第11話 契約は、ここまでです
ヴィクトル様は、杯を持たずに立っていた。
「今日の式を無事に終えられたのも、長く我が家を支えてくれたリネアのおかげです」
客の視線が、私へ向く。
私は広間の脇で、軽く頭を下げた。
「彼女は、我が家のことなら誰よりよく分かっている。これからも家族同然の存在として、私たちを――」
「あなた」
クララ様が、静かに呼んだ。
ヴィクトル様は隣を見た。
彼女は席に座ったまま、進行表へ手を添えていた。
「お礼は、私からも申し上げたいです」
一瞬の間の後、ヴィクトル様が頷く。
クララ様は立ち上がった。
「リネア・フェルド様には、今回、婚礼の手配と進行を正式にお願いしました」
私の名前が、広間に響いた。
「祖母と一緒に過ごせる式にしたいという希望を聞いてくださって、会場の皆様と何度も準備をしてくださいました。おかげで、今日は落ち着いて、この日を迎えることができました」
祖母が座る席へ、彼女の視線が向く。
老婦人は、ゆっくり頷いた。
「本当に、ありがとうございました」
私はもう一度、頭を下げた。
拍手が起こった。
遠くの席から始まり、広間全体へ広がっていく。
帳面を持った指が、少し強張った。
顔を上げると、ベイラム夫人がこちらを見ていた。ご主人と並んで、手を叩いてくださっている。
私は息を吸い、吐いた。
進行役が、予定の紙へ目を戻した。
「それでは改めまして、本日の婚礼を担当いたしました皆様をご紹介いたします」
私の名前の後に、会館、料理長、花屋、楽団、衣装を仕立てた工房の名が続いた。
マルタさんが、広間の後ろで小さく頭を下げる。
給仕長は扉のそばに立ち、厨房へ向かって何か合図を送った。料理長にも、拍手が聞こえているとよいと思った。
エドガー様は会館主として一礼し、そのまま私のほうを見た。
彼は、何も言わなかった。
私も、頷くだけにした。
まだ、お客様をお送りする仕事が残っていた。
*
玄関は、帰りの馬車を待つ人で賑わった。
雨はやんでいたが、石畳は濡れている。階段の脇に人を立て、足元を見ながら乗っていただいた。
ベイラム夫人の馬車が来るまで、少し時間があった。
椅子へ案内すると、夫人が私の手を取った。
「お疲れさまでした」
「お楽しみいただけましたか」
「ええ。途中で疲れてしまうことばかり心配していたけれど、今日は、気づいたら最後までおりました」
ご主人が隣で頷く。
「私たちの祝いも、楽しみにしていますよ」
「ありがとうございます」
そこへ、広間で私に声をかけた男性客が近づいてきた。
「フェルドさん、とおっしゃいましたね」
「はい」
「来月、母の誕生日に親族を集めたいのですが。こういった会も、お願いできますか」
私はすぐに頷きかけて、予定表を思い出した。
ベイラム夫人のお祝いがある。
日程と規模を聞かなければ、お受けできるかは分からない。
「まず、ご希望を伺えればと思います。後日、ご相談のお時間をいただけますか」
「もちろんです」
差し出された名刺を受け取った。
さらに、別の女性からも声がかかった。
娘の成人を祝う席について、相談したいという。
私は連絡先を伺い、自分の住所と名前を書いた小さな紙を渡した。
何枚か持ってきておいてよかった。
父に、必要になるかもしれないと言われたときは、用意しすぎではないかと思っていたのに。
最後の馬車が門を出たとき、手元に残っていた紙は二枚だった。
*
広間へ戻ると、片づけが始まっていた。
花を運ぶ者。
食器を数える者。
椅子を壁際へ寄せる者。
私は貸し出し品の一覧を開き、給仕長と数を確かめた。
預かった品に不足はない。
忘れ物は、手袋が一組と、刺繍の入ったハンカチ。席の場所を控え、後日確認することにした。
伯爵家の執事が声をかけてきたのは、その確認を終えたところだった。
「フェルド様。ご精算を」
「お願いいたします」
小広間の机に、用意した書類を広げる。
契約時に四割。
準備完了時に四割。
今日、残りの二割。
受け取った金額を確かめ、受領書へ署名した。
契約に含まれる手配は、すべて完了している。業者から後日届く請求書については、送付先と確認方法を一覧にして渡した。
「不足がございましたら、書面でご連絡ください。契約の範囲で確認いたします」
「承知いたしました」
執事は書類を丁寧に重ねた。
それから、少し声を落とした。
「これまで、ありがとうございました」
私は顔を上げた。
「何度も、助けていただきました。こちらからお願いするばかりで」
彼の目は、机の上の一覧へ向いていた。
伯爵家で働いていた三年間、困ったことがあれば最初に相談する相手だった。
彼も忙しく、私も忙しかった。
互いに、何とか間に合わせようとしてきた。
「私も、お世話になりました」
私は鞄から、小さな鍵を二本出した。
書類を保管していた棚の鍵と、業者の出入りに使う伯爵家の脇門の鍵。
どちらも、預かったままだった。
執事の前へ置く。
机に触れた金属が、小さく鳴った。
「こちらも、お返しいたします」
彼は一度だけ、私を見た。
それから両手で鍵を受け取った。
「確かに、お預かりしました」
*
小広間を出たところに、ヴィクトル様がいた。
花婿の飾りを外した上着で、壁際に立っている。
「終わったのか」
「はい。精算も、鍵の返却も済みました」
「そうか」
彼は扉の向こうを見た。
執事が書類を片づけている。
「少し、頼みたいことがある」
私は足を止めた。
「何でしょうか」
「クララの祖母のところへ、明日、今日の花を届けたい。あれだけ喜んでいたからね。花屋へ連絡して、見栄えよくまとめてもらえないか」
広間の花を、思い浮かべた。
持ち帰る分と、会館に残す分は、すでに決めてある。追加で届けるなら、花屋へ相談する必要があった。
「花屋の連絡先は、お渡しした一覧にございます」
「君から言ったほうが早いだろう」
「本日の取り分けまでは、手配しております。それ以降の配送は、直接ご相談ください」
ヴィクトル様は眉を寄せた。
「花を届けるだけだよ」
「はい。ですから、ご希望の時間とお届け先をお伝えいただければ」
「本当に、もう何もしないつもりなんだな」
私は彼を見た。
怒っているというより、まだ納得していない顔だった。
今日一日、私は彼とクララ様のために働いた。
式を成功させるため、何度も廊下を歩いた。
その姿を見て、何かが元に戻ったと思ったのかもしれない。
「今日のお仕事は、終わりました」
私は言った。
「お約束したことは、務めたつもりです」
「それは……よい式だったと思っている」
「ありがとうございます」
返事をすると、彼は黙った。
その後に、私から何か言うのを待っていた。
また何かあれば。
いつでもお声を。
これまでどおりに。
私は何も付け加えなかった。
廊下の向こうから、クララ様が歩いてきた。
着替えを済ませ、侍女が外套を持っている。
「お祖母様への花のこと?」
ヴィクトル様が頷いた。
クララ様は、私が抱えている書類へ目を向けた。
「リネア様から、一覧をいただいているわ。帰りの馬車で、届ける時間を決めましょう」
「だが」
「私が祖母に、都合を聞きます」
ヴィクトル様は口を閉じた。
クララ様が、私へ向き直る。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。どうぞ、お気をつけてお帰りください」
彼女は少し迷ってから、手を差し出した。
私は帳面を片手へ持ち替え、その手を取った。
「祖母が、私の顔を最後まで見られたと喜んでいました」
「それは、よかったです」
「ええ。本当に」
手を離す。
クララ様はヴィクトル様の隣へ戻った。
二人が玄関へ向かうのを見送り、私は反対側の廊下へ歩いた。
*
会館を出る頃には、空に夕暮れの色が残っていた。
広間の灯りが、一つずつ消えていく。
玄関で鞄を持ち直したとき、エドガー様が出てきた。
「お疲れさまでした」
「エドガー様も」
「馬車を呼びましょうか」
私は少し考えた。
「通りまで、歩いてもよろしいでしょうか」
「ええ。お送りします」
門を出ると、空気がひんやりしていた。
濡れた石畳が、店の灯りを映している。
二人で並んで歩いた。
何か話さなければとは、思わなかった。
今日は十分に、たくさんのことを話した。
料理の時刻も、客の席も、馬車の順番も。
今は、歩く音だけでよかった。
橋の手前で、私は足を止めた。
「鍵を、返してきました」
エドガー様がこちらを見た。
「伯爵家の?」
「はい」
私は鞄の留め金へ指を添えた。
いつも小さな内袋に入れていた。
なくさないよう、何度も確かめた。
今は、そこにない。
「何か忘れたような気がしてしまいます」
「三年間、お持ちだったのですから」
「そうですね」
私は笑った。
少しだけ、目が熱くなった。
彼は手を伸ばしかけて、止めた。
私はその手を見てから、自分の手を重ねた。
温かかった。
エドガー様が、ゆっくり握り返した。
しばらく、そのままでいた。
泣いてしまうかと思った。
けれど、涙は落ちなかった。
代わりに、深く息ができた。
「明日のことですが」
私が言うと、彼が顔を向けた。
「お店を、決めました」
「どちらですか」
「橋を渡った先の、焼き菓子のお店です。窓際に二人で座れる席があるそうです」
「楽しみです」
「二時で、よろしいでしょうか」
「はい」
私は頷いた。
明日は、席順の表も、進行の帳面もいらない。
手配するのは、私たち二人の席だけだった。




