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第17話 あるべきはず

 店を出てから、しばらく誰も口を利かなかった。


 夜の道は静かだった。けれど、静かだからといって何もないわけではなかった。遠くで路面電車の音がし、どこかの店の戸を閉める音がし、酔った男の笑い声が一度だけ風に流れて消えた。


 先生は少し前を歩いていた。


 和田はその横にいた。


 葵は半歩後ろを歩いた。


 沈黙が一丁も二丁も続く、という言葉を葵は思い出した。けれど実際にその沈黙の中を歩くと、一丁や二丁という距離では測れないものがあった。


 先生の背中から、何かがこぼれているようだった。


 それは怒りではなかった。後悔とも少し違う。もっと疲れたもの、長く胸の中に置かれていたものが、歩くたびに少しずつ落ちていくように見えた。


 葵は何も言わなかった。


 言えばまた、何かを壊すかもしれない。


 言わなければまた、何かが残るかもしれない。


 その二つの間で、葵はただ先生の足音を聞いていた。


 突然、先生が口を開いた。


「悪い事をした」


 和田が先生を見た。


 葵も顔を上げた。


「怒って出たから、妻はさぞ心配しているだろう」


 先生の声は低かった。さっき店の中で聞いた声より、少しだけ素に近いように聞こえた。


「考えると、女は可哀そうなものですね。私の妻などは、私より外にまるで頼りにするものがないんだから」


 葵の胸に、小さな棘が刺さった。


 可哀そう。


 その言葉は優しさの形をしている。けれど、その中に静を閉じ込めてしまう響きもある。


 静は本当に、先生より外に頼るものがないのだろうか。


 それとも先生が、そう思わずにいられないのだろうか。


 葵はこの前の食卓を思い出した。酒を勧められて困ったように盃を受け取った静。先生の「天罰」という笑いを、穏やかな声で受け止めた静。先生を責めないまま、その場を崩さないようにした静。


 可哀そうなだけの人ではない。


 そう言いたかった。


 けれど言わなかった。


 今はまだ、静の代わりに葵が言うべきではないと思った。


 先生は、葵の返事も和田の返事も待っていないようだった。少し途切れた言葉は、すぐに別の方へ移っていった。


「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽だが」


 先生は和田を見た。


「君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」


 和田はすぐには答えなかった。


 強い人。


 弱い人。


 葵は先生を見た。


 先生は強いのだろうか。


 静に真実を言わずに生活を続けられることは、強さなのだろうか。雑司ヶ谷へ毎月通い、墓の前に立ち続けることは、強さなのだろうか。自分を罰し続けることは、強さなのだろうか。


 それとも、弱さなのだろうか。


 弱いから言えない。弱いから抱え込む。弱いから誰も墓へ連れて行けない。


 けれど葵には、強さと弱さがきれいに分かれるようには思えなかった。人は弱いから黙ることもある。強くあろうとして黙ることもある。誰かを守るつもりで黙り、その沈黙で別の誰かを傷つけることもある。


「中位に見えます」


 和田が答えた。


 葵は少し驚いた。


 けれど、すぐにその答えが和田らしいと思った。


 強いとも弱いとも決めつけない。分からないものを、分からないまま無理に片づけない。


 先生にとっては案外だったらしい。


 先生はしばらく口を閉じた。


 三人はまた無言で歩き出した。


 先生の家へ帰るには、和田の下宿の近くを通ることになる。葵の下宿とは方角が違うが、帰り道の分かれ目はもう近かった。


 和田は曲がり角で足を止めた。


「ついでに、お宅の前までお伴しましょうか」


 先生はすぐに手で遮った。


「もう遅いから早く帰りたまえ」


 それから、少しだけ声をやわらげた。


「私も早く帰ってやるんだから、妻君のために」


 妻君のために。


 その言葉は、葵の胸を不意に温めた。


 先生は静を思っている。


 それは嘘ではない。


 怒って出てきたことを後悔している。静が心配しているだろうと考えている。早く帰ってやろうと思っている。


 葵はその温かさを否定できなかった。


 だからこそ、余計に苦しかった。


 思っていることと、言葉を渡すことは違う。


 帰ってやることと、核心を話すことも違う。


 先生は静を大事にしている。けれど、大事にしているからこそ話せないのかもしれない。そう思った瞬間、葵は先生をただ責めることができなくなった。


 先生は和田に軽く会釈し、葵にも目を向けた。


「遅くなりましたね」


「いいえ」


 葵は頭を下げた。


 先生はそれ以上何も言わず、家の方へ歩いていった。


 和田はしばらくその背中を見ていた。


「妻君のために」


 和田が小さく繰り返した。


 その声には、少し安心したような響きがあった。


 葵も同じ言葉を胸の中で繰り返した。


 先生の沈黙の奥に、静への思いがある。


 それだけは確かだった。


 けれど思いがあるのに届かないこともある。むしろ、思いがあるから言えないこともある。


 葵はその厄介さを抱えたまま、和田と別れた。


 それからも、和田は先生の家へ通った。


 先生と静の間に起きた波瀾は、それほど大きなものではなかったように見えた。少なくとも、表向きの家の空気はしばらくすると元に戻った。


 先生はまた静を「おい、静」と呼んだ。


 静は返事をして出てきた。


 茶が出され、煙草盆が動かされ、先生は少ない言葉で和田に応じた。


 葵はそれを見ながら、前よりも簡単に安心できなくなっていた。


 元に戻ったように見えることと、本当に戻ることは違う。


 静の声は穏やかだった。先生の呼び方も優しかった。けれど、上から布をかけた火のように、どこかにまだ熱が残っている気がした。


 ある日、先生はふと夫婦の話をした。


 その日は葵も和田と一緒に座敷にいた。静は奥にいたが、襖の向こうにいる気配がした。


「私は、世の中で女というものをたった一人しか知らない」


 先生は突然そんなことを言った。


 和田は少し驚いたように先生を見た。


 葵は手を膝の上で握った。


「妻以外の女は、ほとんど女として私に訴えないのです」


 先生の声は真面目だった。


 酒の席の軽さはなかった。雑司ヶ谷で墓を語った時の沈みとも違う。もっと、静かに自分の中を確かめている声だった。


「妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています」


 葵は襖の方を見そうになり、こらえた。


 静は聞いているのだろうか。


 聞いているなら、どう思うのだろう。


 先生の言葉は愛情の告白のようでもあり、狭い箱の説明のようでもあった。


 たった一人。


 ただ一人。


 それは強い結びつきの言葉だ。けれど同時に、息苦しい言葉でもある。


「そういう意味からいって」


 先生は続けた。


「私たちは、最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」


 葵は、その最後の言葉に引っかかった。


 幸福です、ではない。


 幸福であるべきはず。


 そのわずかなずれが、葵の胸に刺さった。


 先生は静を愛している。


 静も先生を愛している。


 互いに、たった一人だと思っている。


 ならば幸福であるはずだ。


 それなのに、先生は幸福だと言い切らない。


 葵は黙っているつもりだった。


 今度こそ、先生の言葉を遮らないつもりだった。


 けれど、問いは口から静かにこぼれた。


「あるべきはず、なのですね」


 先生の目が葵へ向いた。


 和田も葵を見た。


 襖の向こうの気配が、ほんのわずかに止まったような気がした。


 葵はすぐに後悔しかけた。


 責めるつもりではなかった。


 ただ、その言葉の端がどうしても気になった。


「幸福だ、と言い切るのは」


 そこまで言いかけて、葵は唇を閉じた。


 これ以上は踏み込みすぎる。


 先生はしばらく葵を見ていた。


「言い切れたら」


 先生は低く言った。


「どんなに楽でしょうね」


 葵は何も言えなくなった。


 先生はそれ以上説明しなかった。


 和田も聞かなかった。


 襖の向こうで、静が動く音がした。茶器の触れる小さな音。それだけだった。


 その音が、葵にはひどく寂しく聞こえた。


 幸福であるべきはずの一対。


 その言葉は、先生と静の間に置かれた美しい器のようだった。外から見れば整っている。けれど中に何が入っているのかは、誰にも見えない。


 葵は、その器を割りたいわけではなかった。


 ただ、中に何が沈んでいるのかを、静にも見せたいと思った。


 そう思った自分に、葵はまた怖くなった。


 見せたい。


 知らせたい。


 救いたい。


 その言葉は、時々よく似た顔をしている。


 それから数日後、先生が新橋へ出かけることになった。


 横浜から船に乗る友人を見送るのだと、和田から聞いた。先生は朝早く出るが、すぐ帰るから、約束の用があるなら留守でも待っていてよいと言い残したらしい。


 和田はある書物について先生に聞きたいことがあった。


 葵は、その話を聞いた時、すぐに次の場面が来るのだと分かった。


 先生の留守。


 静と差し向かいで話す時間。


 本で読んだ流れでは、和田が奥さんと二人で話す。


 けれど今は、葵もいる。


 それが何を変えるのか、葵には分からなかった。


 ただ、襖の向こうで止まった気配と、茶器の触れる音が、まだ耳に残っていた。


 静と話す。


 先生のいない場所で。


 葵はそのことを考えながら、下宿の机の上に置いた本を閉じた。


 次に開くのは、本ではなく、人の口かもしれない。


 その時、自分はまた黙っていられるだろうか。


 それとも、今度こそ何かを言ってしまうのだろうか。


 葵には、まだ分からなかった。


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