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『婚約者の結婚式を任されたので、きっちり成功させて縁を切ります』  作者: やまご


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4/12

第4話 花嫁が知らなかったこと

会館の使いが戻ってきたのは、私が帽子のリボンを結び直した直後だった。


 差し出された小さな紙には、父の字で、明朝早く出るので今夜のうちに相談したい、とあった。


 エドガー様は、私が口を開くより先に頷いた。


「では、夕食はまた今度にしましょう」


「申し訳ありません。せっかくお誘いいただいたのに」


「お父様とのご相談を先に」


 私は紙を畳んだ。


 自分から聞かなければ、そのままになってしまう気がした。


「……別の日でも、よろしいでしょうか」


 彼の顔が、少し明るくなった。


「もちろんです」


 次の打ち合わせがある二日後に、約束をし直した。


 帰宅すると、父は応接室で待っていた。


 テーブルの上には、一通の手紙が置かれている。


「ベルク家のご令嬢からだ」


 花嫁の名前を聞いて、鞄を持つ手に力が入った。


「明日、お前に会いたいそうだ。婚礼の相談を、直接したいと」


 封筒には、私の名前が丁寧に書かれていた。


     *


 クララ・ベルク様は、約束の時刻より少し早くいらした。


 淡い青のドレスに、飾りの少ない帽子。観劇の夜よりも、ずっと落ち着いて見えた。


 付き添いの侍女を椅子の後ろに控えさせ、彼女は私へ頭を下げた。


「急なお申し出を、お受けくださってありがとうございます」


「こちらこそ。お茶をお持ちしますので、少々――」


 立ちかけて、止まる。


 今日は我が家の客だ。お茶は、家の者に頼んであった。


 私は座り直し、用意しておいた帳面を開いた。


「婚礼について、ご希望を伺えればと思います」


「はい。その前に、一つだけ」


 クララ様は手袋を外し、膝に重ねた。


「このお仕事は、ご無理をなさって引き受けられたのではありませんか」


 ペンを取る手が止まった。


 彼女は、私の顔をまっすぐ見ていた。


「ヴィクトル様から、以前、婚約をしていらしたと伺いました。解消された方にお願いするのは、私には少し……」


 言葉が途切れる。


 どう答えるか迷った末、私は契約書の控えを机へ置いた。


「条件をお伝えし、ご承諾いただいております。報酬も一部、受け取りました。お仕事としてお引き受けしたことは、私自身の判断です」


 クララ様は書面を見た。


 安堵するかと思った。


 けれど、彼女の指が日付のところで止まった。


「こちらは、先日の?」


「はい」


「婚約の解消も、この頃ですか」


「契約を結ぶ二日前に話し合いの日が決まり、当日、解消の書面とこちらの契約を取り交わしました」


 クララ様が顔を上げた。


「先週まで、婚約なさっていたのですか」


 応接室が静かになった。


 お茶を運んできた家の者が、扉のところで足を止める。私は小さく頷き、盆を置いてもらった。


 クララ様はカップへ手を伸ばさなかった。


「私は、春には解消されたと伺っていました」


 春。


 今から、半年近く前だった。


 その頃、私は伯爵夫人と、婚礼衣装に使う布の話をしていた。


「ヴィクトル様が、そうおっしゃったのですか」


「ええ。家同士で決めた縁談だったけれど、お互いに気持ちがなく、円満に終えたと。あなたは式典のお仕事を好んで、その後も出入りしているのだと」


 私は机の端へ目を落とした。


 先月の観劇の夜。


 飲み物を運ぶ私を見て、彼女は何を思ったのだろう。


 伯爵家のために働く人。


 私が望んで、そこにいるのだと。


「私は、そのようなお話は伺っておりませんでした」


 それだけ答えると、クララ様の唇が固く結ばれた。


「……申し訳ありません」


「クララ様がお決めになったことではありませんから」


「でも、私は」


 彼女はそこで言葉を止めた。


 膝の上の手袋を、強く握っている。


 私もカップへ手を伸ばさなかった。


 気にしないでくださいとは、言えなかった。知らなかったのなら何もかもよい、と片づけることもできなかった。


 ただ、今ここで私に謝っている人は、私へ依頼書を差し出した人ではない。


「ご本人に、説明していただきたいです」


 私が言うと、クララ様は顔を上げた。


「私も、そう思います」


     *


 ヴィクトル様との面会は、その日の午後になった。


 場所はベルク家の応接室。


 クララ様が使いを出し、私にも同席してほしいと頼んだ。婚約解消の日付について、食い違いを残したくなかったので、私も承諾した。


 彼女の父親は外出していたが、家令が部屋の隅に控えていた。


 ヴィクトル様は入ってくるなり、私たちが並んで座っているのを見て足を止めた。


「二人とも、どうしたんだい」


「確かめたいことがあります」


 クララ様の声は静かだった。


「リネア様との婚約は、いつ解消されたのですか」


 彼は私を見た。


 私は何も言わなかった。


「先日、正式な手続きは済ませたよ」


「私には、春に終わったとおっしゃいました」


「実質的には、そうだったという意味だ」


 クララ様の指が、膝の上で動いた。


「実質的に?」


「気持ちの問題だよ。家同士の手続きは、どうしても時間がかかる。いちいち説明して、君を不安にさせたくなかったんだ」


 私を見ないまま、彼は続けた。


「リネアだって、分かっていたはずだ。僕たちは、そういう仲ではなかっただろう?」


 私は膝の上で、手を重ねた。


 声を整えるために、一度だけ息を吸う。


「私は、結婚するつもりでおりました」


 ヴィクトル様の顔が強張った。


「今、そういうことを言う必要があるか?」


「事実を確かめたいというお話でしたので」


 彼は黙った。


 クララ様が、私のほうへわずかに身体を向けた。それから、彼を見た。


「あなたのお気持ちが変わったことと、お相手に伝えて婚約を終えることは、別のお話です」


「だから、今は終わっているじゃないか」


「私は、終わっていないと知らずに、求婚をお受けしました」


 ヴィクトル様は、目に見えて苛立ち始めていた。


「何が問題なんだ。誰も損をしていない。リネアには希望どおりの報酬を払うし、君とは予定どおり結婚する。これ以上、何を――」


「私が、何を知ったうえで承諾したかの問題です」


 クララ様は彼の言葉が終わるのを待たなかった。


 声を荒らげたわけではない。


 それでも、彼は口を閉じた。


「婚礼を急ぎたいとおっしゃいましたね」


「ああ」


「父の事業資金のお話と、関係がありますか」


 今度の沈黙は、長かった。


 私は二人から視線を外した。


 ベルク家とセルダ家の間で、どのような話が進んでいるかは知らない。


 私が聞くべきことでないのなら、席を外そうと思った。


「もちろん、家同士の都合もある。貴族の結婚なんだから、当然だろう」


「それについても、私はもう少し詳しく聞く必要がありそうです」


「クララ。何も今日、一度に話さなくても」


「婚礼まで六週間もないのでしょう?」


 つい数日前、私が言われた言葉だった。


 ヴィクトル様は椅子に座り直した。


 そこで初めて、クララ様が隣の席を勧めていないことに気づいたようだった。


「少し、誤解があった。説明が足りなかったことは謝るよ」


「リネア様にも、お願いいたします」


 彼は私を見た。


「……急な話になったことは、悪かったと思っている」


 私は頷いた。


 求めていた言葉とは違う。


 けれど、ここで一つずつ言い直させたところで、私が望んでいた三年間には戻らない。


「婚約解消の日付について、今後、違う説明をなさらないでください。私の家にも関わることですので」


「分かった」


「私は、お伝えすることは以上です」


 そう言って、鞄を手元へ寄せた。


     *


 ヴィクトル様が先に退出した後、クララ様はしばらく動かなかった。


 私は帰るべきか迷い、机の上の書類をそろえた。


「私、あなたに嫌われていると思っていました」


 小さな声に、手を止める。


「観劇のとき、ほとんどお話ししてくださらなかったので。以前の婚約者が、彼の新しい相手を好ましく思わないのは、仕方のないことだと」


「あの日は、飲み物を頼まれておりました。その後は、帰りの馬車を確認していて」


「ええ」


 クララ様は目を伏せた。


「今なら、分かります」


 私は何も答えられなかった。


 あの夜、彼女とゆっくり話していたら、何かが違っただろうか。


 そう考えかけて、やめた。


 説明すべきだった人は、私でも彼女でもない。


「結婚を、どうなさるのですか」


 聞いた後で、踏み込みすぎたかと思った。


 けれど、式の担当者としても確かめる必要があった。


 クララ様は、すぐには答えなかった。


「今日のことだけで決めて、また何かを知らないままにしたくありません。父と話します。婚姻の条件も、私自身で読み直します」


「承知いたしました」


 私は帳面を開いた。


「それでは、追加の発注はいったん止めます。会場の予約と、すでに決まっている分については、費用が変わる前に確認をいたします」


「ご迷惑をおかけします」


「変更があり得ることは、会場にもお伝えします。ただ、いつまでも同じ条件で待っていただけるわけではありませんので、お返事の期限を調べてご連絡いたします」


 クララ様は頷いた。


 少し前なら、私は大丈夫ですと言っていたかもしれない。


 何とかしますから、気になさらないでくださいと。


 けれど、自分一人では決められないことがある。


 仕事として引き受けた今は、できることも、できないことも伝えなければならない。


 帳面を閉じると、クララ様が私を見た。


「もし続けることになったら、私の希望も聞いていただけますか」


「もちろんです。そのために、今日はお会いする予定でしたから」


 彼女は少しだけ笑った。


「実は、百二十人も招きたいわけではなかったんです」


 私は名簿を思い浮かべた。


 伯爵家の親族と取引先で、半分以上を占めている。


「どなたと、一日を過ごしたいですか」


 そう聞くと、彼女は初めて、すぐに答えた。


「祖母です。長く座っているのが難しいので、少人数で、短い式がよかったんです」


 私は帳面を開き直した。


 新しい頁の上に、クララ様の名前を書く。


「お祖母様のお話を、少し伺ってもよろしいでしょうか」


     *


 帰宅してから、会館へ手紙を書いた。


 新たな発注を一時見合わせること。


 予定変更の可能性があること。


 明日の打ち合わせは、予約条件の確認を中心にしたいこと。


 理由については、依頼主のご事情とだけ記した。


 封をする前に、もう一枚、小さな便箋を取り出す。


 夕食のお約束も取りやめたほうがよろしいでしょうか。


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 婚礼の仕事が減るかもしれない。


 進めていた話が止まった。


 それなら、食事に誘ってもらう理由もなくなるのではないか。


 そう思っていることに気づいた。


 昨日、彼は何と言っただろう。


 今日の打ち合わせは終わりです。


 そのうえで、お誘いしています。


 私は書きかけの便箋を脇へ置いた。


 新しい紙に、短く書き直す。


『明日は予定どおり伺います。夕食も、ご一緒できれば嬉しく存じます』


 仕事の手紙とは別に畳んで、小さな封筒へ入れた。

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