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第16話 誤解

 先生と静は、仲のよい夫婦に見えた。


 少なくとも、葵の目にはそう映った。


 先生は座敷で和田と話している時、何かのついでに下女を呼ばず、襖の方を向いて静を呼ぶことがあった。


「おい、静」


 その呼び方は、短いのに柔らかかった。


 静はすぐに返事をして出て来る。茶を足す時も、煙草盆を動かす時も、先生の言葉を待たずに必要なものを手にしていることがあった。


 葵はそれを見るたび、胸が少し痛くなった。


 ここには確かに、夫婦として積み重ねた時間がある。


 静は先生の好みを知っている。先生は静を呼ぶ時、気を張っていない声を出す。二人の間には、他人が入り込めない自然な近さがある。


 それなのに、雑司ヶ谷の墓だけは別だった。


 先生が「妻さえまだ伴れて行ったことがない」と言った時の声が、葵の中に残っている。


 そばにいることと、知らされることは違う。


 葵は、その違いを見るたびに息苦しくなった。


 和田は、先生と静を素直に仲のよい夫婦として見ているようだった。先生が静を呼ぶ声に、少し微笑むこともあった。


 それは間違っていない。


 間違っていないからこそ、葵は困った。


 先生と静は仲が悪いわけではない。むしろ、親しい。だからこそ、語られないものが余計に深く沈んでいる。


 ある午後、和田は先生の家へ行くと言って、下宿の近くまで葵を迎えに来た。


「今日は、ただ少し伺うだけです」


 和田はそう言った。


「ご迷惑でなければ、一緒に」


 葵は頷いた。


 前の食卓のことが、まだ胸に残っていた。


 罰だと決めるのは、誰ですか。


 あの言葉は、先生に届いたのだろうか。


 静に届いたのだろうか。


 届いたとして、それはよいことだったのだろうか。


 春は、出がけに葵の袖を軽く直した。


「今日は、黙っていられそうですか」


 葵は苦笑した。


「努力します」


「努力しないと黙れないのですね」


「はい」


 春は少しだけ目を細めた。


「では、無理をしすぎないでください」


 葵はその言葉を胸にしまって、和田とともに下宿を出た。


 先生の家の前に着いた時、いつもと違う気配がした。


 門は閉じていない。玄関も、いつものように静かだった。けれど近づくと、座敷の方から声が聞こえた。


 最初は普通の話し声かと思った。


 すぐに違うと分かった。


 先生の声が、いつもより高い。


 静の声は低く、はっきりとは聞こえない。けれど、穏やかな応対の声ではなかった。何かをこらえながら話しているように聞こえた。


 葵は足を止めた。


 和田も止まった。


 玄関の格子の前で、二人は顔を見合わせた。


 中へ声をかけることも、立ち去ることも、すぐにはできなかった。


 先生と静が言い争っている。


 その事実だけで、葵の喉が詰まった。


 静。


 葵はその名を心の中で呼んだ。


 前の晩、食卓で静が盃を置いた音を思い出す。穏やかな声で「今日は、少し召し上がりすぎたのかもしれませんね」と言った静。その下にあった硬さ。


 自分の言葉が、何かを残したのだろうか。


 罰という言葉を止めたつもりで、別の場所を傷つけたのではないか。


 葵は一歩、玄関へ近づきそうになった。


 けれど、和田が小さく首を振った。


 ここで入ってはいけない。


 和田の目はそう言っていた。


 葵にも分かっていた。


 夫婦の内側に、外から踏み込むことはできない。


 静を助けたいと思うことと、静の代わりに先生を責めることは違う。先生の沈黙を破りたいと思うことと、先生の口から出る前に真実を奪うことは違う。


 分かっている。


 それでも、静の声が低く震えたように聞こえた瞬間、葵はその場から動けなくなった。


 言えば、変わるかもしれない。


 言えば、壊すかもしれない。


 言わなければ、このまま残る。


 その三つが、葵の胸の中でぶつかった。


 和田がそっと後ろへ下がった。


「帰りましょう」


 声はほとんど息だった。


 葵は頷いた。


 二人は、案内を頼まずに先生の家を離れた。


 帰り道、和田は何も言わなかった。


 葵も言えなかった。


 先生と静は仲のよい夫婦に見えた。


 それは嘘ではない。


 けれど、仲がよければ苦しまないわけではない。愛していれば誤解しないわけではない。そばにいれば分かるわけではない。


 葵はその当たり前のことを、ようやく少しだけ知った気がした。


 下宿へ戻っても、本を開く気にはなれなかった。


 春が何か言いたそうに葵を見たが、結局何も聞かなかった。


 それがありがたかった。


 けれど、ありがたい沈黙も、胸を軽くしてはくれなかった。


 葵は自分の部屋で、ただ座っていた。


 外が暗くなる。


 廊下の足音が減る。


 下宿の夜がいつものように静かになっていく。


 それでも、先生の家の座敷から聞こえた声だけが、耳の奥に残っていた。


 言わないことも残る。


 葵はそう思った。


 言葉も残る。沈黙も残る。聞いてしまった声も残る。聞かなかったことにした声も残る。


 そのどれにも、葵はまだ責任の取り方を知らなかった。


 しばらくして、下宿の外から和田の声がした。


 葵は廊下へ出た。


 女主人が取り次ぎ、和田が玄関に立っていた。昼間より顔色が悪い。


「先生が」


 和田は低い声で言った。


「私の下宿へ来られました」


 葵は驚いた。


「先生が?」


「散歩しようと誘われました」


 和田は少し迷ってから、葵を見た。


「小林さんも、もしよければ」


 葵は一瞬、春の言葉を思い出した。


 今日は、黙っていられそうですか。


 葵は頷いた。


「行きます」


 夜の町で先生と合流した時、先生はいつもより少し疲れて見えた。


 けれど、葵たちを見ると、いつもの静かな顔を作った。


「急に誘ってすみません」


「いいえ」


 和田が答えた。


 葵も頭を下げた。


 先生は葵に対して、何か言いかけたように見えた。けれど言わなかった。


 三人はしばらく歩いた。


 やがて、先生は小さな店に入り、麦酒を頼んだ。葵には茶が出された。


 先生は盃を取ったが、あまり進まなかった。


「今日は駄目です」


 先生は苦笑した。


「愉快になれませんか」


 和田が気の毒そうに聞いた。


 先生は盃を置いた。


「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」


 和田は答えられなかった。


 葵も黙っていた。


 腹の中に、昼間聞いた声が引っかかっていた。骨が喉に刺さったように、飲み込むことも吐き出すこともできない。


「実は先刻、妻と少し喧嘩をしてね」


 先生はそう言った。


 喧嘩。


 その言葉は、昼間の声を急に形にした。


 葵は膝の上で手を握った。


「それで、下らない神経を昂奮させてしまったんです」


 先生は自分を笑うように言ったが、その笑いは乾いていた。


「どうして……」


 和田はそこまで言って、止まった。


 喧嘩という言葉を、うまく口にできないようだった。


 先生は和田の詰まりを待たずに続けた。


「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても、承知しないのです。つい腹を立てたのです」


 葵は息を止めた。


 誤解。


 先生はそう言う。


 けれど、何を誤解しているのかは言わない。


 静は、何を聞こうとしたのだろう。


 何を知りたがったのだろう。


 先生は何を言わなかったのだろう。


 葵の喉まで、言葉が上がってきた。


 奥さんは、分からないまま不安なのではありませんか。


 そう言いたかった。


 でも言わなかった。


 ここで言えば、静の代わりに葵が先生を責めることになる。静が何を聞きたかったのか、葵は知らない。先生が何を言えなかったのかも、本当には知らない。


 知っているのは、先の筋だけ。


 目の前の二人の喧嘩の中身ではない。


「どんなに先生を誤解なさるんですか」


 和田が聞いた。


 先生は答えなかった。


 店の中の音が、急に遠くなった。


 先生は盃の中を見ていた。


「妻が考えているような人間なら」


 先生は低く言った。


「私だってこんなに苦しんでいやしない」


 葵はその言葉を聞いて、胸の中が冷えた。


 静が考えている先生。


 先生自身が知っている先生。


 葵が本で読んだ先生。


 和田が追いかけている先生。


 そのどれも、同じ人でありながら、少しずつ違う。


 先生は、自分が静に誤解されていると言う。


 けれど、静に真実を渡さないまま、誤解だけを責めることはできるのだろうか。


 葵は何も言わなかった。


 言えなかったのではない。


 言わないことを選んだ。


 その選択が、こんなに苦しいとは思わなかった。


 先生がどんなに苦しんでいるのか。


 それは和田にも、葵にも、まだ想像の及ばない問題だった。


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