第12話 何も頼まれない休日
婚礼の翌朝、いつもと同じ時刻に目が覚めた。
窓の外は、まだ薄暗かった。
起きなければ。
そう思って身体を起こし、今日は会館へ行かなくてよいのだと気づいた。
花の確認も、客の人数の変更もない。
机の上には、昨夜持ち帰った帳面が置いてある。閉じた表紙から、短い留め紐が出ていた。
私は寝台へ座り直した。
もう少し眠ってもいい。
けれど、眠りたくはなかった。
今日は、二時に約束がある。
*
朝食の席で、父が私を見た。
「疲れは取れたか」
「足が、少し」
「今日は休むんだろう?」
「午後に、お茶へ行きます」
「仕事か」
私は首を振った。
「違います」
父はパンへ手を伸ばし、その途中で少し笑った。
「そうか」
誰と、とも、どこへ、とも聞かなかった。
私は紅茶を一口飲んだ。
こちらから話したくなった。
「ルース会館の、エドガー様と」
「うん」
「お仕事では、とてもお世話になっていて」
「仕事ではないんだろう?」
顔が熱くなった。
父は、何も知らないような顔でパンを食べている。
私はカップを置いた。
「……はい」
「なら、仕事の説明はしなくていい」
それから父は、自分の皿を少しこちらへ寄せた。
「出かける前に、菓子を食べすぎないようにな」
皿には、昨日の残りの胡桃の焼き菓子があった。
私は笑って、一つだけ取った。
*
服を選ぶのに、いつもより時間がかかった。
会場を歩き回りやすいもの。
汚れの目立たないもの。
書類を持っていても袖が邪魔にならないもの。
そう考えて、手を止めた。
今日は、椅子を運ばない。
帳面も持っていかない。
箪笥の奥から、淡い灰青色のドレスを出した。最後に着たのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。
袖を通し、鏡を見る。
少し地味だろうか。
そう思ってから、自分がこの色を好きで選んだことを思い出した。
髪を整え、帽子をかぶる。
リボンは、一度で結べた。
鞄へ財布とハンカチを入れる。
机の帳面に手を伸ばしかけ、やめた。
小さな鞄は、驚くほど軽かった。
*
店には、エドガー様が先に着いていた。
私を見ると、席を立った。
「お待たせしました」
「いえ。私が早く来ました」
向かいへ座ると、彼が少しだけ私を見た。
何かおかしいだろうか。
帽子へ手をやりかけたところで、彼が口を開いた。
「その色、よくお似合いです」
「ありがとうございます」
言ってから、視線を落とした。
注文を取りに来た女性に助けられるように、献立を開く。
林檎の焼き菓子。
胡桃のタルト。
蜂蜜を添えた白いチーズ。
「今日は、どれになさいますか」
エドガー様が尋ねた。
「胡桃のタルトにします」
「林檎ではなく?」
「はい。今朝、父の焼き菓子を食べたら、もう少し胡桃が食べたくなって」
彼が笑った。
「私はチーズにします」
注文を終えると、いつものように仕事の話を探しそうになった。
昨日の忘れ物。
請求書。
次の祝いの準備。
どれも、明日で間に合う。
私は窓の外を見た。
橋の上を、親子が歩いていた。子どもが水たまりを避けようとして、大きく跳んでいる。
「よい席ですね」
「雨の日も、ここなら外を見ていられると思って」
「今日は晴れましたね」
「はい」
そこで会話が途切れた。
けれど、以前の夕食のようには困らなかった。
彼も窓の外を見ている。
同じものを眺めている時間が、あってもよいのだと思った。
お茶が運ばれてきた。
店の女性が離れてから、私はカップへ手を添えた。
「先日のお返事を、したいです」
エドガー様が、こちらを向いた。
「はい」
喉が乾いた。
けれど、お茶を飲んで先延ばしにはしたくなかった。
「私、あなたとお話しするのが好きです」
彼は黙って聞いていた。
「仕事で困ったときに、相談できることも。でも、それだけではなくて」
窓の低さや、屋根の修理のこと。
太った鳥の絵皿。
菓子の端を覚えていてくれた朝。
思い出すと嬉しくなることが、いくつもあった。
「次にお会いしたら何を話そうか、帰り道に考えるようになりました」
私は顔を上げた。
「専属のお話をお断りしたとき、仕事を失うことより、お茶の約束がなくなることが怖かったんです」
エドガー様の表情が、少しだけ動いた。
「今は、はっきり分かります」
私は膝の上の手をほどいた。
「あなたが好きです」
言えた。
胸がいっぱいになったが、まだ伝えたいことがあった。
「私と、お付き合いしていただけますか」
エドガー様は、すぐには答えなかった。
その間に、心臓が一度、大きく鳴った。
彼は息を吐き、少し笑った。
「はい。喜んで」
私は肩の力を抜いた。
彼が卓の上へ手を差し出す。
私は、その手を取った。
「私から、もう一度申し込むつもりでした」
「遅くなってしまいましたか」
「いいえ」
彼は首を振った。
「待っていて、よかった」
その言葉を聞いて、ようやく笑えた。
*
「一つ、お願いがあります」
菓子が運ばれてくる前に、私が言うと、エドガー様は真面目な顔になった。
「何でしょう」
「これからも、仕事をお断りすることがあると思います」
「はい」
「そのとき、今日のお返事まで変わったと思わないでいただきたいんです」
彼は一度目を伏せ、頷いた。
「私にも、同じお願いをさせてください」
「同じ?」
「会館の都合で、あなたの提案を受けられない日もあると思います。費用や日程のことで、意見が違うことも」
私は頷いた。
「それでも、夕食にはお誘いしてよいでしょうか」
思わず笑った。
「もちろんです」
「では、そのように」
大げさな約束にはならなかった。
これから先、いつも上手にできるとは限らない。
それでも、分からなくなったら尋ねられる。
今日のように、返事を待ってもらえる。
それが嬉しかった。
菓子が届くと、私は胡桃のタルトへ匙を入れた。
縁が少し固くて、うまく割れない。
エドガー様が見ていたので、先に言った。
「ここが好きなので」
「存じています」
二人で笑った。
*
ベイラム夫人のお祝いは、その二週間後に開かれた。
十八人の小さな会だった。
ご主人が思い出せなかった曲は、楽団の一人が知っていた。弦楽器二つでも演奏できるように整えてくれて、食事の後、窓際で奏でてもらった。
夫人は踊らなかった。
ご主人も、踊ろうとは言わなかった。
ただ隣に座り、曲が終わるまで手をつないでいた。
私は扉のそばで、それを見ていた。
帰り際、夫人から次の仕事を紹介された。
今度は、友人の家で開く小さな食事会だった。
会館は使わない。
それでもエドガー様は、後日その話を聞いて、よかったですねと言った。
*
季節が一つ進む頃、私は小さな部屋を借りた。
マルタさんの工房から、二軒先にある建物の二階だった。
机を一つ置くと、残りの場所はあまりなかった。
来客用の椅子を二脚と、書類棚。
壁には予定表。
扉の札には、リネア・フェルド、式典手配、と書いた。
大きな文字ではない。
けれど、廊下を通る人には読める。
毎日、依頼が来るわけではなかった。
見積もりを出して断られることもある。希望された日が重なり、こちらからお断りすることもあった。
空いている日は、帳簿をつけたり、会場を見に行ったり、業者へ挨拶に回った。
ルース会館とは、一件ごとに相談する形で仕事を続けている。
意見が合わない日も、あった。
先日は、私が提案した装花を、予算の都合で減らすことになった。
少し悔しかった。
その晩の夕食で、エドガー様は花の話を蒸し返さず、雨漏りを直した職人が今度は自宅の屋根で困っているという話をした。
私は笑った。
翌朝には、別の花の組み合わせを考えられた。
*
クララ様からは、一度、手紙が届いた。
祖母へ届けた花が喜ばれたこと。
結婚後の暮らしについて、まだ話し合うことが多いこと。
春には、祖母の家へ数日滞在する予定であること。
最後に、婚礼の日の礼が、もう一度書かれていた。
私は返事を書いた。
お祖母様によろしくお伝えください、と。
それ以上、二人の暮らしについて尋ねることはしなかった。
伯爵家からの仕事の連絡は、執事を通して届くようになった。
日程が合わず、まだ引き受けたものはない。
ヴィクトル様から、私用の手紙が来ることはなくなった。
*
その日は、久しぶりに予定のない休日だった。
事務所へ寄ったのは、窓辺の鉢に水をやるためだけだった。
机の上に、依頼の手紙が一通置かれている。
前日の夕方に届いたものらしい。
封を切ろうとして、差出人と日付だけ確かめた。
急ぎの印はない。
私は、未処理の書類を入れる箱へ置いた。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
エドガー様が顔を出した。
上着の袖口に、今日は少し糸が出ている。
私はそこを見て、笑った。
「今度は、何ですか」
彼が袖を見る。
「椅子の修理を手伝ったときでしょうか」
「針仕事も、少し覚えられては?」
「教えていただけますか」
「私でよければ。でも、今日は駄目です」
「ええ。今日は、出かける日です」
彼は窓辺の鉢を見た。
「もう、お済みですか」
「はい」
私は水差しを置いた。
鞄を取り、帳面は棚へ戻す。
机の上の手紙が、一度だけ気になった。
明日、読む。
そう決めて、扉へ向かった。
「どちらへ行きましょう」
エドガー様が尋ねた。
「川沿いを、歩きたいです」
「分かりました」
「途中で、気になるお店があったら入っても?」
「もちろん」
事務所の鍵をかけた。
今、私の鍵束にあるのは、自宅と、この部屋の鍵だけだった。
小さな音を立てて、鞄へ収まる。
階段を下りると、彼が手を差し出した。
私はその手を取った。
今日は、何も頼まれていない。
私も、何かできることを探さなかった。
通りの先で、並木が色づき始めていた。
「あちらへ行ってみませんか」
私が言うと、彼が頷いた。
二人で、そちらへ歩きだした。
(完)




