第14話 淋しい人
和田は、それからも先生の家へ通った。
月に二度、あるいは三度。
葵はその回数を、和田の口から聞くたびに、胸の奥で小さく数えた。数えない方がいいと分かっていても、数えてしまう。和田の足が先生の玄関へ向かうたびに、本で読んだ道筋が少しずつ現実の上に濃くなっていく気がした。
けれど、葵は毎回ついて行かなかった。
和田と先生のあいだにできるものを、自分の知識で曇らせたくなかった。
そう思う一方で、葵は自分のその考えさえ疑っていた。
本当に、和田のためなのだろうか。
それとも、自分が先生の家で何かを見てしまうことが怖いだけなのだろうか。
先生を救いたい。
Kを死なせたくない。
静を知らないままにしたくない。
そういう言葉は、口に出せばどれも正しい。けれど正しい言葉の内側に、先生を知りたい、秘密を確かめたい、あの本の奥へ手を入れたいという欲が混じっていることを、葵はもう知っていた。
和田は、先生を研究するために通っているのではない。
葵にはそれが分かった。
和田は、ただ先生に会いたいのだ。先生のそばに行きたい。答えを得るためではなく、そこにいる人へ近づきたい。だから先生との間に、まだ温かいものが残る。
では、自分はどうなのだろう。
葵の目は、冷たくないと言えるだろうか。
先生の言葉を、証拠のように拾っていないか。先生の沈黙を、いつか解くべき問題として見ていないか。
冷たい眼で見られることを、先生はきっと恐れる。
葵はそう思うたび、先生の家へ行かない日にも、先生の前に立って責められているような気がした。
ある日、和田は下宿の近くで葵を待っていた。
春が先に気づいた。
「小林さん」
春は廊下の端から外を見て、葵を呼んだ。
「和田さんがいらしています」
その声は穏やかだった。けれど葵には、ほんの少しだけ整いすぎて聞こえた。
玄関に出ると、和田が頭を下げた。
「少し、お話ししてもいいですか」
「はい」
女主人に断って、二人は玄関脇に腰を下ろした。
外は明るかったが、風には少し冷たさが混じっていた。小春の尽きる頃、という言葉を葵は思い出した。こういう季節に、人はふと墓地の銀杏を思い出すのかもしれない。
「先生に、妙なことを聞かれました」
和田はそう切り出した。
「妙なこと?」
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか、と」
葵は息を止めた。
また、本で読んだ場面が、葵のいない場所で進んでいた。
「何と答えたんですか」
「特別な意味はありません、と答えました。それから、お邪魔なのですか、とも」
「先生は」
「邪魔だとは言わない、と」
和田はそこで少し黙った。
葵は次の言葉を待った。待ちながら、聞きたくないとも思った。
「それから、先生はこうおっしゃいました」
和田の声が少し低くなる。
「私は淋しい人間です。だからあなたの来て下さる事を喜んでいます、と」
葵の胸の奥が、静かに沈んだ。
知っていた言葉だった。
けれど和田の口から聞くと、それはもう解説ではなかった。先生が実際にその声で言った言葉だった。誰かが写した活字ではなく、先生の喉を通って出た言葉だった。
私は淋しい人間です。
葵は先生を淋しい人だと思っていた。何度もそう考えた。けれど本人が自分でそう言ったという事実は、葵の想像よりずっと重かった。
「先生は、なぜそんなことを」
「分かりません」
和田は苦笑した。
「私が聞き返すと、今度は、あなたは幾歳ですか、と」
「年を」
「ええ。何だか、よく分からない問答でした」
和田は困ったように笑った。
けれど、その笑みは軽くなかった。
「それでも、また行くんですね」
葵が言うと、和田はすぐに頷いた。
「行きます」
その答えは迷いがなかった。
葵は和田を見た。
先生は淋しいと言った。
和田はそれを聞いて、離れるのではなく、また行こうとしている。
そのまっすぐさが、葵には眩しかった。自分なら、言葉の意味を考える。なぜ言ったのか、何を隠しているのか、どこにつながるのか。そうやって、先生の心をまた本の中の構造へ戻してしまう。
和田は違う。
分からないまま、また会いに行く。
その違いが、葵には痛かった。
「数日したら、また伺うつもりです」
和田は言った。
「その時は、小林さんも一緒に来ませんか」
葵は顔を上げた。
「私も、ですか」
「はい」
和田は少し照れたように視線を落とした。
「この間の墓参りの話以来、先生のお宅に伺うと、あなたにも聞いてほしいと思うことが増えました。勝手ですね」
「勝手ではありません」
葵はすぐに言った。
言ってから、自分の声が少し強かったことに気づいた。
和田がこちらを見る。
葵は胸の前で手を握った。
「私も、聞きたいです」
それは先生の秘密を知りたいという意味だけではなかった。
和田が何を聞いて、何を感じて、何を抱えて帰ってくるのか。
それを知りたいと思った。
その気持ちが、先生への関心とは別の場所にあることに、葵は少し遅れて気づいた。
数日後、葵は和田とともに先生の家へ向かった。
出かける前、春はいつものように葵の襟元を見てくれた。
「今日は顔が固いというより、考え込んでいますね」
「そうですか」
「ええ」
春は葵の襟を整えながら、少しだけ目を伏せた。
「先生のお宅へ行く日は、いつも遠くを見る顔になります」
葵は返事ができなかった。
「和田さんとお話しする時は、もう少し近くを見ているのに」
春の声は責めるものではなかった。
だからこそ、葵は言葉に詰まった。
近く。
遠く。
葵は何を見ているのだろう。
目の前の和田か。
先生の秘密か。
それとも、まだ来ていない悲劇の形か。
先生の家では、静が二人を迎えた。
「いらっしゃいませ」
静は和田に会釈し、葵を見る。
「葵さんも、ようこそ」
自然な言い方だった。
自然すぎて、葵はまた少し怖くなる。
静は、自分を知らない客として扱っている。けれど知らない人を迎える時の距離ではない。
その矛盾が、静の声の中にだけ、薄く残っている気がした。
座敷へ通されると、先生はしばらくして出て来た。
和田の顔を見るなり、先生は笑った。
「また来ましたね」
「ええ、来ました」
和田も笑った。
葵は、そのやり取りを少し驚いて見た。
拒絶ではない。
からかいでもない。
先生は本当に、和田が来たことをどこかで喜んでいるように見えた。
それなのに、喜びはすぐに先生の顔の奥へ沈んでしまう。手を伸ばす前に、自分で引っ込めるような静けさがある。
葵はそれを見て、胸が苦しくなった。
先生は人を待っている。
けれど、来た人を抱きとめることができない。
しばらく何気ない話が続いた後、先生はふと和田を見た。
「私は淋しい人間です」
前に和田から聞いた言葉だった。
今度は、先生本人の声として葵の前に落ちた。
葵は膝の上で手を握った。
その言葉を聞いた瞬間、奥の部屋にいるかもしれない静を思った。
この家には静がいる。
先生の妻がいる。
それでも先生は、淋しいと言う。
葵は黙っているつもりだった。
黙って聞くつもりだった。
けれど、言葉は先に出てしまった。
「奥さんがいらしても、ですか」
座敷の空気が止まった。
和田が驚いて葵を見た。
葵自身も、言った瞬間に後悔した。
違う。
責めたいわけではなかった。
静を責め道具のように使いたかったわけではなかった。
ただ、先生の淋しさの言葉の外に、静が置かれてしまうことに耐えられなかった。
先生はすぐには答えなかった。
その沈黙の長さだけで、葵は自分が踏み込みすぎたことを知った。
「人がそばにいることと」
先生は静かに言った。
「淋しくないこととは、同じではありません」
葵は目を伏せた。
その通りだと思った。
けれど、それだけで済ませていいのかとも思った。
そばにいる人に淋しさを告げないまま、ほかの人へだけ淋しいと言うことは、何を生むのだろう。
静はこの家の中で、何を聞き、何を聞かされずにいるのだろう。
先生は和田へ視線を戻した。
「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか」
和田は少し身を固くした。
「私はちっとも淋しくはありません」
その返事は早かった。
早すぎるほどだった。
葵は和田を見た。
和田はまっすぐ先生を見ている。けれど、その指先は膝の上でわずかに動いていた。
先生は和田を見ていた。
見抜こうとする目だった。
葵は、その目を見た瞬間、自分のことを思った。
自分も同じ目をしていないだろうか。
和田の淋しさを、先生の淋しさを、静の沈黙を、分かったような顔で見ようとしていないだろうか。
「淋しいと言われると」
葵は小さく言った。
二人の視線が葵に向いた。
「かえって、淋しいとは言えなくなることもあります」
和田は黙った。
先生も黙った。
葵は、自分の言葉が誰に向かっているのか分からなかった。
先生へ向けたのか。
和田を庇ったのか。
それとも、自分自身に言ったのか。
淋しいと決めつけられた時、人は淋しさを隠す。
救われるべきだと見られた時、人は弱さを閉じる。
死ぬ人だと見られた時、人は生きている今を奪われる。
葵はそれを、もう少し早く知るべきだった。
先生は、葵の言葉をすぐには否定しなかった。
やがて低く言った。
「そうかもしれません」
それだけだった。
けれど和田の肩から、ほんの少し力が抜けたように見えた。
先生は続けた。
「若いうちほど淋しいものはありません。あなたは動けるだけ動きたいのでしょう。動いて、何かに打つかりたいのでしょう」
「私は」
和田は言いかけて、止まった。
先生は淋しい笑い方をした。
「あなたは私に会っても、おそらくまだ淋しい気がどこかでしているでしょう。私には、あなたのためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから」
葵は、その言葉に胸を押さえたくなった。
先生は自分に力がないと言う。
けれどその言葉で、和田を遠ざけてもいる。
自分には救えないから、来るな。
そう言っているようにも聞こえる。
同時に、来てくれることを喜んでいるとも言った。
この矛盾の中に、先生はずっといる。
「あなたは外の方を向いて、今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生は静かに言った。
葵は、また黙っていられなかった。
「それは、来なくなってほしいという意味ですか」
先生の目が、葵に向いた。
和田も葵を見た。
葵は自分の心臓の音を聞いた。
また踏み込んだ。
けれど今度は、言わずにいられなかった。
和田は先生に来てほしいと思われているのか。
それとも、いずれ去るものとして先に諦められているのか。
その曖昧さの中に和田を置いたままにしたくなかった。
先生はしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり首を振った。
「そうではありません」
短い答えだった。
葵は息を止めた。
先生は和田を見た。
「私には、人を引き留める資格がないという意味です」
その言葉の後、座敷は静かになった。
葵は奥の部屋の気配を感じようとした。
静は聞いているのだろうか。
聞いていないのだろうか。
分からない。
けれど、この家の静けさは、聞こえた言葉も、聞こえなかった言葉も、全部同じように飲み込んでしまうように思えた。
帰り道、和田はしばらく黙っていた。
夜の風が冷たかった。
葵は、自分が今日言った三つの言葉を何度も思い返していた。
奥さんがいらしても、ですか。
淋しいと言われると、かえって淋しいとは言えなくなることもあります。
それは、来なくなってほしいという意味ですか。
どれも、言わない方がよかったのかもしれない。
どれも、言わずにはいられなかった。
正しい言葉だったかどうか、葵には分からない。けれど、言葉を出した後の座敷の沈黙を思うと、自分が何かに触れてしまったことだけは分かった。
「小林さん」
和田が言った。
「はい」
「今日、あなたがいてくれてよかったと思います」
葵は驚いて和田を見た。
和田は前を向いたままだった。
「先生に見透かされたようで、少し苦しかった。でも、あなたが言ってくれたので、少し息ができました」
葵は何も言えなかった。
嬉しかった。
けれど同時に怖かった。
自分の言葉が誰かを助けることもある。
誰かを傷つけることもある。
そしてその二つは、いつもはっきり分かれているわけではない。
下宿に戻ると、春がまだ起きていた。
「遅かったですね」
「すみません」
「怒っていません」
春は葵の顔を見た。
「でも、今日はずいぶん疲れた顔をしています」
葵は笑おうとして、うまくできなかった。
「少し、喋りすぎました」
春はそれを聞いて、葵の襟元に手を伸ばした。
乱れてもいない襟を、軽く整える。
「では、今夜はもう黙って休むといいです」
その言い方が優しくて、葵は急に泣きそうになった。
先生の家では、言葉が重かった。
下宿では、沈黙が少しだけ優しかった。
葵はその違いを抱えたまま、春に小さく頷いた。




