第4話 花嫁が知らなかったこと
会館の使いが戻ってきたのは、私が帽子のリボンを結び直した直後だった。
差し出された小さな紙には、父の字で、明朝早く出るので今夜のうちに相談したい、とあった。
エドガー様は、私が口を開くより先に頷いた。
「では、夕食はまた今度にしましょう」
「申し訳ありません。せっかくお誘いいただいたのに」
「お父様とのご相談を先に」
私は紙を畳んだ。
自分から聞かなければ、そのままになってしまう気がした。
「……別の日でも、よろしいでしょうか」
彼の顔が、少し明るくなった。
「もちろんです」
次の打ち合わせがある二日後に、約束をし直した。
帰宅すると、父は応接室で待っていた。
テーブルの上には、一通の手紙が置かれている。
「ベルク家のご令嬢からだ」
花嫁の名前を聞いて、鞄を持つ手に力が入った。
「明日、お前に会いたいそうだ。婚礼の相談を、直接したいと」
封筒には、私の名前が丁寧に書かれていた。
*
クララ・ベルク様は、約束の時刻より少し早くいらした。
淡い青のドレスに、飾りの少ない帽子。観劇の夜よりも、ずっと落ち着いて見えた。
付き添いの侍女を椅子の後ろに控えさせ、彼女は私へ頭を下げた。
「急なお申し出を、お受けくださってありがとうございます」
「こちらこそ。お茶をお持ちしますので、少々――」
立ちかけて、止まる。
今日は我が家の客だ。お茶は、家の者に頼んであった。
私は座り直し、用意しておいた帳面を開いた。
「婚礼について、ご希望を伺えればと思います」
「はい。その前に、一つだけ」
クララ様は手袋を外し、膝に重ねた。
「このお仕事は、ご無理をなさって引き受けられたのではありませんか」
ペンを取る手が止まった。
彼女は、私の顔をまっすぐ見ていた。
「ヴィクトル様から、以前、婚約をしていらしたと伺いました。解消された方にお願いするのは、私には少し……」
言葉が途切れる。
どう答えるか迷った末、私は契約書の控えを机へ置いた。
「条件をお伝えし、ご承諾いただいております。報酬も一部、受け取りました。お仕事としてお引き受けしたことは、私自身の判断です」
クララ様は書面を見た。
安堵するかと思った。
けれど、彼女の指が日付のところで止まった。
「こちらは、先日の?」
「はい」
「婚約の解消も、この頃ですか」
「契約を結ぶ二日前に話し合いの日が決まり、当日、解消の書面とこちらの契約を取り交わしました」
クララ様が顔を上げた。
「先週まで、婚約なさっていたのですか」
応接室が静かになった。
お茶を運んできた家の者が、扉のところで足を止める。私は小さく頷き、盆を置いてもらった。
クララ様はカップへ手を伸ばさなかった。
「私は、春には解消されたと伺っていました」
春。
今から、半年近く前だった。
その頃、私は伯爵夫人と、婚礼衣装に使う布の話をしていた。
「ヴィクトル様が、そうおっしゃったのですか」
「ええ。家同士で決めた縁談だったけれど、お互いに気持ちがなく、円満に終えたと。あなたは式典のお仕事を好んで、その後も出入りしているのだと」
私は机の端へ目を落とした。
先月の観劇の夜。
飲み物を運ぶ私を見て、彼女は何を思ったのだろう。
伯爵家のために働く人。
私が望んで、そこにいるのだと。
「私は、そのようなお話は伺っておりませんでした」
それだけ答えると、クララ様の唇が固く結ばれた。
「……申し訳ありません」
「クララ様がお決めになったことではありませんから」
「でも、私は」
彼女はそこで言葉を止めた。
膝の上の手袋を、強く握っている。
私もカップへ手を伸ばさなかった。
気にしないでくださいとは、言えなかった。知らなかったのなら何もかもよい、と片づけることもできなかった。
ただ、今ここで私に謝っている人は、私へ依頼書を差し出した人ではない。
「ご本人に、説明していただきたいです」
私が言うと、クララ様は顔を上げた。
「私も、そう思います」
*
ヴィクトル様との面会は、その日の午後になった。
場所はベルク家の応接室。
クララ様が使いを出し、私にも同席してほしいと頼んだ。婚約解消の日付について、食い違いを残したくなかったので、私も承諾した。
彼女の父親は外出していたが、家令が部屋の隅に控えていた。
ヴィクトル様は入ってくるなり、私たちが並んで座っているのを見て足を止めた。
「二人とも、どうしたんだい」
「確かめたいことがあります」
クララ様の声は静かだった。
「リネア様との婚約は、いつ解消されたのですか」
彼は私を見た。
私は何も言わなかった。
「先日、正式な手続きは済ませたよ」
「私には、春に終わったとおっしゃいました」
「実質的には、そうだったという意味だ」
クララ様の指が、膝の上で動いた。
「実質的に?」
「気持ちの問題だよ。家同士の手続きは、どうしても時間がかかる。いちいち説明して、君を不安にさせたくなかったんだ」
私を見ないまま、彼は続けた。
「リネアだって、分かっていたはずだ。僕たちは、そういう仲ではなかっただろう?」
私は膝の上で、手を重ねた。
声を整えるために、一度だけ息を吸う。
「私は、結婚するつもりでおりました」
ヴィクトル様の顔が強張った。
「今、そういうことを言う必要があるか?」
「事実を確かめたいというお話でしたので」
彼は黙った。
クララ様が、私のほうへわずかに身体を向けた。それから、彼を見た。
「あなたのお気持ちが変わったことと、お相手に伝えて婚約を終えることは、別のお話です」
「だから、今は終わっているじゃないか」
「私は、終わっていないと知らずに、求婚をお受けしました」
ヴィクトル様は、目に見えて苛立ち始めていた。
「何が問題なんだ。誰も損をしていない。リネアには希望どおりの報酬を払うし、君とは予定どおり結婚する。これ以上、何を――」
「私が、何を知ったうえで承諾したかの問題です」
クララ様は彼の言葉が終わるのを待たなかった。
声を荒らげたわけではない。
それでも、彼は口を閉じた。
「婚礼を急ぎたいとおっしゃいましたね」
「ああ」
「父の事業資金のお話と、関係がありますか」
今度の沈黙は、長かった。
私は二人から視線を外した。
ベルク家とセルダ家の間で、どのような話が進んでいるかは知らない。
私が聞くべきことでないのなら、席を外そうと思った。
「もちろん、家同士の都合もある。貴族の結婚なんだから、当然だろう」
「それについても、私はもう少し詳しく聞く必要がありそうです」
「クララ。何も今日、一度に話さなくても」
「婚礼まで六週間もないのでしょう?」
つい数日前、私が言われた言葉だった。
ヴィクトル様は椅子に座り直した。
そこで初めて、クララ様が隣の席を勧めていないことに気づいたようだった。
「少し、誤解があった。説明が足りなかったことは謝るよ」
「リネア様にも、お願いいたします」
彼は私を見た。
「……急な話になったことは、悪かったと思っている」
私は頷いた。
求めていた言葉とは違う。
けれど、ここで一つずつ言い直させたところで、私が望んでいた三年間には戻らない。
「婚約解消の日付について、今後、違う説明をなさらないでください。私の家にも関わることですので」
「分かった」
「私は、お伝えすることは以上です」
そう言って、鞄を手元へ寄せた。
*
ヴィクトル様が先に退出した後、クララ様はしばらく動かなかった。
私は帰るべきか迷い、机の上の書類をそろえた。
「私、あなたに嫌われていると思っていました」
小さな声に、手を止める。
「観劇のとき、ほとんどお話ししてくださらなかったので。以前の婚約者が、彼の新しい相手を好ましく思わないのは、仕方のないことだと」
「あの日は、飲み物を頼まれておりました。その後は、帰りの馬車を確認していて」
「ええ」
クララ様は目を伏せた。
「今なら、分かります」
私は何も答えられなかった。
あの夜、彼女とゆっくり話していたら、何かが違っただろうか。
そう考えかけて、やめた。
説明すべきだった人は、私でも彼女でもない。
「結婚を、どうなさるのですか」
聞いた後で、踏み込みすぎたかと思った。
けれど、式の担当者としても確かめる必要があった。
クララ様は、すぐには答えなかった。
「今日のことだけで決めて、また何かを知らないままにしたくありません。父と話します。婚姻の条件も、私自身で読み直します」
「承知いたしました」
私は帳面を開いた。
「それでは、追加の発注はいったん止めます。会場の予約と、すでに決まっている分については、費用が変わる前に確認をいたします」
「ご迷惑をおかけします」
「変更があり得ることは、会場にもお伝えします。ただ、いつまでも同じ条件で待っていただけるわけではありませんので、お返事の期限を調べてご連絡いたします」
クララ様は頷いた。
少し前なら、私は大丈夫ですと言っていたかもしれない。
何とかしますから、気になさらないでくださいと。
けれど、自分一人では決められないことがある。
仕事として引き受けた今は、できることも、できないことも伝えなければならない。
帳面を閉じると、クララ様が私を見た。
「もし続けることになったら、私の希望も聞いていただけますか」
「もちろんです。そのために、今日はお会いする予定でしたから」
彼女は少しだけ笑った。
「実は、百二十人も招きたいわけではなかったんです」
私は名簿を思い浮かべた。
伯爵家の親族と取引先で、半分以上を占めている。
「どなたと、一日を過ごしたいですか」
そう聞くと、彼女は初めて、すぐに答えた。
「祖母です。長く座っているのが難しいので、少人数で、短い式がよかったんです」
私は帳面を開き直した。
新しい頁の上に、クララ様の名前を書く。
「お祖母様のお話を、少し伺ってもよろしいでしょうか」
*
帰宅してから、会館へ手紙を書いた。
新たな発注を一時見合わせること。
予定変更の可能性があること。
明日の打ち合わせは、予約条件の確認を中心にしたいこと。
理由については、依頼主のご事情とだけ記した。
封をする前に、もう一枚、小さな便箋を取り出す。
夕食のお約束も取りやめたほうがよろしいでしょうか。
そこまで書いて、ペンを止めた。
婚礼の仕事が減るかもしれない。
進めていた話が止まった。
それなら、食事に誘ってもらう理由もなくなるのではないか。
そう思っていることに気づいた。
昨日、彼は何と言っただろう。
今日の打ち合わせは終わりです。
そのうえで、お誘いしています。
私は書きかけの便箋を脇へ置いた。
新しい紙に、短く書き直す。
『明日は予定どおり伺います。夕食も、ご一緒できれば嬉しく存じます』
仕事の手紙とは別に畳んで、小さな封筒へ入れた。




