第1話 花嫁の欄には、知らない名前
「君に、僕たちの結婚式を任せたい」
ヴィクトル様が差し出した紙には、見事な金の縁取りがあった。
ようやく日取りが決まったのだろうか。
私は膝の上で指をそろえた。嬉しいときにすぐ顔へ出るのは、はしたない。三年前、この家に通い始めた頃、彼のお母様にそう教わった。
それでも、口元が緩むのを抑えられなかった。
「式は六週間後を考えている。少し急だが、君なら間に合わせられるだろう?」
「まず会場を押さえませんと。招待状も、遠方の方には早くお送りしなければ……」
答えながら、頭の中で予定を組み立てる。
花は白を基調にしたい。料理は、父の好きな魚の包み焼きを入れられるだろうか。楽団には――。
そこまで考えて、気がついた。
自分の結婚式なのに、私はもう手配する側のことばかり考えている。
少しおかしくなって、笑いかけたまま紙を受け取った。
花婿、ヴィクトル・セルダ。
花嫁、クララ・ベルク。
笑みが、そのまま止まった。
紙の端を押さえ、もう一度読む。
クララ・ベルク。
私の名前は、リネア・フェルドだ。
「……花嫁のお名前が、違っております」
「違っていないよ。ベルク商会のお嬢さんだ。先月の観劇で紹介しただろう?」
淡い緑のドレスを着た女性が浮かんだ。
幕間に、ヴィクトル様の隣で笑っていた人。私は彼に頼まれて飲み物を取りに行き、戻ってから挨拶だけした。
「彼女と結婚することになったんだ。父上も喜んでくださっている」
応接室の時計が、かちりと鳴った。
私は紙から顔を上げた。
「私との婚約は、どうなりますか」
「もちろん解消する。父上から君のお父上へ、話をしてもらうつもりだ」
「父は、まだ何も聞いておりません」
「これからだと言っているだろう」
ヴィクトル様は、少しだけ眉を寄せた。
聞き分けの悪いことを言ったときの顔だった。
けれど、何を聞き分ければいいのか分からなかった。
私たちの婚約は三年続いている。今朝も父は、そろそろ式の日取りを相談しなければと話していた。私は帰りに菓子を買って、父と一緒に食べながら、その話をするつもりだった。
「急に言われても、驚きます」
「だから、君に直接説明しているんじゃないか。人づてに聞くよりいいだろう?」
彼は椅子に深く座り直した。
「クララは明るい人なんだ。初対面の相手とも話が弾むし、大勢の前に出ても物怖じしない。伯爵家の妻として、申し分ないと思っている」
私は膝の上の紙を見た。
金の縁取りが、窓から入る光を受けていた。
「……そうですか」
「君には君のよさがある。細かなことによく気がつくし、何を頼んでも間違いがない。だから結婚式も、ぜひ君に任せたい」
聞き間違いでは、なかった。
彼は本当に、自分が別の女性と結婚するための準備を、私にさせるつもりなのだ。
「ご結婚の後も、ですか」
「できればね。クララは手配のような細々したことには慣れていない。君が引き続き助けてくれれば、彼女も心強いだろう」
ヴィクトル様は、ようやく話が進んだというように微笑んだ。
「君だって、客の前に出るより裏方のほうが気楽じゃないか」
私は、客の前に出るのが嫌だと言ったことはない。
夜会で踊りに誘われたこともあった。
そのたびに、先に厨房を見てきてほしい、帰りの馬車を確認してほしいと頼まれた。用事を済ませて戻る頃には、曲は終わっていた。
何度か続くうちに、誘われなくなった。
それを彼は、私が望んだことだと思っていたのだろうか。
時計が四時を告げた。
明日の昼食会の人数を、厨房へ知らせなければ。
いつもの癖で腰を浮かせてから、私は座り直した。
「どうした?」
「……いいえ」
膝の上で紙をそろえる。
昨日、料理長から尋ねられたのだ。客は十二人なのか、十四人なのか。ヴィクトル様に確認しますと答えたまま、まだ返事をしていない。
そんなことまで、覚えていた。
自分の婚約が終わると聞かされた今でさえ。
「会場はルース庭園会館がいい。クララが気に入っていてね。庭で誓いの儀式をして、その後に――」
「ヴィクトル様」
「何だい?」
「私が、お断りするとはお考えにならなかったのですか」
彼は言葉を止めた。
それから、困ったように笑った。
「気を悪くしたのなら謝るよ。でも、君の腕を認めているから頼んでいるんだ」
先月の夜会を思い出した。
足の悪い夫人のために、控室を階段の手前へ移した。途中で休めるよう、廊下にも椅子を置いた。
帰り際、夫人は私の手を取ってくださった。
おかげで夫と最後まで楽しめたわ、と。
隣にいたヴィクトル様は、どういたしましてと答えた。
私は何も言わなかった。この家の評判になるなら、それでいいと思っていた。
いつか私も、この家の一員になるのだから。
「結婚式のご依頼については、条件を伺ってからお返事いたします」
自分の声が、思ったより静かに聞こえた。
ヴィクトル様はほっとした顔になった。
「それなら、今から――」
「その前に、婚約解消の手続きをお願いいたします。父への説明も、正式に」
「それは父上に任せると言っただろう」
「手続きが済むまでは、準備には取りかかれません」
彼の指が、椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「六週間しかないんだよ」
「はい。ですから、お早めに」
少しの間、時計の音だけがした。
私は続けた。
「報酬についても、ご相談させてください」
「……報酬?」
「ご希望の規模と内容を伺って、見積書をお持ちします」
「今まで、そんな話をしたことはないだろう」
「今までは、あなたの妻になるつもりでしたので」
言い終える前に、喉が痛くなった。
妻になるつもりだった。
夜会が終わった後、一緒にお茶を飲める日も来ると思っていた。客を見送る彼のために、先に片づけを済ませておこうと思った。
片づけが終わる頃には、彼はいつも自室へ戻っていた。
疲れているのだろう。また次の機会に。
そう思って、帰っていた。
「リネア。金の話をしたいわけじゃないんだ」
「私は、仕事のお話をしております」
膝に置いていた依頼書を、テーブルへ戻した。
まだ、引き受けたわけではない。
それに、持って帰ったら、途中で何度も花嫁の名前を見てしまいそうだった。
「今日は失礼いたします」
「待ってくれ。まだ会場の話も終わっていない」
「父に相談しなければなりませんので」
立ち上がると、膝が頼りなかった。
椅子の背にはつかまらず、スカートの皺を伸ばすふりをした。
扉まで歩いたところで、背後から声がかかった。
「君には、これからも頼りにしていると伝えたかったんだよ」
取っ手を握る手が止まった。
その一言で、何度予定を変えただろう。
仕立て屋へ行く日も、父と食事をする夕方も。必要とされることが嬉しくて、頼まれる前に用事を探すようになっていた。
扉を開けた。
「明日の昼食会の人数は、料理長に直接お伝えください。確認を待っていらっしゃいます」
返事を待たず、廊下に出た。
*
玄関で、老執事が私の帽子を持ってきてくれた。
「本日は、お早いお帰りですね」
「ええ」
「馬車をお呼びいたしましょうか」
私は首を振った。
少し歩きたかった。
誰にも顔を見られずに済む道を、選びたかった。
門を出ると、風が強かった。帽子のリボンがほどけ、頬に当たる。
結び直そうとして、うまくいかなかった。
手が震えていた。
あの部屋では言えたのに。
報酬だとか、見積書だとか。まるで、きちんと分かっている人のように。
職人への支払いなら、何度も計算したことがある。花一籠の値段も、楽団を一晩呼ぶ費用も知っている。
けれど、自分の一日がいくらなのかは、考えたことがなかった。
門柱の陰で、もう一度リボンを結んだ。
今度も、片方が長くなった。
構わず歩きだす。
まずは父に話そう。
それから、仕立て屋のマルタさんに聞こう。初めて自分の仕事に値段をつけたとき、どうしたのか。
通りの角まで来たところで、いつもの菓子店が見えた。
父に買って帰るはずだった、胡桃の焼き菓子が並んでいる。
私は店の前で足を止め、財布を開いた。
二人分を買おう。
今日はきっと、お茶だけでは話し終えられない。




