4. 万能侍女の作り方(違います)
誤解というものは、放っておくと勝手に育つ。しかも、日当たりのいい方へ育つ。
十日目、私は屋敷の点検を始めた。理由は単純で、この城館そのものが獲物の命を狙っているからである。
大食堂の燭台――吊り鎖の輪が一箇所、口を開きかけている。指でなぞると、鉄の疲れた冷たさがする。あれが落ちれば、真下は主人の定席だ。踏み台なしで梁へ上がり、締め直す。
西回廊の梁――ひびは浅いが、雨を吸うと嫌な鳴き方をする系統のひびである。楔を打って、突っ張りを入れる。木槌は布を巻けば鳴かない。
煙突――煤が詰まりかけていた。あのまま焚けば、寝室に煙が逆流する。夜のうちに屋根へ上がり、北風に首をすくめながら掃除した。煤の匂いは嫌いではない。仕事の終わった竈の匂いだ。星のない空の下で、城館の屋根は黒い海のように静かで、私はしばらく、煙突の陰に座っていた。屋根の上は、いい。誰の視界にも入らない。
全部、罠外しの目には「仕掛けられた罠」と同じに見える。仕掛け人が居ないだけで。仕掛け人の居ない罠ほど、質の悪いものはない。狙いがないから、いつ落ちるか読めないのだ。
結果、どうなったか。
「きゃあっ!? テ、テッサ! あんた、いつからそこに!」
「最初からおります」
「足音! 足音を立てとくれ! 心の臓に悪いよ!」
女中頭のブリギッテさんは、廊下で行き合うたびに一歩跳ぶ。悪いのは私の足だ。音を立てない歩き方しか、覚えていない。音を立てて歩く練習というものを、私は人生のどこかに置き忘れてきた。試しに踵から歩いてみたら、三歩目には元に戻っていた。体は正直で、直しようがない。
「昨夜も屋根で音がしたんだよ。……この屋敷、出るんじゃないかね」
「煙突の煤が落ちただけかと」
「煤はひとりで落ちやしないよ!」
正しい。落としたのは私である。
翌日、ブリギッテさんは対策を講じてきた。小さな鈴である。
「あんたが着けとくれ。居場所が分かるように!」
私は素直に、鈴を前掛けの紐に結んだ。結んで、半日働いた。
「……テッサ。鈴は」
「着けております」
「鳴ってないじゃないか!」
「鳴らし方が、分かりません」
嘘ではない。体が勝手に鈴を殺すのだ。歩幅の中に、音の出る動きが残っていない。ブリギッテさんは鈴を見つめ、私を見つめ、十字を切る形に手を動かしかけて、やめた。
「……あんた、いい子だけどね。たまに、心の臓に悪いよ」
「善処します」
善処の当てはなかったが、いい子、の方は胸のどこかに引っ掛かって、しばらく取れなかった。
一方、家令のアルノルト氏の「先代の隠し密偵」説は、使用人の間で静かに版を重ねていた。曰く、テッサは只者ではない。曰く、燭台の緩みを一目で見抜いた。曰く、旦那様の粥だけ味が違う――最後のは単に、私が炊いているからである。粥に技巧はない。あるのは火加減と、時刻だけだ。
テッサ、テッサ、と一日に何度も名を呼ばれる。洗い場から、廊下から、竈の前から。呼び名が「子蜘蛛」ではない生活は二年ぶりで、そのたびに、借り物の上着の袖がまだ長い、というような、妙な落ち着かなさがある。悪い落ち着かなさでは、ない。ただ、慣れると返すときに困る類のものだ。この名前は、任務が終われば帳場へ返す。そういう決まりの、貸し出しの名前である。
……そのはずである。
夜の定例報告で、獲物がその話を持ち出した。
「屋根裏の歩き方が上手いと、家中で評判だぞ」
「職業柄です」
「密偵説と幽霊説が並走している。どちらに育てる気だ?」
「どちらでも。……万能侍女、というのが一番外れていて助かります。私はあなたの死因を、先回りで潰しているだけですので」
「つまり、私の命の恩人が毎日増えるわけだ。犯人は一人なのにな」
こういう言い方を、この獲物はする。恩人と犯人を、同じ棚に並べて涼しい顔をしている。私は棚の整理に付き合う気はないので、報告を締めた。
「本日の未遂は二件。燭台と、煙突です。……本日も、未遂です」
「結構。……君が来てから、屋敷の夜が静かだ」
「元から静かなお屋敷です」
「いや」
獲物はペンを置いて、少しだけ首を傾げた。
「静かさの質が違う。前のは、手が回らん静かさだった。今のは――見張られている静かさだ。存外、悪くない」
見張っているのは事実なので、返事はしなかった。
――――そのころ、王都で。
◇
ヴェッセル侯爵邸。書斎の主は、取次から届いた紙片を睨んでいた。
「まだ死なんのか」
声が、上品な咳払いに崩れる。
「三百も積んだのだぞ。……夜蜘蛛が聞いて呆れる」
紙片には、短い定型文だけがある。【潜入、維持。好機を待つ】。侯爵はそれを燭台の火にかざし、燃え尽きる寸前に手を離した。灰が一片、磨き上げた床に落ちる。
その灰を拾う召使いの数が――先月より、二人減っている。




