第7話 選んでもらうのを、やめました
ベイラム夫人の応接室には、窓に向けて二脚の椅子が置かれていた。
一脚には夫人が、もう一脚には白い口髭のご主人が座っている。
「結婚して、四十年になりますの」
夫人はそう言って、隣を見た。
「よく飽きずに付き合ってくださったこと」
「それは、こちらの台詞だ」
ご主人は新聞を畳み、脇の机へ置いた。
そのやり取りを聞いてから、私は帳面を開いた。
「どのようなお祝いを、お考えでしょうか」
「家族と、古い友人を少し。十八人ほどになると思います。立派な夜会でなくていいの。皆の顔を見て、ゆっくり話せれば」
「会場のご希望はございますか」
「最初は、ここでと思ったのだけれど」
夫人は足元へ視線を落とした。
「家で開くと、つい動いてしまうでしょう。あちらの席が寒くないかとか、お茶が足りているかとか」
私は、分かりますと言いかけた。
隣のご主人が先に頷く。
「だから、任せられる方を探していたんです。妻にも座っていてほしくてね」
夫人が少し照れたように笑った。
私は帳面に、十八名、着席中心、と書いた。
「お料理の合間に、席を移れる時間を設けてもよさそうですね。皆様が一度に動かなくても、お話ししたい方のそばへ行けるように」
「あら、それはいいわ」
「音楽は、おつけになりますか」
「会話が聞こえなくならない程度なら」
ご主人が答えた。
「妻は昔から、あの――何という曲だったかな」
「名前を忘れた曲を、頼もうとなさらないで」
「聞けば分かるんだ」
夫人は呆れたように首を振ったが、その顔は嬉しそうだった。
私は笑いをこらえながら、帳面の端へ、思い出の曲、と書いた。
曲名は、後から調べればいい。
何を大切にしたいのかは、もう少し分かった。
「お日にちは、セルダ家の婚礼より後になりますでしょうか」
「その二週間後を考えています」
私は予定表を確かめた。
婚礼後の精算を終えてから、最終準備に取りかかれる。事前の相談を何度か分ければ、無理なく進められそうだった。
「それでしたら、お見積もりをお出しできます。会場の候補を二つほど調べて、ご提案いたします」
「お願いいたします」
夫人はすぐに頷いた。
私は念のため、続けた。
「会場費やお料理代とは別に、私への手配料を頂戴いたします」
「ええ。そのつもりです」
迷いのない返事だった。
「前の夜会で、あなたが何度も廊下を往復していらしたでしょう。私たちが座って楽しんでいる間も、ずっと」
私は顔を上げた。
「ああいうお仕事は、ただでお願いしていいものではありませんわ」
何と答えればよいか、一瞬分からなくなった。
夫人は茶器へ目を向け、私の返事を待っている。
私は背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。ご希望に合う形を、考えてまいります」
*
正式な依頼になったのは、その四日後だった。
二つの候補のうち、夫人が選んだのはルース庭園会館の小広間だった。
庭へ出なくても緑が見えることと、隣に休憩用の部屋を確保できることが決め手になった。
私は会館の利用料と自分の手配料を分けて説明し、契約書に署名をいただいた。
帰り道、鞄の留め金を三度も確かめた。
書類は、ちゃんと入っている。
それでも、何度も触ってしまった。
伯爵家とは関係のない、初めての依頼だった。
*
セルダ家の婚礼も、少しずつ形になっていた。
クララ様から、両家の話し合いが済み、予定どおり進めるという連絡があった。
人数は八十四名。
誓いの儀式は短くし、その後の食事に時間を取る。祖母の席は出入口に近い場所へ設けるが、隙間風が当たらないようにする。
確認した内容を書面にし、私は伯爵家へ届けに行った。
執事との打ち合わせを終え、玄関へ向かう途中だった。
「リネア」
廊下の先に、ヴィクトル様が立っていた。
「少し、話せるか」
「次の予定がございますので、長くは」
「すぐに済む」
通されたのは、小さな書斎だった。
何度も来たことがある部屋だ。
夜会の名簿を持ってきたり、支払いの承認をもらったり。彼が読んでいる本を閉じるまで、扉のそばで待っていたこともある。
今日は椅子を勧められた。
私は座らず、鞄を持ったまま尋ねた。
「婚礼について、変更がございますか」
「その話ではない」
ヴィクトル様は机の上の箱を取った。
細長い、薄緑色の箱だった。
「この前は、言い方が悪かった」
蓋を開けると、銀の細工がついた髪留めが入っていた。
小さな花の形をしている。
「君に似合うと思って」
私は髪留めを見た。
三年間、誕生日にもらったものは、伯爵家の名が入った筆記具と、冬の外出用の手袋だった。
どちらも役に立った。
今も使っている。
こんな飾りを、自分で選んでくださったことはなかった。
「お受け取りできません」
「謝罪の品だよ」
「お言葉だけで結構です」
ヴィクトル様は箱を閉じた。
乱暴ではなかったが、蓋の合わさる音が少し強かった。
「ベイラム夫人の祝いを引き受けたそうだね」
「はい」
「うちの夜会は断ったのに?」
「日程が異なりますので」
「それだけの理由か?」
「それだけです」
彼は私の顔を見た。
何か別の答えを探しているようだった。
「君が仕事を続けたいことは分かった。だから、こちらも考えたんだ」
机の引き出しから、一枚の紙を取り出す。
「伯爵家の催事担当として、定額の報酬を払おう。これなら、その都度見積もりを出す必要もない。君も安定するだろう」
私は紙を受け取らず、机の上で読んだ。
月々の報酬が記されている。
今まで無償でしていたことを思えば、十分な額に見えた。
けれど、担当する催事の数も、働く日数も書かれていなかった。
「どの範囲のお仕事でしょうか」
「今までどおりだよ。夜会や食事会、それに親族の集まり。分からないことは、その都度頼む」
「こちらへ伺う日数は」
「必要なときに。毎日来てくれれば、話は早いけれど」
私は紙から顔を上げた。
「お断りいたします」
ヴィクトル様が眉を寄せた。
「金額なら、多少は相談できる」
「金額の問題ではありません」
「では、何が不満なんだ?」
書斎の窓は、以前と同じ庭に面していた。
窓辺には、読みかけの本。
壁には、伯爵家の紋章。
ここへ毎日来る暮らしを、私は簡単に思い浮かべられた。
朝は執事に予定を聞き、昼は業者へ出向き、夕方には新しい頼み事を引き受ける。
報酬はもらえる。
それでも、私の予定表はまた、この家の用事で埋まっていく。
「自分で、お受けする仕事を決めたいんです」
「好きに選べるほど、依頼があるのか?」
私は鞄の持ち手を握った。
「今は、まだ多くありません」
「なら、堅実に考えたほうがいい。ベイラム夫人の依頼だって、もともとはこの家で知り合った縁だろう。うちから離れても、同じように続くとは限らない」
それは、私も心配していたことだった。
初めての依頼が来たからといって、来月も、その次の月も仕事があるとは限らない。
父の家にいられる今と、一人で暮らすようになってからでは、必要なお金も違う。
分かっている。
分かっていても、ここへ戻りたいとは思わなかった。
「続くかどうかは、これから確かめます」
ヴィクトル様は息をついた。
「そんなに意地を張らなくてもいいじゃないか」
「意地ではありません」
「僕に腹を立てているんだろう?」
私は答えなかった。
腹を立てていないと言えば、嘘になる。
けれど、それだけなら、謝られた今、少しは戻りたくなってもよいはずだった。
彼は机に手をつき、声を和らげた。
「君が頼りになることは、よく分かっている。クララにできないことが、君にはできる。妻にはできなくなったけれど、これからも大切な人でいてほしいんだ」
胸の奥が、鈍く痛んだ。
大切な人。
もっと早く、その言葉を聞きたかった。
何も持たずにここへ来て、何も頼まれずに隣へ座っているときに、言ってほしかった。
「ヴィクトル様」
私はゆっくり呼んだ。
「私は、あなたの妻になりたかったのです」
彼の表情が動いた。
初めて、話が通じたと思ったのかもしれない。
「だから――」
「でも、今は違います」
彼が口を閉じる。
私は続けた。
「婚約が終わってから、よく考えました。これからもあなたのそばにいたいのか。仕事という形でも、この家に残りたいのか」
窓辺の本へ、一度だけ目を向けた。
彼が顔を上げるのを待っていた自分を、思い出した。
「どちらも、望んでおりません」
言った後、書斎が静かになった。
ヴィクトル様は机の上の紙を見下ろした。
「……そこまで言う必要があるか」
「曖昧にお返事をすると、また、分かっていると思われてしまいますので」
私は頭を下げた。
「婚礼のお仕事は、契約どおり務めます。それが終わりましたら、今後のお約束はありません」
扉へ向かう。
今度は、呼び止められなかった。
*
外へ出てから、私は門の前で立ち止まった。
息を深く吸った。
泣きたいのか、ほっとしたのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、鞄の中の書類を確かめたいと思った。
ベイラム夫人との契約書ではない。
今日持ってきた、婚礼の進行案。
あと何をすれば終わるのか、確かめたかった。
紙の上には、自分の字で仕事が並んでいる。
席順。
料理の最終確認。
雨天時の移動。
当日の進行。
終わりは、ちゃんとある。
私は書類を戻し、会館へ向かった。
*
エドガー様は、小広間の卓を測っていた。
ベイラム夫人の祝いに使う部屋だった。
「十八名なら、この配置で全員の顔が見えます」
私に気づくと、彼は巻尺を置いた。
「どうかなさいましたか」
「いえ」
答えてから、少し迷った。
「一つ、お断りをしてきました」
彼は、それ以上の事情を尋ねなかった。
「そうでしたか」
「条件を変えていただいても、お引き受けしたくない仕事でした」
エドガー様は頷いた。
私が話し終えるまで、待ってくれた。
それで十分だった。
「ベイラム夫人から、お預かりしたものがあります」
私は鞄から、古い楽譜を取り出した。
ご主人が曲名を思い出せなかったため、夫人が昔の箱を探してくださったのだ。
端は擦り切れ、表紙に小さな染みがある。
「お二人が初めて踊られた曲だそうです」
エドガー様は両手で受け取った。
「楽団に見てもらいましょう。編成を小さくしても演奏できるか、確かめます」
「お願いいたします」
楽譜を机へ置くと、彼は別の書類を手にした。
「実は、私からもご相談があります」
「はい」
私は帳面を開いた。
「この先、会館の催事を増やしたいと考えています。ただ、私一人では、会場の管理と個々の手配を両方見るのが難しい」
彼が椅子を勧めた。
私は向かいに座った。
「フェルド様に、継続してお仕事をお願いできないでしょうか」
胸が少し高鳴った。
会館でなら、いろいろな客の希望を聞ける。
庭も、小広間も、使い方を考えるのが楽しかった。
エドガー様は書類を広げた。
「毎月の報酬を決めて、準備室も一室お使いいただけます。予定が重ならないよう、催事の数は相談して――」
私は、その紙の上部を見た。
会館専属、催事企画担当。
専属。
その二文字で、手が止まった。
「ほかの会場でのお仕事は、どうなりますか」
エドガー様は少し間を置いた。
「できれば、こちらを中心にお願いしたいと思っています」
私は開いていた帳面へ目を落とした。
自分の名前で、引き受ける仕事を決める。
つい先ほど、そう言ってきたばかりだった。
けれど今度は、断ることが怖かった。




