第五話 向きを変えた仮面
「小宮さん、ちょっとこれ見てもらえますか」
ある日の朝一番、展示課の若手職員に呼び止められたのは、アフリカ展示室の前だった。
「どうしたんですか?」
「この仮面、なんか……向き、変わってません?」
指差された先には、ほのかもよく知っている木彫りの仮面があった。深い彫りの目元と、独特の意匠を持つ、共同体の祭礼で使われていたとされる品だ。
ほのかは展示ケースに顔を近づけ、記憶の中の配置と見比べた。
「……確かに。数日前より、少し右を向いてます」
「ですよね! 気のせいかと思ったんですけど」
「角度にして、五度くらいかな」
わずかな違いだった。けれど、ほのかにとっては、はっきりと分かる違いでもあった。
「防犯カメラ、確認してもらえます?」
「もう手配してます。九条さんにも報告した方がいいですかね」
「私から連絡しておきます」
昼休み、ほのかは研究部のオフィスに向かった。
「九条さん、アフリカ展示室の仮面、向きが変わってるんです」
「……また、か」
九条はすでに何かを察したような顔をしていた。太鼓の一件からまだそれほど経っていない。
「防犯映像は?」
「今、警備員さんが確認中です。多分、また何も映ってないと思います」
案の定、夕方になって届いた報告は、ほのかの予想通りだった。深夜から早朝にかけて、展示室に人の出入りはない。地震計にも、有意な揺れは記録されていない。それでも、仮面はわずかに向きを変えていた。
「翌朝、もう一度確認してみましょう」
翌日の朝、二人でアフリカ展示室を訪れると、仮面はさらにわずかに角度を変えていた。
「……昨日よりまた回ってる」
「気味が悪いな」
九条は珍しく、素直にそう漏らした。
「振動でも地震でも、機械の誤作動でもない。なら、何が原因だ」
「原因があるなら、調べれば分かる。九条さんの口癖ですよね」
「揶揄してるのか」
「いえ、頼りにしてます」
ほのかは微笑んで、収蔵資料室へ向かうことを提案した。
午後、二人は仮面に関する調査記録を掘り起こした。分厚いファイルをめくっていくと、現地でのフィールドワークをもとにした詳細な記述が見つかった。
その仮面は、単に祭礼で使われる装飾品ではなく、共同体において「死者と生者をつなぐ」役割を持つものだったという。
記録には、仮面を着けた人物が祭礼で果たした役割についても書かれていた。
儀礼の際には、仮面を着けた者が、歌や太鼓の音に合わせて人々の前に現れたという。仮面だけで完結するのではなく、衣装や動作、周囲の人々の応答が合わさることで、一つの儀礼が成立していた。
展示ケースに収められた仮面は静かだったが、本来は、人々の声や動きと切り離せない存在だったのだ。
祖先の霊を呼び、共に生きる者たちへその声を届けるための儀礼具。恐怖の対象としてではなく、むしろ共同体の結びつきそのものを象徴する存在として、大切に扱われてきたと記されていた。
「共同体の結びつき、か」
九条はその一文を、何度か読み返していた。
「怖がらせるためのものじゃない、ということか」
「そう書いてありますね」
ほのかは資料をめくりながら、ふと気づいたことを口にした。
「そういえば、この仮面が展示されるようになったのって、いつからでしたっけ」
「調べてみるか」
展示記録を確認すると、この仮面が国立民族学博物館に収蔵されたのは、比較的最近――ここ数年のことだと分かった。それまでは、別の収蔵庫に長く眠っていたらしい。
「長い間、誰にも見られていなかった、ってことですね」
「そういうことになるな」
その日の閉館後、ほのかは一人でアフリカ展示室に向かった。九条には報告書をまとめる仕事があり、少し遅れて合流する予定だった。
薄暗い展示室に足を踏み入れると、仮面の前に、小さな影がちょこんと座っているのが見えた。
「……やっぱり、あなたなのね」
ほのかがそっと近づくと、影――タビは、こちらを一瞬だけ見て、それからまた仮面のほうへ視線を戻した。
「この仮面のこと、気にしてるの?」
返事はない。けれど、タビは仮面の前から動こうとしなかった。
ほのかは、仮面に向かって冷静に語りかけた。
「あなたは、誰かを怖がらせたいわけじゃないんですよね」
展示ケースのガラスに、ほのかの顔がぼんやりと映り込む。
「長い間、暗い収蔵庫の中にいて。ここに来てからも、誰も、あなたが本当はどんな意味を持つものなのか、ちゃんと知らないままだった」
仮面は、答えない。当然だ。ただの木彫りの品なのだから。
けれど、ほのかには、なんとなく分かる気がした。
この仮面は、誰かに気づいてほしかったのではないか。自分が、恐ろしいものではなく、人と人、生きている者と亡くなった者をつなぐ、大切な役割を持っていたのだということを。
九条が展示室に到着したのは、それから少し経ってからだった。
「遅くなった。……何かあったか?」
「タビが、ここにいたんです。仮面の前で、ずっと」
九条は展示ケースに目を向け、それから小さく息をついた。
「解説パネル、書き直した方がいいかもしれないな」
「え?」
「今の解説は、儀礼具としての用途を簡潔に説明しているだけだ。だが、共同体の結びつきを象徴する意味合いについては、ほとんど触れられていない」
ほのかは驚いて、九条の顔を見た。
「九条さんがそんなこと言うの、珍しいですね」
「事実を正確に伝えるのは、研究者の仕事だ」
そっけない言い方だったが、ほのかには、それが精一杯の譲歩のように聞こえた。
「それに、あのパネルは少し読みにくい。専門用語が多すぎる。小学生には分からないだろう」
「九条さん、子どもたちのことも考えてたんですね」
「……来館者の年齢を考慮するのは、展示の基本だ」
「でも、九条さんって、正確さが一番だと思ってるのかと」
「正確な情報でも、伝わらなければ意味がない」
九条はそう言うと、少し気まずそうに視線を逸らした。
☆
翌朝、仮面はもう向きを変えていなかった。九条に資料の記述を確認してもらったうえで展示課に相談し、解説パネルに共同体との結びつきについての一文を加えることになった。
「タビ、ありがとう」
その日の閉館後、ほのかは誰もいないアフリカ展示室で、小さくそう呟いた。
返事はなかった。けれど、展示ケースの奥から、確かに何かがこちらを見ている気配がした。




