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『婚約者の結婚式を任されたので、きっちり成功させて縁を切ります』  作者: やまご


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7/12

第7話 選んでもらうのを、やめました

ベイラム夫人の応接室には、窓に向けて二脚の椅子が置かれていた。


 一脚には夫人が、もう一脚には白い口髭のご主人が座っている。


「結婚して、四十年になりますの」


 夫人はそう言って、隣を見た。


「よく飽きずに付き合ってくださったこと」


「それは、こちらの台詞だ」


 ご主人は新聞を畳み、脇の机へ置いた。


 そのやり取りを聞いてから、私は帳面を開いた。


「どのようなお祝いを、お考えでしょうか」


「家族と、古い友人を少し。十八人ほどになると思います。立派な夜会でなくていいの。皆の顔を見て、ゆっくり話せれば」


「会場のご希望はございますか」


「最初は、ここでと思ったのだけれど」


 夫人は足元へ視線を落とした。


「家で開くと、つい動いてしまうでしょう。あちらの席が寒くないかとか、お茶が足りているかとか」


 私は、分かりますと言いかけた。


 隣のご主人が先に頷く。


「だから、任せられる方を探していたんです。妻にも座っていてほしくてね」


 夫人が少し照れたように笑った。


 私は帳面に、十八名、着席中心、と書いた。


「お料理の合間に、席を移れる時間を設けてもよさそうですね。皆様が一度に動かなくても、お話ししたい方のそばへ行けるように」


「あら、それはいいわ」


「音楽は、おつけになりますか」


「会話が聞こえなくならない程度なら」


 ご主人が答えた。


「妻は昔から、あの――何という曲だったかな」


「名前を忘れた曲を、頼もうとなさらないで」


「聞けば分かるんだ」


 夫人は呆れたように首を振ったが、その顔は嬉しそうだった。


 私は笑いをこらえながら、帳面の端へ、思い出の曲、と書いた。


 曲名は、後から調べればいい。


 何を大切にしたいのかは、もう少し分かった。


「お日にちは、セルダ家の婚礼より後になりますでしょうか」


「その二週間後を考えています」


 私は予定表を確かめた。


 婚礼後の精算を終えてから、最終準備に取りかかれる。事前の相談を何度か分ければ、無理なく進められそうだった。


「それでしたら、お見積もりをお出しできます。会場の候補を二つほど調べて、ご提案いたします」


「お願いいたします」


 夫人はすぐに頷いた。


 私は念のため、続けた。


「会場費やお料理代とは別に、私への手配料を頂戴いたします」


「ええ。そのつもりです」


 迷いのない返事だった。


「前の夜会で、あなたが何度も廊下を往復していらしたでしょう。私たちが座って楽しんでいる間も、ずっと」


 私は顔を上げた。


「ああいうお仕事は、ただでお願いしていいものではありませんわ」


 何と答えればよいか、一瞬分からなくなった。


 夫人は茶器へ目を向け、私の返事を待っている。


 私は背筋を伸ばした。


「ありがとうございます。ご希望に合う形を、考えてまいります」


     *


 正式な依頼になったのは、その四日後だった。


 二つの候補のうち、夫人が選んだのはルース庭園会館の小広間だった。


 庭へ出なくても緑が見えることと、隣に休憩用の部屋を確保できることが決め手になった。


 私は会館の利用料と自分の手配料を分けて説明し、契約書に署名をいただいた。


 帰り道、鞄の留め金を三度も確かめた。


 書類は、ちゃんと入っている。


 それでも、何度も触ってしまった。


 伯爵家とは関係のない、初めての依頼だった。


     *


 セルダ家の婚礼も、少しずつ形になっていた。


 クララ様から、両家の話し合いが済み、予定どおり進めるという連絡があった。


 人数は八十四名。


 誓いの儀式は短くし、その後の食事に時間を取る。祖母の席は出入口に近い場所へ設けるが、隙間風が当たらないようにする。


 確認した内容を書面にし、私は伯爵家へ届けに行った。


 執事との打ち合わせを終え、玄関へ向かう途中だった。


「リネア」


 廊下の先に、ヴィクトル様が立っていた。


「少し、話せるか」


「次の予定がございますので、長くは」


「すぐに済む」


 通されたのは、小さな書斎だった。


 何度も来たことがある部屋だ。


 夜会の名簿を持ってきたり、支払いの承認をもらったり。彼が読んでいる本を閉じるまで、扉のそばで待っていたこともある。


 今日は椅子を勧められた。


 私は座らず、鞄を持ったまま尋ねた。


「婚礼について、変更がございますか」


「その話ではない」


 ヴィクトル様は机の上の箱を取った。


 細長い、薄緑色の箱だった。


「この前は、言い方が悪かった」


 蓋を開けると、銀の細工がついた髪留めが入っていた。


 小さな花の形をしている。


「君に似合うと思って」


 私は髪留めを見た。


 三年間、誕生日にもらったものは、伯爵家の名が入った筆記具と、冬の外出用の手袋だった。


 どちらも役に立った。


 今も使っている。


 こんな飾りを、自分で選んでくださったことはなかった。


「お受け取りできません」


「謝罪の品だよ」


「お言葉だけで結構です」


 ヴィクトル様は箱を閉じた。


 乱暴ではなかったが、蓋の合わさる音が少し強かった。


「ベイラム夫人の祝いを引き受けたそうだね」


「はい」


「うちの夜会は断ったのに?」


「日程が異なりますので」


「それだけの理由か?」


「それだけです」


 彼は私の顔を見た。


 何か別の答えを探しているようだった。


「君が仕事を続けたいことは分かった。だから、こちらも考えたんだ」


 机の引き出しから、一枚の紙を取り出す。


「伯爵家の催事担当として、定額の報酬を払おう。これなら、その都度見積もりを出す必要もない。君も安定するだろう」


 私は紙を受け取らず、机の上で読んだ。


 月々の報酬が記されている。


 今まで無償でしていたことを思えば、十分な額に見えた。


 けれど、担当する催事の数も、働く日数も書かれていなかった。


「どの範囲のお仕事でしょうか」


「今までどおりだよ。夜会や食事会、それに親族の集まり。分からないことは、その都度頼む」


「こちらへ伺う日数は」


「必要なときに。毎日来てくれれば、話は早いけれど」


 私は紙から顔を上げた。


「お断りいたします」


 ヴィクトル様が眉を寄せた。


「金額なら、多少は相談できる」


「金額の問題ではありません」


「では、何が不満なんだ?」


 書斎の窓は、以前と同じ庭に面していた。


 窓辺には、読みかけの本。


 壁には、伯爵家の紋章。


 ここへ毎日来る暮らしを、私は簡単に思い浮かべられた。


 朝は執事に予定を聞き、昼は業者へ出向き、夕方には新しい頼み事を引き受ける。


 報酬はもらえる。


 それでも、私の予定表はまた、この家の用事で埋まっていく。


「自分で、お受けする仕事を決めたいんです」


「好きに選べるほど、依頼があるのか?」


 私は鞄の持ち手を握った。


「今は、まだ多くありません」


「なら、堅実に考えたほうがいい。ベイラム夫人の依頼だって、もともとはこの家で知り合った縁だろう。うちから離れても、同じように続くとは限らない」


 それは、私も心配していたことだった。


 初めての依頼が来たからといって、来月も、その次の月も仕事があるとは限らない。


 父の家にいられる今と、一人で暮らすようになってからでは、必要なお金も違う。


 分かっている。


 分かっていても、ここへ戻りたいとは思わなかった。


「続くかどうかは、これから確かめます」


 ヴィクトル様は息をついた。


「そんなに意地を張らなくてもいいじゃないか」


「意地ではありません」


「僕に腹を立てているんだろう?」


 私は答えなかった。


 腹を立てていないと言えば、嘘になる。


 けれど、それだけなら、謝られた今、少しは戻りたくなってもよいはずだった。


 彼は机に手をつき、声を和らげた。


「君が頼りになることは、よく分かっている。クララにできないことが、君にはできる。妻にはできなくなったけれど、これからも大切な人でいてほしいんだ」


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


 大切な人。


 もっと早く、その言葉を聞きたかった。


 何も持たずにここへ来て、何も頼まれずに隣へ座っているときに、言ってほしかった。


「ヴィクトル様」


 私はゆっくり呼んだ。


「私は、あなたの妻になりたかったのです」


 彼の表情が動いた。


 初めて、話が通じたと思ったのかもしれない。


「だから――」


「でも、今は違います」


 彼が口を閉じる。


 私は続けた。


「婚約が終わってから、よく考えました。これからもあなたのそばにいたいのか。仕事という形でも、この家に残りたいのか」


 窓辺の本へ、一度だけ目を向けた。


 彼が顔を上げるのを待っていた自分を、思い出した。


「どちらも、望んでおりません」


 言った後、書斎が静かになった。


 ヴィクトル様は机の上の紙を見下ろした。


「……そこまで言う必要があるか」


「曖昧にお返事をすると、また、分かっていると思われてしまいますので」


 私は頭を下げた。


「婚礼のお仕事は、契約どおり務めます。それが終わりましたら、今後のお約束はありません」


 扉へ向かう。


 今度は、呼び止められなかった。


     *


 外へ出てから、私は門の前で立ち止まった。


 息を深く吸った。


 泣きたいのか、ほっとしたのか、自分でもよく分からなかった。


 ただ、鞄の中の書類を確かめたいと思った。


 ベイラム夫人との契約書ではない。


 今日持ってきた、婚礼の進行案。


 あと何をすれば終わるのか、確かめたかった。


 紙の上には、自分の字で仕事が並んでいる。


 席順。

 料理の最終確認。

 雨天時の移動。

 当日の進行。


 終わりは、ちゃんとある。


 私は書類を戻し、会館へ向かった。


     *


 エドガー様は、小広間の卓を測っていた。


 ベイラム夫人の祝いに使う部屋だった。


「十八名なら、この配置で全員の顔が見えます」


 私に気づくと、彼は巻尺を置いた。


「どうかなさいましたか」


「いえ」


 答えてから、少し迷った。


「一つ、お断りをしてきました」


 彼は、それ以上の事情を尋ねなかった。


「そうでしたか」


「条件を変えていただいても、お引き受けしたくない仕事でした」


 エドガー様は頷いた。


 私が話し終えるまで、待ってくれた。


 それで十分だった。


「ベイラム夫人から、お預かりしたものがあります」


 私は鞄から、古い楽譜を取り出した。


 ご主人が曲名を思い出せなかったため、夫人が昔の箱を探してくださったのだ。


 端は擦り切れ、表紙に小さな染みがある。


「お二人が初めて踊られた曲だそうです」


 エドガー様は両手で受け取った。


「楽団に見てもらいましょう。編成を小さくしても演奏できるか、確かめます」


「お願いいたします」


 楽譜を机へ置くと、彼は別の書類を手にした。


「実は、私からもご相談があります」


「はい」


 私は帳面を開いた。


「この先、会館の催事を増やしたいと考えています。ただ、私一人では、会場の管理と個々の手配を両方見るのが難しい」


 彼が椅子を勧めた。


 私は向かいに座った。


「フェルド様に、継続してお仕事をお願いできないでしょうか」


 胸が少し高鳴った。


 会館でなら、いろいろな客の希望を聞ける。


 庭も、小広間も、使い方を考えるのが楽しかった。


 エドガー様は書類を広げた。


「毎月の報酬を決めて、準備室も一室お使いいただけます。予定が重ならないよう、催事の数は相談して――」


 私は、その紙の上部を見た。


 会館専属、催事企画担当。


 専属。


 その二文字で、手が止まった。


「ほかの会場でのお仕事は、どうなりますか」


 エドガー様は少し間を置いた。


「できれば、こちらを中心にお願いしたいと思っています」


 私は開いていた帳面へ目を落とした。


 自分の名前で、引き受ける仕事を決める。


 つい先ほど、そう言ってきたばかりだった。


 けれど今度は、断ることが怖かった。

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