第2話 婚約者ではなく、依頼主として
父は、胡桃の焼き菓子を二つに割ったところで動きを止めた。
「別の女性と結婚する。それで、お前に式の準備を頼んだ?」
「はい」
「……私の聞き間違いではなく?」
「私も、最初はそう思いました」
父は皿に菓子を戻した。
しばらく黙っていたので、私は紅茶のポットに手を伸ばした。まだ半分以上入っている父のカップへ、注ぎ足そうとしてしまう。
「リネア」
手が止まった。
「お茶はいい。座っていなさい」
ポットを置くと、指先が少し濡れていた。
父はそれを見て、私のほうへ布巾を寄せた。
「お前は、どうしたい」
「婚約を、解消したいです」
口にするまで、こんなに怖いとは思わなかった。
伯爵家との縁談を父が喜んでいたことは知っている。婚約が決まった夜、亡くなった母の肖像画に向かって、よかったなと話しかけていたことも。
「申し訳ありません」
「何を謝る」
「せっかく、まとまったお話でしたのに」
父は眉間を押さえた。
怒られるのだと思い、背筋を伸ばす。
「私は、お前が大切にされると思って喜んだんだ」
目の前の皿が、滲んだ。
「伯爵家に出入りできれば、それでいいわけではない」
何か返事をしようとして、うまく息を吸えなかった。
父は急かさなかった。私が布巾で指を拭き、目元を押さえるまで、割った菓子にも手をつけなかった。
落ち着いてから、仕事の依頼について話した。
「引き受けるつもりなのか」
「条件が合えば、と思っています」
「断ってもいいんだぞ」
「はい」
断れる。
父にそう言われて、かえって自分の考えがはっきりした。
「これまでのお仕事を、なかったことにしたくないんです」
花屋も、料理人も、楽団も、私のことを知っている。
けれど、誰かに紹介するときは皆、伯爵家の婚約者だと言った。それ以外に、私を説明する言葉がなかったから。
「私の名前で、一つ最後までやってみたいんです。その代わり、今までと同じようには働きません」
父はしばらく私を見ていた。
「ならば、まず婚約の話を終わらせよう。仕事を引き受けるかは、それから決めなさい」
翌朝、父はセルダ伯爵家へ使いを出した。
*
「で、いくら取るつもり?」
マルタさんは、私の持ってきた紙に目を落とした。
工房の奥では、二人の針子が婚礼衣装の裾を縫っている。窓辺に積まれた白い布を見て、胸が小さく痛んだ。
「このくらいかと」
書いた金額を指す。
マルタさんは私の顔を見た。それからもう一度、紙を見た。
「これは一週間分?」
「式が終わるまでの、全部です」
「六週間だよね」
「はい。ただ、衣装も料理も私が作るわけではありませんし」
「じゃあ、あんたは何をするの」
私は考えながら答えた。
会場との打ち合わせ。予算の調整。招待客の人数確認。席順。業者ごとの納期。前日の確認。当日の進行。
「雨が降ったら?」
「庭が使えませんので、屋内へ移す手順を」
「料理が遅れたら?」
「給仕長と相談して、楽団の演奏を延ばすか、挨拶の順番を変えます」
「客が予定より増えたら?」
「増えた人数にもよりますが、まず席と料理を――」
「それを引き受ける人間の値段を、聞いてるんだよ」
私は口を閉じた。
マルタさんは、私の紙を裏返した。
「まず、何日使うか書いてごらん。外へ出る日だけじゃない。家で名簿を作る時間も、手紙を書く時間も入れて」
書き出していくと、思っていたより多かった。
帳面を開く日。返事を待つ間に別の手配を進める日。一度決めた席順を、親族の都合で組み直す時間。
「それから、引き受けないこと」
「引き受けないこと、ですか」
「伯爵家の普段の昼食会。婚礼と関係ない買い物。式が終わった翌週の夜会。頼まれたら全部やる気?」
「いいえ」
「なら書く。相手が分かってくれるのを待っていたら、また同じになる」
私は紙に線を引いた。
婚礼準備および当日の総合進行。
それ以外の依頼は、別途相談。
文字にすると、少し息がしやすくなった。
「花屋への支払いは、伯爵家から直接にしてもらうんだよ。あんたの財布を間に挟まないこと」
「はい」
「報酬も最後にまとめてじゃない。先に一部を受け取る。仕事を始めてから、払う払わないでもめるのは厄介だからね」
私は頷き、書きつけた。
その横に、マルタさんが指を置く。
「あと一つ。誰が仕事をしたか、客に分かるようにしておきなさい」
顔を上げた。
「そんなことを、お願いしてもよいのでしょうか」
「あたしは作った服に工房の札を縫いつけるよ。あんたにも、あっていいだろう」
紙の空いている場所を見た。
今までは、伯爵家のために働いていた。
次の仕事につなげるのなら、私が担当したと知ってもらわなければならない。
ペン先を、もう一度インクに浸した。
*
婚約解消の話し合いは、その三日後に行われた。
セルダ伯爵は、息子よりもずっと慎重だった。
新しい縁組は家にとって重要であること。私に落ち度があったわけではないこと。急な話になったことは申し訳なく思っていること。
父は黙って聞いた後、用意してきた書面を差し出した。
「では、解消はそちらからのお申し出であり、娘に非はない。その点を明記してください」
伯爵は頷いた。
必要な箇所を確認し、署名する。
私も自分の名前を書いた。
三年続いた婚約は、紙の上では数行で終わった。
ヴィクトル様は署名を済ませると、早く次へ進みたそうに私を見た。
「これで、式の準備に入れるね」
私はペンを置いた。
「ご契約いただけるのでしたら」
鞄から、別の書類を取り出す。
婚礼の手配内容と、報酬の見積書。
昨夜、父に二度読んでもらったものだった。
ヴィクトル様は金額を見るなり、顔を上げた。
「こんなにかかるのか?」
「私への報酬です。会場費や料理代は、別に記載しております」
「それは読めば分かるよ。君一人に払う金額として、高くないかと言っているんだ」
膝の上で、指を組みそうになった。
ほどいて、書類の一行を指す。
「準備から当日の進行までを担当いたします。業者との調整や、予定変更への対応も含みます」
「だが、今までとやることは同じだろう」
「はい。今まで行ってきた仕事のお値段です」
自分で言って、胸の奥がどきりとした。
マルタさんの前では、何度も言い直した言葉だった。
ヴィクトル様は書面をめくった。
「契約時に四割?」
「準備完了時に四割、終了後に残りをお願いいたします。婚礼以外のご用事は含みません」
「こんなに細かく決めなくても、互いに分かっているじゃないか」
「私は、分かっておりませんでしたので」
思わず出た言葉に、彼が黙った。
私も、それ以上は続けなかった。
伯爵が手を伸ばし、息子から見積書を受け取った。
「他へ依頼する場合は、どうなる」
「そちらにお任せいたします」
言い切ってから、呼吸を整えた。
「ただ、私はその場合、手配には関わりません。こちらは、私がお引き受けできる条件です」
伯爵は書面を読み直した。
会場の仮押さえの期限は、明後日だった。花屋も料理人も、正式な担当者と予算が決まるのを待っている。私が勝手に止めたのではない。引き受ける前に動かなかっただけだ。
「担当者としての氏名掲示。閉会時の紹介……」
「今後も、この仕事を続けたいと考えておりますので」
「伯爵家の式で、商売の宣伝をするのか?」
ヴィクトル様の声が硬くなった。
私は彼を見た。
「依頼を受けてお仕事をするのでしたら、実績として紹介させていただきたいのです」
伯爵は、そこで小さく息をついた。
「不当な条件ではない。料理人も楽団も、どこの誰に頼んだかは客に伝わる」
ヴィクトル様が何か言いかける。
伯爵はそれを手で制した。
「この内容で頼もう」
私はすぐには返事ができなかった。
断られることばかり考えていたのだと、そのとき気づいた。
父が隣で、静かに咳払いをした。
背筋を伸ばす。
「ありがとうございます。お引き受けいたします」
契約書には、婚約の書面と同じ名前を書いた。
けれど今度は、誰かの妻になる約束ではなかった。
*
二日後、契約金の受領書を鞄に入れて、私はルース庭園会館を訪れた。
何度か伯爵家の用事で来たことのある場所だ。
門の向こうには、刈り込まれた生け垣と、淡い黄色の建物が見えた。庭の奥で、作業着の男性が植木鉢を持ち上げている。
「フェルド様」
呼びかけに振り向くと、玄関から一人の男性が出てきた。
会館主の、エドガー・ルース様だった。
以前、夜会の途中で馬車を一台追加してほしいと頼んだことがある。彼は事情を聞くと自分で御者を探しに行き、戻ってから私にも椅子を勧めてくれた。
そのときは、座らずに帰ったけれど。
「お待ちしていました。セルダ家の婚礼ですね」
「はい。本日から、私が手配を担当いたします」
鞄から契約内容の控えを出す。
エドガー様は受け取り、担当者の欄に目を留めた。
「ご連絡も、すべてフェルド様へ?」
「お願いいたします。大きな変更は依頼主への確認が必要ですが、日程や業者との調整は私が」
「分かりました」
それだけ言って、彼は扉を開けた。
なぜ私が花嫁ではないのか、とは聞かなかった。
応接用の机には、庭と建物の見取り図が広げられていた。片隅に置かれた打ち合わせ用紙には、まだ担当者名が入っていない。
彼がペンを取った。
「お名前は、どう記載しましょう」
私は、少しだけ迷った。
伯爵家の、と言いかけた言葉を飲み込む。
「リネア・フェルドと、お願いいたします」
彼は頷き、私の名前を書いた。
その下に、自分の名前も並べる。
「では、フェルド様。まず庭をご覧いただけますか。ご相談したいことがあります」
「どのようなことでしょう」
「晴れていれば、申し分ない会場です」
私は見取り図へ目を落とした。
庭から建物へ続く通路は、一本しか描かれていなかった。
「雨が降った場合、ですね」
顔を上げると、エドガー様がわずかに笑った。
「ええ。そこから一緒に考えていただきたい」
私は鞄から、自分の帳面を取り出した。




