表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/17

第13話 墓参りと散歩

 それから、和田は時々先生の家を訪ねるようになった。


 葵は毎回一緒に行かなかった。


 最初にそう決めた時、葵は少しだけ自分を褒めたい気持ちになった。和田と先生の関係を、自分が横から奪わずにすむ。本で読んだ通り、和田がひとりで先生へ近づいていく時間を、少なくとも少しは守れる。


 けれど、その気持ちは長く続かなかった。


 和田が先生の家へ行っている間、葵は下宿の机の前で本を開いても、同じ行ばかり読んでいた。春に教わった針仕事を練習しても、糸はすぐに絡まった。食堂で箸を取っていても、ふと雑司ヶ谷の銀杏が頭に浮かぶ。


 自分が同行しないことは、和田の時間を守ることかもしれない。


 けれど同時に、何かを見落とすことでもあった。


 葵はその二つの間で、毎日少しずつ薄く削られていくような気がした。


 和田は、先生の家へ行くたびに短い手紙をくれるわけではなかった。けれど時々、下宿の近くまで来て、葵に話をしてくれた。


 春は、和田が訪ねて来る日を、葵より先に気づくことがあった。


「小林さん、今日は顔がそわそわしています」


「そんなに分かりますか」


「分かります」


 春はそう言って、葵の襟元を軽く直した。


「先生のお宅の話を聞く日でしょう」


 和田さんに会う日でしょう、とは言わなかった。


 その言い方が、葵には少し刺さった。


 自分は和田に会いたいのか。


 先生の話を聞きたいのか。


 それとも、あの本の筋がどこまで進んでいるのか確かめたいだけなのか。


 葵自身にも、うまく分からなかった。


 その日の夕方、和田は下宿の玄関に立った。


 以前より、ここに来ることに少し慣れたように見えた。女主人へ丁寧に挨拶し、春にも頭を下げる。春は和田を見ると、最初の頃ほど硬い顔をしなくなっていた。


「小林さんに、少しお話ししてもよろしいでしょうか」


 和田が言うと、春は女主人の方を見た。


 女主人が頷く。


「長くならないように」


「承知しています」


 和田は真面目に答えた。


 その真面目さが、春の目元を少し和らげたように葵には見えた。


 葵と和田は、下宿の玄関脇の小さな腰掛けに並んだ。外はもう暮れ始めている。路面電車の音が遠くでして、人の声が夕方の湿った空気に混じっていた。


「先生のお宅へ、また伺ったのですか」


 葵が聞くと、和田は頷いた。


「ええ。行くたびに、先生はいらっしゃいます」


「よかったですね」


「はい」


 和田はそう答えたが、すぐには笑わなかった。


 葵はその沈黙を待った。


「先生のお宅へ伺うたびに、少しは懇意になれたような気がするのです」


 和田はゆっくり言った。


「けれど先生は、鎌倉でお会いした時とも、雑司ヶ谷でお会いした時とも、あまり変わらない顔をなさる」


 葵は和田の横顔を見た。


 和田は先生の話をする時、少し遠くを見る。目の前にいる相手を話しているのに、手の届かないものを追うような目になる。


「静かで、落ち着いていて」


 和田は言葉を探した。


「時には、静か過ぎて淋しいくらいです」


 葵の胸が小さく鳴った。


 本で読んだ言葉が、和田自身の声で生まれている。


 葵はぞっとした。


 和田が本の語りをなぞっているからではない。反対だった。和田が本当にそう感じているから、読んだ言葉がそこに追いついてしまう。


 あの本は、決まった台詞の集まりではないのかもしれない。


 人がそう感じる場所へ行けば、似た言葉が自然に生まれてしまうのかもしれない。


「近づきがたいのに」


 和田は苦笑した。


「どうしても近づきたくなる。変ですね」


「変ではないと思います」


 葵は小さく答えた。


「そうでしょうか」


「はい」


 先生は、人を愛し得る人。


 愛せずにはいられない人。


 それでいて、自分の懐へ入ろうとするものを抱き締めることのできない人。


 葵は本の中の先生像を思い出しながら、目の前の先生を思った。


 雑司ヶ谷で「あなたまで」と言った先生。

 「自分で見たものを持って帰らなければならない」と言った先生。

 死は残るものだと言った先生。


 葵は先生に近づきたいのではない。


 そう思いたかった。


 けれど、先生の言葉が胸に残っていることは否定できなかった。


 救いたいから気になるのか。


 気になるから救いたいのか。


 その境目がまた曖昧になる。


「近づけば近づくほど」


 和田は続けた。


「先生の遠いところが見えてくる気がします」


 葵は返事ができなかった。


 和田は葵を見た。


「小林さんは、先生のそういうところを、初めから少し知っていたように見えました」


「知っていたわけでは」


 葵は言いかけて、止まった。


 知っていた。


 けれど、それは先生の心を知っていたという意味ではない。


 ただ、先生がいつか遺書を書くことを知っていた。Kの名を墓に沈めていることを知っていた。静が知らされないまま残されることを知っていた。


 それは、知っているというより、未来の形だけを盗み見たようなものだった。


「……私も、分からないことばかりです」


 葵はそう言うしかなかった。


 和田はそれを、責めるでもなく受け取った。


「今夜、先生のお宅へ伺おうと思っています」


「今夜」


「はい。もしご迷惑でなければ、今日はご一緒しませんか」


 葵は息を止めた。


 毎回は行かない。


 そう決めていた。


 それなのに、胸の奥では、誘われることをどこかで待っていたような気がした。


 それが恥ずかしかった。


「どうして、私を」


「雑司ヶ谷の後から、先生の様子が少し気になっているのではないかと思いまして」


 和田は穏やかに言った。


「それに、私も今日は少し、あなたにいてほしい」


 その一言は、不意に葵の胸を打った。


 先生のためでも、あの本の筋のためでもなく。


 和田が、葵にいてほしいと言った。


 葵は目を伏せた。


「行きます」


 声に出すと、思ったより早く決まってしまった。


 部屋へ戻って支度をすると、春が襟元を見てくれた。


「先生のお宅へ行く時は、いつも顔が固くなりますね」


「そうですか」


「ええ。和田さんに会う時の顔とは違います」


 葵は手を止めた。


 春はそれ以上何も言わず、乱れてもいない襟をもう一度整えた。


 葵は鏡の中の自分を見た。


 和田に会う時の顔。


 先生の家へ行く時の顔。


 その違いを、自分ではまだ知らない。


 知らないものが、自分の顔に出ている。


 葵は急に怖くなった。


 この世界の人たちは、葵が思うよりずっとよく見ている。


 和田も、春も、静も、先生も。


 葵が隠しているつもりのものは、もしかすると全部、少しずつ見えているのかもしれない。


 夜の先生宅は、昼とは違って見えた。


 門の内側に灯りがあり、庭の影が深かった。玄関に出た下女が取り次ぐと、奥から静が現れた。


「いらっしゃいませ」


 静は和田に会釈し、それから葵を見た。


「葵さんも」


 その呼び方は、前より自然だった。


 自然すぎて、葵はまた少し息が詰まった。


「お邪魔いたします」


 葵は頭を下げた。


 静は知っているようなそぶりを見せない。けれど、知らない人として扱うにも、距離が近すぎる。


 葵はその中間に立たされるたび、自分の足元が薄くなるような気がした。


 座敷へ通されると、先生はすでに座っていた。


 先生は和田を見ると、いつものように静かに挨拶した。葵を見ると、一瞬だけ目を止めたが、何も言わなかった。


 その何も言わなさが、葵には言葉より重かった。


 しばらく、和田と先生は取り留めのない話をした。


 学校のこと。東京の空気のこと。近頃読んだ本のこと。


 葵はその横で、静かに聞いていた。


 先生の言葉は少なく、和田の問いにも、答える時と、答えない時があった。けれど和田は、その沈黙に以前ほど戸惑わなくなっているようだった。


 それもまた、近づいた証なのかもしれない。


 けれど近づくほど遠くなる。


 和田の言葉が、葵の中で繰り返された。


 ふと、和田が窓の外へ目をやった。


「先生」


「何です」


「雑司ヶ谷の銀杏は、もう散ってしまったでしょうか」


 先生の目が、和田に止まった。


 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 葵は膝の上で手を握った。


 来る。


 読んだはずの次の場所が、今ここで口を開く。


「まだ空坊主にはならないでしょう」


 先生はそう答えた。


 けれど答えながら、和田の顔から目を離さなかった。


 和田は少し身を乗り出した。


「今度お墓参りにいらっしゃる時に、お伴してもよろしいでしょうか。先生と一緒に、あそこいらを歩いてみたいのです」


「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」


 先生の声は静かだった。


 静かなだけに、拒む線がはっきり見えた。


 和田は引かなかった。


「しかし、ついでに散歩をなさったら、ちょうどよいではありませんか」


 先生は答えなかった。


 葵は先生の眉間を見た。


 まだ曇りは出ていない。


 けれど、窓の外を鳥影がよぎる前のような、暗くなる直前の気配があった。


 しばらくして、先生は言った。


「私のは、本当の墓参りだけなんだから」


 墓参り。


 散歩。


 和田には、その違いがまだ分からない。


 分からないからこそ、もう一歩踏み出せる。


「では、お墓参りでもよいから、一緒に伴れて行ってください。私もお墓参りをしますから」


 和田がそう言った瞬間、先生の眉がちょっと曇った。


 葵は息を止めた。


 雑司ヶ谷で「先生」と呼ばれた時と同じだった。


 窓に黒い鳥影が射すように、先生の顔を何かが横切った。射したと思うとすぐ消えそうで、けれど一度見たら忘れられない影だった。


 その眼の奥には、迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片づけられない、不安のような光があった。


 和田も、それに気づいたらしい。


 言葉を続けかけて、止まった。


 先生はゆっくり口を開いた。


「私は」


 そこで一度切った。


 葵は、次の言葉を知っている。


 知っているからこそ、聞きたくなかった。


「私はあなたに話すことのできないある理由があって、人と一緒にあそこへ墓参りには行きたくないのです」


 和田は黙っていた。


 先生の目が、ほんの一瞬だけ葵に触れた。


「自分の妻さえ、まだ伴れて行ったことがないのです」


 葵の胸に、冷たいものが落ちた。


 静。


 玄関で葵を迎えた静。


 雑司ヶ谷の地名を知っていた静。


 「葵さんに会えて、よかったです」と言った静。


 あの人でさえ、墓へは連れて行かれていない。


 知っているのに、行けない。


 妻なのに、入れない。


 先生の沈黙は、和田だけを外に置いているのではなかった。静も外に置いている。葵も外に置かれている。けれど葵だけは、外から中を覗いてしまっている。


 その歪みが、葵には苦しかった。


 自分は何をしたいのだろう。


 先生の沈黙を破りたいのか。


 静を中へ入れたいのか。


 和田を先生に近づけたいのか。


 それとも、自分がこの人たちの中心に立ちたいだけなのか。


 葵は、その問いを思った瞬間、自分が嫌になった。


 救いたいという言葉は、時々あまりにきれいすぎる。


 きれいな言葉の下に、見たい、知りたい、関わりたいという欲が混じっていることを、葵はもう否定できなかった。


 和田はそれ以上、墓参りのことを言わなかった。


 先生も、その話を終えたものとして、茶碗に手を伸ばした。


 座敷の外で、静の足音がした。


 葵はその音を聞いた。


 この家の中にいるのに、静は今の言葉を聞いたのだろうか。


 聞いていないとしても、知らないはずはないのだろうか。


 葵には分からなかった。


 ただ、先生の家の静けさが、さっきよりも少し深くなったように感じられた。


 帰り道、和田はしばらく黙っていた。


 夜の東京は、昼よりも音が遠い。路面電車の灯りが線路の上を滑って行き、店の灯がところどころに滲んでいた。


「近づこうとすると」


 和田がぽつりと言った。


「先生は、遠くなりますね」


 葵は隣を歩いた。


 答えたいのに、答えられなかった。


「それでも、私はまた行くと思います」


 和田は苦笑した。


「困ったものです」


 葵はその横顔を見た。


 和田が先生へ向かっていく。


 それは本で読んだ流れに近かった。


 けれど、その背中を見る葵の胸には、安心だけではないものが生まれていた。


 和田が先生に近づくほど、和田も傷つくかもしれない。


 それでも止められない。


 止めれば、和田から先生を奪うことになる。


 進ませれば、和田を沈黙のそばへ連れて行くことになる。


 葵は夜道の先を見た。


 先生の墓は閉じている。


 静はその外にいる。


 和田は扉を叩いている。


 葵は、鍵穴の位置だけを知っている。


 けれど鍵を持っているわけではなかった。


 そのことを、今夜ほどはっきり思い知らされたことはなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ