそのあとの手つきは、少しだけ柔らかくなった。


 髪を整えられている間、葵は鏡の中の自分と春を見た。


 自分の顔のすぐ後ろに、春の顔がある。


 春は真剣な目をしていた。


 ただ髪を整えているだけなのに、その視線には妙な熱があった。葵はそれを、まだうまく名づけられなかった。


 朝食の席では、春が隣に座った。


 葵が膳の置き方に迷うと、春が小さく指先で示してくれる。茶碗を持つ手の高さ、箸を置く場所、食後に膳を下げる順番。葵はひとつずつ覚えるしかなかった。


 食事が済むと、女主人が葵を呼んだ。


「小林さん、今日は三浦さんに下宿の中を案内してもらいなさい」


「はい」


「外へ出る時は、必ず行き先を言うこと。帰りが遅くなるなら、前もって知らせること。灯り、火鉢、水場の使い方は勝手にしないこと。ここは家であって、宿ではありません」


「はい」


 葵は頷きながら、頭の中で必死に書き留めた。


 家であって、宿ではない。


 ここには、ここで暮らす人の秩序がある。


 春は廊下へ出ると、葵の横に並んだ。


「女将さんは厳しく見えますけれど、言うことを守れば怖くありません」


「守れるように、頑張ります」


「頑張るほどのことではありません。慣れです」


「その慣れが、私にはまだなくて」


 葵が言うと、春は不思議そうに首を傾げた。


「小林さんは、どちらで育ったのですか」


 葵は一瞬、言葉に詰まった。


 未来です。


 そう言えるわけがない。


「遠いところです」


「遠いところ」


「はい。ここでの暮らしとは、いろいろ違っていて」


 春はしばらく葵を見ていた。


「そういう答え方をされると、余計に聞きたくなります」


「すみません」


「責めているのではありません」


 春は前を向いた。


「ただ、あなたは時々、ずいぶん遠くから来たような顔をなさる」


 葵は返事ができなかった。


 和田にも似たことを言われた。


 遠いところから見ているようだ、と。


 葵はそんなつもりはない。今はここにいる。そう言った。けれど、周囲の人には見えているのかもしれない。葵がこの世界にうまく触れられていないことが。


 春は水場、物干し、風呂場、裁縫道具の置き場所を順に教えてくれた。


「洗濯は、こちら。急ぎでなければ、朝のうちに出します。自分で洗うものは、ここで。けれど着物を駄目にしそうなら、最初は聞いた方がいいです」


「駄目にしそうです」


「即答ですね」


「自信があります」


「ない自信を、そんなにはっきり言わないでください」


 春が笑った。


 葵もつられて笑う。


 笑ってから、葵は少し驚いた。


 この時代に来てから、こんなふうに同年代の女の子と笑ったのは初めてだった。


 その後、春は葵の部屋で、着物の畳み方と簡単な針仕事を教えてくれた。


 葵は針を持った瞬間から危なかった。


「針は、そう握るものではありません」


「こうですか」


「それでは指を刺します」


「じゃあ、こう」


「布を縫う前に、自分を縫いそうです」


 春は呆れながらも、楽しそうだった。


 葵は針に糸を通そうとして、何度も失敗した。糸の先が割れる。穴に入らない。やっと通ったと思うと、今度は玉結びができない。


 春は葵の手から糸を取り、端を軽く湿らせて整えた。


「見ていてください。糸はこうして、指に巻いて」


 春の指が葵の指に触れた。


 葵は真剣に手元を見ていた。


 けれど春は、一瞬だけ動きを止めた。


 葵が顔を上げると、春は葵の指先を見たまま黙っていた。


 針を持つには頼りなく見える手が、春の指の中で少し緊張している。


「三浦さん?」


 呼ぶと、春はようやく瞬きをした。


「何でもありません。もう一度やってみて」


「はい」


 葵はもう一度挑戦した。


 結果は、やはり危なかった。


 春はため息をついた。


「あなた、頭はずいぶん遠くまで行っているようなのに、手元はまるで危ないのね」


「面目ないです」


「面白い人」


 その言葉は、葵には思ったより自然に聞こえた。


 葵が顔を上げる。


「面白い、ですか」


「ええ。危なっかしくて、目が離せません」


 そう言ったあと、春は少しだけ口をつぐんだ。


 葵には、その沈黙がただの親切の続きなのか、それとも別の何かなのか、すぐには分からなかった。


 午後、春は自分の本を持って葵の部屋に来た。


「これ、分かりますか」


 差し出された帳面には、算術の問題が書かれていた。春は少し恥ずかしそうに言った。


「明日までに解かなくてはいけないのですが、ここで止まってしまって」


 葵は帳面を覗き込んだ。


 現代の感覚では、難しい問題ではなかった。けれど春の反応を見る限り、見慣れない形らしい。


「これなら、式を立てた方が早いです」


「式?」


「ええと、ここを未知数にして」


 葵は鉛筆を取り、別の紙に図と式を書いた。


 春は最初、不思議そうに見ていた。けれど説明が進むにつれて、目が大きくなっていった。


「待ってください。どうしてそこがそうなるのです」


「ここをこう置くと、こっちとの関係が出るので」


「そんなふうに考えたことはありません」


「でも、分かれば早いです」


 葵が最後まで解くと、春はしばらく黙っていた。


「小林さん」


「はい」


「あなた、本当に針に糸も通せない人ですか」


「それは本当です」


 春は帳面と葵の顔を見比べた。


「おかしな人」


「よく言われます」


「誰に」


 葵は答えかけて、和田の顔を思い出した。


 遠いところから見ているように見える。


 今は、ここにいます。


 汽車の中の会話が、ふと蘇る。


「……最近、知り合った人に」


 春はそのわずかな間を聞き逃さなかった。


「男の方?」


 葵は驚いて春を見た。


「どうして」


「顔が変わりました」


「そんなに分かりますか」


「分かります」


 春は静かに答えた。


 その声は落ち着いていた。


 けれど葵には、春の目がさっきより少し細くなったように見えた。


 昨日、食堂で見かけた女学生たちの中には、姉妹のように親しい者もいた。手紙を見せ合い、リボンを直し合い、互いの袖を引く距離が妙に近い者もいた。


 葵は授業で聞いた「エス」という言葉を思い出した。


 この時代の女学生同士の親しさ。


 その言葉で春の視線を説明してよいのか、葵にはまだ分からなかった。


「和田さん、という方です」


 葵は小さな声で言った。


「鎌倉で、助けてくれた人です」


「そう」


 春は帳面を閉じた。


「親切な方なのですね」


「はい」


 葵の返事は素直だった。


 春はすぐには頷かなかった。


 帳面の端を指で軽く押さえたまま、葵の顔を見ていた。


 夕方、女主人が葵の部屋へやって来た。


「小林さん、手紙です」


 葵は立ち上がった。


「私に、ですか」


「ええ。和田という方から」


 名前を聞いた瞬間、葵の顔が明るくなった。


 春はその変化を、隣で見ていた。


 葵は手紙を受け取ると、封の上の文字を見つめた。丁寧な字だった。鎌倉で見た和田の手の形を、葵は思い出した。


 開いてもよいものか迷うように、葵は春を見た。


「読んでください。私は失礼します」


 春はそう言ったが、足はすぐには動かなかった。


 女主人が去ると、葵は封を開いた。


 紙の音が、部屋に小さく響いた。


 葵さん


 下宿には無事に落ち着かれたでしょうか。

 先日、先生のお宅へ伺いましたが、お留守でした。

 近日、もう一度伺うつもりでおります。

 その折、あなたの下宿の近くを通ることになります。

 もしお目にかかれましたら、少しお話ししたく思います。

 あなたが差し支えなければ、そのままご一緒に伺えればとも思っています。

 先日、知らせると申しましたので、まず筆を取りました。


 和田


 短い手紙だった。


 けれど葵は、何度もその文字を読んだ。


 先日、知らせると申しましたので。


 下宿の玄関先で、和田が言った声を思い出した。


 知らせてください。


 今度は和田の方が、その言葉を守ってくれている。


 葵の胸に、ほっとする気持ちが広がった。


 この世界で、自分のことを覚えていてくれる人がいる。


 自分に知らせようとしてくれる人がいる。


 それだけで、朝から張っていた心が少しゆるんだ。


 けれど、すぐに別の緊張が胸の奥に立ち上がった。


 先日、先生のお宅へ伺いましたが、お留守でした。


 和田はもう、一度先生の家へ行っている。


 原作で「私」が一人で先生の家を訪ねる、その最初の一歩は、葵の知らないところで踏まれていた。


 葵は少しだけ安堵した。


 自分は、何もかも横取りしたわけではない。


 先生の家へ行く。


 けれど次は、原作では和田が一人で通うはずの場所へ、自分も行くかもしれない。


 そこへ自分が一緒に行けば、また本文は変わるかもしれない。


 それでも、和田は葵を連れ出すために道を曲げているわけではなかった。ただ先生の家へ向かう道の途中で、葵の下宿の近くを通る。その時に会えたなら、と書いている。


 その控えめさが、かえって和田らしかった。


「よかったですね」


 春が言った。


 葵は顔を上げた。


「はい」


 その返事は、隠しようがないほど嬉しそうだった。


 春は微笑んだ。


 けれどその微笑みは、ほんの少し遅れて出てきたように見えた。


 春は何か言いかけて、結局何も言わなかった。


 さっき葵が通せなかった細い糸のようなものが、二人の間に張られた気がした。


 葵には、それが何の糸なのか分からなかった。


 葵は手紙を丁寧に折り直し、机の上に置いた。


 その横には、昨夜のノートがあった。


 人を筋書きで見ない。


 葵はその文字を見てから、和田の手紙をもう一度見た。


 先生の家へ行く道が、近づいている。


 ただし、それは葵のためだけに作られた道ではない。


 和田が先生へ向かう道の端に、自分の下宿がある。


 葵はそのことに、少しだけ救われた。


 けれど今日は、その前に覚えなければならないことがあった。


 布団の畳み方。


 火の消し方。


 針に糸を通すこと。


 そして、自分を見てくれる人の気持ちを、見落とさないこと。


 春は葵の横顔を見つめていた。


 灯りが入る前の部屋に、夕方の薄い光が残っている。


 葵は手紙を胸に寄せるように持った。


 ふと見ると、春の視線がまだその手紙のあたりに残っていた。


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