第13話 墓参りと散歩
それから、和田は時々先生の家を訪ねるようになった。
葵は毎回一緒に行かなかった。
最初にそう決めた時、葵は少しだけ自分を褒めたい気持ちになった。和田と先生の関係を、自分が横から奪わずにすむ。本で読んだ通り、和田がひとりで先生へ近づいていく時間を、少なくとも少しは守れる。
けれど、その気持ちは長く続かなかった。
和田が先生の家へ行っている間、葵は下宿の机の前で本を開いても、同じ行ばかり読んでいた。春に教わった針仕事を練習しても、糸はすぐに絡まった。食堂で箸を取っていても、ふと雑司ヶ谷の銀杏が頭に浮かぶ。
自分が同行しないことは、和田の時間を守ることかもしれない。
けれど同時に、何かを見落とすことでもあった。
葵はその二つの間で、毎日少しずつ薄く削られていくような気がした。
和田は、先生の家へ行くたびに短い手紙をくれるわけではなかった。けれど時々、下宿の近くまで来て、葵に話をしてくれた。
春は、和田が訪ねて来る日を、葵より先に気づくことがあった。
「小林さん、今日は顔がそわそわしています」
「そんなに分かりますか」
「分かります」
春はそう言って、葵の襟元を軽く直した。
「先生のお宅の話を聞く日でしょう」
和田さんに会う日でしょう、とは言わなかった。
その言い方が、葵には少し刺さった。
自分は和田に会いたいのか。
先生の話を聞きたいのか。
それとも、あの本の筋がどこまで進んでいるのか確かめたいだけなのか。
葵自身にも、うまく分からなかった。
その日の夕方、和田は下宿の玄関に立った。
以前より、ここに来ることに少し慣れたように見えた。女主人へ丁寧に挨拶し、春にも頭を下げる。春は和田を見ると、最初の頃ほど硬い顔をしなくなっていた。
「小林さんに、少しお話ししてもよろしいでしょうか」
和田が言うと、春は女主人の方を見た。
女主人が頷く。
「長くならないように」
「承知しています」
和田は真面目に答えた。
その真面目さが、春の目元を少し和らげたように葵には見えた。
葵と和田は、下宿の玄関脇の小さな腰掛けに並んだ。外はもう暮れ始めている。路面電車の音が遠くでして、人の声が夕方の湿った空気に混じっていた。
「先生のお宅へ、また伺ったのですか」
葵が聞くと、和田は頷いた。
「ええ。行くたびに、先生はいらっしゃいます」
「よかったですね」
「はい」
和田はそう答えたが、すぐには笑わなかった。
葵はその沈黙を待った。
「先生のお宅へ伺うたびに、少しは懇意になれたような気がするのです」
和田はゆっくり言った。
「けれど先生は、鎌倉でお会いした時とも、雑司ヶ谷でお会いした時とも、あまり変わらない顔をなさる」
葵は和田の横顔を見た。
和田は先生の話をする時、少し遠くを見る。目の前にいる相手を話しているのに、手の届かないものを追うような目になる。
「静かで、落ち着いていて」
和田は言葉を探した。
「時には、静か過ぎて淋しいくらいです」
葵の胸が小さく鳴った。
本で読んだ言葉が、和田自身の声で生まれている。
葵はぞっとした。
和田が本の語りをなぞっているからではない。反対だった。和田が本当にそう感じているから、読んだ言葉がそこに追いついてしまう。
あの本は、決まった台詞の集まりではないのかもしれない。
人がそう感じる場所へ行けば、似た言葉が自然に生まれてしまうのかもしれない。
「近づきがたいのに」
和田は苦笑した。
「どうしても近づきたくなる。変ですね」
「変ではないと思います」
葵は小さく答えた。
「そうでしょうか」
「はい」
先生は、人を愛し得る人。
愛せずにはいられない人。
それでいて、自分の懐へ入ろうとするものを抱き締めることのできない人。
葵は本の中の先生像を思い出しながら、目の前の先生を思った。
雑司ヶ谷で「あなたまで」と言った先生。
「自分で見たものを持って帰らなければならない」と言った先生。
死は残るものだと言った先生。
葵は先生に近づきたいのではない。
そう思いたかった。
けれど、先生の言葉が胸に残っていることは否定できなかった。
救いたいから気になるのか。
気になるから救いたいのか。
その境目がまた曖昧になる。
「近づけば近づくほど」
和田は続けた。
「先生の遠いところが見えてくる気がします」
葵は返事ができなかった。
和田は葵を見た。
「小林さんは、先生のそういうところを、初めから少し知っていたように見えました」
「知っていたわけでは」
葵は言いかけて、止まった。
知っていた。
けれど、それは先生の心を知っていたという意味ではない。
ただ、先生がいつか遺書を書くことを知っていた。Kの名を墓に沈めていることを知っていた。静が知らされないまま残されることを知っていた。
それは、知っているというより、未来の形だけを盗み見たようなものだった。
「……私も、分からないことばかりです」
葵はそう言うしかなかった。
和田はそれを、責めるでもなく受け取った。
「今夜、先生のお宅へ伺おうと思っています」
「今夜」
「はい。もしご迷惑でなければ、今日はご一緒しませんか」
葵は息を止めた。
毎回は行かない。
そう決めていた。
それなのに、胸の奥では、誘われることをどこかで待っていたような気がした。
それが恥ずかしかった。
「どうして、私を」
「雑司ヶ谷の後から、先生の様子が少し気になっているのではないかと思いまして」
和田は穏やかに言った。
「それに、私も今日は少し、あなたにいてほしい」
その一言は、不意に葵の胸を打った。
先生のためでも、あの本の筋のためでもなく。
和田が、葵にいてほしいと言った。
葵は目を伏せた。
「行きます」
声に出すと、思ったより早く決まってしまった。
部屋へ戻って支度をすると、春が襟元を見てくれた。
「先生のお宅へ行く時は、いつも顔が固くなりますね」
「そうですか」
「ええ。和田さんに会う時の顔とは違います」
葵は手を止めた。
春はそれ以上何も言わず、乱れてもいない襟をもう一度整えた。
葵は鏡の中の自分を見た。
和田に会う時の顔。
先生の家へ行く時の顔。
その違いを、自分ではまだ知らない。
知らないものが、自分の顔に出ている。
葵は急に怖くなった。
この世界の人たちは、葵が思うよりずっとよく見ている。
和田も、春も、静も、先生も。
葵が隠しているつもりのものは、もしかすると全部、少しずつ見えているのかもしれない。
夜の先生宅は、昼とは違って見えた。
門の内側に灯りがあり、庭の影が深かった。玄関に出た下女が取り次ぐと、奥から静が現れた。
「いらっしゃいませ」
静は和田に会釈し、それから葵を見た。
「葵さんも」
その呼び方は、前より自然だった。
自然すぎて、葵はまた少し息が詰まった。
「お邪魔いたします」
葵は頭を下げた。
静は知っているようなそぶりを見せない。けれど、知らない人として扱うにも、距離が近すぎる。
葵はその中間に立たされるたび、自分の足元が薄くなるような気がした。
座敷へ通されると、先生はすでに座っていた。
先生は和田を見ると、いつものように静かに挨拶した。葵を見ると、一瞬だけ目を止めたが、何も言わなかった。
その何も言わなさが、葵には言葉より重かった。
しばらく、和田と先生は取り留めのない話をした。
学校のこと。東京の空気のこと。近頃読んだ本のこと。
葵はその横で、静かに聞いていた。
先生の言葉は少なく、和田の問いにも、答える時と、答えない時があった。けれど和田は、その沈黙に以前ほど戸惑わなくなっているようだった。
それもまた、近づいた証なのかもしれない。
けれど近づくほど遠くなる。
和田の言葉が、葵の中で繰り返された。
ふと、和田が窓の外へ目をやった。
「先生」
「何です」
「雑司ヶ谷の銀杏は、もう散ってしまったでしょうか」
先生の目が、和田に止まった。
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。
葵は膝の上で手を握った。
来る。
読んだはずの次の場所が、今ここで口を開く。
「まだ空坊主にはならないでしょう」
先生はそう答えた。
けれど答えながら、和田の顔から目を離さなかった。
和田は少し身を乗り出した。
「今度お墓参りにいらっしゃる時に、お伴してもよろしいでしょうか。先生と一緒に、あそこいらを歩いてみたいのです」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
先生の声は静かだった。
静かなだけに、拒む線がはっきり見えた。
和田は引かなかった。
「しかし、ついでに散歩をなさったら、ちょうどよいではありませんか」
先生は答えなかった。
葵は先生の眉間を見た。
まだ曇りは出ていない。
けれど、窓の外を鳥影がよぎる前のような、暗くなる直前の気配があった。
しばらくして、先生は言った。
「私のは、本当の墓参りだけなんだから」
墓参り。
散歩。
和田には、その違いがまだ分からない。
分からないからこそ、もう一歩踏み出せる。
「では、お墓参りでもよいから、一緒に伴れて行ってください。私もお墓参りをしますから」
和田がそう言った瞬間、先生の眉がちょっと曇った。
葵は息を止めた。
雑司ヶ谷で「先生」と呼ばれた時と同じだった。
窓に黒い鳥影が射すように、先生の顔を何かが横切った。射したと思うとすぐ消えそうで、けれど一度見たら忘れられない影だった。
その眼の奥には、迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片づけられない、不安のような光があった。
和田も、それに気づいたらしい。
言葉を続けかけて、止まった。
先生はゆっくり口を開いた。
「私は」
そこで一度切った。
葵は、次の言葉を知っている。
知っているからこそ、聞きたくなかった。
「私はあなたに話すことのできないある理由があって、人と一緒にあそこへ墓参りには行きたくないのです」
和田は黙っていた。
先生の目が、ほんの一瞬だけ葵に触れた。
「自分の妻さえ、まだ伴れて行ったことがないのです」
葵の胸に、冷たいものが落ちた。
静。
玄関で葵を迎えた静。
雑司ヶ谷の地名を知っていた静。
「葵さんに会えて、よかったです」と言った静。
あの人でさえ、墓へは連れて行かれていない。
知っているのに、行けない。
妻なのに、入れない。
先生の沈黙は、和田だけを外に置いているのではなかった。静も外に置いている。葵も外に置かれている。けれど葵だけは、外から中を覗いてしまっている。
その歪みが、葵には苦しかった。
自分は何をしたいのだろう。
先生の沈黙を破りたいのか。
静を中へ入れたいのか。
和田を先生に近づけたいのか。
それとも、自分がこの人たちの中心に立ちたいだけなのか。
葵は、その問いを思った瞬間、自分が嫌になった。
救いたいという言葉は、時々あまりにきれいすぎる。
きれいな言葉の下に、見たい、知りたい、関わりたいという欲が混じっていることを、葵はもう否定できなかった。
和田はそれ以上、墓参りのことを言わなかった。
先生も、その話を終えたものとして、茶碗に手を伸ばした。
座敷の外で、静の足音がした。
葵はその音を聞いた。
この家の中にいるのに、静は今の言葉を聞いたのだろうか。
聞いていないとしても、知らないはずはないのだろうか。
葵には分からなかった。
ただ、先生の家の静けさが、さっきよりも少し深くなったように感じられた。
帰り道、和田はしばらく黙っていた。
夜の東京は、昼よりも音が遠い。路面電車の灯りが線路の上を滑って行き、店の灯がところどころに滲んでいた。
「近づこうとすると」
和田がぽつりと言った。
「先生は、遠くなりますね」
葵は隣を歩いた。
答えたいのに、答えられなかった。
「それでも、私はまた行くと思います」
和田は苦笑した。
「困ったものです」
葵はその横顔を見た。
和田が先生へ向かっていく。
それは本で読んだ流れに近かった。
けれど、その背中を見る葵の胸には、安心だけではないものが生まれていた。
和田が先生に近づくほど、和田も傷つくかもしれない。
それでも止められない。
止めれば、和田から先生を奪うことになる。
進ませれば、和田を沈黙のそばへ連れて行くことになる。
葵は夜道の先を見た。
先生の墓は閉じている。
静はその外にいる。
和田は扉を叩いている。
葵は、鍵穴の位置だけを知っている。
けれど鍵を持っているわけではなかった。
そのことを、今夜ほどはっきり思い知らされたことはなかった。




