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第15話 天罰

 幸いにして、先生の予言はまだ実現しなかった。


 和田の足は、相変わらず先生の家へ向いた。先生の家へはもう行かない、外の方へ手を広げる、そんな日が来る気配は、少なくとも今の和田には見えなかった。


 葵はそのことに、ほっとした。


 同時に、少し怖くもあった。


 和田が先生の家へ通い続けることは、本で読んだ流れに近い。だから安心する。けれど和田が先生へ近づくほど、和田は先生の淋しさに触れる。先生の沈黙に触れる。雑司ヶ谷の閉じた墓に、少しずつ近づく。


 それを知りながら安心する自分は、ひどいのではないか。


 葵は何度もそう思った。


 先生の家へ行った翌日、下宿で春に針仕事を見てもらっていた時も、針先は布の目を外れてばかりいた。


「小林さん」


 春が言った。


「今日は手元が、いつもより危ないです」


「いつも危ないと言われている気がします」


「今日はその上です」


 春は葵の手から針を取り上げ、布を膝の上に置いた。


「先生のお宅で、何かありましたか」


 葵はすぐには答えられなかった。


 何かはあった。


 けれど何があったのかを言葉にすると、また何かを傷つけてしまいそうだった。


「少し、言いすぎました」


「それは昨夜も聞きました」


 春の声は穏やかだった。


「言いすぎたと思う時ほど、その言葉が必要だったこともあります」


 葵は春を見た。


 春は針を布へ戻しながら、葵の方を見なかった。


「けれど、必要な言葉だからといって、痛くないわけではありません」


 その言葉は、葵の中に静かに残った。


 先生の家で言葉は重い。


 下宿で春が言う言葉は、重いのに、少しだけ手のひらに乗せられる形をしている。


 葵はその違いに救われながら、同時にまた怖くなった。


 自分はどこへ帰りたいのだろう。


 先生の家か。


 和田の隣か。


 春のいるこの下宿か。


 それとも、もう戻れない教室か。


 その答えを出す前に、和田がまた先生の家へ行く日が来た。


 その日は、和田だけではなかった。


「先生が、夕飯でも食べて行くようにと」


 和田は少し照れたように言った。


「小林さんも、もし差し支えなければ、と奥さんが」


「奥さんが?」


 葵は思わず聞き返した。


 和田は頷いた。


「ええ。小林さんもお誘いしたらどうかと、先生におっしゃったそうです」


 静が。


 葵は胸の奥が小さく揺れるのを感じた。


 静は何を考えているのだろう。


 知っているそぶりを見せない。けれど知らない人として扱うには、少し近い。葵を「葵さん」と呼ぶ。その静が、葵を食卓へ呼ぶ。


 行けば、また何かを見ることになる。


 行かなければ、何かを見落とすことになる。


 葵はその二つの間で、もう何度も迷ってきた。


 結局、答えは同じだった。


「伺います」


 先生の家の食卓につくのは、初めてだった。


 座敷の灯りは柔らかく、膳はきちんと整えられていた。下女が運んでくる器の音が、静かな家の中でよく響く。


 和田は少し緊張しているようだった。


 先生はいつもより穏やかに見えた。


 静は席の間を静かに動き、先生と和田と葵の前にそれぞれ膳を整えた。葵には、その動きがあまりに自然で、かえって目が離せなかった。


 葵が読んだ本の語り手は、奥さんを先生に付属した一部分のように見ていた。


 葵は、そうは見られなかった。


 静は先生の影ではない。


 先生の家の中で、静は灯りの位置を知っている。茶碗の置き場所を知っている。先生がどの皿に手を伸ばし、どの酒を飲めば少し顔を緩めるかを知っている。


 けれど、雑司ヶ谷の墓には連れて行かれていない。


 この家の中のことを誰より知っている人が、先生の一番暗い場所からは締め出されている。


 葵はそのことを思うたび、食卓の温かさをそのまま受け取れなくなった。


 酒が出た。


 先生は盃を取ると、いつもより少し愉快そうに見えた。口数も普段より多い。和田もそれにつられるように、肩の力を抜いていった。


 葵は酒を勧められなかった。


 この時代の女学生としても、年齢としても、それが自然なのだろう。葵はただ、先生と和田のやり取りを見ていた。


 やがて先生が、自分の呑み干した盃を静の方へ差し出した。


「お前も一つお上がり」


 静は少し目を伏せた。


「私は……」


 辞退しかけた声だった。


 けれど先生は、今夜はどこか機嫌がよかった。静は迷惑そうに、しかし逆らうほどではない様子で盃を受け取った。


 葵は、何か言いたくなった。


 静が飲みたいのか、飲みたくないのか。


 それを誰も聞かない。


 けれど葵は唇を結んだ。


 今夜は、むやみに言葉を出さない。


 そう決めていた。


 静は綺麗な眉を少し寄せて、盃を唇の先へ持って行った。


「珍しいこと」


 静が言った。


「私に呑めとおっしゃったことは、滅多にないのに」


「お前は嫌いだからさ。しかし稀には飲むといいよ。好い心持になるよ」


「ちっともなりません。苦しいぎりで」


 静はそう言って、先生を見た。


「でも、あなたは大変ご愉快そうですね。少しご酒を召し上がると」


「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」


「今夜はいかがです」


「今夜は好い心持だね」


 先生の声は柔らかかった。


 葵はその声に、少し戸惑った。


 雑司ヶ谷で見た先生。

 墓参りを拒んだ先生。

 私は淋しい人間ですと言った先生。


 その人が今、食卓で酒を飲み、静と穏やかに話している。


 同じ人なのに、別の人のように見える。


 けれど、別の人ではない。


 人はひとつの顔だけでできているわけではないのだと、葵はここでも思い知らされた。


「これから毎晩、少しずつ召し上がると宜しいですよ」


 静が言った。


「そうはいかない」


「召し上がってくださいよ。その方が淋しくなくって好いから」


 葵は、箸を持つ手を止めた。


 淋しくなくって。


 この前、先生の家で聞いた声が蘇る。


 私は淋しい人間です。


 静は知らないのではない。


 少なくとも、感じている。


 先生の家がひそりとしていること。高い笑い声がほとんどないこと。時にはこの家に、先生と自分しかいないような静けさが沈むこと。静はその中で暮らしている。


 それでも先生は、墓に連れて行かない。


 葵は、静の横顔を見た。


 静は先生を見ていた。


 その目には責める色はなかった。けれど、明るいとも言えなかった。先生が少しでも愉快そうなら、それでいいと自分に言い聞かせているようにも見えた。


 葵は胸が苦しくなった。


 奥さんがいらしても、ですか。


 自分が前に言った言葉を思い出す。


 あの問いは、あまりに単純だった。


 人がそばにいることと、淋しくないこととは同じではない。


 先生はそう答えた。


 今、葵はその意味を少しだけ別の角度から見ていた。


 そばにいる人もまた、淋しいのだ。


 先生の淋しさのそばで、静もまた淋しさを飲み込んでいる。


 食卓の話題は、いつの間にか家の静けさへ移っていた。


「子供でもあると好いんですがね」


 静は和田の方を向いて言った。


 和田は少し困ったように、


「そうですな」


 と答えた。


 その返事には深い同情はなかった。悪気がないことは葵にも分かった。和田はまだ、子供のいない家の静けさを、自分のこととして想像するほどには生きていない。


 葵も、同じだった。


 現代にいた頃の葵なら、子供がいるとかいないとか、夫婦のこととか、家庭の淋しさとか、遠い話として受け取っていただろう。


 けれど今は、静が言った「好いんですがね」の中に、ただの賑やかし以上のものを聞いてしまう。


 この家に、誰か別の呼吸があれば。


 先生の沈黙と静の沈黙の間に、別の音があれば。


 そういう願いに聞こえた。


「一人貰ってやろうか」


 先生が言った。


 静はまた和田の方を向いた。


「貰いッ子じゃ、ねえあなた」


 和田は曖昧に笑った。


 葵は笑えなかった。


 先生は盃を置いた。


「子供はいつまで経ったってできっこないよ」


 静は黙った。


 その沈黙は短かった。


 けれど葵には、長く感じられた。


 静の手が、膝の上でほんの少し動いた。すぐに元へ戻る。その小さな動きを、葵は見てしまった。


「なぜです」


 和田が代わりに聞いた。


 先生は高く笑った。


「天罰だからさ」


 葵の中で、何かが切れた。


 笑い声が、部屋の中で浮いた。


 先生は冗談の形で言った。和田は意味が分からず、ただその場の空気に押されて黙った。静も黙った。


 けれど葵には、冗談に聞こえなかった。


 天罰。


 その言葉は、先生が自分で自分に打った印のようだった。


 罪を知っている人が、自分を罰するために選ぶ言葉。

 けれど、その罰は先生だけに落ちているのだろうか。


 静はどうなるのか。


 子供のいないことを、先生が自分の天罰として笑えば、静はその罰の外にいられるのか。


 葵は黙ろうとした。


 今夜は言葉を出さないと決めていた。


 けれど、静の沈黙を見た瞬間、喉が勝手に動いた。


「罰だと決めるのは、誰ですか」


 声は大きくなかった。


 けれど食卓の上に、はっきり落ちた。


 先生の笑いが止まった。


 和田が葵を見る。


 静も、葵を見た。


 言ってしまった。


 葵はすぐにそう思った。


 まただ。


 また自分は、言葉で場を裂いた。


 でも、戻せなかった。


 先生は盃に目を落とした。


「誰、といわれても」


 低い声だった。


「そう思う人間が、そう決めるのでしょう」


「それで、ほかの人まで罰の中に入れてしまうことはありませんか」


 葵は言ってから、息を止めた。


 踏み込みすぎている。


 分かっている。


 けれど、静の前でこれを笑い話のまま流すことはできなかった。


 先生は葵を見た。


 その目には怒りはなかった。


 ただ、深く沈んだ疲れのようなものがあった。


「あなたは」


 先生は言いかけて、やめた。


 葵はその続きを聞くのが怖かった。


 あなたは何を知っているのか。


 あなたはなぜそんなことを言うのか。


 あなたはどこから来たのか。


 先生がどれを言っても、葵は答えられない。


 静が静かに盃を置いた。


「今日は、少し召し上がりすぎたのかもしれませんね」


 その声は穏やかだった。


 けれど、その穏やかさの下に、何かを守ろうとする硬さがあった。


 先生は何も言わなかった。


 和田も黙っていた。


 葵は、自分の膝の上で指を握った。


 正しかったのか。


 間違っていたのか。


 分からない。


 ただ、先生の「天罰」という笑いが止まったことだけは確かだった。


 その後の食卓は、静かに終わった。


 帰り道、和田はしばらく何も言わなかった。


 葵も言えなかった。


 夜風が、昼間より少し冷たかった。路面電車の音が遠くで鳴る。東京の町はいつも通り動いているのに、葵の中ではまだ、先生の笑いが止まった瞬間の静けさが続いていた。


「小林さん」


 和田がようやく口を開いた。


「はい」


「今日の言葉は、先生に厳しかったと思います」


 葵は頷いた。


「はい」


「でも」


 和田は少し迷った。


「奥さんの前で、あのまま笑って済ませるのも、何か違う気がしました」


 葵は和田を見た。


 和田は困ったように笑った。


「私は、なぜ違うのか分かりませんでした。あなたは、それを言葉にしたのだと思います」


 葵の胸が痛んだ。


「言葉にすれば、正しいわけではありません」


「そうですね」


 和田は素直に頷いた。


「でも、言葉にしないと、残ってしまうものもあるのでしょう」


 その言葉に、葵は何も返せなかった。


 残るもの。


 先生が雑司ヶ谷で言った言葉が蘇る。


 死は、考えるものではありません。残るものです。


 死だけではない。


 言葉も残る。


 沈黙も残る。


 笑いで隠した罰も、誰かの胸に残る。


 下宿に戻ると、春は灯りのそばで本を開いていた。


 葵を見ると、春はすぐに本を閉じた。


「今日は、黙って休めそうですか」


 葵は少しだけ笑った。


「分かりません」


「では、温かいものを持って来ます」


「いいんですか」


「今夜は、針仕事よりその方がよさそうです」


 春は立ち上がった。


 葵はその背中を見ながら、先生の家の食卓を思い出した。


 同じ食卓でも、言葉が人を追い詰める場所と、黙って温かいものが出てくる場所がある。


 葵は座ったまま、手を膝の上で重ねた。


 罰だと決めるのは、誰ですか。


 その問いは先生に向けたものだった。


 けれど今は、葵自身にも返ってきている。


 自分の言葉が誰かを傷つけたなら、その罰を決めるのは誰なのだろう。


 葵にはまだ、分からなかった。


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