第3話 私の名前でお願いします
見取り図では、十分な広さがあるように思えた。
けれど実際に歩くと、庭から広間へ続く通路は、二人並ぶのがやっとだった。
右手には硝子窓。左手には白い壁。
途中に置かれた飾り棚の角へ、私のスカートが触れた。
「当日は、この棚を移していただけますか」
「もちろん。ほかにも邪魔なものがあれば」
エドガー様が帳面を開いた。
私も足を止め、通路の先を見た。
広間へ入る扉は内側に開く。扉の向こうには、給仕が料理を運ぶための脇口があった。
「厨房から庭へ出るときも、ここを通りますか」
「通常は」
「では、雨が降ってお客様が戻られるところへ、給仕の方が出てくるかもしれませんね」
エドガー様は広間の扉を開け、厨房側を振り返った。
「……鉢合わせになりますね」
「飲み物を載せた盆があると危険です。お客様が移動する間だけでも、給仕を止められれば」
「厨房へ合図を送る者が必要だ」
「庭から一人走らせると、その方まで人の流れに逆らうことになります」
私は見取り図へ指を滑らせた。
厨房の外側に、小さな四角が描かれている。
「こちらは?」
「荷受け口です。中庭へ出られますが、客に見せるような場所ではありません」
「拝見しても?」
彼はすぐに頷いた。
厨房の脇を抜けると、石敷きの小さな庭に出た。木箱が壁際に積まれ、空の樽が二つ並んでいる。
向かい側には、庭園へ続く鉄の門があった。
近づいてみると、通れる幅は十分にある。
「給仕の方はこちらを使えますね」
「雨の中を?」
「料理を運ぶには、覆いが必要です。ただ、空いた盆を戻すだけでしたら」
私はそこで言葉を止めた。
床石の一枚が、少し浮いている。急いで歩けば、つま先を引っかけそうだった。
「……すみません。まず、こちらを直してからです」
エドガー様が私の視線を追った。
「これは今日中に手配します」
「当日までに直していただければ」
「会館の者も毎日通りますから」
彼はしゃがみ、石の端を指で押した。反対側がかすかに動いた。
「気づいてよかった」
そう言って帳面に書き込んだ。
私に向けた言葉なのだと、少し遅れて気づいた。
*
庭園は、白い薔薇の盛りを少し過ぎていた。
中央の芝生を囲むように小道があり、その先に石造りの東屋がある。
「新郎新婦はこちらに。列席者の席は、芝生の上へ並べる予定です」
エドガー様が東屋を示した。
なるほど、晴れた日には美しい。
白い柱の間に花嫁が立てば、よく映えるだろう。
私は招待客の一覧を開いた。
「百二十名ですと、後ろの席からは少し見えにくいかもしれません。中央の通路を広げて、椅子を斜めに置くことはできますか」
「倉庫にある椅子で、試してみましょう」
「今からですか?」
「紙の上だけでは分かりませんから」
彼は近くで枝を払っていた庭師に声をかけ、自分も倉庫へ向かった。
戻ってきたときには、両手に一脚ずつ椅子を持っていた。
私も手伝おうとしたが、帳面と名簿を抱えていて、片手が空かない。
「そこへ置きましょうか」
エドガー様が、小道沿いの長椅子を顎で示した。
「書類を。風で飛ばないよう、何か載せます」
「いえ、私は配置を」
「では、お願いします。どこへ?」
私は芝生を見た。
東屋からの距離を測り、最初の一脚の位置を指す。
彼はそこへ椅子を置いた。
次の一脚を少し斜めにし、後ろへ回って見え方を確かめる。
「これなら、中央は見えますね」
「もう少し外側へ広げてもよろしいでしょうか」
「このくらい?」
「はい」
椅子を動かすたび、脚が草を踏む小さな音がした。
誰かに指示を出して、それがそのまま受け取られる。
伯爵家でも、使用人たちは私の話を聞いてくれた。けれど、ヴィクトル様が途中で別のことを言えば、誰もが私の顔を見た。
どちらに従えばよいのか、私が決めなければならなかった。
彼の顔を立てながら、間に合うように。誰にも不満を残さないように。
「フェルド様?」
「……失礼しました。この配置で、一度図面を作ります」
私は名簿に目を戻した。
その中に、見覚えのある名前があった。
「ベイラム夫人もお越しになります」
「ご存じの方ですか」
「足を悪くしていらっしゃいます。長い距離を歩くのと、低い椅子から立ち上がるのが難しくて」
先月、私の手を取ってくださった老婦人だった。
庭の入口から東屋までを見渡す。
濡れた芝生を歩いていただくわけにはいかない。
「小道のそばに、お席を設けたいです。同伴のご主人も隣へ」
「肘掛けのある椅子を使いましょう。広間に何脚かあります」
「皆様と違う椅子ですと、気になさるかもしれません」
夫人は、手を貸されるたび申し訳なさそうにしていた。
ほかの客を待たせたくないからと、休まず歩こうともした。
エドガー様は東屋を眺めた。
「最前列を、同じ椅子でそろえるのはどうでしょう。ご年配のご親族も、何人かいらっしゃるはずです」
名簿を確かめる。
六脚あれば足りる。
「それなら、自然ですね」
「では六脚。夫人には、事前に座面の高さを確認できるとよいのですが」
「私からお手紙を差し上げます」
帳面に書きつける。
必要なことが、一つずつ決まっていった。
*
昼を少し過ぎた頃、私たちは応接室へ戻った。
会館の支配人だという年配の男性が、見積もりの控えを持ってきた。
「セルダ家へお送りするものですが、宛名はヴィクトル様でよろしいでしょうか」
「お支払いに関する書類は、伯爵家の執事の方へ。配置や進行のご相談は、私へお願いいたします」
「では、伯爵家気付でフェルド様に」
ペンを取った支配人を、私は慌てて止めた。
「私の家へ、お送りいただけますか」
声が少し大きくなった。
支配人が顔を上げる。
「申し訳ありません。私は今後、伯爵家へ毎日伺うわけではありませんので」
「そうでしたか。では、ご住所を」
差し出された紙へ、自宅の住所を書いた。
エドガー様が、見積書の別の箇所に目を留めた。
「ここも直してください」
担当者の欄だった。
セルダ家婚礼係、と書かれている。
「リネア・フェルド様です。以後の控えも統一を」
「かしこまりました」
支配人が退室すると、私は書類をそろえた。
「ありがとうございます」
「連絡先が違うと、お返事が遅れますから」
「いえ、お名前のほうも」
彼は少しだけ考える顔をした。
「そう記載してほしいと、伺いましたので」
それ以上の説明はなかった。
私の頼んだことを、覚えていてくれた。
それだけのことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
応接室の扉が開き、盆を持った若い女性が入ってきた。
お茶と、薄く切ったパン。チーズと冷たい肉、それに小さな林檎が載っている。
「厨房の者と同じもので恐縮ですが」
エドガー様が言った。
「休憩にしましょう」
「ありがとうございます。では、その間に席順を――」
「先に召し上がりませんか。紙に染みがつくと困ります」
私は開きかけた帳面を閉じた。
彼は何も言わず、自分の図面も畳んだ。
パンを一口食べてから、急に空腹に気づいた。
*
午後は、広間へ百二十名が入った場合の配置を検討した。
最初に考えた案では、給仕の通る幅が足りなかった。
卓を減らせば、一卓あたりの人数が増える。椅子を詰めれば座れないことはないが、婚礼衣装の裾を踏みかねない。
「隣の小広間も開けてはどうでしょう」
私が提案すると、エドガー様は首を振った。
「中央の柱で、こちら側の客から新郎新婦が見えなくなります」
実際にそこへ立ってみる。
彼の言うとおりだった。
「失礼しました。見取り図だけで考えておりました」
「私も庭の通路では同じことをしました」
彼は長卓の端に手をかけた。
「向きを変えてみましょうか」
会館の使用人にも手伝ってもらい、卓を二列に並べ直す。
その間を歩く。
狭いところでは立ち止まり、椅子を引いて、人が座った場合の幅を測った。
ようやく無理なく通れる形になったときには、窓から差す光が薄い橙色に変わっていた。
「雨天用は、ひとまずこれで」
私は図面の端に、日付を書き入れた。
「庭で始めてから降りだした場合については、改めて考えます。誓いの儀式の途中ですと、全員が一度に動こうとなさるでしょうから」
「次回、給仕長にも同席してもらいます」
「お願いいたします」
帳面を閉じる。
今日は何度、お願いしただろう。
頼む前に、自分でできないか考える癖がついていた。誰かの手を止めることが申し訳なくて、抱えたまま走ることもあった。
けれど、今日一人で来て、一人で測り、一人で卓を動かそうとしていたら、半分も終わらなかった。
エドガー様が窓の外を見た。
「もう閉館の時刻ですね」
「長居してしまい、申し訳ありません」
「こちらこそ、ずいぶん歩かせました」
彼の袖口に、薄く土がついていた。
庭で椅子を並べたときのものだろう。
私の靴も、きっと同じようになっている。
なぜか、それがおかしくなった。
「何か?」
「いえ。次は、もう少し歩きやすい靴で伺います」
「私も、卓を運びやすい上着にします」
声を立てて笑いそうになり、口元を押さえた。
彼も少し笑っていた。
鞄の留め金を閉じると、エドガー様が扉を開けた。
玄関まで並んで歩く。
仕事を終えて帰るのだと思うと、足は疲れているのに、朝より軽かった。
「フェルド様」
帽子を受け取ったところで、呼び止められた。
「この後、ご予定はありますか」
「帰宅するだけですが」
「よろしければ、夕食をご一緒しませんか。近くに、小さな店があるんです」
私は鞄を抱え直した。
「何か、確認し忘れたことがございましたか」
「いいえ」
「では、追加のご相談でしょうか」
エドガー様は一度口を開き、それから閉じた。
言葉を選ぶような間があった。
「今日の打ち合わせは、終わりです」
「……はい」
「そのうえで、お誘いしています」
玄関の外で、門を閉める準備の音がした。
私は彼の顔を見た。
冗談を言っている様子はない。
「私と、ですか」
「ええ」
何と答えればよいのか、分からなかった。
仕事の内容なら聞ける。予算と日程を確かめて、できることを返事すればいい。
けれど今は、何も頼まれていない。
エドガー様は、急いで言い添えた。
「ご都合が悪ければ、また別の日に」
「いえ」
断りたいわけではなかった。
それに気づいてから、鞄を抱く腕の力を緩めた。
「父へ、帰りが遅くなると知らせてもよろしいでしょうか」
「もちろん。使いを出します」
彼が支配人へ声をかける間、私は玄関脇の鏡を見た。
帽子のリボンが、また片方だけ長くなっていた。
今度は、ゆっくり結び直した。




