第6話 お願いには、お値段があります
最初の一枚には、謝罪ばかりを書いてしまった。
申し訳ございませんが。
あいにく予定が立て込んでおりまして。
できる限りお力になりたいのですが。
読み返すと、私が悪いことをしたような手紙だった。
私はその紙を脇へ置いた。
契約書を見て、もう一度書く。
『明後日の晩餐会は、婚礼準備の契約には含まれておりません。別途のご依頼として承ります』
そこでペンを止め、予定表を開いた。
八名分の料理と花。
いつもの業者なら引き受けてくれるかもしれない。けれど、直前の注文になる。仕入れも、人の手配も、すでに決まっているはずだ。
追加料金がかかる可能性がある。
私自身も、明日の予定を動かさなければならない。
必要な時間を書き出し、報酬を計算した。
金額を見た途端、少し高いだろうかと思った。
下げようとして、指を止める。
その額で引き受けたら、私はきっと、明日の夜も仕事をする。それをなかったことにしてはいけない。
見積書を添え、返答の期限を明日の正午とした。
朝一番で届けてもらうよう頼んでから、机の灯りを消した。
*
返事は、正午を待たずに来た。
手紙ではなかった。
ヴィクトル様が、我が家の応接室に立っていた。
「これは、どういうことだ?」
挨拶の代わりに、私の見積書が差し出された。
「晩餐会の手配についてです」
「それは分かる。なぜ別料金になるんだ。婚礼の相談をするための席だと書いただろう」
私は椅子を勧めた。
彼は座らず、紙を指で叩いた。
「たった八人だ。大がかりなことは頼んでいない」
「料理のご希望と、ご予算はお決まりですか」
「いつもの程度でいい」
「ベルク家の皆様が召し上がれないものは?」
「知らないよ。君から聞いてくれればいいだろう」
「花の色や、食卓の飾りについては」
「そこも任せると言っている」
私は頷いた。
「その確認と手配を含めたお見積もりです」
ヴィクトル様が口を閉じた。
少しの間、見積書を見下ろしていたが、やがて私へ目を戻した。
「花屋と料理人に、何通か手紙を出すだけじゃないか」
「お返事が間に合わなければ、直接伺います。お受けいただけなければ、ほかを探します」
「今まで、そんな説明はしなかった」
「はい」
私が言い返さなかったせいか、彼は少し声を緩めた。
「リネア。何も、すべてに値段をつけなくてもいいだろう。長い付き合いなんだから」
以前なら、その言葉で頷いていたと思う。
八人分くらい。
今回だけ。
せっかく頼ってくださったのだから。
私は見積書を机に置いた。
「お引き受けする場合、明日の予定を変更する必要があります。その分も含めて、お仕事としてお願いしております」
「君は、そんなに金に細かい人だったか?」
頬が熱くなった。
言われたくなかった言葉だった。
彼の前で、金銭の話をするたびに感じていた後ろめたさを、そのまま指された気がした。
けれど、机の上には昨夜の計算がある。
私が使う時間。
業者に頼むこと。
間に合わせるために必要な手間。
「これまでは、細かく考えておりませんでした」
私は答えた。
「これからは、考えます」
ヴィクトル様の眉が寄った。
「もういい。こちらでやる」
「承知いたしました」
「本当に、手を貸さないつもりか?」
「ご依頼は取り下げということで、よろしいですね」
彼は返事をせず、見積書を取った。
扉へ向かいかけ、足を止める。
「クララには、余計なことを言わないでくれ。ようやく話がまとまりかけているんだ」
「晩餐会について、私からお話しする予定はありません」
「婚約のこともだ」
私は彼を見た。
「事実を尋ねられた場合は、お答えします」
ヴィクトル様は何か言いたげに唇を動かした。
けれど、そのまま出ていった。
玄関の扉が閉まってから、私は椅子に座った。
膝が少し震えていた。
上手にできたとは思えなかった。
もっと柔らかく言えば、怒らせずに済んだだろうか。
しばらく考えてから、予定表を開く。
明日の欄には、すでに約束した仕事が並んでいる。
私はその上に新しい予定を書き足さず、帳面を閉じた。
*
午後、クララ様から使いが来た。
父親との相談が済んだので、婚礼の打ち合わせを再開したいという。
私は期限の一覧を持ち、ベルク家へ向かった。
応接室には、クララ様のほかに、彼女の父親もいた。
ベルク氏は、挨拶を終えるとすぐに頭を下げた。
「娘が知らされていなかったことについて、私からもお詫びします。セルダ家の説明を、そのまま受け取ってしまった」
「日付の確認は済んでおりますので」
私はそう答えた。
謝罪を重ねられても、私にはどう受け取ればよいか分からなかった。
クララ様が、机の上に置かれた書類へ手を添えた。
「結婚は、予定どおりに進めたいと思っています」
私は頷いた。
彼女は、私の反応を確かめるように少し間を置いた。
「父と話しました。ヴィクトル様とも、もう一度」
その指先には、迷いが残っているように見えた。
「彼をお好きなのですね」
「好きになったところは、今もあります」
クララ様は答えた。
「私が商家の娘だからと遠ざける方がいる席で、普通に話しかけてくださいました。私の父の仕事にも、興味を持ってくださった」
私は黙って聞いた。
ヴィクトル様が初対面の相手に優しく話しかける姿は、何度も見ている。
私も、最初はそこに惹かれた。
「けれど、優しく話してくださることと、誠実に説明してくださることは、同じではありませんでした」
クララ様は書類へ視線を落とした。
「ですから、結婚後の住まいと、私が持ち込む財産の扱いを、改めて確認しています。父からの事業資金も、婚姻とは分けて条件を決めることになりました」
ベルク氏が頷いた。
「援助の内容を曖昧にしたまま、縁組だけ先に進めるわけにはいきませんからな」
「婚礼までに、すべてまとまりそうでしょうか」
私が尋ねると、クララ様は真剣な顔になった。
「まとまらなければ、延期します」
迷いのない返事だった。
「その場合に費用がかかることも、父と確認しました。予約を失うのが惜しいからと、決まっていないことを決まったことにはしません」
私は持参した一覧を広げた。
「では、それぞれの期限を確認いたしましょう」
料理の人数変更は明後日まで。
会場は、その二日後。
装花は、花の種類を指定しなければ、もう少し待てる。
一つずつ説明すると、クララ様は自分の帳面へ書き込んだ。
私に、結婚しても大丈夫だと言ってほしいわけではない。
そう分かって、ようやく落ち着いて向き合えた。
「招待客は、八十四名にいたします」
新しい名簿が差し出された。
「新たな招待状を出す予定だった方を減らしました。すでにお約束した方を、お断りすることはありません」
「承知しました。八十四名でしたら、雨天の際も、広間に余裕を持ってお席を設けられます」
「それから、祖母の席ですが」
クララ様はそこで、少し表情を和らげた。
「あなたに伺った肘掛けのある椅子のお話をしたら、楽しみにしていると返事が来ました」
「よかったです」
「私が、よかったんです。来てくれないかもしれないと思っていたので」
彼女は名簿の一番上へ指を置いた。
そこには、祖母の名前があった。
私はその横に、小さく印をつけた。
*
晩餐会の翌朝、伯爵家から届いたのは、料理の感想ではなく、次の夜会の相談だった。
今度は執事からの正式な手紙で、見積もりを依頼したいと書かれていた。
私は日程を確認した。
婚礼の三日後。
準備期間が重なるうえ、婚礼後の精算も終わっていない頃だった。
引き受けられない。
そう判断し、返事を書いた。
以前、会場で仕事を見たことのある式典請負人を二人、連絡先だけ添える。紹介はするが、先方の予定を確約するものではないと書き添えた。
封をしたところへ、マルタさんが訪ねてきた。
「近くまで納品に来たから。顔を見ようと思って」
私はお茶を頼み、応接室へ案内した。
近況を話すと、マルタさんは菓子を一つ取った。
「断った後、自分で代わりの手配まで始めなかった?」
「連絡先を、お伝えしただけです」
「ならよかった」
彼女は菓子を割った。
「断る練習をしてるのに、結局全部やったんじゃ、何も変わらないからね」
「少し、迷いました」
「迷うくらいは仕方ないよ」
それから、彼女は鞄から小さな封筒を出した。
「今日は、これも」
厚い紙の名刺が入っていた。
イレーヌ・ベイラム。
先月の夜会で、私の手を取ってくださった夫人だった。
「うちで仮縫いをなさってね。あんたの話が出たんだ」
「私の?」
「この前、椅子の高さを尋ねる手紙が来たそうじゃないか。あれが嬉しかったって」
夫人には、婚礼への出席にあたって困ることがないか、私から手紙を送っていた。
署名には、自分の名前と、婚礼の手配を担当している旨を書いた。
「それで、今は個人で仕事を受けているのかと聞かれた。詳しい条件は本人に確かめてくださいって、返事をしておいたよ」
私は名刺を裏返した。
小さな文字で、連絡をいただければ嬉しいと書いてある。
「何か、催しをなさるのでしょうか」
「ご夫婦のお祝いらしい。大きな会にはしたくないそうだけど」
胸が、静かに高鳴った。
伯爵家から離れたら、誰にも頼まれなくなるかもしれない。
その心配は、まだ消えていなかった。
今の仕事だって、三年間あの家にいたから任されたものだ。
けれど、この名刺には伯爵家の名前がない。
「お返事をしても、よろしいのでしょうか」
聞いてから、自分でおかしくなった。
マルタさんが眉を上げる。
「私の許可がいる?」
「……いりませんね」
私は笑い、名刺を机へ置いた。
*
その日の夕方、ベイラム夫人への手紙を書いた。
ご連絡をいただいたお礼。
まずは、ご希望を伺いたいこと。
婚礼の準備中なので、日程によってはお受けできないこと。
最後の一文を書くのには、少し勇気がいった。
せっかくのご依頼を、逃してしまうのではないか。
それでも、引き受けてから困らせるより先に伝えたかった。
署名をして、封をする。
使いに託した後、机の上に置いていた予定表を開いた。
婚礼の日には、大きく印をつけてある。
その先は、空白だった。
私は新しい頁に、ベイラム夫人の名前を書いた。
まだ、依頼が決まったわけではない。
だからその横には、打ち合わせ、とだけ記した。
それでも、今までとは違う空白になった。




