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『婚約者の結婚式を任されたので、きっちり成功させて縁を切ります』  作者: やまご


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2/12

第2話 婚約者ではなく、依頼主として

父は、胡桃の焼き菓子を二つに割ったところで動きを止めた。


「別の女性と結婚する。それで、お前に式の準備を頼んだ?」


「はい」


「……私の聞き間違いではなく?」


「私も、最初はそう思いました」


 父は皿に菓子を戻した。


 しばらく黙っていたので、私は紅茶のポットに手を伸ばした。まだ半分以上入っている父のカップへ、注ぎ足そうとしてしまう。


「リネア」


 手が止まった。


「お茶はいい。座っていなさい」


 ポットを置くと、指先が少し濡れていた。


 父はそれを見て、私のほうへ布巾を寄せた。


「お前は、どうしたい」


「婚約を、解消したいです」


 口にするまで、こんなに怖いとは思わなかった。


 伯爵家との縁談を父が喜んでいたことは知っている。婚約が決まった夜、亡くなった母の肖像画に向かって、よかったなと話しかけていたことも。


「申し訳ありません」


「何を謝る」


「せっかく、まとまったお話でしたのに」


 父は眉間を押さえた。


 怒られるのだと思い、背筋を伸ばす。


「私は、お前が大切にされると思って喜んだんだ」


 目の前の皿が、滲んだ。


「伯爵家に出入りできれば、それでいいわけではない」


 何か返事をしようとして、うまく息を吸えなかった。


 父は急かさなかった。私が布巾で指を拭き、目元を押さえるまで、割った菓子にも手をつけなかった。


 落ち着いてから、仕事の依頼について話した。


「引き受けるつもりなのか」


「条件が合えば、と思っています」


「断ってもいいんだぞ」


「はい」


 断れる。


 父にそう言われて、かえって自分の考えがはっきりした。


「これまでのお仕事を、なかったことにしたくないんです」


 花屋も、料理人も、楽団も、私のことを知っている。


 けれど、誰かに紹介するときは皆、伯爵家の婚約者だと言った。それ以外に、私を説明する言葉がなかったから。


「私の名前で、一つ最後までやってみたいんです。その代わり、今までと同じようには働きません」


 父はしばらく私を見ていた。


「ならば、まず婚約の話を終わらせよう。仕事を引き受けるかは、それから決めなさい」


 翌朝、父はセルダ伯爵家へ使いを出した。


     *


「で、いくら取るつもり?」


 マルタさんは、私の持ってきた紙に目を落とした。


 工房の奥では、二人の針子が婚礼衣装の裾を縫っている。窓辺に積まれた白い布を見て、胸が小さく痛んだ。


「このくらいかと」


 書いた金額を指す。


 マルタさんは私の顔を見た。それからもう一度、紙を見た。


「これは一週間分?」


「式が終わるまでの、全部です」


「六週間だよね」


「はい。ただ、衣装も料理も私が作るわけではありませんし」


「じゃあ、あんたは何をするの」


 私は考えながら答えた。


 会場との打ち合わせ。予算の調整。招待客の人数確認。席順。業者ごとの納期。前日の確認。当日の進行。


「雨が降ったら?」


「庭が使えませんので、屋内へ移す手順を」


「料理が遅れたら?」


「給仕長と相談して、楽団の演奏を延ばすか、挨拶の順番を変えます」


「客が予定より増えたら?」


「増えた人数にもよりますが、まず席と料理を――」


「それを引き受ける人間の値段を、聞いてるんだよ」


 私は口を閉じた。


 マルタさんは、私の紙を裏返した。


「まず、何日使うか書いてごらん。外へ出る日だけじゃない。家で名簿を作る時間も、手紙を書く時間も入れて」


 書き出していくと、思っていたより多かった。


 帳面を開く日。返事を待つ間に別の手配を進める日。一度決めた席順を、親族の都合で組み直す時間。


「それから、引き受けないこと」


「引き受けないこと、ですか」


「伯爵家の普段の昼食会。婚礼と関係ない買い物。式が終わった翌週の夜会。頼まれたら全部やる気?」


「いいえ」


「なら書く。相手が分かってくれるのを待っていたら、また同じになる」


 私は紙に線を引いた。


 婚礼準備および当日の総合進行。


 それ以外の依頼は、別途相談。


 文字にすると、少し息がしやすくなった。


「花屋への支払いは、伯爵家から直接にしてもらうんだよ。あんたの財布を間に挟まないこと」


「はい」


「報酬も最後にまとめてじゃない。先に一部を受け取る。仕事を始めてから、払う払わないでもめるのは厄介だからね」


 私は頷き、書きつけた。


 その横に、マルタさんが指を置く。


「あと一つ。誰が仕事をしたか、客に分かるようにしておきなさい」


 顔を上げた。


「そんなことを、お願いしてもよいのでしょうか」


「あたしは作った服に工房の札を縫いつけるよ。あんたにも、あっていいだろう」


 紙の空いている場所を見た。


 今までは、伯爵家のために働いていた。


 次の仕事につなげるのなら、私が担当したと知ってもらわなければならない。


 ペン先を、もう一度インクに浸した。


     *


 婚約解消の話し合いは、その三日後に行われた。


 セルダ伯爵は、息子よりもずっと慎重だった。


 新しい縁組は家にとって重要であること。私に落ち度があったわけではないこと。急な話になったことは申し訳なく思っていること。


 父は黙って聞いた後、用意してきた書面を差し出した。


「では、解消はそちらからのお申し出であり、娘に非はない。その点を明記してください」


 伯爵は頷いた。


 必要な箇所を確認し、署名する。


 私も自分の名前を書いた。


 三年続いた婚約は、紙の上では数行で終わった。


 ヴィクトル様は署名を済ませると、早く次へ進みたそうに私を見た。


「これで、式の準備に入れるね」


 私はペンを置いた。


「ご契約いただけるのでしたら」


 鞄から、別の書類を取り出す。


 婚礼の手配内容と、報酬の見積書。


 昨夜、父に二度読んでもらったものだった。


 ヴィクトル様は金額を見るなり、顔を上げた。


「こんなにかかるのか?」


「私への報酬です。会場費や料理代は、別に記載しております」


「それは読めば分かるよ。君一人に払う金額として、高くないかと言っているんだ」


 膝の上で、指を組みそうになった。


 ほどいて、書類の一行を指す。


「準備から当日の進行までを担当いたします。業者との調整や、予定変更への対応も含みます」


「だが、今までとやることは同じだろう」


「はい。今まで行ってきた仕事のお値段です」


 自分で言って、胸の奥がどきりとした。


 マルタさんの前では、何度も言い直した言葉だった。


 ヴィクトル様は書面をめくった。


「契約時に四割?」


「準備完了時に四割、終了後に残りをお願いいたします。婚礼以外のご用事は含みません」


「こんなに細かく決めなくても、互いに分かっているじゃないか」


「私は、分かっておりませんでしたので」


 思わず出た言葉に、彼が黙った。


 私も、それ以上は続けなかった。


 伯爵が手を伸ばし、息子から見積書を受け取った。


「他へ依頼する場合は、どうなる」


「そちらにお任せいたします」


 言い切ってから、呼吸を整えた。


「ただ、私はその場合、手配には関わりません。こちらは、私がお引き受けできる条件です」


 伯爵は書面を読み直した。


 会場の仮押さえの期限は、明後日だった。花屋も料理人も、正式な担当者と予算が決まるのを待っている。私が勝手に止めたのではない。引き受ける前に動かなかっただけだ。


「担当者としての氏名掲示。閉会時の紹介……」


「今後も、この仕事を続けたいと考えておりますので」


「伯爵家の式で、商売の宣伝をするのか?」


 ヴィクトル様の声が硬くなった。


 私は彼を見た。


「依頼を受けてお仕事をするのでしたら、実績として紹介させていただきたいのです」


 伯爵は、そこで小さく息をついた。


「不当な条件ではない。料理人も楽団も、どこの誰に頼んだかは客に伝わる」


 ヴィクトル様が何か言いかける。


 伯爵はそれを手で制した。


「この内容で頼もう」


 私はすぐには返事ができなかった。


 断られることばかり考えていたのだと、そのとき気づいた。


 父が隣で、静かに咳払いをした。


 背筋を伸ばす。


「ありがとうございます。お引き受けいたします」


 契約書には、婚約の書面と同じ名前を書いた。


 けれど今度は、誰かの妻になる約束ではなかった。


     *


 二日後、契約金の受領書を鞄に入れて、私はルース庭園会館を訪れた。


 何度か伯爵家の用事で来たことのある場所だ。


 門の向こうには、刈り込まれた生け垣と、淡い黄色の建物が見えた。庭の奥で、作業着の男性が植木鉢を持ち上げている。


「フェルド様」


 呼びかけに振り向くと、玄関から一人の男性が出てきた。


 会館主の、エドガー・ルース様だった。


 以前、夜会の途中で馬車を一台追加してほしいと頼んだことがある。彼は事情を聞くと自分で御者を探しに行き、戻ってから私にも椅子を勧めてくれた。


 そのときは、座らずに帰ったけれど。


「お待ちしていました。セルダ家の婚礼ですね」


「はい。本日から、私が手配を担当いたします」


 鞄から契約内容の控えを出す。


 エドガー様は受け取り、担当者の欄に目を留めた。


「ご連絡も、すべてフェルド様へ?」


「お願いいたします。大きな変更は依頼主への確認が必要ですが、日程や業者との調整は私が」


「分かりました」


 それだけ言って、彼は扉を開けた。


 なぜ私が花嫁ではないのか、とは聞かなかった。


 応接用の机には、庭と建物の見取り図が広げられていた。片隅に置かれた打ち合わせ用紙には、まだ担当者名が入っていない。


 彼がペンを取った。


「お名前は、どう記載しましょう」


 私は、少しだけ迷った。


 伯爵家の、と言いかけた言葉を飲み込む。


「リネア・フェルドと、お願いいたします」


 彼は頷き、私の名前を書いた。


 その下に、自分の名前も並べる。


「では、フェルド様。まず庭をご覧いただけますか。ご相談したいことがあります」


「どのようなことでしょう」


「晴れていれば、申し分ない会場です」


 私は見取り図へ目を落とした。


 庭から建物へ続く通路は、一本しか描かれていなかった。


「雨が降った場合、ですね」


 顔を上げると、エドガー様がわずかに笑った。


「ええ。そこから一緒に考えていただきたい」


 私は鞄から、自分の帳面を取り出した。

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