3. 本日も、未遂です
三日目にして判明した事実。この獲物は、放っておくと寝ない。食べない。休まない。
「執務中だ」
「執務中に亡くなった当主が、歴代で三人おられます。当家の記録を読みました」
「よく調べたな」
「敵情視察は基本ですので」
過労というのは、私の商売の言葉で言えば「時間の掛かる自殺」である。そして自死も病死も、掟の上では仕損じだ。冗談ではない。あなたの不摂生で、うちの妹が消えるのだ。
だから私は、段取りで戦うことにした。
蝋燭は短いものしか置かない。燃え尽きたら終業の合図である。長いのを勝手に持ち出してきたら、没収する。書類は「今日の分」だけ机に残し、残りは目録を付けて隣室へ運ぶ。運ぶ音は、立てない。気づいた時にはもう無い、が肝要である。夜食の粥は湯気の立つうちに机の真ん中へ据え、下げる時刻を先に宣告する。宣告した時刻は守る。守らないのは脅しにならない。
灯りの管理、眠りの浅い時間の把握、足音のない見回り――全部、忍び込む側の技術の裏返しで足りる。
人を眠らせる段取りは、人に忍び寄る段取りと、ほとんど同じなのだ。この発見を誇っていいのかどうかは、考えないことにしている。
ついでに、屋敷の要所も検分した。寝所、食卓、湯殿。人がいちばん無防備になる三点である。忍び込む側なら狙う場所で、死なせない側なら守る場所だ。同じ見取り図が、裏からも表からも読める。湯殿は焚き口が外にあって、誰でも触れる造りだった。焚き番の爺やに挨拶をして、薪の置き方だけそっと変えさせてもらう。爺やは「若いのに感心だ」と饅頭をくれた。潜入とは、こういうものの積み重ねである。
階段の絨毯も直した。三段目の縁が浮いていて、踏み外しの型としては教本どおりだ。釘は打たない。打つ音がするからだ。裏から麻紐で編み留める。祖父の罠の結び方が、罠外しに使えるのだから、世の中は分からない。
初日は、三度負けた。二日目は二度。獲物は寝ずの言い訳が上手い。「これだけは今夜のうちに」「戦時はこれで回っていた」「あと半刻」――全部、聞き流す。戦時はもう終わっている。終わらせたのは、あなたたちだ。
四日目の夜、獲物は机で三度、船を漕いだ。
「……卑怯だぞ。この粥は眠くなる」
「麦と芋だけです。眠くなるのは、あなたが三日分の眠りを借金しているからです」
「借金は嫌いだ」
「奇遇ですね。私もです」
寝室へ追い立てて、扉が閉まる。廊下の燭台の火が、風もないのに一度だけ揺れて、戻る。静かな屋敷だ。静かな屋敷は、いい。物音の意味を、間違えずに済む。
――さて。
その夜から、妙な儀式が始まった。言い出したのは獲物の方である。曰く、盾の働きには報告が要る、とのことだ。
書斎。夜半。蝋燭一本。窓の外は霜の気配で、硝子の内側にうっすら夜の冷えが染みてくる。彼は書き物の手を止めず、私は扉の内側――灯りの届く縁に立つ。死角に立つと、この人は椅子ごと向き直ってしまうので、最初から半歩だけ光の中に居ることにした。妥協である。
「本日の首尾を報告します」
私は事務的に述べる。
「本日、あなたは三度死にかけました。一件目、書類の山。二件目、同じく書類の山。三件目、階段の絨毯の緩みです。全件、未然に処理。……本日も、未遂です」
「結構」
ペンの音が、一度だけ止まる。
「明日も頼む」
「……一つ伺いますが、未遂という言葉の意味をご存じですか?」
「殺し損ねた、だろう」
「ええ。あなたは毎晩、ご自分の暗殺の失敗報告を茶請けに聞いていることになります」
「知っている。存外、寝つきが良くなる報告だぞ」
この獲物は、たまにこういう、返しようのないことを言う。
何が結構なものか。未遂というのは、殺し損ねたという意味だ。私は暗殺者で、これは暗殺の報告で、つまりこの儀式は毎晩、私の不首尾を確認する会である。
のだが。
報告のためには、観察が要る。顔色。食事の量。左手の癖。眠った時間。笑った回数――いや、これは目録に要らない。消しておく。
出口と刃物と梁のひびを数えていた目が、いつの間にか、人ひとりの一日を数えている。商売柄と言えばそれまでだが、数える項目が増えるのは、なぜだか、悪い気分ではなかった。目録が細かいほど、獲物は死なない。死ななければ、妹は消えない。理屈は通っている。通っているはずだ。
なお、帳場への週次の首尾報告も欠かしていない。取次の文箱に、決まった折り方で入れる。
【潜入、維持。寝所・食卓・湯殿の三点に手が届く位置を確保。警備の穴、三箇所を特定済み。好機を待つ】
嘘は一行もない。私はいつでも殺せる。殺さないだけだ。この二つの間にどれだけの川幅があるかは、帳場の知ったことではない。
――問題は、身内の目の方だった。
「テッサさん。少しいいかね」
家令のアルノルト氏である。六十三歳。生真面目を絵に描いて額に入れたような人が、燭台の灯りの下で老眼鏡を直し、私を見据えて、言った。
「新入りの侍女が、旦那様の就寝時刻を三日で仕切れるものかね。書類の目録の字も、達者すぎる。……さては、あなた」
来たか。退路、二つ。窓と、氏の背後の扉。
「先代様が遺された、隠し密偵だね?」
「…………」
退路は、要らなかった。
「隠さんでいい。分かっておる、言えぬ立場なのだろう」
氏は深々と頷き、勝手に納得して去っていった。誤解というものの育つ速さを、私はこの夜、初めて実測した。




