第8話 専属にはなれません
机の上には、よく考えられた条件が並んでいた。
月々の報酬。
担当する催事の数。
休みの日。
夜間の催事が続いた場合の、翌日の勤務について。
伯爵家で見せられた紙とは違った。
仕事の範囲も、私が受け持たなくてよいことも、書かれている。
「急なお話ですから、今すぐお返事をいただきたいわけではありません」
エドガー様が言った。
「お持ち帰りになって、ご検討ください」
「……ありがとうございます」
私は紙に目を落とした。
会館の専属になれば、毎月、決まった額が入る。
打ち合わせの場所も、書類を置く部屋もできる。自宅の応接室を使うたびに、父へ予定を伝える必要もなくなる。
何より、ここで働くのは楽しかった。
エドガー様と図面を広げて、椅子を動かし、客の顔を思い浮かべながら相談する時間が好きだった。
「ほかの会場での依頼を受ける場合は、ご相談する形でしょうか」
「ええ。こちらの予約に支障がなければ。ただ、できるだけ会館へご案内いただけると助かります」
「ご自宅でのお祝いを望まれる方でも?」
「もちろん、ご希望は伺います。ですが、私どもとしては会館の利用につながる提案をしていただきたい」
私は頷いた。
会館が私へ報酬を払う。
その代わり、私は会館のために働く。
おかしな話ではなかった。
彼は、困っていることを説明し、必要な仕事を頼んでいる。
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろんです」
差し出された封筒へ、書類を入れた。
紙の角が引っかかり、うまく収まらなかった。
エドガー様は手を出さず、私が入れ直すのを待ってくれた。
*
帰宅してから、父にも見てもらった。
「悪い条件ではないな」
父は一通り読んで言った。
「はい」
「自分の場所ができるのも、ありがたいだろう」
「はい」
父は私の顔を見た。
「気が進まないのか」
すぐには答えられなかった。
進まないわけではない。
むしろ、頷いてしまいたかった。
「お受けしたら、安心できると思います」
「そうだろうな」
「お仕事も、好きです。会館の皆様も親切で」
「うん」
父はそれ以上、先を促さなかった。
私は書類の端を指で押さえた。
「でも、ベイラム夫人がご自宅でのお祝いを望まれていたら、私はそちらで考えたかったんです」
候補に挙げたもう一つの会場は、小さな料理店だった。
会館ほど庭は美しくないが、客の移動が少なくて済む。その料理店のほうがよいと夫人がおっしゃったら、私はそちらを手配するつもりだった。
「会館へお客様をお連れすることより、どこでならその方が楽しめるかを、先に考えたいのだと思います」
父が書類を机へ置いた。
「ならば、それを伝えるしかないな」
私は頷いた。
答えは、もう分かっていた。
怖いのは、その後だった。
*
翌朝、返事の手紙を書き始めた。
ご厚意に感謝いたします。
好条件をご提示いただき、大変ありがたく――。
そこから先が、続かなかった。
書いては消し、別の紙を出す。
専属という形では、お引き受けできません。
その一文を書いたとき、胸が苦しくなった。
仕事を断ったら、次のお茶の約束はどうなるのだろう。
自分で誘っておきながら、まだ日を決めていない。
彼が夕食に誘ってくれたのは、私と長く仕事をしたいと考えていたからではないか。
あの席での会話も、私が好きだと言った菓子も、採用を考える相手への気遣いだったとしたら。
私はペンを置いた。
勝手に考えても、答えは出ない。
会館へ、話をする時間をいただきたいとだけ書いた。
*
約束の日、応接室には、私が持ち帰ったものと同じ契約案が用意されていた。
エドガー様は私が座ると、静かに尋ねた。
「ご検討いただけましたか」
「はい」
私は封筒を机へ置いた。
「条件を詳しく考えてくださって、ありがとうございます。ただ、専属のお話は、お受けできません」
彼の表情が止まった。
すぐに頷いてくれるとは思っていなかった。
それでも、胸が痛んだ。
「差し支えなければ、理由を伺っても?」
「会館以外の場所でも、仕事をしていきたいからです」
「外部の依頼を、すべてお断りいただくつもりではありません」
「はい。ですが、こちらのご予約を先に考えることになりますよね」
「それは、そうですね」
エドガー様は、契約案へ目を落とした。
「私としては、先の催事まで責任を持ってお願いできる方が必要なんです。依頼を受けるたびに担当者を探すのでは、会館としても予定を立てにくい」
「分かります」
「会場の事情を知っている方に継続して入っていただければ、準備も確実になります。今回の婚礼で、それを強く感じました」
評価してくださっている。
それは、分かった。
だからこそ、曖昧に頷きたくなかった。
「私も、こちらのお仕事は続けたいです」
私は言った。
「でも、会館の利用が、そのお客様に合わないこともあると思います。そのときに、ほかの場所を勧めるため、許可をいただく立場にはなりたくありません」
エドガー様は何も言わなかった。
私は膝の上の手をほどいた。
「まだ仕事が少ないのに、贅沢なことを申し上げているのかもしれません」
「贅沢かどうかで、決める話ではありません」
彼の返事は、思っていたより早かった。
驚いて顔を上げる。
エドガー様は椅子へ座り直した。
「あなたには、あなたの仕事の方針がある。そこが、私の考えていた形とは違ったということですね」
「……はい」
「ただ、私も今ここで、専属でなくてよいとは申し上げられません。ほかの形で必要な人手を確保できるか、考えなければ」
「承知しております」
話が終わりに近づいている。
そう思うと、喉が乾いた。
「お役に立てず、申し訳ありません」
エドガー様が顔を上げた。
「今回の提案を断られただけです。今お願いしている仕事まで、変わるわけではありません」
私は頷いた。
「婚礼と、ベイラム夫人のお祝いは、予定どおりに」
「はい」
彼は契約案を重ね、封筒へ戻した。
紙の擦れる音を聞きながら、私は待った。
次のお茶のことを、彼から話してくれないだろうか。
そんな期待をしている自分が、少し情けなかった。
「では、給仕長を呼びましょうか。雨天時の進行について、今日、確認できるところまで」
「お願いいたします」
私は帳面を開いた。
*
その日の打ち合わせに、不都合はなかった。
給仕長は厨房側の事情を説明し、私は客の移動について確認した。
庭で儀式を始めた後に雨が降った場合は、先に食事の配膳を止める。広間への通路を空け、歩行に時間のかかる客から案内する。
ただし、全員が一斉に立ち上がらないよう、誰がどこで声をかけるかを決める必要があった。
「私が東屋の前に立ちます」
私が言うと、エドガー様は図面を見た。
「では、私は通路の入口へ。広間に入った人数を確認して、給仕長へ伝えます」
「お願いいたします」
いつもと同じだった。
私の話を遮ることも、必要以上に距離を置くこともない。
それでも、私は彼の返事の間を気にしていた。
前より短くなっただろうか。
こちらを見なくなっただろうか。
そんなことを考えていて、給仕長の質問を一度聞き返してしまった。
「失礼いたしました。控室からお連れする順番ですね」
帳面へ目を戻す。
今は、こちらへ集中しなければならない。
打ち合わせが終わる頃には、疲れていた。
椅子を運んだ日よりも、ずっと。
*
玄関で帽子を受け取ると、庭へ続く扉が開いた。
年配の庭師が顔を出す。
「旦那様、少しよろしいでしょうか」
「どうしました」
「週の後半、かなり降るかもしれません。今朝の観測所の知らせが来まして」
婚礼は、八日後だった。
エドガー様が受け取った紙を、私にも見せてくれる。
数日間、雨が続く見込み。
婚礼当日については、まだ分からない。
「前日までにやんでも、芝生が乾くとは限りませんね」
私が言うと、庭師が頷いた。
「椅子の脚が沈むでしょう。敷物を載せれば、かえって滑ります」
庭を見る。
今日は、よく晴れていた。
白い東屋の前を、風が通っている。
クララ様が気に入った景色だった。
「途中で降りだしたときの手順だけでは、足りません」
私は帳面を出し直した。
「初めから屋内で儀式をする場合も、形にしておいたほうがよさそうです」
「明日、広間を空けます」
エドガー様が言った。
「家具を動かせる者も、二人確保します。お越しいただけますか」
「はい。午前中に伺います」
彼は頷き、庭師と修繕の確認を始めた。
私は鞄の留め金を閉じた。
また明日。
会う理由はできた。
それが仕事だと分かって、安心した自分がいた。
*
翌日、私はいつもより少し早く家を出た。
道の途中に、あの夕食の店があった。
まだ開店前で、硝子の向こうは薄暗い。
壁の青い鳥の絵皿だけが見えた。
私は足を止めた。
ここで話したことは、よく覚えている。
屋根の修理。
会館の低い窓。
焼き菓子の、よく焼けた端。
仕事を受けると言わなくても、彼は笑っていた。
それでも、今の私には、次のお茶へ誘う勇気がなかった。
歩きだす。
会館へ着くと、エドガー様が玄関脇に立っていた。
私を見るなり、手にしていた紙袋を少し持ち上げる。
「おはようございます。始める前に、少しお時間をいただけますか」
「変更がございましたか」
「いえ」
彼は首を振った。
「仕事の話ではありません」
私は、返事を忘れた。




