第11話 雑司ヶ谷へ
二度目に同行すれば、雑司ヶ谷の場面に自分も居合わせることになるかもしれない。
葵は朝から、そのことばかり考えていた。
和田はもう、一度先生の家を訪ねている。先生は留守だった。そこまでは原作の流れに近い。最初の一歩は、葵の知らないところで踏まれていた。
けれど二度目は違う。
和田が先生の家へ向かう途中で、この下宿へ寄る。もし葵が一緒に行けば、その先で何を見ることになるのか、葵には分かっていた。
先生の留守。
奥さん。
雑司ヶ谷。
まだ紙の上でしか知らない言葉が、今日、道の先に現れる。
葵は鏡の前に座ったまま、櫛を持つ手を止めていた。
「小林さん」
後ろから春の声がした。
「髪、途中で止まっています」
「あ」
葵が振り返ると、春は少し呆れたような顔をしていた。けれどその目は、昨日より柔らかい。
「今日は外へ出るのでしょう」
「はい。先生のお宅へ行く途中で、和田さんが寄ってくださるそうです」
「では、なおさらきちんとなさらないと」
春は葵の手から櫛を受け取った。
「お願いします」
「もう少し自分でできるようになってください」
「努力します」
「その返事は昨日も聞きました」
そう言いながら、春は葵の髪を整え始めた。
櫛が髪を通る音が、朝の部屋に小さく響く。春の手つきは慣れていて、余計な力が入っていなかった。葵は鏡の中で、春の顔を見た。
春は真剣に髪を見ていた。
けれど、和田の名前を出した後から、少しだけ口数が減ったように見えた。
「三浦さん」
「はい」
「何か、変ですか」
「髪は変ではありません」
「髪は」
春は葵の襟元に手を移した。
「顔が少し固いです」
「緊張しているんだと思います」
「和田さんに会うからですか」
葵はすぐに答えられなかった。
和田に会うから。
それもある。
けれど、それだけではなかった。
「先生のお宅へ行くからです」
葵がそう言うと、春の手が襟元で一瞬止まった。
それから、何事もなかったように布を整える。
「その先生という方は、そんなに怖い方なのですか」
「怖い、というより」
葵は言葉を探した。
「遠い方です」
「遠い」
「近づいていいのか、分からない人です」
春は鏡の中で葵を見た。
「それでも行くのですね」
「はい」
春はそれ以上聞かなかった。
ただ最後に、襟元を指で軽く押さえた。
「では、気をつけて」
「ありがとうございます」
「帰ったら、着物の畳み方をもう一度します」
「今日もですか」
「今日もです」
葵は少し笑った。
その笑いで、胸の緊張がほんの少し解けた。
女主人に外出先を告げると、女主人は和田の手紙を一度見た後、頷いた。
「先生のご紹介でここへ来たのですから、先生のお宅へ伺うこと自体は不自然ではありません。ただし、遅くならないこと」
「はい」
「三浦さん」
女主人は春にも目を向けた。
「小林さんが帰ったら、着物を乱していないか見てあげなさい」
「はい」
春はいつものように返事をした。
葵は少し恥ずかしくなったが、言い返せなかった。
ほどなくして、玄関に来客を知らせる声がした。
女中が取り次ぎ、女主人が玄関へ出る。葵は廊下の途中で足を止めた。春も少し後ろに立っていた。
格子戸の向こうに、和田がいた。
鎌倉で見た時より、東京の道に合わせたような身なりをしている。けれど、葵を見つけた時の目の明るさは変わらなかった。
「小林さん」
和田はすぐに頭を下げた。
「お約束のような形になってしまいましたが、伺っても差し支えありませんでしたか」
「はい。こちらこそ、ありがとうございます」
女主人が和田を見た。
「先生のお宅へ行かれるとか」
「はい。先日伺った折はお留守でしたので、今日もう一度と思いまして。その途中で、こちらへ寄らせていただきました」
和田の言葉は丁寧だった。自分の都合で葵を連れ出すのではなく、あくまで道の途中で立ち寄ったのだと分かる言い方だった。
女主人は少しだけ表情を和らげた。
「小林さんは、こちらへ来てまだ日が浅いです。あまり遠くへ連れ回さないように」
「承知しております」
和田は真面目に答えた。
それから春の方へも目を向けた。
「三浦さん、でしたね。小林さんがこちらで色々教えていただいていると聞きました」
春は少し驚いたように瞬きをした。
「私は、大したことはしておりません」
「それでも、小林さんには心強いことだと思います」
和田がそう言うと、春の目元がほんの少し緩んだ。
葵はそれを見て、胸のどこかが不思議に温かくなった。和田が春をきちんと見てくれたことが、なぜか嬉しかった。
「では、行きましょうか」
和田は葵に向き直った。
それから、少し声を落とした。
「ご無理なら、今日は私一人で参ります」
その一言で、葵はかえって決心がついた。
和田は、葵を原作の場面へ引きずっていく人ではない。
選ぶ余地を残してくれている。
「行きます」
葵は答えた。
春の視線が、葵の横顔に触れた気がした。
葵は振り返り、小さく頭を下げた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
春はそう言った。
その声は穏やかだった。けれど、葵には、襟元を直してくれた時の春の指の感触が、まだ少し残っていた。
外へ出ると、東京の空はよく晴れていた。
原作にあった、身に沁み込むような好い日和という言葉を、葵は思い出した。
大通りに出ると、和田は路面電車の停留所の方へ葵を案内した。
葵は線路を見た。
道の上を電車が走る。
知識としては知っていた。けれど、馬車や人力車の間を縫うように電車が近づいてくるのを見ると、現代の電車とはまるで違う生き物のように思えた。車輪の音、架線の下の火花の気配、人々が慣れた様子で乗り込んでいく動き。そのすべてが、葵には新しかった。
「乗ったことはありますか」
和田が尋ねた。
「いいえ」
正直に答えると、和田は少しだけ笑った。
「では、こちらへ」
和田は先に立って、葵が乗りやすいように半歩場所を空けた。
電車が動き出すと、東京の町が窓の外でゆっくり流れた。
人力車。店先の暖簾。学生らしい青年たち。日傘を差した女の人。葵の知らない東京が、線路に沿って広がっている。
和田は葵の隣で、吊革には触れず、座席の端に軽く手を置いていた。
「先日は、先生にお会いできなかったのですね」
「ええ」
和田は少し苦笑した。
「玄関まで行ったのですが、留守だと言われました」
「残念でしたか」
「残念でした」
その答えは素直だった。
和田は前を見たまま続けた。
「鎌倉で別れる時、私は先生に、これから折々お宅へ伺ってもよいかと聞いたのです」
葵は黙って聞いた。
「先生は、ただ、ええいらっしゃい、とだけおっしゃいました」
和田は少し笑った。
「私は、もう少し懇意になったつもりでいたのでしょうね。その返事が、少し物足りなかった」
葵は、原作の文章を思い出した。
先生と懇意になったつもりでいた「私」。
そっけない返事に傷つきながら、それでも離れる気にはなれない「私」。
不安になるたびに、もっと前へ進みたくなる「私」。
今、その「私」は和田という名前で隣を歩いている。
けれど葵には、和田がただ原作の役割をなぞっているだけには見えなかった。
「それでも、行くんですね」
「はい」
和田は迷わず答えた。
「先生には、何かある気がするのです。私が勝手にそう思っているだけかもしれませんが」
少し間を置いて、和田は葵を見た。
「あなたも、そう思っているのではありませんか」
葵は足元を見た。
思っている。
知っている。
けれど、その違いを言葉にすることはできない。
「……はい」
葵は小さく答えた。
和田はそれ以上追及しなかった。
しばらくして電車を降りると、町の音は少し遠くなった。
道は、葵が思っていたより静かだった。大通りから少し入ると、人の声も車輪の音も遠くなる。木の影が塀に落ち、門の内側に、よく手入れされた庭の気配があった。
先生の家。
原作で何度も読んだ場所。
けれど実際に前に立つと、文字で知っていた時よりずっと近く、ずっと遠かった。
和田が門の前で一度立ち止まった。
「ここです」
葵は頷いた。
胸が強く鳴っている。
和田が玄関へ進み、声をかけた。
出てきたのは下女だった。
和田を見ると、下女は少し思い出したような顔をした。先日も来た客だと分かったのだろう。
「先生は、ご在宅でしょうか」
和田が尋ねた。
下女は少し困ったように答えた。
「ただ今、留守にしております」
二度目も留守。
葵はその言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
原作の通りだ。
和田はすぐに帰ろうとはしなかった。玄関先で少し躊躇している。葵はその横顔を見た。
下女は二人を待たせるようにして、奥へ入った。
家の中は静かだった。
畳の匂い。庭の方から入る光。奥でかすかに衣擦れの音がする。
葵は息を整えようとした。
すると、下女に代わって、一人の女性が玄関に現れた。
葵は息を呑んだ。
静だ。
原作の中で「奥さん」と呼ばれていた人が、目の前にいる。
思っていたより若く、思っていたより静かだった。美しい、という言葉は確かに当てはまる。けれど葵がまず感じたのは、美しさよりも、その落ち着きだった。
奥さんはまず和田を見た。
それから葵を見た。
その目が、ほんの一瞬だけ止まった。
驚いた、というほどではない。
けれど初めて見る人に向ける目とも違った。
葵の胸が、嫌な音を立てた。
知っているはずがない。
それなのに、知らない人として扱うことに慣れているように見えた。
奥さんはすぐに穏やかな顔に戻り、丁寧に頭を下げた。
「せっかくお越しくださいましたのに、先生はただ今留守にしております」
声は乱れていなかった。
和田が会釈する。
「先日も伺ったのですが、お会いできませんで」
「それは失礼いたしました」
奥さんは気の毒そうに言った。
そして葵の方へ視線を移した。
「こちらの方は、お連れの方でいらっしゃいますか」
「はい。鎌倉でご一緒した小林さんです」
和田が説明した。
葵は慌てて頭を下げた。
「小林葵と申します」
「小林さん」
奥さんはその名を一度だけ繰り返した。
その声は、ただの確認にしては少し柔らかかった。
葵は顔を上げられなかった。
奥さんは何も聞かなかった。
葵は今、春に整えてもらった女学生らしい装いをしている。ここにいること自体は、もう鎌倉の海辺で現代の制服を見られた時ほど奇妙ではない。
それでも、奥さんがあまりにも自然に葵を受け入れることが、かえって怖かった。
「葵さんに会えて、よかったです」
奥さんは静かに言った。
葵は顔を上げた。
今、何と呼ばれたのだろう。
小林さん、ではなかった。
葵さん。
奥さんはもう、穏やかな顔に戻っていた。まるでただ名を聞いた客に、礼儀としてそう言っただけのように。
けれど葵の胸の奥で、何かが強く鳴った。
「先生は、どちらへ」
和田が尋ねた。
奥さんは少しだけ間を置いた。
「例月のことで、雑司ヶ谷の方へ参りました」
雑司ヶ谷。
その地名が、葵の中で鋭く響いた。
奥さんは続けた。
「墓地にある或る仏へ、花を手向けに行く習慣がございます。たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」
言葉の終わりで、奥さんの目が一度だけ葵に戻った。
まるで、その地名が葵に届いたかどうかを確かめるように。
葵は指先を握った。
来た。
雑司ヶ谷の墓。
先生が毎月花を手向ける場所。
葵が、原作の中で何度も意味を考えた場所。
和田は奥さんに礼を言った。
「ありがとうございました」
奥さんは丁寧に頭を下げた。
葵も遅れて頭を下げる。
その時、奥さんの視線がまた一瞬だけ葵に触れた気がした。
知らない人を見る目ではない。
けれど知っている人として呼び止める目でもない。
葵には、その中間が分からなかった。
玄関を出ると、和田はしばらく黙っていた。
門を離れ、賑やかな町の方へ一丁ほど歩いたところで、和田が足を止めた。
「小林さん」
「はい」
「雑司ヶ谷へ行ってみませんか」
葵は答えられなかった。
原作では、ここで和田が踵を返す。
先生に会えるかもしれないという好奇心に動かされて、雑司ヶ谷へ向かう。
その流れが、今、目の前で起きている。
「無理にとは言いません」
和田はそう付け加えた。
「ただ、先生がそこへ行かれる理由を、少し知りたいのです」
葵は先生の家の方を振り返った。
静はもう見えない。
けれど、さっきの目だけが残っていた。
知っているはずがないのに、知らない人として扱うことに慣れている目。
葵は本当に、このまま進んでいいのだろうか。
行けば、墓を見ることになる。
先生の秘密の入口に立つことになる。
けれど、行かなければ何も分からない。
何も知らないまま、誰かが黙って沈んでいくのを見過ごすことになる。
「行きます」
葵は言った。
声は小さかったが、和田には届いた。
和田は頷いた。
二人は、先生のいない家を背に、雑司ヶ谷の方へ歩き出した。




