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1. 初仕事は、寝かしつけから

 月のない夜は、屋根の上がいちばん静かだ。


 晩秋の瓦は、手袋越しでも指先の熱を吸っていく。息を吐けば白く、吐いた分だけ体が軽くなる気がする。黒瓦は棟から三枚目――踏んでも軋まないのは、昼のうちに検分済みである。私は煙突の陰で膝を折り、息を三つ数えて、天窓の錠へ細い(かぎ)を差し込んだ。


 息を三つ。祖父の教えだ。山で獲物に近づくときは、まず自分の心の音から消せ。


 手応えは軽い。かちり、と小さな音がして、錠が開く。錠前というより、飾りである。戦争英雄の城館が、これでいいのか。


 獲物は、この城館の主。グライフェン辺境公ヴァルター、二十六歳。三年前の東方戦役で「東の壁」と呼ばれた英雄で、首の値段は金貨千枚。


 ちなみに、私は百二十枚だった。


 テッサ・アルミング、二十歳。男爵令嬢という肩書は、質草に付いた値札ほどの意味しかない。二年前の冬、父の借金のカタに、暗殺ギルド〈夜蜘蛛〉へ年季十年で売られた。あの晩、扉一枚向こうで金貨を数える音を、私は最後まで聞いていた。百十八、百十九、百二十――数え終わりの、あの妙に軽い最後のひと鳴りまで。扉のこちら側で、父は何も言わなかった。


 人の値段というものは、存外あっさり数え終わる。


 ――だから、思い出すのはここまでだ。


 仕事中の私に、名前はない。呼び名は「子蜘蛛」。名を捨てるのが掟で、皮肉なことに、この潜入に限っては本名こそが最良の偽名だった。没落男爵家の娘テッサ・アルミング、住み込みの侍女に応募――経歴は隅から隅まで本物である。仮面が、素顔と同じ顔をしている。便利で、少しだけ薄ら寒い。


 掟も復唱しておく。


 一つ。獲物は、契約の手で仕留めること。事故死も病死も「仕損じ(しそんじ)」と見做され、前金は請け(うけ)――担保ごと没収される。


 私の請けは、ギルドの療養所に預けられた妹だ。ルチア、十五歳。胸を病んでいる。よこす手紙はいつも明るくて、便箋には薬草の乾いた匂いが染みている。


 二つ。契約の破棄も、逃亡も、同じ扱い。


 つまり私に、逃げ道というものはない。あるのは段取りだけだ。


 静かに、行こう。


 天窓から梁へ。梁から書棚の上へ。着地の音は、出していない。執務室に降り立って、私はまず鼻に皺を寄せた。


 紙の匂いが、濃すぎるのだ。古い紙と新しいインク、冷めた蝋の匂い。それから――焦げる一歩手前の、芯の匂い。


 執務机の上に、書類の山。ひと山ではない。決裁箱が三段、その上に帳面の束、さらに地図筒が横積みで、全体がゆるく東へ傾いでいる。梁のひび、窓の立て付け、燭台の鎖――目が勝手に、危ないものの目録を数え始める。職業柄の癖である。


 目録の筆頭は、山の谷底にいた。


 獲物である。


 机に突っ伏して、外套も掛けず、ペンを握ったまま寝ている。頬がこけて、目の下は青い。三日は寝ていない顔だ。枕元では手つかずの粥が冷め切って、表面に膜を張っている。もう死んでいるのではないだろうか?


 そして机の端、燃え尽きかけた蝋燭が、燭台ごと書類の裾へ傾きかけていた。


「…………」


 言っておくが、私は殺しに来た。


 殺しに来たのだが――体が先に動いた。


 傾いだ蝋燭を指で摘んで消す。指先に、じ、と小さな熱。


 そっと息を確認すればまだ生きている。


 ふぅと大きくついた。ここで死んでいたら「仕損じ(しそんじ)」だから妹を失ってしまうところだった。どうせ殺すのだから、死んでたら成功でいいではないかと思うが、契約がそうなってしまっている上どうしようもない。


 私は急いで崩落寸前の山を三箇所、荷の組み方の要領で積み直す。雪崩れない積み方というものがある。祖父に習ったのは薪の話だが、紙でも理屈は同じだ。重いものを下に、逃げ道を外に。


 窓の錠を内側から掛け直し、長椅子の毛布を、獲物の背に掛ける。


 我に返ったのは、その後である。


 ……何をしているのだ、私は。


 違う。落ち着け。これは正当業務だ。この人が今夜ここで焼け死ねば、それは事故死。事故死は仕損じ。仕損じは請けの没収。つまりこの書類の山も、この蝋燭も、この冷めた粥も、全部――私の敵である。


「……死なないでください」


 寝顔に向かって、私は小声で申し渡した。仕損じと判断されないように健康体になってもらわねばならない――。


「あなたを殺すのは、私なので」


 獲物は起きない。呼吸は深く、規則正しい。頬がこけている割に、眉間に険がないのが、少しだけ意外だった。戦争英雄というものは、もっと硬い顔で眠るのだと思っていた。


 ――――夜明け前。


 私は厨房にいた。


 冷めた粥をあのままにしておくと、あの獲物はたぶん、膜ごと啜って腹を壊す。腹を壊した過労人は、あっさり死ぬ。だから炊き直す。これも正当業務である。(かまど)の火は小さく、鍋の底で麦がやわらかく回る。湯気が、夜明け前の冷えた空気に白く立ちのぼり、天窓から落ちる藍色の光と混ざった。


 悪くない匂いだ、と思う。人の家の、生きている匂いがする。療養所の面会室には、この匂いがない。あそこは薬草と、石鹸と、遠慮の匂いがする。


 背後で、声がした。


「うちの侍女は、屋根から出勤するのか」


 振り向くと、戸口に獲物が立っていた。毛布を肩に掛けたまま、腕を組んで、扉の枠に寄りかかっている。


 寝ていたはずだ。呼吸も、脈も、確かに眠りのそれだった。いつから――最初からか。書類の山を直したあたりからか。


「新入りのテッサです。本日より台所を預かります」


「そうか。粥の火加減が上手いな」


 獲物は湯気を一瞥して、それから私を見た。緑柱石の色の目が、隈の底で、妙に涼しく笑っている。


「――で、君はいつ殺してくれるんだ?」


 初仕事、潜入初日。


 看破まで、一晩と保たなかった。帳場に知れたら末代までの笑いものである。


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