第9話 雨の日にも、会いたい
エドガー様は、玄関脇の小さな卓に紙袋を置いた。
「今朝、あの店へ寄ったんです」
袋の口から、焼いた林檎の匂いがした。
「まだ開店前でしたが、仕込みをしていて。端を切りそろえたところを、少し分けてもらいました」
包みを開くと、細長い焼き菓子が三つ入っていた。
縁の砂糖が、濃い茶色になっている。
「お好きだと伺ったので」
私は菓子を見たまま、顔を上げられなかった。
覚えていてくれた。
仕事を断った翌朝にも。
「ありがとうございます」
「ただ、これで昨日のお返事を変えていただこうというわけではありません」
思わず彼を見る。
エドガー様は、少し困ったように笑った。
「順番が悪かったかもしれませんね。先に、お話しするべきでした」
「お話、というのは」
「昨日、専属の件をお断りいただいてから、私も考えました」
胸が小さく縮んだ。
仕事の話ではないと、言ったのに。
私の顔に出たのか、彼はすぐに言葉を足した。
「契約については、改めて相談させてください。今、お伝えしたいのは、食事にお誘いした理由です」
玄関の外で、馬車が一台通り過ぎた。
車輪の音が遠ざかるまで、彼は黙っていた。
「あなたと、仕事以外の話もしたかったんです」
私は紙袋の端へ指を置いた。
「会館へ来ていただくためでは、なく?」
「ありません」
返事は、はっきりしていた。
「一緒に仕事をするうちに、もっと話したいと思うようになりました。夕食をご一緒して、その気持ちが強くなりました」
私は、太った青い鳥の絵皿を思い出した。
窓際の席で、二人で笑ったこと。
その時間を、私だけが大切に覚えていたのではなかった。
「昨日は、何をおっしゃっても引き留める言葉に聞こえる気がして、言えませんでした」
エドガー様は続けた。
「それで結局、仕事の話しかできなかった」
「私もです」
小さな声が出た。
彼が私を見る。
「次のお茶を、どうしたらいいのか分からなくなってしまって」
「ご一緒したいです」
その返事が早くて、私は少し笑った。
笑った途端、目の奥が熱くなった。
慌てて菓子へ目を戻す。
「今日、いただいてもよろしいですか」
「もちろん。そのために買ってきました」
彼はお茶を頼み、私の向かいへ座った。
私は焼き菓子を一つ取った。
よく焼けた縁が、指先で小さく割れた。
*
お茶を飲み終えてから、私たちは広間へ向かった。
窓の外は、もう曇り始めていた。
八十四名分の椅子を並べると、儀式のための場所は確保できる。けれど、その後の食事の卓を置くには、一度すべて動かさなければならなかった。
「お客様には、小広間で飲み物を召し上がっていただくとして」
私は小広間を見た。
八十四名が入れば、かなり窮屈になる。
立ったまま待てない方もいる。
「全員を移すのは、難しいですね」
「初めから、食事の席へ座っていただくのはどうでしょう」
エドガー様が長卓に手を置いた。
「この端を儀式の正面にすれば、椅子を少し回すだけで見られます」
私は窓際まで歩き、振り返った。
卓の向きによっては、隣の客の背中で新郎新婦が見えなくなる。
「長卓を、平行ではなく少し開いて置けますか」
使用人たちに手伝ってもらい、二列の卓を動かした。
中央に、入口から儀式の場所へ続く通路ができる。
私は椅子へ座ってみた。
正面は見える。
立ち上がるにも、隣の人を動かさずに済む。
「こちらなら」
「花嫁の裾が通れるか、確かめましょう」
エドガー様が、紐を持ってきた。
衣装の幅に余裕を足して床へ置き、通路を進む。
角を曲がるところで、卓の端に近づきすぎた。
「ここを、もう少し」
私が椅子を動かすと、彼がその位置を測った。
給仕長も加わり、料理を運ぶ順路を歩いた。
一度目は、客の通路と重なった。
二度目は、脇の給仕台が邪魔になった。
給仕台を壁際へ寄せ、もう一度歩く。
誰も、簡単だとは言わなかった。
けれど、できないとも言わなかった。
昼前には、皆が無理なく動ける形が見えてきた。
「儀式の間は、まだ料理を卓へ載せないほうがよさそうです」
給仕長が言った。
「食器も、必要なものだけにいたしましょう。あまり宴席らしくしないように」
「花を中央へまとめれば、正面が分かりやすくなりますね」
私は図面へ書き込んだ。
庭の東屋を、そのまま広間へ持ち込むことはできない。
こちらの部屋で、できる形を作るしかなかった。
*
昼過ぎ、クララ様に来ていただいた。
まだ花もなく、椅子もそろっていない。
それでも、机の上の図面だけで説明するより、見てもらったほうがよいと思った。
クララ様は入口で立ち止まり、広間を見渡した。
「ここで、誓いの言葉を?」
「はい。雨が続いた場合の案です。庭が乾いていれば、予定どおり外でも行えますが」
私は中央の通路を案内した。
クララ様は、ゆっくり歩いた。
途中で、祖母の席を確かめる。
「ここからなら、よく見えますね」
「ご移動の回数も、少なくできます。儀式の後は、そのまま食事を始められますので」
彼女は正面の窓へ顔を向けた。
硝子越しに、庭の白い薔薇が見える。
「庭でできたら、素敵だと思っていました」
「はい」
「でも、天気が悪くなったら祖母を急いで移さなければならないと、昨日、父に言われて」
彼女は近くの椅子へ座った。
そこから儀式の場所を眺め、少し考えていた。
「こちらにします」
「天候にかかわらず、屋内で、ということでしょうか」
「ええ。決めてしまったほうが、落ち着いて当日を迎えられそうです」
私は頷いた。
「では、こちらの案で、新郎側にもご確認いただきます」
「私からヴィクトル様へ話します。二人で決めた返事を、明日までにお送りします」
クララ様は立ち上がり、もう一度通路を歩いた。
今度は少し顔を上げていた。
「ここを歩いたとき、祖母がどんな顔をするか、見えそうです」
私は図面の端へ、屋内案、と書いた。
その横に、承認待ち、と付け加える。
明日、返事が来たら、この言葉を消せる。
*
クララ様が帰られた後、雨が降りだした。
最初は窓に、ぽつりと一粒。
やがて、庭の小道が黒く濡れていった。
エドガー様と私は、広間の端で図面を整理した。
「お仕事の件ですが」
彼が言った。
私はペンを置いた。
「専属ではない形で、考えてみたいと思っています。ただ、私にも準備が必要です」
「会館側の担当の方を、ということでしょうか」
「ええ。支配人に、通常の催事の窓口をまとめてもらいます。日程と設備の確認は、会館でできるようにする。そのうえで、企画や進行を外へお願いする」
私は頷いた。
会館の日々の仕事まで、私が抱えなくて済む。
依頼が集中したときも、別の人へ引き継ぎやすい。
「私へご相談いただいた場合も、日程や内容によっては、お受けできないことがございます」
「分かっています。そのときに困らないよう、ほかの請負人にも声をかけます」
少しだけ、寂しいと思った。
自分で望んだことなのに。
けれど、そのほうがよい。
私がいなければ何もできない場所に、戻りたいわけではなかった。
「私からお客様へ会場をご紹介するときも、ご希望に合わせて選ばせてください」
「ええ。ここを選んでいただけるよう、私たちも努めます」
彼は新しい紙へ、話したことを書き留めた。
「報酬は、一件ごとにお見積もりを。会館から直接お願いする仕事と、お客様から受けた仕事は分けておきましょう」
「その形でしたら、ぜひ、ご相談を続けさせてください」
エドガー様が顔を上げた。
私は、今度は迷わず頷いた。
彼も頷き、紙を私のほうへ向けた。
専属、という言葉はなかった。
*
帰る頃にも、雨はやんでいなかった。
玄関の庇の下で、馬車を待つ。
庭から、濡れた土の匂いがした。
「婚礼まで、忙しくなりますね」
エドガー様が言った。
「はい。屋内の案が決まりましたら、花屋と楽団にも変更をお伝えします」
「では、次のお茶は、その後に」
私は頷きかけて、尋ねた。
「婚礼の、後ですか」
「翌日は、いかがでしょう。お疲れでなければ」
翌日。
片づけと、残金の受領は当日に終える予定だった。業者の請求書は後から届くものもあるが、一日中家にいなければならないわけではない。
「午後でしたら」
「では、午後に」
約束が決まった。
それだけで嬉しくて、私は雨の降る庭を見た。
「今度は、私がお茶をご馳走いたします」
「覚えています」
「お店は、私が選んでも?」
「もちろん」
彼はそこで、少し黙った。
視線を感じて顔を向けると、まっすぐこちらを見ていた。
「リネア様」
初めて、名前で呼ばれた。
私は鞄の持ち手へ指を添えた。
「お仕事を続けていただけることは、嬉しいです」
「はい」
「それとは別に、あなたに会いたいと思っています」
雨が、庇の端から落ちていた。
「あなたのことが、好きです」
私は何も言えなかった。
彼は、困ったように笑わなかった。
冗談にもせず、言い直しもせず、私を見ていた。
どう返せばよいのか、考えた。
ありがとうございます、では足りない。
私も、とすぐに答えるには、まだ自分の中で言葉になっていないものがあった。
婚約が終わってから、日が浅い。
傷ついたところへ優しくしてもらって、嬉しいだけなのかもしれない。
けれど、それだけなら、彼の返事をあんなに待っただろうか。
私は息を吸った。
「昨日、お茶の約束がなくなってしまうのではないかと、心配していました」
彼は黙って聞いていた。
「今日、お菓子を見たとき、とても嬉しかったです」
自分の言えることを、一つずつ確かめた。
「私も、仕事が終わってから、あなたに会いたいです」
エドガー様の表情が、ゆっくり和らいだ。
「はい」
「そのときまで、もう少し、お待ちいただけますか」
「もちろんです」
馬車が門を入ってきた。
彼は傘を開き、乗り口まで私を送ってくれた。
別れ際、私は振り返った。
「婚礼の翌日も、雨だったら」
「雨でも、会いに行きます」
私は笑った。
「では、雨でも楽しめるお店を選んでおきます」
*
翌朝、クララ様から返事が届いた。
儀式は屋内で。
新郎新婦、二人の名が書かれていた。
私は図面の、承認待ち、という文字に線を引いた。
花屋への手紙を書き、楽団へ連絡し、給仕の配置を清書する。
婚礼までの七日間は、驚くほど早く過ぎた。
雨がやむ日もあった。
また降る日もあった。
そのたびに空を見上げたが、もう会場を決め直す必要はなかった。
前日の夕方、私は仕上がった広間を歩いた。
卓の間を抜け、花の置かれた窓辺まで進む。
そこから振り返ると、八十四名分の席が見えた。
空いている椅子の一つ一つに、明日来る人の顔を思い浮かべた。
ベイラム夫人。
クララ様のお祖母様。
父親と並んで娘を見守る、ベルク家の方々。
最後に、中央の通路を見る。
私は、あそこを花嫁として歩くことはない。
胸は、少し痛んだ。
けれど、逃げ出したいとは思わなかった。
帳面を閉じ、明日の開始時刻をもう一度確かめた。




