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『婚約者の結婚式を任されたので、きっちり成功させて縁を切ります』  作者: やまご


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10/12

第10話 誰の手柄でもない一日

婚礼の朝、雨は細い糸のように降っていた。


 会館へ着いたのは、まだ門の灯りが消える前だった。


 玄関の敷物は、すでに新しいものへ替えられている。傘を預かる台の下には、水を受ける浅い盆が置かれていた。


 私は靴底の泥を落とし、帳面を開いた。


 厨房。

 花。

 楽団。

 控室。

 客席。


 一つずつ確認して、印をつける。


「おはようございます」


 廊下の奥から、エドガー様が歩いてきた。


 濃い色の上着に、今日は同じ色の釦がそろっていた。


 私の視線に気づいたのか、彼は袖口を見た。


「間に合わせました」


「よかったです」


 笑ってから、私は帳面へ目を戻した。


「荷受けは、予定どおりですか」


「はい。最後の花も届きました。楽団は、これから音を確かめます」


「では、控室から拝見します」


「私はこちらを」


 別々の廊下へ向かう。


 角を曲がる前に振り返ると、彼もこちらを見ていた。


 小さく頷いて、それぞれの仕事へ戻った。


     *


 花嫁の控室には、薄い湯気の立つお茶が用意されていた。


 窓際に衣装を掛ける場所を確保し、長椅子には白い布をかけてある。髪を整える鏡の前には、余計な飾りを置かなかった。


 侍女が二人で動ける幅を確かめていると、マルタさんが衣装箱を抱えて入ってきた。


「おはよう。早いね」


「マルタさんも」


「花嫁が来る前に、全部広げておきたいから」


 箱を置くのを手伝おうとすると、彼女は顎で私の帳面を示した。


「あんたは、そっち」


 私は手を引っ込めた。


「何かございましたら、お呼びください」


「そうするよ」


 扉を閉める前に、彼女が声をかけた。


「朝は食べた?」


「はい」


「なら、よし」


 それだけで、少し背筋が伸びた。


     *


 最初の馬車が着く頃には、雨が強くなっていた。


 玄関に立つ者が客を迎え、別の者が傘を預かる。濡れた裾を整えるための椅子も、扉のすぐ内側へ置いた。


 ベイラム夫人は、ご主人の腕につかまって入ってこられた。


「あら、ここで一息つけるのね」


「よろしければ、お座りください」


 私が案内すると、夫人は椅子へ腰を下ろした。


 急いで立ち上がろうとなさらないのを見て、ほっとする。


「ほかの方の邪魔にならないかしら」


「お通りいただく場所は、空けてあります」


 夫人は周囲を見て、頷いた。


 少し休まれてから、広間へご案内した。


 肘掛けのある椅子へ座った夫人は、窓の外を眺めた。


「雨の庭も、綺麗ですわね」


「はい」


「今日は、慌てなくて済みそう」


 私は礼をして、次の客を迎えに戻った。


     *


 予定より早く、広間の半分ほどが埋まった。


 控室から侍女が出てきたのは、その頃だった。


「フェルド様。花嫁様がお呼びです」


 時計を見る。


 儀式まで、まだ二十分ある。


 玄関を支配人へ任せ、控室へ向かった。


 クララ様は、鏡の前に立っていた。


 胸元から裾へ続く刺繍は細く、動くと光を拾う。大きな飾りを減らした分、彼女の表情がよく見えた。


「お綺麗です」


 私が言うと、クララ様は息を吐くように笑った。


「ありがとうございます。祖母は、もう?」


「先ほどお着きになりました。お席で、お父様とお話しされています」


「そうですか」


 彼女は鏡から目を離した。


「少しだけ、会ってもいいでしょうか」


 私は時計を確かめた。


 玄関を通らずに、広間の脇へ出られる。戻って衣装を整える時間も取れる。


「五分ほどでしたら。皆様のお席からは見えない、小広間へお越しいただきましょうか」


「お願いします」


 家族の者に声をかけ、祖母を小広間へお連れしてもらう。


 クララ様は侍女と一緒に、ゆっくり廊下を進んだ。


 小広間の扉が開くと、椅子に座っていた老婦人が顔を上げた。


「あら」


 その一言の後、しばらく何もおっしゃらなかった。


 クララ様がそばへ屈む。


 老婦人は、刺繍に触れないよう気をつけながら、孫娘の手を取った。


「よく顔を見せておくれ」


 クララ様が少し顔を上げた。


 私は扉のそばへ下がった。


 帳面を開く必要のない、五分間だった。


     *


 儀式は、予定の時刻に始まった。


 楽団が最初の音を出す。


 入口の扉が開き、クララ様が父親と並んで立った。


 私は扉の陰から、裾が椅子に触れないことを確かめた。


 一歩。

 もう一歩。


 中央の通路を、二人が進む。


 誰も椅子を引き直す必要はなかった。


 肘掛けのある席から、祖母が顔を上げている。ベイラム夫人も、ご主人と並んで花嫁を見ていた。


 窓辺では、ヴィクトル様が待っていた。


 白い花の前に立つ姿を見て、胸が小さく痛んだ。


 あの隣に立つ日を、私も考えた。


 どんな顔をすればよいのか。

 誓いの言葉を、間違えずに言えるだろうか。


 今、私は扉のそばにいる。


 クララ様の裾が、最後まで綺麗に流れるのを見ている。


 ヴィクトル様が手を差し出し、彼女がそれを取った。


 私は静かに扉を閉じた。


 廊下の向こうに、エドガー様がいた。


 声はかけず、こちらを見る。


 私は一度だけ頷いた。


 大丈夫だった。


 そう伝えたかった。


     *


 儀式の間に、客が一人、遅れて到着した。


 馬車が道で立ち往生したらしく、外套の肩が濡れていた。


「今から入れますか」


 焦った声だった。


 広間の中では、誓いの言葉が始まっている。


 私は入口の取っ手へ手を置かず、客へ向き直った。


「今はお声が響いてしまいますので、こちらで少しお待ちください。拍手のときに、ご案内いたします」


 客は広間の扉を見て、それから頷いた。


 椅子へ座ってもらい、外套を預かる。


 支配人に席の場所を確かめてもらい、私は扉の脇で耳を澄ませた。


 誓いが終わる。


 拍手が起こった。


 私は扉を少し開け、後方の席へ案内した。


 広間の視線は、新郎新婦へ向いたままだった。


     *


 食事が始まると、厨房との往復が増えた。


 最初の皿は予定どおり。


 次の温かい料理が出る前に、給仕長が私を呼び止めた。


「花嫁様のお祖母様ですが、少しお休みになりたいそうです」


「小広間へ。お食事は、急がずにお願いできますか」


「温かいものは、お戻りになってからお出しします」


 私は頷いた。


 祖母は、孫娘に心配をかけたくないとおっしゃった。


「少し座り直すだけなのに、席を外したら大ごとになるかしら」


「ご歓談の時間ですから、皆様も動いていらっしゃいます。お隣の部屋で、お茶を召し上がるだけで結構です」


 親族の女性に付き添っていただき、小広間へ移る。


 その様子に気づいたクララ様が、私を見た。


 私は近くへ寄り、小さな声で説明した。


「少しお休みです。お食事は、お戻りになってからお出しします」


 クララ様は祖母の席を見て、それから頷いた。


「ありがとうございます」


 誰かが慌てて走ることも、広間の会話が止まることもなかった。


 私は給仕長へ合図を送り、次の進行を確かめた。


     *


 半ばを過ぎた頃、ようやく給仕室の隅で水を飲めた。


 立ったまま杯を持っていると、エドガー様が入ってきた。


「少し、座れますか」


「次の挨拶までなら」


「支配人が見ています。変わりがあれば、すぐに呼びます」


 私は椅子へ座った。


 腰を下ろした途端、足の疲れが分かった。


 エドガー様は、小さな皿を机に置いた。


 パンと、一口大に切った肉が載っている。


「給仕長からです」


「ありがとうございます」


 受け取って、一口食べる。


 飲み込むまで、彼は話しかけなかった。


「ここまでは、予定どおりですね」


「はい。お祖母様も、お戻りになれそうです」


「料理は、温め直す準備をしているそうです」


 私は頷いた。


 窓の外で、雨が細くなっていた。


 ここからでは、庭はほとんど見えない。


 けれど今朝のクララ様は、空を一度も気にしていなかった。


「屋内に決めて、よかったですね」


「ええ」


 エドガー様も窓を見た。


「今日は、天気の機嫌を取らずに済みました」


 私は笑った。


 杯を置き、帳面を取る。


「戻ります」


 彼は止めず、扉を開けた。


     *


 花嫁の祖母が席へ戻った後、クララ様は一度、そばへ寄った。


 二人で何か話している。


 祖母が笑い、クララ様も笑った。


 窓のそばでは、ヴィクトル様が客に囲まれていた。


 私はその間を通り、楽団へ最後の曲の時間を伝えた。


「よい式ですね」


 戻りかけたところで、男性客に呼び止められた。


 伯爵家の親族だった。


「雨でどうなることかと思いましたが、かえって落ち着いて話せる」


「ありがとうございます」


「ヴィクトルも、なかなか考えたものだ」


 私は一瞬、言葉を止めた。


 以前なら、そのまま頷いていた。


 今回も、式の最中に話を広げるつもりはなかった。


 けれど、聞こえていたらしいクララ様が、こちらへ顔を向けた。


「屋内の案は、リネア様と会館の皆様が考えてくださいましたの」


 男性客が私を見る。


「こちらの方が?」


「はい。私は、祖母とゆっくり過ごしたいとお願いしただけでした」


 クララ様は私へ微笑んだ。


 私は礼をした。


「皆様にご相談しながら、準備いたしました」


「そうでしたか。なるほど」


 男性客は広間を見回し、もう一度頷いた。


 私はその場を離れた。


 足取りが軽くなった、というほどではない。


 まだ仕事は残っている。


 ただ、胸の中に、小さく温かいものが残った。


     *


 最後の曲が終わる頃には、雨がやんでいた。


 窓に残った雫へ、薄い光が差している。


 進行役が立つ。


 新郎の父親から、列席者への礼。


 新郎新婦の挨拶。


 その後に、今日の婚礼を支えた担当者を紹介する。


 契約のときに決め、両家へ渡した進行表にも載せた順番だった。


 私は広間の脇で、片づけに入る給仕の時刻を確かめた。


 もう、ここまで来た。


 あとは無事に皆様をお送りし、残金を受け取り、預かった鍵を返す。


 進行役が、手元の紙を一枚めくった。


 そのとき、ヴィクトル様が彼を手で制した。


「少し、その前に」


 私は顔を上げた。


 ヴィクトル様は席から立ち、こちらを見た。


「リネアにも、私から一言」


 進行役の視線が、私へ動いた。


 私は、閉じかけていた帳面を持ち直した。

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