#02 解析屋
街へ向かって歩き出しても、子供は何度も後ろを振り返っていた
何もない空間から出てきたのが、まだ不思議で仕方ないらしい。
「ねえ、お兄ちゃんって、いつもここに来てるの?」
「ああ。今日もさっきまで仕事してたんだよ」
「お仕事?」
「そう。『解析屋』っていってな。頼まれた場所に行って、バグを調べるんだ」
「さっきの壁みたいなの?」
「そうそう。どこに繋がってるか、何をすると危ないか……どうすれば使えるか、とかな」
子供が、もう一度後ろへ顔を向ける
「じゃあ、お兄ちゃんみたいに通れる人が増えるんだ」
「そういうこと! 俺が見つけた道を、ほかの奴にも使ってもらえるってわけだ」
……まあ、今日みたいに帰れなくなった子供を拾うのは初めてだけど。
「そういや、俺の名前も言ってなかったな。夜坂漣っていうんだ」
「夜坂……れん?」
「まぁ、お兄ちゃんでも何でも、好きに呼んでくれ」
「じゃあ、お兄ちゃん」
「っはは、もうそっちで慣れちまったか」
子供は小さく頷くと、また辺りへ顔を向けた
少し歩いたところで、隣から声が上がる
「ほかには、どんなバグがあるの?」
「時間が止まる場所とか」
「えっ、時間も止まるの!?」
「止まる止まる。ほら、あれ見てみ」
ビルの間で光っている雨粒を指差すと、子供が足を止めた
「……雨?」
「落ちてくる途中で、止まっちまってるんだよ」
子供はしばらく見上げたまま動かなかった
雨粒は風に揺れることもなく、同じ場所で光り続けている
「ほんとだ……落ちてこない!」
「だろ? ああいうのが、あちこちにあるんだ」
「すごい!」
今度は崩れた建物の隙間まで覗き込み、気になるものを見つけるたびに俺を呼んだ
「あれもバグ!?」
「ただの岩」
「じゃああれ!」
「ただの穴」
「あれは!?」
「木」
「木!?」
指差した先を見上げると、ひん曲がった幹から枝が妙な方向へ伸びていた
「……まあ、それはバグで形が変わってるけど」
「ほら!」
「っはは、当たるまで聞く気か?」
子供は笑って、また辺りを見回し始めた
……俺も昔はこんな感じだったっけ。
初めて高負荷区に来たときは、見るもの全部が不思議で仕方なかったしな。
そんなやり取りを続けているうちに建物が途切れ、見覚えのある場所へ出た
「……うわぁ」
隣から声が漏れる
目の前には道を断ち切るように渓谷が広がり、向こう岸には一棟の古びたビルが建っていた
底なんて見えやしない。左右を見渡しても、簡単に回り込める距離じゃない。
子供が足を止めた横で、俺は上空へ目を向ける
細かな瓦礫が風に流され、渓谷を越えてビルの方へ飛んでいくのが見えた
風向きはいつも通り。
足元の小石を拾い、頭の上まで放り投げる
落ちてきた石は、硬い道路に触れた瞬間、跳ねもせずにぴたりと止まった
ぶつかった音すらしない。
よし。落下の衝撃が消えるバグも、まだ効いてる。
前に調べた時は、向こうの屋上まで範囲に入っていた。
ビルへ目を戻すと、風に運ばれた瓦礫が屋上の縁に落ち、跳ねることなく止まった
着地点は、あそこでいいな。
「道……ないよ?」
「ぱっと見じゃ、そうだよな。でもな、ここが高負荷区だからこそ、渡れるんだよ」
スマホに残した調査記録と時刻を見比べ、バッグの肩紐を締め直す
子供を手招きすると、渓谷を覗き込みかけていた顔が勢いよく上がった
「絶対やだ!」
「まだ何も言ってないだろ」
「そっち行くんでしょ!」
「……まあ、行くけど」
子供が首を横に振る
だよなぁ。俺も初めて調べたときは、そんな顔してたと思う。
何度も空へ放り出されて、どこなら無事に降りられるのか分かるまで、散々な目に遭った。
でも、今は分かってる。
俺は縁から離れたところでしゃがみ、子供と目線を合わせた
「あそこのビル、見えるか?」
「……うん」
「あの屋上まで行く。ここらは落ちた時の衝撃がなくなるから、着地しても痛くねぇんだ」
「さっきの石も?」
「そうそう。音もしなかったろ?」
子供は頷きかけて、もう一度渓谷へ目を向けた
「……下には落ちない?」
「谷底には落ちねぇよ。上の風に乗って、あっちへ渡るんだ」
頭上を流れていく瓦礫を指差してから、子供へ手を差し出す
「俺も一緒だからな。向こうに着くまで、手ぇ繋いどこうぜ」
子供はその手を見つめたまま、動かなかった
急かさずに待っていると、小さな声が返ってくる
「……帰れるんだよね?」
「帰れる。あのビルを降りれば、街へ続く道に出るからな」
子供は渓谷と俺の顔を見比べ、そっと手を重ねた
「怖かったら、次のタイミングまで待つぞ」
小さな手が、俺の手を握り直す
「……一緒に来てね」
「任せとけ。手は離さねぇから」
しっかり握り返して立ち上がると、そのまま俺の隣へついてくる
「……あと十秒」
「な、何が?」
「ここの重力がひっくり返るまで」
「…………ひっくり返る?」
「その勢いで、あの風のとこまで行くぞ」
「帰りたい!」
「だから、帰るためにやるんだって!」
繋いだ手が強く握られる
大丈夫。ここまで何度も確かめたんだ。
「ほら、俺を見てろ」
子供が顔を上げる
頷いてみせてから、俺は向こう岸のビルへ目を向けた
「……飛ぶの?」
五秒。
「飛ぶんじゃない」
四。
三。
「落ちるんだよ」
二。
「……どこに?」
一。
俺は笑って、頭上を指差した
「上に」
その瞬間――世界から、下が消えた
「――っ!?」
足が地面を離れ、渓谷の縁も、さっきまで歩いていた道も、みるみる遠ざかっていく
空へ向かって落ちている。
「うわああああああああ!?」
「手ぇ繋いでる! 大丈夫だ!」
繋いだ腕を引き寄せ、子供をそばへ寄せる
向こう岸のビルの窓が、次々と視界の中を下へ流れていく
十メートル。
二十メートル。
屋上が見えてきた。
「次、横から風が来るぞ!」
「か、風!?」
横殴りの突風が、俺たちをさらった
さっきの瓦礫と同じ方向へ身体が流され、足元を渓谷が通り過ぎていく
子供の叫び声を聞きながら、俺は迫る屋上から目を離さなかった
……よし。このまま!
もう、向こう岸は目の前だ。
「ほら、見えたろ!」
風に負けないように声を張る
「道はあるって!」
重力が逆さまになっている範囲を抜けると、身体が今度は屋上へ向かって落ち始めた
子供を引き寄せたまま足を下へ向け、着地に備える
足の裏が床に触れた
あれだけの勢いがあったのに衝撃はなく、二、三歩踏み出すだけで止まる
「よっし、到着!」
「…………」
繋いだ手は、まだ強く握られていた
子供は目をつぶったまま動かない
「ほら、もう地面だぞ」
しゃがんで顔を覗くと、ようやく薄く目を開けた
「どっか痛いとこないか?」
首を横に振る
よかった。……さすがに怖かったか。
「…………もう」
「ん?」
「もう一回!」
「帰るんじゃなかったのかよ!」
子供がはっとして、俺の顔を見る
つられて笑うと、今度は自分の足で屋上を確かめるように、そろそろと歩き始めた
「端には寄るなよ」
「うん!」
少し先で足を止めた子供が、渡ってきた渓谷を振り返る
さっきまで俺たちがいた場所は、もうずっと向こうだった
「すごい……」
俺も隣に立ち、同じ景色を眺める
「上に落ちて、風でこっちまで来たんだよね?」
「最後は、痛くないとこに着地だ」
子供は向こう岸を見て、それから自分の足元を見た
「……道なんてないと思った」
「俺も最初はそう思ったぞ。どうにか向こうへ行けねぇかなって、調べたんだよ」
「それで、あれ見つけたの?」
「おうよ。渡れた時は嬉しかったなぁ。わざわざ遠回りしなくて済むようになったし」
子供が、また渓谷へ顔を向ける
「バグって、すごいんだね」
「っはは、そうだろ」
怖いし、危ない。使い方を間違えれば、ただじゃ済まない。
それでも、どうなってるのか調べていけば、さっきまで行けなかった場所に手が届く。
「法則が分かれば、あんな崖だって越えられるんだ」
子供が俺を見上げる
「ワクワクするだろ?」
「うん!」
思わず頬が緩む
……だよな。そうなんだよ。
「よし、帰ろうぜ。今度はちゃんと歩いてな」
屋上の扉へ向かって歩き出すと、小さな足音が隣に並んだ
まずはこいつを、ちゃんと家まで帰してやらないとな。
その帰り道で出会うことになる。
俺の知っている法則では説明できない、一つの『未知のバグ』に。




