第10話 誰の手柄でもない一日
婚礼の朝、雨は細い糸のように降っていた。
会館へ着いたのは、まだ門の灯りが消える前だった。
玄関の敷物は、すでに新しいものへ替えられている。傘を預かる台の下には、水を受ける浅い盆が置かれていた。
私は靴底の泥を落とし、帳面を開いた。
厨房。
花。
楽団。
控室。
客席。
一つずつ確認して、印をつける。
「おはようございます」
廊下の奥から、エドガー様が歩いてきた。
濃い色の上着に、今日は同じ色の釦がそろっていた。
私の視線に気づいたのか、彼は袖口を見た。
「間に合わせました」
「よかったです」
笑ってから、私は帳面へ目を戻した。
「荷受けは、予定どおりですか」
「はい。最後の花も届きました。楽団は、これから音を確かめます」
「では、控室から拝見します」
「私はこちらを」
別々の廊下へ向かう。
角を曲がる前に振り返ると、彼もこちらを見ていた。
小さく頷いて、それぞれの仕事へ戻った。
*
花嫁の控室には、薄い湯気の立つお茶が用意されていた。
窓際に衣装を掛ける場所を確保し、長椅子には白い布をかけてある。髪を整える鏡の前には、余計な飾りを置かなかった。
侍女が二人で動ける幅を確かめていると、マルタさんが衣装箱を抱えて入ってきた。
「おはよう。早いね」
「マルタさんも」
「花嫁が来る前に、全部広げておきたいから」
箱を置くのを手伝おうとすると、彼女は顎で私の帳面を示した。
「あんたは、そっち」
私は手を引っ込めた。
「何かございましたら、お呼びください」
「そうするよ」
扉を閉める前に、彼女が声をかけた。
「朝は食べた?」
「はい」
「なら、よし」
それだけで、少し背筋が伸びた。
*
最初の馬車が着く頃には、雨が強くなっていた。
玄関に立つ者が客を迎え、別の者が傘を預かる。濡れた裾を整えるための椅子も、扉のすぐ内側へ置いた。
ベイラム夫人は、ご主人の腕につかまって入ってこられた。
「あら、ここで一息つけるのね」
「よろしければ、お座りください」
私が案内すると、夫人は椅子へ腰を下ろした。
急いで立ち上がろうとなさらないのを見て、ほっとする。
「ほかの方の邪魔にならないかしら」
「お通りいただく場所は、空けてあります」
夫人は周囲を見て、頷いた。
少し休まれてから、広間へご案内した。
肘掛けのある椅子へ座った夫人は、窓の外を眺めた。
「雨の庭も、綺麗ですわね」
「はい」
「今日は、慌てなくて済みそう」
私は礼をして、次の客を迎えに戻った。
*
予定より早く、広間の半分ほどが埋まった。
控室から侍女が出てきたのは、その頃だった。
「フェルド様。花嫁様がお呼びです」
時計を見る。
儀式まで、まだ二十分ある。
玄関を支配人へ任せ、控室へ向かった。
クララ様は、鏡の前に立っていた。
胸元から裾へ続く刺繍は細く、動くと光を拾う。大きな飾りを減らした分、彼女の表情がよく見えた。
「お綺麗です」
私が言うと、クララ様は息を吐くように笑った。
「ありがとうございます。祖母は、もう?」
「先ほどお着きになりました。お席で、お父様とお話しされています」
「そうですか」
彼女は鏡から目を離した。
「少しだけ、会ってもいいでしょうか」
私は時計を確かめた。
玄関を通らずに、広間の脇へ出られる。戻って衣装を整える時間も取れる。
「五分ほどでしたら。皆様のお席からは見えない、小広間へお越しいただきましょうか」
「お願いします」
家族の者に声をかけ、祖母を小広間へお連れしてもらう。
クララ様は侍女と一緒に、ゆっくり廊下を進んだ。
小広間の扉が開くと、椅子に座っていた老婦人が顔を上げた。
「あら」
その一言の後、しばらく何もおっしゃらなかった。
クララ様がそばへ屈む。
老婦人は、刺繍に触れないよう気をつけながら、孫娘の手を取った。
「よく顔を見せておくれ」
クララ様が少し顔を上げた。
私は扉のそばへ下がった。
帳面を開く必要のない、五分間だった。
*
儀式は、予定の時刻に始まった。
楽団が最初の音を出す。
入口の扉が開き、クララ様が父親と並んで立った。
私は扉の陰から、裾が椅子に触れないことを確かめた。
一歩。
もう一歩。
中央の通路を、二人が進む。
誰も椅子を引き直す必要はなかった。
肘掛けのある席から、祖母が顔を上げている。ベイラム夫人も、ご主人と並んで花嫁を見ていた。
窓辺では、ヴィクトル様が待っていた。
白い花の前に立つ姿を見て、胸が小さく痛んだ。
あの隣に立つ日を、私も考えた。
どんな顔をすればよいのか。
誓いの言葉を、間違えずに言えるだろうか。
今、私は扉のそばにいる。
クララ様の裾が、最後まで綺麗に流れるのを見ている。
ヴィクトル様が手を差し出し、彼女がそれを取った。
私は静かに扉を閉じた。
廊下の向こうに、エドガー様がいた。
声はかけず、こちらを見る。
私は一度だけ頷いた。
大丈夫だった。
そう伝えたかった。
*
儀式の間に、客が一人、遅れて到着した。
馬車が道で立ち往生したらしく、外套の肩が濡れていた。
「今から入れますか」
焦った声だった。
広間の中では、誓いの言葉が始まっている。
私は入口の取っ手へ手を置かず、客へ向き直った。
「今はお声が響いてしまいますので、こちらで少しお待ちください。拍手のときに、ご案内いたします」
客は広間の扉を見て、それから頷いた。
椅子へ座ってもらい、外套を預かる。
支配人に席の場所を確かめてもらい、私は扉の脇で耳を澄ませた。
誓いが終わる。
拍手が起こった。
私は扉を少し開け、後方の席へ案内した。
広間の視線は、新郎新婦へ向いたままだった。
*
食事が始まると、厨房との往復が増えた。
最初の皿は予定どおり。
次の温かい料理が出る前に、給仕長が私を呼び止めた。
「花嫁様のお祖母様ですが、少しお休みになりたいそうです」
「小広間へ。お食事は、急がずにお願いできますか」
「温かいものは、お戻りになってからお出しします」
私は頷いた。
祖母は、孫娘に心配をかけたくないとおっしゃった。
「少し座り直すだけなのに、席を外したら大ごとになるかしら」
「ご歓談の時間ですから、皆様も動いていらっしゃいます。お隣の部屋で、お茶を召し上がるだけで結構です」
親族の女性に付き添っていただき、小広間へ移る。
その様子に気づいたクララ様が、私を見た。
私は近くへ寄り、小さな声で説明した。
「少しお休みです。お食事は、お戻りになってからお出しします」
クララ様は祖母の席を見て、それから頷いた。
「ありがとうございます」
誰かが慌てて走ることも、広間の会話が止まることもなかった。
私は給仕長へ合図を送り、次の進行を確かめた。
*
半ばを過ぎた頃、ようやく給仕室の隅で水を飲めた。
立ったまま杯を持っていると、エドガー様が入ってきた。
「少し、座れますか」
「次の挨拶までなら」
「支配人が見ています。変わりがあれば、すぐに呼びます」
私は椅子へ座った。
腰を下ろした途端、足の疲れが分かった。
エドガー様は、小さな皿を机に置いた。
パンと、一口大に切った肉が載っている。
「給仕長からです」
「ありがとうございます」
受け取って、一口食べる。
飲み込むまで、彼は話しかけなかった。
「ここまでは、予定どおりですね」
「はい。お祖母様も、お戻りになれそうです」
「料理は、温め直す準備をしているそうです」
私は頷いた。
窓の外で、雨が細くなっていた。
ここからでは、庭はほとんど見えない。
けれど今朝のクララ様は、空を一度も気にしていなかった。
「屋内に決めて、よかったですね」
「ええ」
エドガー様も窓を見た。
「今日は、天気の機嫌を取らずに済みました」
私は笑った。
杯を置き、帳面を取る。
「戻ります」
彼は止めず、扉を開けた。
*
花嫁の祖母が席へ戻った後、クララ様は一度、そばへ寄った。
二人で何か話している。
祖母が笑い、クララ様も笑った。
窓のそばでは、ヴィクトル様が客に囲まれていた。
私はその間を通り、楽団へ最後の曲の時間を伝えた。
「よい式ですね」
戻りかけたところで、男性客に呼び止められた。
伯爵家の親族だった。
「雨でどうなることかと思いましたが、かえって落ち着いて話せる」
「ありがとうございます」
「ヴィクトルも、なかなか考えたものだ」
私は一瞬、言葉を止めた。
以前なら、そのまま頷いていた。
今回も、式の最中に話を広げるつもりはなかった。
けれど、聞こえていたらしいクララ様が、こちらへ顔を向けた。
「屋内の案は、リネア様と会館の皆様が考えてくださいましたの」
男性客が私を見る。
「こちらの方が?」
「はい。私は、祖母とゆっくり過ごしたいとお願いしただけでした」
クララ様は私へ微笑んだ。
私は礼をした。
「皆様にご相談しながら、準備いたしました」
「そうでしたか。なるほど」
男性客は広間を見回し、もう一度頷いた。
私はその場を離れた。
足取りが軽くなった、というほどではない。
まだ仕事は残っている。
ただ、胸の中に、小さく温かいものが残った。
*
最後の曲が終わる頃には、雨がやんでいた。
窓に残った雫へ、薄い光が差している。
進行役が立つ。
新郎の父親から、列席者への礼。
新郎新婦の挨拶。
その後に、今日の婚礼を支えた担当者を紹介する。
契約のときに決め、両家へ渡した進行表にも載せた順番だった。
私は広間の脇で、片づけに入る給仕の時刻を確かめた。
もう、ここまで来た。
あとは無事に皆様をお送りし、残金を受け取り、預かった鍵を返す。
進行役が、手元の紙を一枚めくった。
そのとき、ヴィクトル様が彼を手で制した。
「少し、その前に」
私は顔を上げた。
ヴィクトル様は席から立ち、こちらを見た。
「リネアにも、私から一言」
進行役の視線が、私へ動いた。
私は、閉じかけていた帳面を持ち直した。




