第12話 友達の墓
雑司ヶ谷へ向かう道の途中で、葵は何度も引き返したくなった。
けれど和田は、先生の家を出た時よりも少し早い足取りで歩いていた。焦っているというほどではない。ただ、今行けば会えるかもしれないという思いが、体の前へ出ている。
葵はその半歩後ろを歩いた。
先生に会えるかもしれない。
和田にとっては、それだけで足を進める理由になる。
葵にとっては違った。
和田はまだ、墓の意味を知らない。
知らないからこそ、まっすぐ歩ける。
葵はその背中を見ながら、自分が持っているものは答えではないのだと思った。答えなら、人を助けられるはずだった。けれど葵が持っているのは、どこに傷があるかという知識だけだった。
傷の場所を知っているからといって、そこへ人を連れて行っていいのだろうか。
先生に会うことは、墓に近づくことだった。
墓に近づくことは、Kの影に近づくことだった。
けれど、まだKの名はどこにも出ていない。和田も知らない。先生も言っていない。静は知っているような目をしながら、何も言わなかった。
葵だけが、先のページを知っている。
そのことが、今日はいつもより重かった。
教室で読んでいた時、雑司ヶ谷は紙の上の地名だった。ページを閉じれば消える場所だった。けれど今は、そこへ向かう道に自分の足が乗っている。知っているはずの場所へ近づくほど、葵はかえって何も知らない人間になっていくようだった。
墓地の手前に来ると、空気が少し変わった。
人の気配が薄くなる。土の匂いが濃くなる。苗畠の緑が目に入り、そこから左へ入る道があった。両側には楓が植えられている。まだ紅葉には早い葉が、陽の光を受けて静かに揺れていた。
葵は、その道を見た瞬間、息を止めた。
読んだことがある。
文字で知っていた道が、目の前にある。
「こちらですね」
和田が言った。
葵は頷いた。
二人は楓の道を奥へ進んだ。
墓地は、葵が想像していたより広かった。静かなのに、空白ではない。石のひとつひとつに、誰かの名前があり、誰かがそこへ来た痕跡がある。花の残り、水の跡、古びた塔婆、風に倒れかけた線香の灰。
ここには、物語のために置かれた墓だけがあるのではない。
たくさんの死がある。
その当たり前のことに気づいた時、葵は足元を見た。
自分は、死を止めたいと思っている。
けれど死を、どこかで筋書きの終点として見ていなかっただろうか。
茶店が見えた。
和田が足を止める。
その中から、一人の男がふいと出て来た。
麦藁帽ではなかった。けれど、眼鏡の縁が陽に小さく光った。
先生だった。
その光を見た瞬間、葵の中で、読んだ文章と目の前の景色が重なった。
ここまで来てしまった。
そう思った途端、喉が細くなった。和田が声を出す前の、ほんの短い沈黙が、葵にはひどく長く感じられた。
和田が一歩前へ出た。
「先生」
声は、思ったより大きく墓地に響いた。
先生は突然立ち止まった。
まず和田を見た。
それから、和田の後ろにいる葵を見た。
先生の顔には、鎌倉の海で見せたものとは違う影が落ちた。驚きはあった。けれど、それだけではない。まるで、自分の中に閉じ込めておいた場所へ、思いがけない人が入って来たのを見たようだった。
「どうして……」
先生は低く言った。
そして、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「どうして……」
森閑とした昼の中で、その声だけが妙に沈んで聞こえた。
和田はすぐには答えられなかった。
先生の目が、もう一度葵に移る。
「あなたまで」
小さな声だった。
葵の胸が詰まった。
あなたまで。
その言葉は、ただ同行者が増えたことへの驚きにしては、少し重すぎた。
「来てはいけませんでしたか」
葵は思わず聞いた。
先生はすぐには答えなかった。
「いけない、というのではありません」
「では」
「ここは、人を誘って来る場所ではないのです」
葵は和田を見た。
和田は何か言おうとして、結局黙った。
「私は、自分で来ました」
先生の目が、静かに葵へ戻った。
「それなら、なおさらです」
「なおさら?」
「自分で来た人は、自分で見たものを持って帰らなければならない」
葵は返事ができなかった。
「私の後をつけて来たのですか」
先生は和田に向き直った。
態度は落ち着いていた。声も荒くない。けれど表情の中に、はっきりとは言えない曇りがあった。
「いえ」
和田は慌てて首を振った。
「お宅へ伺ったところ、奥さんからこちらへいらしたと聞きました。たった今出たばかりだと伺ったものですから、もしかするとお会いできるかと思って」
先生は和田の言葉を最後まで聞いた。
「誰の墓へ参りに行ったか、妻がその人の名を言いましたか」
葵は指先を握った。
来た。
この問いも、原作にあった。
けれど今は、紙の上の一文ではない。
先生の声として、目の前にある。
「いいえ」
和田は答えた。
「そんなことは何もおっしゃいませんでした」
「そうですか」
先生は少しだけ息を吐いた。
「そう、それは言うはずがありませんね。初めて会ったあなたに。言う必要がないのだから」
和田はその意味が分からない顔をした。
葵には分かった。
分かってしまうことが、苦しかった。
静は言わなかった。
けれど静は、葵を見た。雑司ヶ谷という地名を告げた後で、葵に届いたかどうかを確かめるように。
葵はもう一度、静の声を思い出した。
葵さんに会えて、よかったです。
あの人は何を知っているのだろう。
先生は、和田と葵をしばらく見ていた。
「せっかく来たのなら、少し歩きましょう」
先生はそう言って、墓の間を抜ける道へ足を向けた。
和田がその後に続く。
葵も遅れて歩き出した。
三人は墓地の中を進んだ。
墓石の形はさまざまだった。丸いもの。細長いもの。西洋風の文字が刻まれたもの。古い塔婆の立つもの。和田はそれらを見ながら、時々立ち止まりそうになった。
「これは、何と読むのでしょう」
和田が小さな墓の文字を指した。
先生はちらりと見て、苦笑した。
「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」
和田も少し笑った。
葵は笑えなかった。
和田が墓標の珍しさに目を留めるたび、葵はその下に眠る人の存在を意識してしまう。ここは、謎解きのための場所ではない。誰かの終わりが、石になって並んでいる場所だった。
和田の反応は、決して不真面目なものではなかった。知らない文字を見れば読みたくなる。変わった形を見れば、どういう意味なのか知りたくなる。それは若い好奇心として自然なものだった。
だからこそ、葵は苦しくなった。
自分も同じだったのではないか。
Kの死を、先生の遺書を、静の沈黙を、知りたいものとして読んでいたのではないか。痛いと思いながら、その痛みを物語の形で受け取って、安全な場所にいたのではないか。
今は安全ではなかった。
石の下にあるものは、誰かの結末ではなく、誰かが置いていかれた後の時間だった。
先生はしばらく黙って歩いた。
やがて、和田がまた何かを言いかけた時、先生が静かに口を開いた。
「あなたは、死という事実をまだ真面目に考えたことがありませんね」
和田は黙った。
葵も黙った。
その言葉は和田に向けられたものだった。けれど葵には、自分の胸を直接押されたように感じられた。
死という事実。
葵はKの死を知っていると思っていた。
先生の死を知っていると思っていた。
静が知らないまま残されることも知っていると思っていた。
けれど、それは本当に死を考えたことになるのだろうか。
教科書の中の出来事として、結末として、課題として、対策として、葵は死を扱ってきたのではないか。
「考えたつもりでいました」
葵は小さく言った。
先生が足を止めないまま、葵の方を見た。
「つもり、ですか」
「はい。でも今、違うのかもしれないと思いました」
先生はしばらく黙っていた。
「死は、考えるものではありません」
その声は低かった。
「残るものです」
Kは、葵の知る原作ではもう死んでいる。
先生は、まだ目の前を歩いている。
それなのに葵は、先生のことまで、いつか死ぬ人として先に見ていたのではないか。
Kの顔を、葵はまだ知らない。
声も知らない。歩き方も知らない。怒った時にどんな目をするのか、笑うことがあるのか、箸をどう持つのか、何も知らない。
それなのに、死だけは知っているつもりでいた。
そのことが、急に恥ずかしかった。
救いたいと願うことと、知っているつもりでいることは違う。葵はその違いを、墓石の間で初めて肌に触れるように感じた。
葵は顔を上げられなかった。
先生もそれ以上何も言わなかった。
三人はそのまま歩いた。
墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本立っていた。空を隠すほど枝を広げている。今はまだ葉の色が青い。けれど先生はその梢を見上げた。
「もう少しすると、綺麗ですよ」
先生の声は、さっきより少しだけ穏やかだった。
「この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」
葵は銀杏を見上げた。
先生は、月に一度ここを通る。
この木の青い時も、黄葉する時も、葉を落とした後も。
同じ場所を、同じ理由で、何度も歩く。
その繰り返しの重さを思うと、葵は息が苦しくなった。
一度だけなら、悲しみと言えるのかもしれない。
けれど毎月ここへ来ることは、悲しみを習慣にすることだった。忘れないためなのか、忘れられないからなのか、葵には分からない。先生はこの銀杏の下を何度通り、何度同じ墓の前に立ち、何度何も言わずに帰ったのだろう。
秋が来るたびに、金色の落葉が同じ場所を埋める。
そのたびに、先生は何を置いて帰ったのだろう。
向こうの方では、新しい墓地を作っている男が鍬の手を休めて、こちらを見ていた。
三人はそこから左へ切れて、街道へ出た。
これからどこへ行くという目的は、葵にはなかった。
和田も、ただ先生の歩く方へ歩いているようだった。
先生はいつもより口数が少ない。
それでも和田は、すぐに帰ろうとはしなかった。葵には、和田が先生から離れたくないのが分かった。
坂を下りながら、和田が口を開いた。
「すぐお宅へお帰りですか」
「ええ。別に寄る所もありませんから」
また沈黙が落ちた。
少しして、和田がもう一度尋ねた。
「先生のお宅の墓地は、あそこにあるんですか」
「いいえ」
先生は短く答えた。
「では、どなたのお墓があるんですか。ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
それ以上、先生は答えなかった。
和田は口をつぐんだ。
葵も何も言わなかった。
今ここで、Kの名前を出してはいけない。
葵はそう思った。
出せるはずがない。
まだ和田は知らない。先生は言わない。静も言わなかった。葵だけが名前を持っている。
その名前を、自分の都合でここへ置いてはいけない。
一町ほど歩いた後だった。
先生が不意に足を緩めた。
「あすこには」
先生は前を向いたまま言った。
「私の友達の墓があるんです」
葵は足を止めそうになった。
友達の墓。
原作通りの言葉。
けれど、その言葉が今はひどく生々しかった。
友達、という言葉はあまりに普通だった。
学校で隣に座る人にも、海で一緒に泳ぐ人にも、手紙をくれる人にも使える言葉だった。だからこそ、その普通さが苦しかった。先生はその言葉で、墓の中の人を遠ざけているようにも、かろうじて近くに置いているようにも見えた。
名を呼ばない。
名を呼ばないことで、その人は墓の中へもう一度沈められていく。
葵には、そんなふうに思えた。
「お友達のお墓へ、毎月お参りをなさるんですか」
和田が聞いた。
「そうです」
先生はそれだけ答えた。
その日、先生はそれ以上を語らなかった。
葵は、先生の横顔を見ることができなかった。
K。
胸の内側で、その名前だけが音にならずに浮かんだ。
まだ誰も口にしていない名前。
けれど先生の沈黙の中に、確かにある名前。
言えば、何かが変わるかもしれない。
けれど、ここでその名を口にすることは、葵が先生の沈黙を力ずくで破ることでもあった。先生が隠しているものを暴くことと、先生が語れるようになるまで待つことは違う。
葵は唇を閉じた。
この墓を、筋書きの中の目印として見てはいけない。
友達の墓。
先生がそう呼ぶ場所を、葵はまだ何も知らない人のように、ただ黙って歩くしかなかった。




