2. 取引をしよう
退路は三つ。厨房の勝手口、天窓へ戻る経路、それから鍋の湯を盾にする最後の手。私は瞬きの間に数え終えて、体を半歩、竈の陰――彼の視界の死角へ寄せた。
癖である。見られない場所に立つのは、売られてから覚えた処世だ。視界に入らなければ、値踏みもされない。値踏みされなければ、値札も増えない。
獲物――ヴァルター公爵は、剣も呼び鈴も取らなかった。台所の椅子を引いて、当たり前のように座り、それからわざわざ椅子ごと私の方へ向き直ったのである。死角が、死角でなくなった。この人は、人の立つ位置を見ている。
「まず礼を言う。書類の山の積み直し、あれは玄人の仕事だった。うちの文官に教えてやってくれ」
「何のことでしょう」
「三人目までは、初手で分かった」
公爵は指を三本立てた。
「半年で三人だ。庭師に化けた男、御者に化けた男、料理人に化けた男。前の二人は身元の照会で弾いた。うちは戦後の人手不足で募りをかけているが、出自の検めだけは省いていない。三人目は腕が立ったが、包丁の持ち方が兵のそれでな。捕えて、話を聞かせてもらった」
……聞いている。東の安ギルド〈土竜〉が、この獲物でしくじって手を引いた、という帳場の噂は。つまり噂の「しくじり」の現物が、目の前で茶碗を引き寄せている。
「盟約。横取りの禁止。請けの制度。裏社会の商習慣は、あらかた学ばせてもらった。敵の兵站を読むのは、戦場での私の仕事だったのでな。――四人目が来るのは分かっていた。だが」
公爵は、そこで初めて笑った。疲れた顔の底で、目だけが若くなる笑い方だった。
「殺しに来て、火を消して、毛布を掛けて、粥を炊き直す刺客は初めて見た」
「…………」
私は公爵の余裕にキュッと口を結んだ。初仕事での醜態、一体どうリカバリしたらいいのか気が遠くなる思いだった。
ところが――――。
「そこでだ。取引をしよう」
彼は卓の上に、何も置かなかった。武器も、金も。言葉だけを置いた。
「君は殺さない。私は死なない。それで、焦れた依頼主が先に尻尾を出す。君が契約中である限り、盟約とやらのおかげで、他の刺客はこの首に手を出せんのだろう? つまり君は、私が雇える中で最強の盾だ」
「お断りします」
即答した。話が上手すぎる。上手すぎる話は、大抵、罠の入り口と同じ匂いがする。
「あなたは私の事情をご存じない。殺さないだけでは、私は困るのです」
「だろうな。では、こちらの弱みから開こう」
公爵は左手を卓に載せた。手袋を、指先から一本ずつ外す。手の甲に、古い縫い痕が白く走っていた。
「戦傷だ。時々、握力が抜ける。剣を落とす英雄など、噂になれば政敵の餌だ――だから誰にも言っていない。それから、私に後継はいない。兄は戦死、父は病没。私が死ねば、この領は中央に切り取られ、道と橋の銭は倍になる。最後にひとつ。……私は、自分の命の値段を、たぶん安く見積もりすぎる。部下に何度も、そう叱られた」
「なぜ、それを私に」
「取引には、互いの弱みが要る。先に出すのは、持ちかけた側の礼儀だろう」
礼儀。暗殺者相手に、礼儀。
私は黙った。竈の火が小さく爆ぜて、鍋の湯気だけが動いている。
等価交換、という言葉を、頭の中で一度だけ転がした。私はこれまで、対価というものを提示されたことがない。値段を付けられたことなら、ある。あの冬の、金貨の最後のひと鳴りまで。――同じ金の話でも、ずいぶん違う音がするものだ。
「……妹がいます」
自分でも意外なほど、静かな声が出た。
「十五で、胸を病んでいて、ギルドの療養所に預けられています。名目は保護。実態は請け――担保です。私が仕損じれば、破棄すれば、逃げれば、没収される。事故死も病死も仕損じです。あなたが階段から落ちても、風邪をこじらせても、妹が消える」
「なるほど。殺さない、死なせない、破棄しない。三方塞がりか」
「宙吊り、と呼んでいます」
「では宙吊りのまま、私の側で吊られていろ。給金は出す。侍女として正式に雇おう。依頼主の尻尾は、私が政の側から探す。君は私を死なせない。役割の分担だ」
雇い主が獲物で、獲物が雇い主。帳尻の合わない話だが、帳尻の合わない場所でしか、私の三すくみは生きられない。
それに――認めるのは癪だが、この取引には、妹の療養所の鍵より確かなものが一つもない私の手札の中で、唯一「明日」の匂いがした。
「……勘違いなさらないでください」
私は言った。これだけは、先に言っておく必要があった。
「あなたが死ぬと、私の契約が不履行になる。それだけです」
「結構」
公爵は立ち上がり、肩の毛布を畳んで私に押し付け、戸口で振り返った。
「見事だ、と言ったのは本心だ。あの積み方は、人を生かす手つきだった」
――褒められた。
この腕を。正面から。値段ではなく。
耳の後ろが、勝手に熱くなる。私はその熱を、見慣れない刃物みたいに、しばらく遠くから眺めていた。柄も、刃筋も、使い途も分からない。分からないものを懐に入れるのは、職業柄、好きではないのだ。
返す言葉は、結局、一拍探し損ねたままだった。




