第5話 お役に立たない夕食
会館からの返事は、翌朝届いた。
予約の変更期限と、手配を止められるものの一覧。それから、別の小さな封筒。
『夕食も、予定どおりに。楽しみにしています』
二度読んでから、仕事の書類とは別の引き出しへしまった。
*
「会場は、あと五日でしたら今の条件でお待ちできます」
エドガー様は予約台帳を開いた。
「ただし、庭を使わず広間だけにする場合でも、貸切料金は変わりません」
「承知しました。人数が減った場合、料理の変更は?」
「食材の発注前なら対応できます。こちらは三日以内に、ご判断を」
私は期限を書き留めた。
すべてを止められるわけではなかった。
それでも、どこまで待てるかが分かれば、クララ様も判断しやすくなる。
「ご事情は、伺わないほうがよさそうですね」
台帳を閉じながら、彼が言った。
「申し訳ありません。私から詳しくお話しすることではありませんので」
「いえ。会館として必要な変更だけ、分かれば結構です」
問い詰められなかったことに、ほっとした。
事情を知りたがらないのではなく、私が話せる範囲を分かってくれている。
そう思えた。
打ち合わせの最後に、昨日の荷受け口を見せてもらった。
浮いていた石は外され、下地から直されているところだった。
「今日には終わるそうです」
「早いですね」
「今朝、厨房の者に礼を言われました。皆、避けて通っていたらしい」
エドガー様は、作業中の石を見下ろした。
「毎日使う者ほど、慣れてしまうんですね」
「私も、帳面の留め紐が切れたままです」
言ってから、余計なことだったと思った。
彼が私の手元を見る。
古い帳面の間から、短くなった紐が出ていた。
「不便では?」
「少し。でも、巻き方を変えれば使えますので」
エドガー様は笑いかけ、それから自分の袖口を見た。
釦が一つ、違う色だった。
「私も、人のことは言えませんでした」
先日とは別の上着なのに、今度は釦らしい。
私は思わず笑った。
*
夕食の店は、会館から二筋ほど離れた通りにあった。
入口の硝子越しに、小さな卓がいくつも見える。壁には青い絵皿が飾られ、奥から焼いた肉の匂いがした。
扉を開けると、白い前掛けの女性が顔を上げた。
「いらっしゃい。今日はお二人?」
「予約したルースです」
「窓際を空けてあるわ」
慣れたやり取りだった。
席へ案内される途中、私は給仕台の位置と、奥の出入口を見た。
通路は狭いが、椅子を引いても人は通れそうだ。
卓の上の燭台も低く、向かいの顔を遮らない。
「何か、気になることが?」
エドガー様に聞かれ、慌てて前を向いた。
「いえ。つい、見てしまって」
「仕事柄、ですか」
「おそらく」
彼は私の椅子を引いた。
「では今夜は、気になることがあっても店の方にお任せしましょう」
「はい」
返事をした直後、隣の卓から落ちたナプキンを拾いかけた。
給仕の女性が先に屈み、新しいものを差し出す。
私は膝へ手を戻した。
向かいで、エドガー様が笑いをこらえていた。
「少しずつで結構です」
*
献立を開いても、なかなか決まらなかった。
魚の香草焼き。鶏の煮込み。豆のスープ。
どれもおいしそうだった。
けれど、何を選べばよいのだろう。
「こちらには、よくいらっしゃるのですか」
「月に二、三度ほど。遅くまで仕事をした日に」
「では、おすすめをいただきます」
「私の好みでよければ、煮込みですが」
「そちらで」
エドガー様は献立を閉じかけ、手を止めた。
「魚を見ていらっしゃいませんでしたか」
「ええ。でも、おすすめでしたら」
「煮込みも魚も、おいしいです。失敗はしません」
私は献立へ目を戻した。
香草焼きには、酸味のある果実のソースが添えられると書いてある。
それが気になっていた。
「……では、魚を」
「私は煮込みにします。味見をしたくなったら、おっしゃってください」
注文を終えてから、ようやく肩の力が抜けた。
そんな私を見て、彼は水の入った杯を手にした。
「選ぶのは、お嫌いですか」
「いいえ。ただ、お誘いいただいたので、合わせたほうがよいかと」
「食べたいものが違っても、一緒に食事はできますよ」
私は少し笑った。
「そうですね」
当たり前のことだった。
けれど、誰かと同じものを選ばずに済んだだけで、こんなに気持ちが軽くなるとは思わなかった。
料理が来るまでの間、会話が途切れた。
何か話さなければ。
鞄の中の帳面が気になった。
「婚礼の人数ですが、もし減ることになりましたら、広間の配置を――」
「明日、伺っても?」
私は口を閉じた。
「申し訳ありません」
「謝っていただくことでは。ただ、今日は図面を広げるには卓が小さい」
ちょうどパンの籠が運ばれてきた。
彼は場所を空け、それから私へ向き直った。
「仕事のお話でないと、困りますか」
答えるのに、少し時間がかかった。
「何をお話しすればいいのか、分からなくて」
「私も、いつも話題が豊富なわけではありません」
「そうなのですか?」
「会館の説明なら、いくらでもできますが」
彼は壁の絵皿を見た。
「今も、あの皿がどこで焼かれたものなのか、店主に聞こうか考えていました」
「ご存じなのかと思いました」
「分かりません。気になっただけです」
私はもう一度、絵皿を眺めた。
青い鳥が描かれていた。
左右で、羽の大きさが少し違う。
「私は、鳥が太っているのが気になりました」
言ってしまってから、唇を押さえた。
エドガー様が絵皿を見る。
しばらく真剣に眺めて、それから吹き出した。
「たしかに。よほど餌の多い土地なのでしょう」
「失礼なことを申し上げました」
「店主のお母様が描いたものですから、たぶん喜びます。あの方は、食べ物を勧めるのがお好きだったそうなので」
「そこは、ご存じなのですね」
「以前、私も大盛りにされました」
私は笑った。
役に立つ話ではなかった。
誰かに伝える必要も、帳面に書き留める必要もない。
それでも、彼は楽しそうだった。
*
魚の皮は薄く焼き上がっていた。
刃を入れると、白い湯気が立つ。
ソースは思ったより酸っぱかったが、油ののった身によく合った。
「いかがですか」
「おいしいです」
今度は、すぐに答えられた。
「自分で選んでよかった」
エドガー様は頷き、自分の煮込みへ匙を入れた。
皿が半分ほど空いた頃、私から尋ねた。
「会館は、昔からあのような場所だったのですか」
「母が、古い別邸を改装しました。最初は知人を招いて、小さな音楽会を開いていたそうです」
「お母様が」
「ええ。私が引き継いだ頃には、屋根から雨が漏っていましたが」
彼は少し苦い顔をした。
「広間の壁紙を替えるつもりで積み立てていた金が、全部屋根になりました」
「壁紙は、後からでも替えられますものね」
「そう思うことにしています。ただ、客には見えない。屋根裏へ案内して、ここが新しくなりましたと言うわけにもいきませんし」
その言い方がおかしくて、笑ってしまった。
「でも、雨漏りしないことは分かります」
「降った日にだけですが」
「長く続けるために、必要なお金だったのでしょう?」
彼は匙を置いた。
「そうですね」
少し考えてから、言い添える。
「母の会館を、そのまま守るつもりでした。でも、同じにはできないものですね。楽団の顔ぶれも、客の好みも変わる。残すものを選ばないと、建物だけ残ってしまう」
私は会館の庭を思い出した。
古い石の東屋と、修理中の荷受け口。
彼が手を入れようとしているのは、見栄えのよい場所だけではなかった。
「私は、あの会館が好きです」
言うと、エドガー様が顔を上げた。
「どのあたりが?」
「庭から広間へ戻ったとき、窓が低くて、座っていても緑が見えるところです」
「ああ」
「立たなくても景色を楽しめるのは、いいなと思いました」
彼は嬉しそうに、窓の外へ一度目を向けた。
「母が、そこは変えたくないと言っていたそうです」
私は、もっと早くその話を聞きたかったと思った。
けれど、今聞けたことも嬉しかった。
*
食後に菓子を勧められた。
林檎の焼き菓子と、蜂蜜のクリーム。
私は少し迷って、林檎を選んだ。
「甘いものはお好きですか」
「はい。特に、端がよく焼けたところが」
「端?」
「果物の汁と砂糖が少し焦げて、固くなるでしょう。あそこが好きなんです」
エドガー様は皿を見た。
「では、真ん中より端のほうが?」
「できれば」
「覚えておきます」
何気ない口調だった。
私は匙を持つ手を止めた。
そんなことを覚えて、どうするのだろう。
答えは聞けなかった。
聞かずにいたい気もした。
会計のとき、私は鞄から財布を出した。
「今日は、私からお誘いしましたので」
エドガー様が言った。
「でも、お仕事でお世話になっておりますし」
「夕食は、婚礼の費用には入れませんよ」
「それは、もちろん」
彼が笑ったので、私もつられて笑った。
財布をしまいかけて、手を止める。
「では、次のお茶は私に」
言ってから、顔が熱くなった。
次があることを、自分から決めたようだった。
エドガー様は少し驚き、それから頷いた。
「楽しみにしています」
*
店を出ると、通りの灯りが点っていた。
馬車を待つ間、風が頬を冷やした。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
お礼を言った後に、いつもの言葉が浮かんだ。
何かございましたら、いつでもお申しつけください。
そこまで出かけた口を、閉じる。
今日の夕食の代わりに、差し出す仕事を探している。
それは違う気がした。
私は鞄の持ち手を握り直した。
「楽しかったです」
エドガー様がこちらを見た。
「仕事の話を、あまりしなかったのに」
「少しはしましたが」
「少しだけです」
彼が笑った。
その顔を見て、私も笑った。
馬車が来ると、彼は乗り口まで送ってくれた。
「また、お茶をご一緒に」
「はい」
約束をしてから、乗り込んだ。
家へ着くまで、私は一度も帳面を開かなかった。
*
玄関には、伯爵家の封蝋が押された手紙が届いていた。
ヴィクトル様からだった。
急ぎ、と書かれている。
私は手袋を外し、その場で封を切った。
『明後日の晩餐にベルク家を招くことになった。八名分の料理と花を、いつものように手配してほしい。婚礼の話もするので、その一環として頼む』
少し下に、追記があった。
『クララも君を気に入ったようで安心した。これからも二人で、うまくやってくれ』
私は手紙を最後まで読んだ。
明後日。
明日は朝から、会場の変更期限をクララ様へ伝える約束がある。花屋への確認も、給仕長との相談も必要だった。
厨房へ連絡を入れる順番を考えかけ、やめた。
机に向かい、契約書の控えを開く。
婚礼以外の催事は、別途相談。
自分で書いた一行を、指先で確かめた。
それから、新しい便箋を取り出した。




